フォルリ

和名:フォルリ

英名:Forli

1963年生

栗毛

父:アリストファネス

母:トレヴィサ

母父:アドヴォケイト

無敗でアルゼンチン3歳四冠馬となり亜国史上最良の馬と讃えられた名馬は種牡馬としても後世に大きな影響を与える

競走成績:2~4歳時に亜米で走り通算成績10戦9勝2着1回

資料に乏しいアルゼンチン史上最良の馬

出身地であるアルゼンチンにおいては“Mejor Caballo del Año Argentino(直訳すると「アルゼンチン史上最良の馬」)”と讃えられる南米競馬史上最高の名馬の1頭である。種牡馬として世界競馬界に与えた影響力も絶大である事から、この名馬列伝集でも当然に取り上げるべき馬なのだが、信頼できる海外の資料がとにかく見当たらない。

原田俊治氏は著書「新・世界の名馬」のまえがきにおいて、「フォルリや、ドイツの競馬史上最高の名馬の一頭といわれるティチノなど、われわれ日本人にはあまり馴染みがないと思われる歴史的名馬も何頭か取り上げたかった」けれども「信頼できる情報が少なく、外国で発表された読み物風の記事はあっても、血統書や競馬成績書などの基礎資料がどうしても見つからず」やむなく断念した旨を述べている。ティチノについては独語で書かれた詳細な成績書を探し出すことが出来たので、それを参考に名馬列伝集で紹介する事が出来たが、本馬についての確実な資料は、出走したレース名と日付及び着順だけが載っている英語の成績書(しかも一部に抜けがある模様)しか見つからず、本馬がどういった馬だったのかが書かれた資料はスペイン語で書かれた簡潔なものしか発見できなかった。

山野浩一氏の著書「伝説の名馬Ⅰ」には本馬も紹介されているが、それを丸写しにするのは著作権法上の問題があるので、辛うじて見つけたスペイン語の資料を自分の知識として吸収した上で紹介させてもらう事にする。しかしスペイン語を学んだ事が無い筆者の解釈なので、おそらく間違いがあるはずである。よって、この名馬列伝集で紹介した他の馬よりも信憑性が低い内容となっているので、予めご了承願いたい。

アルゼンチンの競馬について

本馬について紹介する前に、アルゼンチンの競馬について簡単に触れておく。南米の他の大半の国と同様にスペインの植民地だったアルゼンチンは、19世紀初頭に独立を宣言し、その後は紆余曲折ありながらも1830年代頃にはなんとか独立国家の体裁を成していた(実際に国家として一応の安定を見たのは19世紀末)。競馬が始まったのはこの1830年頃であり、主導したのはアルゼンチンとの密貿易で利益を得ていた英国人であるらしい。そしてアルゼンチンがようやく国家として安定した1882年になって亜ジョッキークラブが創設され、1883年に英ダービーを模したナシオナル大賞とジョッケクルブ大賞の2競走(現在はナシオナル大賞のほうが亜ダービーに位置付けられている)が、1887年に3歳馬と古馬の混合戦である亜国最強馬決定戦カルロスペレグリーニ大賞が、1895年に亜国の2000ギニーに当たるポージャデポトリジョス大賞がそれぞれ創設された。そして、ポージャデポトリジョス大賞・ジョッケクルブ大賞・ナシオナル大賞の3競走を全て制した馬は亜国三冠馬“Triple Corona”となり、亜国三冠馬がさらにカルロスペレグリーニ大賞を勝つと、亜国四冠馬“Cuadruple Corona(英語では「Argentine Quadruple Crown」という)”の栄誉を手に出来ることになった(亜国四冠馬にはなるためには亜国三冠競走とカルロスペレグリーニ大賞を同一年に勝たなければならないと海外の資料にも明記されている。例えばタタンという馬はこの4競走を全て勝っているが、カルロスペレグリーニ大賞を勝ったのが3歳時でなく4歳時であるため、タタンは海外の資料でも“Triple Corona”と紹介されているだけで、“Cuadruple Corona”とは紹介されていない)。

このカルロスペレグリーニ大賞というレース、過去に何度かの施行条件変遷があり、創設から1934年まではダート3000m、1935年から1970年までは芝3000m、1971年から1979年まではダート3000mに戻り、1980年から現在までは芝2400mである。また、亜国三冠競走のうちポージャデポトリジョス大賞とナシオナル大賞の2競走は一貫してダート競走で距離も変化が無い(前者は1600m、後者は2500m)のに対して、ジョッケクルブ大賞は1979年までダート2000mで、1980年から芝2000mになっている。本馬の3歳時は1966年であるから、亜国三冠競走は全てダート競走だが、カルロスペレグリーニ大賞は芝3000mの時期であった。

また、カルロスペレグリーニ大賞は毎年11月頃に施行されるが、南半球産馬は北半球産馬より半年ほど遅生まれであるから、南半球産馬が3歳時にカルロスペレグリーニ大賞に出るというのは、日本産馬が3歳時に宝塚記念に出る、又は欧州産馬や米国産馬が3歳時にキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSに出るのと、時期的には同様であると考えられる(南半球産馬は7月に年齢が加算されるから、事実上は2歳で三冠を制してジャパンCや有馬記念を勝つようなものだとする日本のウェブサイトが複数存在するが、いずれのサイトも南半球産馬が北半球産馬より半年ほど遅生まれであるという事実を無視している。誕生日が1963年8月10日である本馬が1966年8月から開始される亜国三冠競走に出走するのと、4月に生まれた日本産馬が3年後の4月から開始される牡馬三冠競走に出走するのとでは大きな差は無く、2歳云々というのは誇張に過ぎる)。カルロスペレグリーニ大賞はその分だけ斤量面では優遇されているようで、これまた年によって3歳馬と古馬の斤量差に変遷があるのだが、概ね3歳牡馬で54kg、古馬牡馬で60~61kg(牝馬は2kg減)となっている模様である(宝塚記念における3歳馬と古馬の斤量差は5kg、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSでは12ポンド、つまり約5.4kg差である)。それでも並の一流馬に勝てるような生易しいレースでない事だけは確実である。ましてや、亜国三冠競走を全て勝った上でとなると尚更であろう。以上を踏まえた上で本馬の競走成績を読んで欲しい。

競走生活(2歳時)

本馬は亜国オホデアグア牧場の生産馬で、ジョルジ・アゼベド氏の所有馬となり、亜国の調教師ファン・ラピストイ師に預けられた。

1965/66シーズン後半の4月に、サンイシドロ競馬場で行われたジアゴ賞(D1400m)で初戦を迎えた。主戦となるロドルフォ・サパタ騎手を鞍上にスタートから先頭を走り続けた本馬は、どんどん後続を引き離し、2着馬に12馬身差をつける衝撃的な勝利でデビュー戦を飾った。翌5月のコディウエ賞(D1500m)では、2着馬に17馬身半差をつけるという、さらに衝撃的な圧勝劇を演じた。

次走は6月にパレルモ競馬場で行われた亜国2歳王者決定戦モンテビデオ大賞(D1500m)となった。既に本馬は翌シーズン(と言っても南半球なので西暦は変わらず、それまでの期間も短い)の亜国三冠競走の大本命と目されており、サパタ騎手はそれに備えて本馬を楽に走らせたが、それでも2着ヴィクレマンに5馬身差をつける完勝を収め、2歳時を3戦全勝で終えた。

競走生活(3歳時)

3歳時は8月7日にパレルモ競馬場で行われたポージャデポトリジョス大賞(D1600m)から始動した。このレースは前述のとおり亜国の2000ギニーに相当するレースで、亜国三冠競走の第1戦である。ここでも圧倒的な逃げを披露した本馬は、2着アントニトに12馬身差をつけて、1分33秒4のコースレコードタイムで圧勝した。このタイムは南米全体におけるダート1600m戦の当時史上最速タイムだった(現在はレースレコードとしての地位も失われているが、当時としては破格のタイムだった)。

続いて9月4日にパレルモ競馬場で行われた亜国三冠競走第2戦ジョッケクルブ大賞(D2000m)に参戦。今までの圧倒的な強さから、もはや向かうところ敵なしに見えた本馬だが、このレースでは思わぬ苦戦を強いられる。スタートから先頭を走り続けた本馬だったが、残り400mを切った所で急激に失速してしまい、前走で12馬身も引き離したアントニトにあわやの2馬身差まで詰め寄られる結果となった。何とか勝利を収めたが、スタミナ面に不安がある事を露呈する結果となってしまった。

次走は10月2日にパレルモ競馬場で行われた亜国三冠競走最終戦ナシオナル大賞(D2500m)となった。しかし前走の走りから、本馬にこの距離は長すぎるのは衆目の一致するところであり、三冠達成を絶望視する声も多かった。ところがレースでは前走と同様にスタートから先頭を走り続け、道中で後続を大きく引き離し、最後はスタミナ切れを起こしながらも、大方の予想を覆す驚異的な粘り腰を見せて、2着プロポーサルに1馬身差をつけて、1964年のゴベルナド以来2年ぶり史上15頭目の亜国三冠馬“Triple Corona”の栄誉を手にした。

続いて出走したのが、11月6日にサンイシドロ競馬場で行われたカルロスペレグリーニ大賞(T3000m)だった。本馬がこのレースを勝てば、亜国四冠馬になれるわけだが、今までの三冠競走と違って古馬勢、それも亜国内だけでなく南米各国から集結する馬達を相手にしなければならず、さらに距離は明らかに長いと思われたナシオナル大賞から500mも伸び、しかも初の芝競走と、不安材料だらけだった。しかし本馬はそんな不安を払拭する快走を見せる。道中他馬に競りかけられながらも持ちこたえ、直線に入っても勢いは衰えず、最後はアレールの猛追を2馬身半差振り切って、1958年のマナンティアル以来8年ぶり史上8頭目の亜国四冠馬“Cuadruple Corona”の栄冠を手にした(なお、1940年にラミッションという牝馬が亜国牝馬三冠競走とカルロスペレグリーニ大賞を同年に制しており、この馬は亜国四冠牝馬として扱われるから、それを含めると本馬は史上9頭目である)。なお、亜国四冠は12年後の1978年にテレスコピコが達成したが、それを最後に30年以上出現していない(亜国三冠のほうは、テレスコピコに加えて、1986年のエルセラーノ、1996年のレフィナドトムの合計3頭が達成している)。

このレースの後、米国ケンタッキー州クレイボーンファームの経営者ブル・ハンコック氏から75万ドル(日本の資料には96万ドルと書かれている。いずれが正しいのかはっきりしないが、地元アルゼンチンの資料のほうが信憑性は高いだろう)で本馬を売って欲しいという申し出があった。本馬が亜国で走っていた時期は、亜国の経済政策に一定の成果を残した独裁者フアン・ペロン大佐が一時的に失脚していた頃であり、ペロン大佐の支持者と軍部の対立が激化して半内戦状態に陥り、亜国の経済状態は悪化の一途を辿っていた。75万ドルにしろ96万ドルにしろ、この状況の亜国においては破格の値段であり、本馬陣営はこの申し出を了承。本馬は1966年の亜年度代表馬のタイトルを手土産に、米国西海岸に厩舎を構えていたチャールズ・ウィッティンガム調教師の元に移籍した。

競走生活(渡米後)

米国に来た本馬の初戦は、翌1967年5月16日にハリウッドパーク競馬場で行われたコロナドH(T8.5F)となった。米国における主戦となるウィリアム・シューメーカー騎手を鞍上に迎えた本馬は、2着アークスロニに3馬身差をつけて1分41秒2のコースレコードで快勝。見事に移籍初戦を飾った。次走は翌6月にハリウッドパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走だった。このレースは馬券が発売されないエキシビションになり、特に苦労することも無く楽勝したようである。続いて本馬はアーリントンパーク競馬場に場所を移し、7月29日のサイテーションH(T8.5F)に出走。しかしレース中に不利を受けて後方からのレースとなってしまい、猛追及ばず、1分41秒8のコースレコードタイで走破したドミナーの1馬身差2着に敗退。デビューからの連勝は9で止まった。しかも、このレース中に左前脚を骨折していることが判明し、そのまま競走馬生活にピリオドを打つ事になった。

なお、本馬は「アルゼンチン史上最良の馬」として評価されていると最初に述べたが、1904年の亜国四冠馬である通算成績19戦18勝のオールドマンや、1951年の亜国四冠馬である通算成績22戦21勝のヤタストの2頭の評価も非常に高く、本馬に匹敵する、又はそれ以上の評価をしているスペイン語の資料も見かけた(スペイン語版のウィキペディアには本馬の項目は無いが、他2頭の項目はしっかりと存在している)。しかも2頭とも種牡馬としても活躍しており、可能であれば紹介したいところなのだが、やはりあまり詳しい資料は見つけられなかったから、この名馬列伝集では紹介できそうにない。ただ、日本でも有名なフォルリでさえも確実に亜国最強馬とは断定できないのだという、亜国競馬の奥深さは弁えておくべきだろう。筆者は南米の競馬まで手が回らないし資料も少ないので詳しくはないのだが、そんな事では本当は良くないのである。

血統

Aristophanes Hyperion Gainsborough Bayardo Bay Ronald
Galicia
Rosedrop St. Frusquin
Rosaline
Selene Chaucer St. Simon
Canterbury Pilgrim
Serenissima Minoru
Gondolette
Commotion Mieuxce Massine Consols
Mauri
L'Olivete Opott
Jonicole
Riot Colorado Phalaris
Canyon
Lady Juror Son-in-Law
Lady Josephine
Trevisa Advocate Fair Trial Fairway Phalaris
Scapa Flow
Lady Juror Son-in-Law
Lady Josephine
Guiding Star Papyrus Tracery
Miss Matty
Ocean Light Sunstar
Glass Doll
Veneta Foxglove Foxhunter Foxlaw
Trimestral
Staylace Teddy
Straitlace
Dogaresa Your Majesty Persimmon
Yours
Casiopea Kendal
Asteria

父アリストファネスはハイペリオン直子の英国産馬。現役時代は英国ハンデ競走を中心に走り、ドンカスターH2回・アーリントンS・スカボローSを勝ち、ジャージーSで2着、テューダーS・ロイヤルハントCで3着するなど18戦8勝の成績を挙げた中級競走馬だった。競走馬引退後は南米で種牡馬生活を送り、1960/61シーズンの亜首位種牡馬、1963/64・66/67シーズンにも亜種牡馬ランキング2位になるなど成功を収めた。繁殖牝馬の父としても活躍しており、亜母父種牡馬ランキングでは1979/80シーズンに3位に入っている。

母トレヴィサの競走馬としての経歴は不明。牝系子孫は発展しており、本馬の半姉モロシナ(父カルダニル)の子孫からは、ミスキャリー【5月25日大賞(亜GⅠ)】、サボワビエン【ポージャデポトランカス大賞(亜GⅠ)・ミルギネアス大賞(亜GⅠ)・ホルヘデアトゥーチャ大賞(亜GⅠ)・エリセオラミレス大賞(亜GⅠ)】、モダングリーク【ミルギネアス大賞(亜GⅠ)】、トラベルウェル【セレクシオンデポトランカス大賞(亜GⅠ)】、バンブリ【アルベルトビアルインファンテ賞(智GⅠ)・ナシオナルリカルドリヨン賞(智GⅠ)】、エルブロミスタ【アルベルトビアルインファンテ賞(智GⅠ)・ラティーノアメリカーノファラベラ大賞(智GⅠ)】などが出ており、本馬の全妹トレヴィサーナの子にはシフォウナス【エリントン賞(伊GⅡ)】、孫にはフォルリターノ【サイテーションH(米GⅡ)2回・ブーゲンヴィリアH(米GⅡ)】、牝系子孫にはエルモイセス【ポージャデポトリジョス大賞(亜GⅠ)・ナシオナル大賞(亜GⅠ)】がいる。

トレヴィサの全姉ラドガナの孫にはファルネシオ【亜ジョッキークラブ大賞】、曾孫にはクロウ【英セントレジャー(英GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)】、ピントゥリッキオ【ポージャデポトリジョス大賞(亜GⅠ)】、ビアンカマリア【クリアドレス大賞(亜GⅠ)】、玄孫世代以降にはスペシャルレディ【エンリケポッソーロ大賞(伯GⅠ)・マルシアノデアギアルモレイラ大賞(伯GⅠ)】、ジュリエヘイロー【ヒルベルトレレーナ大賞(亜GⅠ)】、パーソナルライト【ラミッション大賞(亜GⅠ)】、スペースシップ【ラプラタ市賞(亜GⅠ)】、グリフトン【伯ジョッキークラブ大賞(伯GⅠ)】、ストルーデルフィッツ【サンマルティン将軍大賞(亜GⅠ)】、インプレッション【マイプ大賞(亜GⅠ)】、フォーティグリータ【ホルヘデアトゥーチャ大賞(亜GⅠ)・エストレージャス大賞ジュヴェナイルフィリーズ(亜GⅠ)】、グレコトム【エストレージャス大賞フニオールスプリント(亜GⅠ)】、ヴェラネイオ【ダービーパウリスタ大賞(伯GⅠ)】、テキサスレッド【BCジュヴェナイル(米GⅠ)】などが、トレヴィサの全姉ヴェニスの曾孫にはイエロン【ドスミルギネアス大賞(亜GⅠ)・ホアキンSデアンチョレーナ大賞(亜GⅠ)】がいる。基本的に南米で走った馬が多いが、クロウやテキサスレッドのように英米で活躍した馬も出ている。

ここに挙げた以外にもこの牝系にはかなりの数の南米の活躍馬がいる。この牝系は19世紀末にワールウィンドという牝馬(1862年の英1000ギニー馬ハリケーンの娘で、1874年の英2000ギニー馬アトランティックの全妹に当たる)が英国から亜国に輸入されたのが出発点で、100年以上に渡って南米で発展を続けた南米きっての名門牝系である。→牝系:F3号族①

母父アドヴォケイトはフェアトライアル直子の英国産馬で、現役時代は英国で走り18戦5勝。主な勝ち鞍はサニングヒルH・フリートH・オールドウィンザーH・ビシャムHという中級競走馬だった。競走馬引退後はやはり南米で種牡馬生活を送り、亜種牡馬ランキングで最高3位(1952/53、53/54シーズン)、亜母父種牡馬ランキングでは、1963/64、1966/67シーズンの2回首位になっている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はそのままクレイボーンファームで種牡馬入りした。2年目産駒からエクリプス賞年度代表馬に3度輝いた歴史的名馬フォアゴーを輩出。他にも複数の活躍馬を出して成功を収めた。21世代の産駒から合計718頭の産駒を送り出し、そのうち競走馬になったのが504頭、322頭が勝ち上がり、その勝利数の合計は1188勝、産駒のステークスウイナー数は60頭であり、いずれも一流競走馬の数字である。繁殖牝馬の父としては92頭のステークスウイナーを出しており、その中には大種牡馬ヌレイエフや、ケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬スウェイル、米国顕彰馬プレシジョニストなどの大物も含まれている。本馬は1988年8月に25歳で他界した。

本馬の直系は、サッチの直子であるジュライC勝ち馬サッチングと、フォーミダブルの直子である伊国のGⅠ競走エミリオトゥラティ賞の勝ち馬エフィシオの2頭が欧州で種牡馬として活躍した。特にエフィシオは2003年のカルティエ賞最優秀2歳牝馬アトラクションなどを出しており、本馬の直系を21世紀に繋いでいる。日本では、ポッセの直子であるシェリフズスターが二冠馬セイウンスカイを出したが、その後が続かずに現在ではほぼ滅亡している。本馬の直系子孫が今後もずっと残っていくかは正直微妙だと思うが、本馬の牝駒スペシャルが大種牡馬ヌレイエフの母、さらに大種牡馬サドラーズウェルズの祖母となっている事から、本馬の血の影響力が失われることは無いであろう。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1969

Folkestone

ゴントービロン賞(仏GⅢ)

1969

Home Guard

ハンガーフォードS(英GⅢ)・ダイアデムS(英GⅢ)・グリーンランズS(愛GⅢ)

1970

Boone's Cabin

グリーンランズS(愛GⅢ)・バリーオーガンS(愛GⅢ)

1970

Dapper

グラッドネスS(愛GⅢ)

1970

Forego

ガルフストリームパークH(米GⅠ)・ワイドナーH(米GⅠ)2回・ブルックリンH(米GⅠ)3回・ウッドワードS(米GⅠ)4回・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)・サバーバンH(米GⅠ)・メトロポリタンH(米GⅠ)2回・マールボロC招待H(米GⅠ)・ローマーH(米GⅡ)・ドンH(米GⅡ)・カーターH(米GⅡ)2回・ヴォスバーグS(米GⅡ)・セミノールH(米GⅡ)・ディスカヴァリーH(米GⅢ)・ナッソーカウンティH(米GⅢ)2回

1970

Thatch

ジュライC(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅡ)・ロングアイランドH(米GⅢ)・クリサンセマムH(米GⅢ)

1971

Lisadell

コロネーションS(英GⅡ)

1972

Forceten

スワップスS(米GⅠ)・アーゴノートH(米GⅡ)・マリブS(米GⅡ)・ジムダンディS(米GⅢ)

1972

Gay Fandango

クリスタルマイル(英GⅢ)

1972

Imperial March

クイーンアンS(英GⅢ)

1972

Intrepid Hero

ハリウッドダービー(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)・セクレタリアトS(米GⅡ)・ボードウォークH(米GⅢ)・バーナードバルークH(米GⅢ)

1973

Forlana

サスケハナH(米GⅡ)

1974

Broadway Forli

ジェロームH(米GⅡ)

1975

Fordham

ジョーマクグラス記念S(愛GⅠ)・カンバーランドロッジS(英GⅢ)2回

1975

Formidable

ミドルパークS(英GⅠ)・ミルリーフS(英GⅡ)

1976

Foretake

ロングフェローH(米GⅢ)・ニッカボッカーH(米GⅢ)

1977

Flo's Florum

アッシュランドS(米GⅢ)

1977

Huguenot

ベレスフォードS(愛GⅡ)・ダフニ賞(仏GⅢ)

1977

Key to Content

ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)・サラナクS(米GⅡ)・フォートマーシーH(米GⅢ)

1977

Posse

サセックスS(英GⅠ)・セントジェームズパレスS(英GⅡ)

1978

McCann

ランプライターH(米GⅢ)・ローレンスアーマーH(米GⅢ)

1979

Mademoiselle Forli

レディーズH(米GⅠ)・ウィルシャーH(米GⅡ)

1979

Miraflora

ブラウンズタウンS(愛GⅢ)

1979

Punctilio

ホワイトホールS(愛GⅢ)

1981

Hot Rodder

エッティンゲンレネン(独GⅢ)

1983

Asteroid Field

メイトリアーク招待S(米GⅠ)・チャレンジS(英GⅡ)・カンデラブラS(英GⅢ)・スプリームS(英GⅢ)

1983

Balthus

ケンブリッジシャーH

1983

Sadeem

アスコット金杯(英GⅠ)2回・サガロS(英GⅢ)・グッドウッドC(英GⅢ)・グラディアトゥール賞(仏GⅢ)・ヘンリーⅡ世S(英GⅢ)

1985

Oraibi

マリブS(米GⅡ)

1986

Forli Light

エセックスH(米GⅢ)

1986

Late as Usual

スウォーンズサンS(米GⅢ)

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