バーンボロー

和名:バーンボロー

英名:Bernborough

1939年生

鹿毛

父:エンボロー

母:バーンメイド

母父:バーナード

名義貸し疑惑に巻き込まれて当初は豪州の地方都市で走っていたが、馬主交替後に15連勝を記録した初代豪州顕彰馬の1頭

競走成績:2~7歳時に豪で走り通算成績37戦26勝2着2回3着1回(異説あり)

日本における知名度は極めて低いが、文句なしに豪州競馬史上屈指の名馬である。その全盛期は第二次世界大戦が終わった時期と重なっている。そのために世界大恐慌から大戦へと続いた苦難により疲弊した豪国民にとっての英雄的存在でもあった。

誕生からデビュー前まで

豪州クイーンズランド州ダーリングダウンズ地域にあるオーケイという町の近郊にあった牧場において、ハリー・J・ウィンテン氏により生産された。クイーンズランド州は豪州の北東部にあり、州都は州の最南東部にある豪州第3位の大都市ブリスベンである(ダーリングダウンズ地域はブリスベンの西160kmほどにある)。

1歳時に、フランク・バッハ氏とジョン・バッハ氏の兄弟によって150ギニーで購入され、さらにバッハ兄弟の友人だったA・E・ハドウィン氏という人物に転売された。しかしこの件について、クイーンズランド州ジョッキークラブは、バッハ兄弟とハドウィン氏は共謀関係にあり、これは名義貸しであると判断した(事実関係は不明)。そのために、本馬は大都市で行われる競馬に出走する事を禁止されてしまった。この措置はクイーンズランド州だけでなく、シドニーがあるニューサウスウェールズ州などでも適用された。

そのために本馬は、クイーンズランド州で調教師をしていたフランシス・ロバーツ師にリースされて、クイーンズランド州にある小都市トゥーンバ(ブリスベンの西130kmほどの場所にある)にあったクリフォードパーク競馬場で2歳時に競走馬デビューした。

競走生活(2~5歳時)

2歳時は5戦(6戦説あり)して4勝2着1回の成績を残した。3歳時には4戦全勝の成績だった。しかしその後に肩を負傷したために4歳時は活躍できず、2戦(4戦説あり)未勝利に終わってしまった。

5歳時にはある程度持ち直し、このシーズンは8戦3勝2着1回の成績を残した。この段階でも本馬は都市競馬への出走が認められていなかった上に、異常な斤量が課せられるようになり、肩だけでなく脚も負傷してしまった。そのためにハドウィン氏は本馬を、シドニーで調教師をしていたクイーンズランド州出身のハリー・プラント師の元に送り、本馬の購入を持ちかけた。

プラント師が蹄鉄工に本馬の脚を調べさせると、蹄の内側にまめが出来ている事が分かった。プラント師はその治療を行い、それから10日後に本馬を他馬と一緒に試走させてみたところ、楽勝した。本馬の能力を認めたプラント師は、シドニーでナイトクラブやレストランを経営していたアツァリン・ロマノ氏に薦めて、本馬を2600ギニーで購入してもらった。

ロマノ氏は伊国出身で、最初は英国で出稼ぎをしていたが成功できず、新天地の豪州で成功した人物だった。既に何頭かの競走馬を所有していたが、目立つ馬はいなかった。ロマノ氏の所有馬となった本馬だが、クイーンズランド州ジョッキークラブはなかなか納得しようとせず、本馬の都市競馬出走禁止措置が解除されるまでには数週間を要した(ロマノ氏の所有馬となってからしばらくは、本馬が獲得した賞金の一部がバッハ兄弟やハドウィン氏の下に流れていたという噂もあり、クイーンズランド州ジョッキークラブは本馬が引退するまで睨み続けたという)。

競走生活(6歳時)

それでも晴れて都市競馬に出走できるようにはなったため、本馬は6歳時の1945年12月にシドニーのランドウィック競馬場で行われた競走において、初めてトゥーンバ以外の都市で出走する事になった。この記念すべき都市競馬デビュー戦は4着だった。

次走のヴィリエS(T8F)では、主戦となるアソール・ミューレイ騎手と初コンビを組んだ。ミューレイ騎手はシドニー地区で2度の首位見習い騎手になっていた新進気鋭の騎手で、後に豪州首位騎手にも輝く名手だった。彼は天才と言われており、破天荒なレースぶりで驚くべき勝ち方を幾度もやってのけた事から、国民的な人気を博しており、彼の結婚式は豪州全国紙の一面で報じられたほどだった。この新コンビ初戦には、後にブリスベンCを勝利するグッドアイデア、後にオールエイジドSを勝利する前年3着馬ヴィクトリーラッドといった実力馬も出走していたのだが、本馬がグッドアイデアを2着に、ヴィクトリーラッドを3着に破って勝利した。そしてここから本馬の快進撃が始まった。

翌週のタタソールズクラブキャリントンS(T6F)も勝利すると、オーストラリアデイH(T7F)も勝利。さらにメルボルンのコーフィールド競馬場で行われた豪フューチュリティS(T7F)に出走。142ポンドという酷量が課せられたが勝利した。さらに同じメルボルンのフレミントン競馬場に向かい、ニューマーケットH(T6F)に出走。ここでも139ポンドという厳しい斤量が課せられたが、2着フォーフリーダムズ以下に勝利した。さらにシドニーのローズヒルガーデンズ競馬場に向かい、ローソンS(T9F)に出走。AJCプレート・シドニーCを勝っていたクレイギー、カンタベリーギニーを勝っていたアクセッションなどが立ち向かってきたが、本馬がクレイギーを2着に、アクセッションを3着に破って勝利。このように、今まで都市競馬で出走できなかった鬱憤を晴らすかのように各地の主要競馬場で勝ち星を重ねた。

その後はランドウィック競馬場に戻り、前走から1週間後のチッピングノートンS(T10F)に出走。このレースでは、コックスプレート・AJCオークス・豪シャンペンS・AJCプレート・CFオーアSなどを制していた牝馬フライト(後に豪州競馬の殿堂入りも果たす)、後にメルボルンC・AJCプレート2回を勝つルシアなどが対戦相手となった。レースでは3着ルシアを10馬身も引き離して本馬とフライトが激戦を演じた末に、本馬が頭差で勝利した。さらに9日後のオールエイジドS(T8F)に出走した。エプソムH・ジョージメインSを勝っていたモジュレーション、後にトゥーラックH・マッキノンSを勝利するドンペドロ、アクセッションなどが対戦相手となったが、本馬が2着モジュレーション以下に勝利した。

さらにブリスベンのドゥーベン競馬場に向かい、ドゥーベン10000(T9F193Y)に出走。ここでは145ポンドという非常に厳しい斤量が課せられた上に、フライトを始めとする26頭(25頭説あり)が対戦相手となったが、残り3ハロン地点で27頭(26頭説あり)立ての23番手という位置から怒涛の追い込みを決めて、2馬身差のレコード勝ちを収めた(フライトは着外だった)。

そのために翌週に出走したドゥーベンC(T11F)では、151ポンドを課せられる羽目になった。さらに他馬勢が本馬を徹底的に包囲し、最後の直線に入ったときには“perfect pocket on the fence(完璧な包囲網)”に包まれていた。しかし鞍上のミューレイ騎手が“now big fellow get out of this!(今からこの大きな馬を外に出すぞ!)”と叫びながら本馬の手綱を引いて後方に下げ、さらに外側に持ち出すと、「竜巻のような」末脚を繰り出して、2着となったコーフィールドギニー・アンダーウッドSの勝ち馬ティーケーキ以下に勝利した。これで本馬は史上初めてドゥーベン10000とドゥーベンCを同一年に勝利した馬となった(現在でも史上唯一の例)。6歳時の成績は11戦10勝だった。

競走生活(7歳時)

7歳になってもその勢いは衰えなかった。まずはランドウィック競馬場でウォーウィックS(T7F)に出走。豪シャンペンS・サイアーズプロデュースS・AJCダービー・ヴィクトリアダービーを勝っていたマグニフィセント、ドンカスターマイル・ストラドブロークHを勝っていたアブヴィルなどが立ち向かってきたが、本馬が2着マグニフィセント以下を一蹴して勝利した。次走のチェルムスフォードS(T9F)も137ポンドを背負いながらも勝利すると、再びローズヒルガーデンズ競馬場に移動。137ポンドを課せられた翌週のローズヒルS(T8F5Y)を勝利した。すると今度はフレミントン競馬場に向かい、メルボルンS(T8F:現ターンブルS)に出走して勝利。さらに1週間後にはコーフィールド競馬場でコーフィールドS(T9F)に出て、これまた勝利した。

次走のコーフィールドC(T12F)では、アスコットヴェイルS・コーフィールドギニー・カンタラS・グッドウッドHを勝っていたロイヤルジェム(後にトゥーラックH・ニューマーケットH・豪フューチュリティS・アンダーウッドSを勝っているが、その競走実績よりも、ケンタッキーダービーでネイティヴダンサーに生涯唯一の黒星をつけたダークスターの父となった事で著名である)、後にローソンS2回・コーフィールドC・コーフィールドSを勝利するコラムニストなどが対戦相手となった。しかし本馬は150ポンドを課せられてしまい、24ポンドのハンデを与えたロイヤルジェムの僅差5着に破れて、連勝は15で止まってしまった。

どうも本馬はこのレース中に負傷していたらしいのだが、ロマノ氏は騎乗ミスも敗因であるとして(実際にこのコーフィールドCにおけるミューレイ騎手の騎乗は現在でも論争の対象となっているらしい)、2週間後のマッキノンS(T10F)では、16戦続けて乗ってきたミューレイ騎手からビリー・ブリスコー騎手に鞍上を交代させた。ところが結果は最後の直線で種子骨を骨折して競走を中止(勝ち馬はコックスプレートを2連覇してきたフライトだった)。獣医が即座に適切な措置を施したために、不幸中の幸いで生命には大事無かったが、このレースを最後に7歳時7戦5勝の成績で競走馬を引退した。

トゥーンバで走っていた時期の獲得賞金総額はたかだか1000ポンド程度だったが、最終的な獲得賞金総額は2万5504ポンドに達した。なお、大半の資料で本馬の通算成績は37戦26勝となっているが、40戦26勝説も存在する。本文中に記載したように、トゥーンバで走っていた時期の出走歴に異説があるためである。

本馬は体高17.25ハンドと極めて背が高い大柄な馬で、しかも26フィート(約7.9m)という非常に大きなストライドで走る馬だった。これらの特徴は豪州の伝説的名馬ファーラップとほぼ完全に一致していた事から、ファーラップの愛称“レッド・テラー”にあやかって“トゥーンバ・テラー”という愛称で親しまれた。戦法は典型的な追い込みであり、一見して絶対に届きそうに無い位置から旋風のように飛んできて勝利するそのレーススタイルでも人気を博した。

血統

Emborough Gainsborough Bayardo Bay Ronald Hampton
Black Duchess
Galicia Galopin
Isoletta
Rosedrop St. Frusquin St. Simon
Isabel
Rosaline Trenton
Rosalys
Embarras de Richesse Phalaris Polymelus Cyllene
Maid Marian
Bromus Sainfoin
Cheery
Enrichment Tracery Rock Sand
Topiary
Tillywhim Minoru
Lily Rose
Bern Maid Bernard Robert le Diable Ayrshire Hampton
Atalanta
Rose Bay Melton
Rose of Lancaster
Red Lily Persimmon St. Simon
Perdita
Melody Tynedale
Glee
Bride's-Maid Best Man Ormonde Bend Or
Lily Agnes
Wedlock Wenlock
Cybele
Bruyere Wisdom Blinkhoolie
Aline
Brierbush Tynedale
Briony

父エンボローはゲインズボローの直子で、競走馬としては英国で走り14戦3勝、リヴァプールオータムC・マンチェスターCを勝っている。競走馬引退後に種牡馬として豪州に輸入されていた。もっとも、実際には本馬の父はエンボローではないとする説もある。当時のクイーンズランド州では血液検査が徹底されておらず、本当は優秀な種牡馬の子であるにも関わらず、別の無名種牡馬の子である事にしてしまい、当該無名種牡馬の価値を上げようとする行為がしばしば行われていたためだからという。しかし今となっては立証不能である。

母バーンメイドは豪州産馬で、競走馬としての経歴は不明である。バーンメイドの全姉ブレッシアの子にバーンフィールド【クイーンズランドダービー】がいる。バーンメイドの牝系子孫は発展しなかったが、バーンメイドの祖母ブリエールの半妹ファーズブッシュの牝系子孫はかなり発展しており、ニアルーラ【英2000ギニー・ミドルパークS・英チャンピオンS】、マンダリン【チェルトナム金杯・キングジョージⅥ世チェイス2回・パリ大障害・サンアライアンスチェイス】、ヴィミー【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS】、ミジェット【チェヴァリーパークS・フォレ賞・クイーンエリザベスⅡ世S】、トドマン【豪シャンペンS・ゴールデンスリッパー・カンタベリーギニー・ライトニングS・豪フューチュリティS】、ノホーム【コックスプレート・豪シャンペンS・エプソムH・オールエイジドS】、ウォータールー【英1000ギニー(英GⅠ)・チェヴァリーパークS(英GⅠ)】、マビッシュ【英1000ギニー(英GⅠ)・ロベールパパン賞(仏GⅠ)・チェヴァリーパークS(英GⅠ)・フォレ賞(仏GⅠ)】、ディアドクター【アーリントンミリオンS(米GⅠ)】、モンジュー【凱旋門賞(仏GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)・仏ダービー(仏GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・タタソールズ金杯(愛GⅠ)・サンクルー大賞(仏GⅠ)】、リーガルローラー【ドバイレーシングクラブS(豪GⅠ)・トゥーラックH(豪GⅠ)・豪フューチュリティS(豪GⅠ)】、コートマスターピース【フォレ賞(仏GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)】、アゲイン【モイグレアスタッドS(愛GⅠ)・愛1000ギニー(愛GⅠ)】、ゴールドリーム【キングズスタンドS(英GⅠ)・アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)】、日本で走ったダノンシャーク【マイルCS(GⅠ)】などが出ている。→牝系:F1号族③

母父バーナードは英国産馬だが、競走馬としての経歴は不明。種牡馬としては豪州で供用されていた。バーナードの父ロベールルディアブルはエアシャー産駒で、ベンドアの全妹ローズオブランカスターの孫に当たる。競走馬としてはドンカスターC・シティ&サバーバンH・デュークオブヨークSを勝っている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、米国の有名映画プロデューサーだったルイス・バート・メイヤー氏(ユアホストの生産者)により9万3千ギニーで購入されて米国に移動し、ケンタッキー州スペンドスリフトファームで種牡馬入りした。1955年の米最優秀短距離馬バーシーム、トラヴァーズSの勝ち馬ピアノジム、エイコーンSの勝ち馬パレーディングレディ、ホイットニーHの勝ち馬ファーストエイド、1951年のシェリダンHでダート1マイルの世界レコード1分33秒8を計時したバーンウッドなどを出し、種牡馬としても一定の成功を収めた。それほど優秀な繁殖牝馬が集まったわけではないのだが、268頭の産駒中7.8%に当たる21頭がステークスウイナーとなっている。繁殖牝馬の父としては、米国競馬の殿堂入りも果たした名障害競走馬ジェイトランプを出している。1960年に心不全のため他界した。

本馬が誕生したオーケイには後の1977年10月に本馬の銅像が建てられ、「この像は、ダーリングダウンズの住民の援助を受けたオーケイ商工会議所が、クイーンズランド州で最も偉大な競走馬を記念して作成しました」と刻まれた。1978年には豪州郵政省が発行した切手の絵柄に選ばれた。2001年には豪州競馬の殿堂制度が創設され、本馬はカーバイン、ファーラップ、タラックキングストンタウンの4頭と共に初代豪州顕彰馬に選ばれるという栄誉を獲得した。本馬の後継種牡馬としては英国で走りエアー金杯を勝ったフックマネー(ラトロワンヌの孫に当たる)が一定の成功を収めている。フックマネーはジュライCの勝ち馬デイライトロバリー、愛1000ギニー馬シャンドンベル、日本で走った阪神三歳Sの勝ち馬タイギョウ、日経賞の勝ち馬スピードキングなどを出したほかに、1984年のドゥーベン10000(このときの名称はロスマンズ10000)を制したゲッティングクローザーの祖母の父ともなっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1949

High Scud

イングルウッドH

1949

Parading Lady

エイコーンS

1950

Berseem

サンタバーバラH・ホイットニーH

1950

First Aid

サラナクH

1950

Gainsboro Girl

ブラックヘレンH・デラウェアH

1955

MacBern

サンガブリエルH

1955

Piano Jim

トラヴァーズS

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