和名:ローズベン |
英名:Roseben |
1901年生 |
騙 |
鹿毛 |
父:ベンストローム |
母:ローズリーフ |
母父:デュークオブモントローズ |
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重い斤量をその巨体に背負いながら他馬を圧倒するスピード能力を武器に20世紀初頭の米国短距離路線で活躍した「ザ・ビッグ・トレイン」 |
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競走成績:2~8歳時に米で走り通算成績111戦52勝2着25回3着12回 |
巨漢の短距離馬と言えば、日本ではヒシアケボノが有名だが、米国では本馬である。体高17.75ハンド(17.3ハンドとする資料もある)の巨体で重い斤量を背負いながら素晴らしいスピードを披露する本馬は“The Big Train(ザ・ビッグ・トレイン)”の愛称で親しまれた。
誕生からデビュー前まで
トマス・J・カーソン氏によりケンタッキー州ディキシアナスタッドにおいて生産され、1歳時のセリにおいてジョン・ドレイク氏に購入された。早々に去勢されて騸馬となった本馬だが、それは別に気性が激しかったからではなく(後述するが、本馬はむしろ非常に大人しい馬だったようである)、20世紀初頭の米国競馬においては牡馬を去勢するのが当たり前だったからに過ぎない。
競走生活(2~5歳時)
大柄な馬は仕上がりが遅い傾向があるが、本馬も例外ではなく、2歳時は1戦して着外という結果のみだった。
3歳になってようやくマークした初勝利の後にドレイク氏は本馬を売りに出し、本馬はデイビー・ジョンソン氏に3800ドルで購入されている。馬主が代わって10日もしないうちに2勝を上乗せし、3歳時の成績は9戦3勝2着2回3着1回となった。
本馬が本格化したのは4歳時で、トボガンH(D6F)では2ポンドのハンデを与えた同世代のレースキング(この年のメトロポリタンHで名馬サイソンビーと同着勝利している)を着外に破って勝利。次走のクレアモントH(D6.5F)では、今度は9ポンドのハンデを与えたレースキングを2着に破って勝利している。本馬に課せられる斤量はその後どんどん増えていき、まるで貨物列車に荷物を載せるがごとくと評されたほどだったが、6連勝と7連勝をマークするなど、4歳時29戦19勝2着5回3着2回の成績を残し、この年だけで2万2千ドル以上の賞金を稼ぎ出してジョンソン氏を喜ばせた。
5歳時のマンハッタンH(D6F)では、レースキングを含む他馬より42~49ポンドも重い147ポンドを背負いながら、2着エアロノートに5馬身差をつけて勝利。勝ちタイム1分11秒6は全米レコードだったのみならず、負担重量も全米レコードだったとされている。
その僅か10日後には、ベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走において1分22秒0のタイムで勝利。これはコースレコードを3秒更新しただけでなく、全米レコードをも2秒5秒も更新する驚異的なタイムだった。この全米レコードは非常に長い間更新されず、マートルウッドとのマッチレースで知られる名短距離馬クラングが1935年にハリウッドパーク競馬場でタイレコードを記録するのが精一杯で、1947年にようやくハリウッドパーク競馬場において更新された。ベルモントパーク競馬場のコースレコードとしてはさらに長い間残り、これが破られるためは1957年のヴォスバーグHにボールドルーラーが出走するのを待たなければならなかった(なお、本馬のレコードタイム樹立時期や後年における更新時期については資料によってずれがある事を一応追記しておく。ダート7ハロンの全米レコード1分22秒0を樹立したのは5歳時ではなく6歳時であるとする説もあるのである)。
カーターH(D7F)では、無敗の英国三冠馬オーモンド産駒オーモンデスライトの2着。フォールH(D6F)では、プリンスハンブルグの2着。コニーアイランドH(D6F)では、ベルモントフューチュリティS・クリテリオンS・フライトSなどを勝っていた牝馬ハンブルグベル(米国顕彰馬デヴィルダイヴァーの牝系先祖)の2着だった。5歳時は、6連勝で迎えたカーターH(D7F)で、2着馬サザンクロスより23ポンド重い斤量を背負って勝利を収め、前年2着の雪辱を果たした。前年と同じ147ポンドを背負って出走したマンハッタンH(D6F)では、1分12秒2という前年より少し遅いがそれでも優秀なタイムで走破して2連覇を果たした。不良馬場の中で行われたベイビューH(D7F)も146ポンドを背負いながらも、オーモンデスライトを3着に破って勝利。フライトS(D7F)でも勝利を収めた。前年2着だったフォールH(D6F)では、前年のベルモントフューチュリティSを勝っていたオーモンド産駒のオーモンデールが挑んできたが、本馬がオーモンデールを3着に退けて勝利した。前年2着だったコニーアイランドH(D6F)では、この年のケンタッキーオークス馬キングズドーター、プリンスハンブルグの2頭に後れを取って、キングズドーターの3着だった。リッチモンドH(D6F)では、オックスフォードの3着だった。5歳時は22戦11勝2着5回3着3回の成績を残した。
競走生活(6~8歳時)
6歳時に出走したブライトンビーチ競馬場ダート6ハロンのハンデ競走では、2着馬より60ポンドも重い146ポンドを背負いながらコースレコードに迫るタイムで走破して2馬身差で勝利。連覇を目指したカーターH(D7F)ではグロリファイヤーの2着だったが、同じく連覇を目指したフライトS(D7F)では、後のロングアイランドHの勝ち馬ファーウエストを2着に破って勝利。メトロポリタンH(D8F)では、グロリファイヤーの3着だった。6歳時は14戦7勝2着4回3着2回の成績を残した。
7歳になるとさすがに列車速度が落ち始め、積載される貨物量も少しずつ減っていき、この年は26戦9勝2着5回3着4回の成績に留まり、着外8回は4~6歳時における合計回数7回より多かった。3年ぶりの勝利を狙ったクレアモントH(D6.5F)では、プリスシリアンの3着に敗れている。コニーアイランドH(D6F)では、ドリーマー、この年のメトロポリタンH・カーターH・クイーンズカウンティHなどを勝ち、本馬に代わって米国短距離路線のトップホースになるジャックアトキンの2頭に屈して、ドリーマーの3着に終わった。
8歳時も現役を続けた。この年は米国西海岸にも遠征してサンタアニタパーク競馬場でスピードH(D6F)に出走したが、この年のメトロポリタンH・ブルックリンH・カリフォルニアH・トロントカップH・オーシャンH・オムニウムHなどを勝って米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる4歳馬キングジェームズ(前年までにコリンやフェアプレイと戦い続けて実力を磨いていた)の2着に敗れた。この年最後のレースとなったクレーミング競走において腱を故障して2着に敗退。当時の記録には「ゴールしてすぐに列車が急停車するかのように急激に減速した」とある。不幸中の幸いで生命には大事なかったが、8歳時10戦3勝2着4回の成績で競走馬引退となった。
本馬は出走した111戦中86戦でトップハンデを課せられた。59戦で130ポンド以上を背負って走り、そのうち29戦は140ポンド以上だった。140ポンド以上を背負って勝つ事14回。144ポンド、146ポンド、147ポンドを背負って勝った事があり、150ポンドを背負って2着に入った事もある。大型の馬は斤量に強いと言われるが、それでもこれだけの重量を背負って、しかも故障する事も無く走り続けた(大型の馬は脚部不安に悩まされやすいと言われる)というのは並の馬に出来る芸当ではない事は間違いないだろう。
本馬の主戦場はステークス競走ではなく、“overnighters”と呼ばれるハンデ競走だった。この“overnighters”はレース前日に斤量が決定され、レース発走時刻の1時間前までに実際に出走するかどうかを馬主側が決定する事が出来るものだった。出走の可否を検討するために一夜の猶予が与えられた事からこの名称が付いていた。当時の短距離路線にはステークス競走が少なく、“overnighters”が短距離路線の中核をなしていた。本馬がやたらと重い斤量を課せられたのは“overnighters”を主に走ったからでもあるが、どんなに重い斤量が課されても陣営は本馬を回避させずにそのまま出走させた。短距離競走の格が低かった時期の活躍馬であるためか、米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選からは残念ながら漏れているが、本馬がパンザレタと並んで20世紀初頭における米国最強短距離馬である事は間違いないだろう。
血統
Ben Strome | Bend Or | Doncaster | Stockwell | The Baron |
Pocahontas | ||||
Marigold | Teddington | |||
Ratan Mare | ||||
Rouge Rose | Thormanby | Windhound | ||
Alice Hawthorn | ||||
Ellen Horne | Redshank | |||
Delhi | ||||
Strathfleet | Scottish Chief | Lord of the Isles | Touchstone | |
Fair Helen | ||||
Miss Ann | The Little Known | |||
Bay Missy | ||||
Masquerade | Lambourn | Loup Garou | ||
Pantaloon Mare | ||||
Burlesque | Touchstone | |||
Maid of Honor | ||||
Rose Leaf | Duke of Montrose | Waverly | Australian | West Australian |
Emilia | ||||
Cicily Jopson | Weatherbit | |||
Cestrea | ||||
Kelpie | Bonnie Scotland | Iago | ||
Queen Mary | ||||
Sister to Ruric | Sovereign | |||
Levity | ||||
Fulgurite | Thunderbolt | Stockwell | The Baron | |
Pocahontas | ||||
Cordelia | Red Deer | |||
Emilia | ||||
La Belle Jeanne | Weatherbit | Sheet Anchor | ||
Miss Letty | ||||
Miss Aldcroft | Ratan | |||
Actaeon Mare |
父ベンストロームはベンドア産駒の英国産馬で、競走馬としてのキャリアは不明(おそらく不出走)。米国に種牡馬として輸入され、1903年には北米首位種牡馬に輝くなど成功を収めた。
母ローズリーフも競走馬としてのキャリアは不明。近親には活躍馬がほぼ見当たらず、本馬の全姉ケンモアクイーンの牝系子孫が細々と21世紀まで続いてはいるが、特筆できるような馬は出ていない。→牝系:F36号族
母父デュークオブモントローズも競走馬としてのキャリアは不明。デュークオブモントローズの父ウェイバリーは初代英国三冠馬ウエストオーストラリアンの息子であるオーストラリアンの産駒。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、ニューヨーク州出身の上院議員ジェームズ・ワーズワース氏の娘の乗馬として余生を送った。本馬の引退時におけるワーズワース氏の年齢は33歳だったので、その娘はまだかなり幼かったはずである。しかし当時の競馬マスコミは「ローズベンは子猫のように温和であり、ワーズワース嬢が乗るのに何の問題も無い」という記事を掲載している。そう言えば、本馬の祖父ベンドアも非常に気性が良い馬であり、本馬の気性は祖父譲りだったのだろうか。もっとも、本馬の頑健さは脚部不安を抱えていたベンドアとは異なっている。1918年に17歳で他界し、1956年に米国競馬の殿堂入りを果たした。この前年に米国競馬の殿堂入りを初年度で果たした9頭は全て19世紀産まれの馬達であり、本馬は20世紀産まれの馬としては最も早く殿堂入りした馬の一頭である。