フィッシャーマン

和名:フィッシャーマン

英名:Fisherman

1853年生

鹿毛

父:ヘロン

母:メインブレス

母父:シートアンカー

英国を中心に平地競走で100戦以上を走りアスコット金杯2連覇などの成績を残し、輸出先の豪州で種牡馬として活躍した頑健な長距離馬

競走成績:2~6歳時に英仏で走り通算成績120戦70勝(入着回数は不明。異説あり)

19世紀英国平地競走馬における100戦馬

19世紀から20世紀前半の米国競馬界にかけては、100戦以上を走ったチャンピオン級の競走馬が複数おり、この名馬列伝集でも、キングストンローズベンパンザレタエクスターミネータースタイミーといった該当馬を紹介している。しかし英国においては100戦以上を走ったチャンピオン級の競走馬というのは珍しく、障害競走で活躍したレッドラムを除けば、本馬くらいしか思い当たらない。19世紀英国競馬界における最も偉大な馬の1頭に数えられる存在なのだが、その詳しい競走成績に関しては実はよく分かっていない。走ったレース数にしても、119戦、120戦、121戦、果ては136戦など複数の説があり、どれが最も事実に近いのかは判断不能である。筆者は数多い海外の資料の中でも信憑性が高いと判断できる“Thoroughbred Heritage”に載っていた120戦説を採用したが、確証があるわけではない。勝ち星に関してはほぼ全ての資料で70勝になっているからこれは間違いないようだが、2着や3着の回数などは良く分からない。しかし仮に136戦説を採用しても、70勝はその半分以上の数値であり、これだけ走って勝率5割以上というのは凄い事である。本馬は7歳時には種牡馬入りしており(種牡馬と競走馬の二足の草鞋を履いていた事は無いようである)、2歳から6歳までの5年弱でこれだけのレース数をこなしたことになる。1番多い年には35戦して21勝を挙げたと言われている。1か月平均3回出走であり、本馬が競馬場に姿を現さない週のほうが少なかった。

誕生からデビュー前まで

本馬の生産者はファウラー氏という人物である。最初の所有者はJ・B・スターキー氏という人物で、1度目のアスコット金杯制覇と2度目のアスコット金杯制覇の間にF・ヒギンズ氏という人物に所有者が変わっているが、どういった経緯によりファウラー氏からスターキー氏の手を経てヒギンズ氏の所有馬になったのかは分からない。管理調教師は一貫してT・パー師だったようである。

競走生活(2~4歳時)

競走馬デビューは2歳時であるが、2歳戦ではこれといった成績を残していないようである。3歳時から著名競走にもその名が出てくるようになるが、本馬が出走したレースの大半は名もなき下級競走であったらしく(そうでなければ年間35戦もすることは出来ない)、著名競走への出走歴は少ない。クイーンズプレートを26勝しているらしいが、このクイーンズプレートは加国最大の競走であるクイーンズプレートと名称は同じでも立ち位置は全く異なり、当時の英国ヴィクトリア女王に敬意を表して色々な競走をそう呼称したものであるようだから、米国のアロウワンス(一般競走)や日本のオープン特別と似た立ち位置であり、著名競走では無い。

3歳時にはアスコットゴールドヴァーズ(T16F)を勝っている。4歳時にはグッドウッドC(T21F)に出走しているが、仏2000ギニー・仏ダービー・カドラン賞を勝って仏国から遠征してきた5歳馬モナルクの3着に敗れた。しかし斤量はモナルクの121ポンドに対して本馬は127ポンドだったし、2着になったアイスバーという3歳牡馬は100ポンドしか無かった事、後にシザレウィッチH・グレートヨークシャーHを勝つプライオレスなどには先着している事は特記しておくべきであろう。このグッドウッドCの前に仏国に遠征して出走したアンプルール賞では、モナルクを着外に破って勝利している。また、この年にはグッドウッドS(T20F)というレースにも出走しているが、後に米国の大種牡馬となるリーミントンに敗れた。その後に出走したクイーンズプレートでは、リーミントンを破って勝利している。

競走生活(5・6歳時)

5歳時にもアスコットゴールドヴァーズ(T16F)に出走しているが、ここでは3歳牡馬セドバリーの首差2着に惜敗した。しかしアスコット金杯(T20F)では、ジョン・ウェルズ騎手を鞍上に、単勝オッズ2.75倍の1番人気に応えて、前年の同競走3着馬サウンテラーを1馬身半差の2着に破って勝利した。同年にはグッドウッドC(T21F)にも再挑戦しているが、この年の仏ダービー馬ヴェントレサングリには先着するも、サウンテラーにアスコット金杯の借りを返されて2着に敗れた。この5歳時にはヨーク競馬場でエボアH(T14F)にも出走しているが、前年の英2000ギニー・ドンカスターCを勝っていたヴェデット、グレートヨークシャーS・グレートノーザンHの勝ち馬で英オークス3着の3歳牝馬タンストールメイドの2頭に後れを取り、ヴェデットの3着に敗れている。ドンカスターC(T20F)でもヴェデットの着外に敗れている。

6歳時にはチェスターC(T18F)に出走したが、12ポンドのハンデを与えたリーミントンの着外に敗れた。しかしアスコット金杯(T20F)では、今度はW・クレスウェル騎手とコンビを組み、サウンテラーを2年連続の2着に破って勝利。1825年のビザーレ、1837年のタッチストン、1845年のジエンペラー、1848年のザヒーローに次ぐ史上5頭目の同競走2連覇を達成した。もっとも、サウンテラーはレース中に故障していた模様(生命には大事なく種牡馬入りしている)である。この6歳時を限りに競走馬を引退した。

本馬は良く言えばすらりとした、悪く言えば細くてひょろ長い脚の持ち主だった。身体は角ばっており、あまり見栄えが良い馬では無かったらしい。しかし脚が細い割には驚くほど頑健であり、しかも気性は素直だったと伝えられている。馬の絵を描かせれば当代随一と言われた画家のジョン・フレデリック・ヘリング・シニア氏は、本馬が後に英国を去って豪州に向かうことが決まると本馬の元を訪れてその肖像画を描いた。現在も残るその肖像画を見る限りでは、確かに脚は細いが湾曲などの欠点は無く、首と胴体は細長くて、いかにも長距離馬という体型をしている。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第27位にランクインした。

血統

Heron Bustard Castrel Buzzard Woodpecker
Misfortune
Alexander Mare Alexander
Highflyer Mare
Miss Hap Shuttle Young Marske
Vauxhall Snap Mare
Sister to Haphazard Sir Peter Teazle
Miss Hervey
Orville Mare Orville Beningbrough King Fergus
Fenwick's Herod Mare
Evelina Highflyer
Termagant
Rosanne Dick Andrews Joe Andrews
Highflyer Mare
Rosette Beningbrough
Rosamond
Mainbrace Sheet Anchor Lottery Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Mandane Pot-8-o's
Young Camilla
Morgiana Muley Orville
Eleanor
Miss Stephenson Sorcerer
Precipitate Mare
Bay Middleton Mare Bay Middleton Sultan Selim
Bacchante
Cobweb Phantom
Filagree
Nitocris  Whisker Waxy
Penelope
Manuella Dick Andrews
Mandane

父ヘロンは、ウォルヴァーハンプトンS・レミントンS・ブレットビーC・リヴァプールC・リッチフィールド金杯など17勝を挙げている。ヘロンの父バスタードの競走馬としての経歴は不明。バスタードの父キャストレルは、1814年の英首位種牡馬セリム、1815・21・22年の英首位種牡馬ルーベンスの全兄だが、種牡馬としての成績は弟2頭に遠く及ばなかった。キャストレルの父はバザードで、さらにウッドペッカー、ヘロドへと繋がる血統である。

母メインブレスの競走馬としての経歴は不明。母としては、本馬の半妹ピアレス(父ニューミンスター)【ナッソーS】も産んでいる。本馬の半妹メインステイ(父ペパーミント)は豪州に繁殖牝馬として輸入され、パラダイス【AJCサイアーズプロデュースS】を産んだ。パラダイスは、後述する本馬の娘シルヴィアの息子である豪州の種牡馬ゴールズブロウとの間にペトロネル【クイーンズランドダービー】を産んだが、この牝系はそれ以上発展しなかった。

メインブレスの母ベイミドルトンメアの半妹バースデイの牝系子孫からは、デローニー【キングズスタンドプレート・ジュライC】、ジョーマッデン【ベルモントS】、ランピオン【AJCサイアーズプロデュースS・豪シャンペンS・コーフィールドギニー・AJCダービー・ヴィクトリアダービー】、プレシジョニスト【BCスプリント(米GⅠ)・スワップスS(米GⅠ)・サンフェルナンドS(米GⅠ)・チャールズHストラブS(米GⅠ)・カリフォルニアンS(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)】、日本で走ったジャングルポケット【東京優駿(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)】などが出ている。

ベイミドルトンメアの母ニトクリスの全兄にはメムノン【英セントレジャー・アスコット金杯】がいる他、ニトクリスの全姉マルジェリーナの牝系子孫からはキングクラフト【英ダービー】、エンタープライズ【英2000ギニー】、ウォーアドミラル【ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ピムリコスペシャルS・ワイドナーH・ホイットニーS・ジョッキークラブ金杯】、エイトサーティ【トラヴァーズS・ホイットニーS・サバーバンH・メトロポリタンH】、シーダーキー【ドンH・サンフアンカピストラーノ招待H・サンルイレイS2回】、ボールドアワー【ホープフルS・ベルモントフューチュリティS・エイモリーLハスケルH】、ゼダーン【仏2000ギニー・イスパーン賞・ロベールパパン賞】、ストップザミュージック【サラトガスペシャルS・シャンペンS】、ハチェットマン【ワイドナーH(米GⅠ)・エイモリーLハスケルH(米GⅠ)】、アシュカラニ【仏2000ギニー(仏GⅠ)・ムーランドロンシャン賞(仏GⅠ)】、ヤンクスミュージック【マザーグースS(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)・ラフィアンH(米GⅠ)・ベルデイムS(米GⅠ)】などが出ている。

ニトクリスの母マニュエラは1812年の英オークス馬。マニュエラの全妹にはアルティシドラ【英セントレジャー】がおり、アルティシドラの孫にはラルフ【英2000ギニー・アスコット金杯】がいる。→牝系:F11号族①

母父シートアンカーは英セントレジャー3着馬。遡ると、ドンカスターCの勝ち馬ロタリー、トランプ、ディックアンドリューズ、ジョーアンドリューズを経て、エクリプスに行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、7歳時の1860年に英国で種牡馬入りした。この年の繁殖シーズン終了後に、ハートル・フィッシャー氏という人物により3千ギニーで購入された。フィッシャー氏は本馬を豪州に連れていき、自身がヴィクトリア州に所有していたマリビアノングスタッドで同年の11月から種牡馬入りさせた。豪州に英国から種牡馬が導入される事自体は当時から特に珍しくは無かったが、本馬のような大物競走馬の導入はさすがに珍しく、地元ではかなりの注目を集めたようである。しかし本馬は1865年6月に12歳で早世してしまった。

豪州で残した産駒は4世代36頭のみだったが、その中から10頭のステークスウイナーを登場させた。産駒のステークス競走勝利数は27、ステークスウイナー率は実に27.8%(いずれも英国産馬は含まず)であり、種牡馬としては素晴らしかったと評価されている。

後世に与えた影響

後継種牡馬としては、アングラーとマリビアノングの2頭が成功した。特にマリビアノングの種牡馬成績は素晴らしく、父を大きく上回る数のステークスウイナーを出した。アングラーにはロビンソンクルーソー、マリビアノングにはリッチモンドという有力後継種牡馬が出て、本馬の直系は19世紀末まで豪州で大きく繁栄したが、20世紀に入ると衰退して、いずれも直系としては姿を消した。それでも本馬の血は母系の中に生き残り、現在まで続いている。例えば本馬の娘シルヴィアの牝系子孫からは数え切れないほどの数のオセアニアの活躍馬が出ており、サイレントウィットネスソーユーシンクもシルヴィアの牝系出身馬である。桜花賞馬ナスノカオリ、優駿牝馬の勝ち馬ナスノチグサ、阪神三歳Sの勝ち馬ラフオンテース、ジャパンC馬マーベラスクラウンなどもシルヴィアの牝系出身馬であり、本馬の血は日本にも無縁ではない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1862

Angler

ヴィクトリアダービー

1862

Lady Heron

VRCアスコットヴェイルS・VRCクラウンオークス

1863

Fishhook

AJCシャンペンS・AJCクイーンズプレート・AJCシドニーC

1863

Sea Gull

VRCアスコットヴェイルS・VRCクラウンオークス・ヴィクトリアダービー

1864

Sour Grapes

VRCアスコットヴェイルS

1864

Sylvia

VRCクラウンオークス

1865

Fenella

VRCアスコットヴェイルS・AJCシャンペンS

1865

Gasworks

VRCオーストラリアンC

1865

My Dream

VRCクラウンオークス・ヴィクトリアダービー

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