ボストン

和名:ボストン

英名:Boston

1833年生

栗毛

父:ティモレオン

母:シスタートゥータカホ

母父:ボールズフロリゼル

気性の激しさ以外は欠点が無かった19世紀米国におけるヒート競走最強馬は大種牡馬レキシントンの父として後世の血統界に影響を残す

競走成績:3~10歳時に米で走り通算成績45戦40勝2着2回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国ヴァージニア州リッチモンドにおいて、ジョン・ウィッカム氏により生産された。ウィッカム氏の本業は弁護士であり、政敵のアレクサンダー・ハミルトン氏と決闘して相手を射殺しながらも免責された事で知られる第3代米国副大統領アーロン・バー・ジュニア氏が、後に米国の領土拡大を邪魔したとして国家反逆罪に問われた際に弁護を担当して無罪を勝ち取った人物として米国ではかなりの有名人だった。

本馬が2歳の時にウィッカム氏は、友人のナサニエル・リーヴス氏とカードゲームで賭け事をして800ドル敗れた。ウィッカム氏は負け分800ドルの代わりに本馬をリーヴス氏に譲った。馬名のボストンは、米国マサチューセッツ州にある世界的に有名な都市ボストンに由来するのではなく、当時米国で流行していたカードゲームの名称であるボストンに由来している(ウィッカム氏とリーヴス氏が勝負したカードゲームがボストンだったかどうかは資料に明確な記載がなく不明)。リーヴス氏は本馬をジョン・ベルチャー調教師に預けた。ベルチャー師はさらに本馬をL・ホワイト調教師に任せた。

体高は15.5ハンドと並だったが、頭は平坦ながらも優れた肩を有しており、長くて奥行きがある胴と、力強い腰、強靭な上に非常に頑丈な脚を有していた。しかし本馬は非常に気性が激しい馬で、調教では騎手や調教助手を背中に乗せまいとして飛び跳ねた。彼等は本馬が飛び跳ねて着地して体勢が低くなった瞬間を狙って本馬の背中に飛び乗り、何とか調教を行うことが出来た。米国競馬名誉の殿堂ウェブサイトでは「調教するのが困難だった馬というのは控えめな表現です。邪悪な気性の持ち主だったというのがより正確な表現でしょう」とまで評されている。

競走生活(3~7歳時)

3歳4月20日にヴァージニア州ブロードロックで行われたレースでデビューを迎えたが、勝利確実と思われた矢先に勝手に自分で止まり、レース続行を拒否した。ホワイト師は手を焼き、「この馬は去勢するか射殺するかいずれかで対処するのが望ましい。出来れば後者(射殺)が良いでしょう」として本馬をベルチャー師の元に送り返してきた。結局本馬は、この3歳時からアーサー・テイラー調教師が訓練する事になった。新しく本馬の調教助手となったネッド氏という黒人奴隷は一計を案じた。彼は本馬に荷車を装着させると、延々とそれを引かせることにより、本馬の肉体の鍛錬と、本馬を疲労させて暴れる元気を失くさせるという一挙両得の手段を採った。それが功を奏したのか、3歳秋にはヴァージニア州ピーターズバーグと同州ハノーバーコートハウスで2戦していずれも勝利を収め、3歳時の成績は3戦2勝となった。

4歳時には本馬を最初に預かったベルチャー師を専属調教師として任用していた「競馬場のナポレオン皇帝」ことウィリアム・R・ジョンソン大佐の所有馬となった。ヴァージニア州出身のジョンソン大佐は、この14年前の1823年に行われた北部代表馬アメリカンエクリプスと南部代表馬サーヘンリーの有名なマッチレースの仕掛け人となった人物で、サーヘンリーを南部代表馬として選出した人物でもあり、典型的な南部人だった。そして本馬の主戦もジョンソン大佐の奴隷兼専属騎手だったコーニリアス騎手に代わった。すると4歳時には4戦全勝の成績を残した。

5歳時には、春シーズンにニューヨーク州やニュージャージー州カムデンなど米国東海岸の各地を回った。ニューヨーク州ロングアイランドにあるユニオン競馬場(かつてサーヘンリーがアメリカンエクリプスとのマッチレースに敗れた地)で出走した距離3マイルのヒート競走では全米レコードを樹立。距離4マイルのヒート競走でも当時全米2位のタイムを出している。秋シーズンにもヴァージニア州、メリーランド州ボルチモア、ニュージャージー州ホーボーケン及びカムデン、ロングアイランドなど各地を回り、出るレース全てで勝利。5歳時は11戦全勝の成績を残した。

6歳時は4月にピーターズバーグで行われたレースから始動したが2着に敗れ、デビュー戦以来久々の敗戦を喫し、連勝は17で止まった。この時、本馬は余程調子が悪かったらしく、事前に「馬体のバランスが取れていない」と評された。翌5月にはジョンソン大佐が本馬の権利の半分をジェームズ・ロング氏に売却している。そのため、騎手もコーニリアス騎手からギルバート・W・パトリック騎手に代わっている。6歳2戦目となったヴァージニア州の距離3マイルのヒート競走ではコースレコードで快勝。結局6歳時は初戦に敗れたのみで、2戦目から9戦目までは全て勝利を収め、この年は9戦8勝の成績を残した。

7歳時には7戦して全て勝利した。

競走生活(8~10歳時)

8歳時には目に怪我を負ってしまい、春先はレースに出られなかった。そのためかこの年から現役競走馬でありながら種付け料100ドルで種牡馬活動も開始しており、42頭の繁殖牝馬と交配している。夏場にボルチモアで出走した距離4マイルのヒート競走では、マリナーという牝馬にあわやというところまで迫られたが辛うじて勝利を収めた。翌週にカムデンで出走した距離4マイルのヒート競走1戦目では、1着となった4歳牡馬ジョンブラントと、3馬身差の2着だった4歳牝馬ファッション(マリナーの半姉)の2頭に240ヤードもの大差をつけられて敗退。あまりにも差がついたために2・3戦目には出走させてもらえず、連勝は19で止まった。なお、このレースはファッションが2・3戦目を連勝して勝利馬となっている。8歳時の成績は5戦4勝だった。

9歳時は、ファッションに借りを返すために現役を続行。5月10日にユニオン競馬場で、北部代表馬ファッションと南部代表馬の本馬による、2万ドルを賭けた南北対抗マッチレース(距離4マイルのヒート競走)が施行された。19年前に同競馬場で行われたアメリカンエクリプスとサーヘンリーのマッチレースを上回る7万人以上もの大観衆が同競馬場に詰めかけた。9歳牡馬の本馬の斤量は126ポンド、5歳牝馬ファッションの斤量は111ポンドに設定された。北部のニューヨーク州で行われたレースにも関わらず、南部代表たる本馬が単勝オッズ2.67倍の1番人気に支持された。1戦目ではパトリック騎手が騎乗する本馬が勝利したが、ゴール前で内埒に接触したために本馬の左脇腹からは大量に出血してしまった。それでも本馬は2戦目にも出走したが、今度は1馬身差をつけられて敗退。そして3戦目では7分32秒5の全米レコードを樹立したファッションが勝利したため、本馬は敗れた。しかしその僅か3日後にはマリナーとのヒート競走に出走。ここでは1戦目を落としたが、2・3戦目を連勝して勝利を収めた。この年はその後に3回走って2勝を上乗せ。9歳時は5戦3勝の成績だった。

10歳時はピーターズバーグで距離3マイルのヒート競走に出走して勝利。この年はこの1戦のみで、これを最後に完全に競走馬を引退した。

当時はステークス競走やそれに類する競走が基本的に無かった事もあり、40勝中30勝が4マイルのヒート競走、9勝が3マイルのヒート競走だった。本馬は栗毛の馬体に、派手な顔面の流星を有しており、“Old Whitenose(老いた白鼻)”の愛称で呼ばれた。両後脚にはストッキングを履いており、高い競走能力や激しい気性だけでなく、これらの特徴も産駒にもよく伝えられた。前述したように体高は15.5ハンド程度だったが、肩から下半身にかけて非常に強力な筋肉で覆われており、後脚の力もとても強かった。また、跳びが大きい馬で、1完歩8m程度で走ったという(通常は7m前後)。大跳びの馬は重馬場が苦手な傾向があるが、本馬は馬場状態に関係なく走ったという。唯一かつ最大の欠点は気性の激しさで、もはや伝説になるほどだったという。

血統

Timoleon Sir Archy Diomed Florizel Herod
Cygnet Mare
Sister to Juno Spectator
Horatia
Castianira Rockingham Highflyer
Purity
Tabitha Trentham
Bosphorus Mare
Saltram Mare Saltram Eclipse Marske
Spilletta
Virago Snap
Regulus Mare
Symes Wildair Mare  Syme's Wildair Fearnought
Randolphs Kitty Fisher 
Driver Mare  Brents Driver 
Fallower Mare 
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel Diomed Florizel Herod
Cygnet Mare
Sister to Juno Spectator
Horatia
Atkinsons Shark Mare Shark Marske
Snap Mare
Eclipse Mare Eclipse
Rosebud
Alderman Mare Alderman  Pot-8-o's Eclipse
Sportsmistress
Lady Bolingbroke Squirrel
Cypron
Clockfast Mare Clockfast Bay Richmond
Swinburne Arabian Mare 
Wildair Mare Syme's Wildair
Kitty Fisher

父ティモレオンはサーアーチー産駒。現役成績17戦13勝で、うち4勝が単走だった。

母シスタートゥータカホの競走馬としての経歴は不明。本馬の半姉シャイロックメア(父シャイロック)の牝系子孫からは、バッツ【クラークH】、ドッジ【アメリカンダービー】などが出たが、20世紀半ばにはほぼ滅亡したようである。→牝系:F40号族

母父ボールズフロリゼルはダイオメド産駒で、競走成績は不明。サーアーチーもダイオメド産駒であるため、本馬はダイオメドの3×3のインブリードがある同系配合という事になる。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、12歳時までヴァージニア州ハノーヴァー郡で種牡馬供用された後、13歳時にワシントンDCに移動。同年冬には歩いてケンタッキー州ウッドフォード郡のブラックバーンファームに移動して、14歳時から死没までこの地で過ごした。本馬の元に当初集まった繁殖牝馬は量はともかくとして質は良くなかったとされている。しかし本馬がまだ現役競走馬だった9歳の時に産まれたリングゴールドが活躍するなど、早い時期から本馬の種牡馬成績は良好だった。1846年産まれのレッドアイも活躍し、繁殖牝馬の質も次第に上がっていった。

しかし晩年の本馬は目を病んで失明していた。失明の理由は若い頃の怪我なのだが、13歳時にワシントンDCから冬山を越えてケンタッキー州に移動しているのだから、この段階ではそれほど視力が悪かったとは思われない。この冬山越えが本馬の体調に悪影響を及ぼし、急激な視力の低下を引き起こしたのではと言われている(米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトでもその旨が指摘されている)。2年間は失明しながらも普通に種牡馬生活を続けたが、16歳の春には身体が不自由になってしまい、自力では立つ事も出来ない状態となった。そのためにハンモックが用意され、本馬の四肢にはロープが繋がれた。そして毎朝のようにブラックバーンファームの職員達が本馬の脚にマッサージを行い、それは本馬が立ち上がるまで何時間でも続けられた。16歳時はこのような状態で種牡馬生活を続けたのだが、この年の種付けによりレキシントン(及びその好敵手ルコント)がこの世に生を受けたのだから、仮に本馬の身体が不自由になった段階で処分されていたら、後年のサラブレッド血統地図は全く変わっていた事になる。

そして年明け1850年1月に本馬は馬屋内で倒れて他界しているのが発見された。まるでこの年に誕生するレキシントンに自らが有する能力を全て注ぎ込んで逝ったかのようであった。遺体はブラックバーンファームに埋葬された。死後の1851年から53年まで3年連続で北米首位種牡馬になっている。

1955年、息子のレキシントンと共に、米国競馬の初代殿堂入りを果たした。米国顕彰馬の中では、1805年産まれのサーアーチー、1814年産まれのアメリカンエクリプスに次いで3番目に生年が古い馬である。しかし7戦4勝のサーアーチーや8戦全勝のアメリカンエクリプスと比べると本馬の勝ち星の多さは群を抜いており、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトでは本馬こそが米国競馬史上最初の偉大なる最強馬であると評されている。本馬の直系は息子レキシントンが16度の北米首位種牡馬に輝く成功を収めた事で、一時期大きく繁栄したが、現在直系は滅んでいる。しかし、本馬の血を一滴も受け継いでいないサラブレッドはおそらく現存しない。また、スタンダードブレッドに与えた影響も大きい。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1850

Lexington

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