ヘンリーオブナヴァル

和名:ヘンリーオブナヴァル

英名:Henry of Navarre

1891年生

栗毛

父:ナイトオブエラザイル

母:モスローズ

母父:ジイルユースト

快速馬ドミノの好敵手でスタミナ・スピード・底力の三拍子揃った能力でドミノを何度も撃破した19世紀末米国競馬最強馬候補

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績42戦29勝2着8回3着3回

スタミナ・スピード・精神力の三拍子が高いレベルで揃っていると評された能力で、同世代のドミノや1歳年上のクリフォードといった強豪馬達を幾度も撃破して、19世紀末の米国競馬における最強馬の最有力候補とされている名馬で、仏国王の名前に由来する馬名から“king of the turf(競馬場の王)”と呼ばれた。

誕生からデビュー前まで

米国ニュージャージー州シルバーブルックスタッドにおいて、リュシアン・アップルビー氏により生産された。美貌で知られた父ナイトオブエラザイルと異なり、見てくれはあまり良くなかったらしく、成長後の体高も15.2ハンド弱とあまり背の高い馬ではなかった。脚の繋ぎも短かったが、馬体重は1100ポンド(約500kg)あったようで、体高の割に体重があるという事は胴長ということで、体格は典型的な長距離馬のそれであったようである。その外観は馬を見る眼が肥えた人々をも惹きつけるものであったようで、本馬はケンタッキー州在住のバイロン・マクルランド氏により3千ドルで購入された。マクルランド氏は、スピナウェイS・アラバマSの勝ち馬サリーマクレランド、マンハッタンHの勝ち馬バミューダなど複数の大レース勝ち馬を手掛けていた優れた調教師(後には現在の米国三冠競走に位置付けられている3競走全てを勝っている)でもあり、本馬も彼の元で訓練を受けた。

競走生活(2歳時)

2歳時に競走馬としてデビューし、この年は10戦して、ブリーダーズS・ダッシュS(D5F)・ゴールデンロッドS(D7F)・アルジェリアH(D6F)など6勝を挙げる活躍を見せた。ダッシュSでは、後のプリークネスS2着馬ポテンテートを2着に破っている。ゴールデンロッドSでは、この年のシーサイドS・スプリングターフセリングS・ウッドストックSを勝った同世代の有力2歳馬フィガロを2着に破っている。アルジェリアHでは、この年のトレモントS・オータムS・バートウS・フォームS・ゼファーSを勝ちドミノとのマッチレースで同着勝利した実力馬ドビンズを2着に破っている。サプリングS(D5.5F)では、セネターグラディの2着(ハイデラバードと同着)。ジュニアチャンピオンS(D6F)では、セネターグラディ、この年のクリテリオンS・タイロS・ダブルイベント2回の勝ち馬で後にブルックリンHを勝つホーンパイプに続く3着。セレクトS(D6F)では、3着ホーンパイプには先着したものの、セネターグラディの2着に敗れた。

しかし本馬もドビンズもセネターグラディもフィガロもこの年の2歳戦の主役ではなかった。この年の2歳戦は、グレートアメリカンS・グレートエクリプスS・グレートトライアルS・ハイドパークS・プロデュースS・ベルモントフューチュリティS・メイトロンSなど9戦全勝の成績を挙げた稀代の快速馬ドミノの独り舞台であり、後世になって選出された米最優秀2歳牡馬の座は、米年度代表馬共々ドミノの頭上に輝いている。

競走生活(3歳時)

3歳時はシーズン初戦のウィザーズS(D8F)で、これまたシーズン初戦のドミノとの初顔合わせとなった。結果はドミノが勝利を収め、本馬は頭差の2着に敗れたが、同斤量だった事や着差からドミノを脅かす存在になるのではという期待を抱かせる内容だった。

その後は古馬相手のメトロポリタンH(D9F)に出走した。メトロポリタンHは現在では米国有数のマイル戦だが、この当時は9ハロン戦だった(マイル戦になったのは3年後の1897年から)。しかし結果はシャンペンS・オムニバスSの勝ち馬ラマポ(後にこの年のサバーバンHも勝っている)、オムニウムHの勝ち馬ロシュの2頭の4歳馬の壁に跳ね返され、ラマポの3着に敗れた。

その後はやはり古馬相手のブルックリンH(D10F)に出走。今回は、ウィザーズS・ホープフルS・ジュヴェナイルS・オーガストSの勝ち馬で前年のベルモントS2着のドクターライスの2着に敗れたものの、アトランティックS・グレートアメリカンS・グレートエクリプスS・ロリラードS・オムニウムH・タイダルSを勝っていたサーウォルター(3着)に先着した。

そして前年とこの年だけ距離9ハロンで実施されたベルモントS(D9F)では、プリークネスSの勝ち馬アサイニーを3着に破って勝利した。さらにトラヴァーズS(D10F)では、アメリカンダービーでドミノを9着に破って勝利していたレイエルサンタアニタを2着に破って勝利。他にもフォックスホールS(D13F)・イロコイS(D10F)・マンハッタンH(D10F)・ドルフィンS(D9F)・スピンドリフトS(D9F)・ベイSと勝ちまくり、ベルモントSから9連勝をマークした。

セカンドスペシャルS(D9F)では、フェニックスホテルH・シーフォームS・フライトSを勝っていた1歳年上のクリフォードとの2頭立てとなった。クリフォードは後年になって前年の米最優秀3歳牡馬に選ばれ、この年も9回のレコード勝ちを含む13勝を挙げて米最優秀ハンデ牡馬に選ばれ、さらには米国競馬の殿堂入りも果たす当時の米国最強古馬だった。ここではクリフォードが勝利を収め、本馬は敗れた。

本馬がトラヴァーズSを勝った後に、ドミノの所有者ジェームズ・R・キーン氏が同意したため、9月にグレーヴセンド競馬場ダート9ハロンにおいて、サードスペシャルSと題された本馬とドミノの同斤量マッチレースが施行された。“The Race of the Decade(10年に1度の大一番)”と喧伝され、賞金には5千ドルが加算された。レースではドミノが快速を活かして先行し、直線に入ってもまだ2馬身のリードを保ち、そのまま勝利するかに思われたが、本馬が猛然とドミノとの差を縮めると殆ど並んでゴールイン。結果は同着だった。

その3週間後、再び“The Race of the Decade”と喧伝された本馬とドミノの対戦が、今度はモリスパーク競馬場ダート9ハロンにおいて、スペシャルSの名称で企画された(「10年に1度の大一番」が同一年に2回あるのもおかしな話だが、日本でも「10年に1人の逸材」と評されたプロ野球ドラフト対象選手が平均して2年に1人は登場したり、「過去50年で最大級の台風」が毎年のようにやってきたりするところを見ると、万国共通の表現のようである)。ただ、このスペシャルSは前回と異なりクリフォードとの3頭立てであり、後の米国顕彰馬3頭が一堂に会するレースだったから、サードスペシャルSよりこちらのほうが「10年に1度の大一番」に相応しかったと言える。ドミノはサードスペシャルSからの直行だったが、本馬はサードスペシャルSからさらに勝ち星を上積みしており、この年におけるここまでの成績は19戦12勝だった。

レースでは先行したドミノを本馬が追撃し、クリフォードが最後方を進む展開となった。やがて失速したドミノを本馬がかわしたところにクリフォードが襲いかかり、本馬とクリフォードの一騎打ちとなった。最後は本馬が2着クリフォードに1馬身差(資料によっては3/4馬身差)をつけて勝利を収め、ドミノはさらに10馬身後方の3着最下位に敗れた。クリフォードの管理調教師ジャック・ロジャーズ師が「速いペースで飛ばしたドミノをヘンリーオブナヴァルが追撃してかわしたところにクリフォードが襲いかかった時は勝ったと思ったのですが、そこからクリフォードはヘンリーオブナヴァルにさらに突き放されてしまいました」と脱帽するほどの強さだった。

3歳時はこれが最後のレースで、この年に20戦13勝2着5回3着1回の成績を挙げた本馬は、後年になってこの年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選出された(米最優秀3歳牡馬はドミノと同時受賞)。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続行した本馬は相変わらずの強さを発揮し続けた。10戦して、ミュニシパルH(D14F)・マンハッタンH(D10F)・マーチャンズH・カントリークラブHなど8勝をマーク。敗れた2戦は、ツインシティH(D10F)でレイエルサンタアニタの2着に敗れたのが1つ。オリエンタルH(D10F)で、騎乗ミス(具体的なミスの内容は不明)のために、クリフォード、シャンペンS・マンハッタンHを勝っていた同世代馬サーエクセスの2頭に後れを取ってクリフォードの3着に敗れたのが1つだった。新設競走ミュニシパルHでは130ポンドを背負いながらも、レイエルサンタアニタを2着に、クリフォードを3着に破っている。マンハッタンHでは、ベルモントSで2着していたこの年のジェロームHと翌年のメトロポリタンHの勝ち馬カウンターテナーを2着に、翌年のブルックリンHを勝つサーウォルターを3着に破っている。

また、本馬のこの年の8勝の中にはドミノとのマッチレースが2回含まれている。1度目は9月にシープスヘッドベイ競馬場ダート9ハロンで行われたレースで、本馬がドミノを首差抑えて勝利を収めた。2度目はそれから6日後にグレーヴセンド競馬場ダート10ハロンで行われたレースで、ファーストスペシャルSと題されたこのレースには両馬だけでなく、クリフォード、サーウォルター、レイエルサンタアニタも参戦していた。結果は本馬が勝利を収めて、クリフォードが2着、サーウォルターが3着、レイエルサンタアニタが4着で、ドミノは5着最下位に終わった。

なお、この少し前の8月にオーガスト・ベルモント・ジュニア氏がマクルランド氏に対して本馬の購入申し出を行い、3万5千ドルで取引が成立しており、以降の本馬はベルモント・ジュニア氏の名義で走り、管理調教師もマクルランド氏からジョン・H・ハイランド師に代わっている。この4歳時も後年になって米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている(いずれも単独)。

競走生活(5歳時)

5歳時も現役を続けたが、この年は僅か2戦しかしていない。しかし両レースとも勝利を収めている。5歳時2戦目のサバーバンH(D10F)では同競走過去最高の129ポンドを背負い、しかも脚の状態が万全ではなかった。対戦相手も、クリフォードに加えて、通算成績32戦18勝の強豪ザコモナーと難敵だったが、ザコモナーを2着に、クリフォードを3着に下して勝利。観衆からの「雷のような賞賛」を受けながら脚の手当てを受けた本馬は、そのまま競走馬生活にピリオドを打った。5歳時は僅か2戦のみながら、後年になってこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている。

馬名は、仏国ブルボン朝の初代国王アンリ4世(16世紀末~17世紀初に在位。サン・バルテルミの虐殺を逃れナントの勅令を発布してカトリックとプロテスタントとの国内融和に努め、40年近くに渡ったユグノー戦争を終結させ、戦後は疲弊した国家の再建に努めたが、暗殺された。名君として知られ当時から現代まで仏国民から大きな人気を得ている。なお、アンリは英語読みではヘンリー)とナヴァル王国(イベリア半島にあった王国でアンリ4世の代に仏国の州になっている。それ以降、仏国王は称号にナヴァル王を追加するようになっている)に由来する。

血統

Knight of Ellerslie Eolus Leamington Faugh-a-Ballagh Sir Hercules
Guiccioli
Pantaloon Mare Pantaloon
Daphne
Fanny Washington Revenue Trustee
Rosalie Somers
Sarah Washington Garrison's Zinganee
Stella
Lizzie Hazlewood Scathelock Eclipse Orlando
Gaze
Fanny Washington Revenue
Sarah Washington
War Song War Dance Lexington
Reel
Eliza Davis Knight of St. George
Melrose
Moss Rose The Ill-Used Breadalbane Stockwell The Baron
Pocahontas
Blink Bonny Melbourne
Queen Mary
Ellermire Chanticleer Birdcatcher
Whim
Ellerdale Lanercost
Tomboy Mare
Scarlet Kentucky Lexington Boston
Alice Carneal
Magnolia Glencoe
Myrtle
Maroon Glencoe Sultan
Trampoline
Wagner Mare Wagner
Cherry Elliot

父ナイトオブエラザイルはプリークネスS・ネイビーSを勝ち、ベルモントSで2着している。ナイトオブエラザイルの父エオラスはリーミントン産駒。ナイトオブエラザイルの母父スカザロックの半弟でもあり、競走馬としては特筆できる活躍をしていないが種牡馬としてはかなりの成功を収めている。

母モスローズの競走馬としての経歴は不明。その産駒には本馬の全弟ザユグノー【ウィザーズS・ブルックリンダービー】もいる。モスローズの母スカーレットの全妹マーモットの牝系子孫にはメリディアン【ケンタッキーダービー】が、スカーレットの母マルーンの半姉ブロンドの牝系子孫には本馬と同世代で対戦経験もあるホーンパイプ【ブルックリンH】、ジャックアトキン【メトロポリタンH・カーターH】などがいるが、あまり繁栄している牝系とは言えず、マルーンやブロンドの牝系子孫は今日では残っていない様子である。→牝系:F20号族②

母父ジイルユーストは英国産馬。1856年の英ダービー馬エリントンや1859年の英オークス馬サマーサイドの甥で、1865年の英国クラシック競走を英ダービー以外全て制したフォーモサの近親に当たる良血馬だった。その血統を評価したオーガスト・ベルモント氏(初代)により幼少期に米国に輸入されて米国で走った。ケナーS・シークウェルSを制したが、ナーサリーS・ベルモントSはいずれも不利を受けて敗れた。そのため、「虐待された」という意味の馬名をつけられたという。種牡馬としてはかなり活躍している。ジイルユーストの父ブレッドアルバンはストックウェル産駒で、英ダービー・英オークスを勝った名牝ブリンクボニーの息子、英ダービー・英セントレジャーを勝った名馬ブレアアソールの全弟という超良血馬。主な勝ち鞍はプリンスオブウェールズSで、アスコット金杯で3着している。種牡馬としては成功していない。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ベルモント・ジュニア氏が所有するケンタッキー州ナーサリースタッドで種牡馬入りした。当時ナーサリースタッドで繋養されていた、仏国産の北米首位種牡馬レヨンドールに匹敵する大きな期待を背負っての種牡馬入りだった。しかし本馬の種牡馬成績は期待を大きく下回るもので、北米種牡馬ランキングでトップ20以内になった事は1度も無かった。その後ナーサリースタッドにやってきたヘイスティングスがすぐに種牡馬として大活躍したため、本馬の影はますます薄くなってしまった。

1909年にニューヨーク州で反賭博法が成立するとベルモント・ジュニア氏は自身の所有馬の多くを欧州へ送った。本馬もベルモント・ジュニア氏の生産馬でウィザーズS・ブルックリンダービーの勝ち馬オクタゴンと共に最初は英国ニューマーケットへ、翌1910年には仏国ノルマンディーへ送られて異国で種牡馬生活を続けた。しかし時代は第一次世界大戦前夜であり、仏国政府が軍馬の徴用を開始したため、ベルモント・ジュニア氏は1911年に自身の所有馬を米国に呼び戻した。本馬もオクタゴンと一緒に米軍の用意した船に乗ってニューヨークに戻ってきた。港に到着した際には待機していた米軍により出迎えられた。船から降りて来た2頭は10日間に及ぶ航海の疲れを感じさせない活発さを示したという。米国に着いた本馬とオクタゴンはヴァージニア州フロントロイヤルの軍馬生産牧場に送られ、そこで軍馬生産用種牡馬として余生を送った。1917年、本馬はフロントロイヤルにおいて26歳で他界し、その地に埋葬された。1985年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

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