ノーフォーク

和名:ノーフォーク

英名:Norfolk

1861年生

鹿毛

父:レキシントン

母:ノーヴィス

母父:グレンコー

ロディとのマッチレースで知られる米国の大種牡馬レキシントンの最高傑作の一頭で父の血を後世に伝える原動力となる

競走成績:3・4歳時に米で走り通算成績5戦5勝

19世紀後半の米国競馬界においては、父レキシントンと母父グレンコーの組み合わせで誕生した馬が数多く活躍したが、その中でも最高傑作と言えるのが本馬である。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州スプリングステーションのウッドバーンファームにおいて、父レキシントンを種牡馬として購入し繋養していたロバート・A・アレクサンダー氏により生産された。金色に輝く赤っぽい鹿毛(この表現なら栗毛に近い気がするが「鹿毛」と記載されている)と、額に不思議な形の大きな流星を有した馬だった。父レキシントンに似てバランスが取れた馬体の持ち主で、すらりとした理想的な角度の脚と、少々長すぎるのではとも思えるほどの大砲骨を有しており、いかにも競走馬として優れているように見えたという。

2歳時に本馬と同じ父レキシントンと母父グレンコーの組み合わせで誕生したアステロイドと一緒に価格設定された。その価格は本馬が800ドルで、アステロイドは1000ドルだった。アステロイドのほうが高値だったのは、アステロイドの祖母ブルーボンネットが優れた繁殖牝馬で、活躍馬を多く出していたためだったらしい。なお、アステロイドも現役成績12戦全勝で本馬と同じく生涯無敗馬となっている。

競走生活(カリフォルニア州に移るまで)

アレクサンダー氏所有のまま3歳5月にミズーリ州セントルイス(当時は南北戦争が激化していたが、セントルイスは戦場から離れていた)で行われたレースでデビューした。レース当日午前に行われた練習で軽快な走りを披露して人気を集め、レースでもその期待を裏切らずに快勝した。このレースの後、アレクサンダー氏は本馬の価格を1万5千1ドルまで値上げした。この半端な価格は、アレクサンダー氏が本馬の父レキシントンを購入した価格1万5千ドルより高い価格として設定されたものである。レキシントンを高額で買ったアレクサンダー氏を嘲笑する人々に対して、アレクサンダー氏はレキシントン産駒をそれより高い価格で売ってみせると豪語しており、それを本馬で実現しようとしたという逸話がある。

この後、本馬はカリフォルニア州のウインターズ・マルガレッタ氏を代表とするグループにより共同購入された。当時カリフォルニア州ではロディという馬が活躍しており、ロディの所有者だったC・H・ブライアン氏と競馬だけでなく商売や政治の面でも敵対していたマルガレッタ氏がロディを負かすために購入したそうである。もっとも、本馬はすぐにカリフォルニア州に移動したわけではなく、既に東部の重要なレースのいくつかに出走する約束がされていたため、マルガレッタ氏の判断により当面は東部に留まった。

まずは6月7日にニュージャージー州で行われたダービー(D12F)に出走した。米国で「ダービー」の名が冠されたレースが施行されたのはこれが初めてだったから、このときのレース名は単に「ダービー」だったが、後に米国各州でダービーが施行されるようになると、このレースはジャージーダービーと呼称されるようになった。このレースではやはり父レキシントンと母父グレンコーの組み合わせだった当時無敗のケンタッキーとの対戦となったが、本馬が2着となった後のトラヴァーズS2着馬ティペラリーや3着イーグルなど他の出走馬11頭を一蹴して快勝し、ケンタッキーは4着に終わった。

続いてサラトガ競馬場に向かい、第1回トラヴァーズSやケナーSに出走する予定だったが、サラトガ競馬協会により本馬の出走登録は無効にされてしまった。その理由は、本馬の共同馬主の一人であるジェームズ・イーオフ氏が、「マルガレッタ氏は、ノーフォークはジャージーダービーに出走せずにカリフォルニアに向かうと噂を広げて、多くの人々にケンタッキーに賭けさせ、自分はノーフォークに賭けて大金を得た」という噂を広めたためとされているが真相は不明である。結局本馬が出走できなかったこの2レースはいずれもケンタッキーが制している。ケンタッキーの共同所有者の一人はサラトガ競馬場の初代場長だったウィリアム・R・トラヴァーズ氏であり、筆者はややきな臭さを感じるのだが証拠は無い。もっとも、最終的にケンタッキーは23戦21勝の成績を残す事になり、この時代を代表する強豪馬であった事は事実である。

その後も本馬は東部の大レースに出走する事を禁止されたため、7月に本馬は調教師のジョージ・ライス師と担当厩務員のディック・ハーヴェイ氏と一緒にパナマ地峡を通ってカリフォルニア州に移動するべく出発した。長旅の末にサンフランシスコに到着した本馬はマルガレッタ氏が購入したアロヨ牧場においてしばらく休養を取ったが、この休養中も本馬の様子を見に来る客が数多くいた。それは、実力馬の誉れ高かった本馬を一目見たいというだけではなく、当時既に本馬とロディのマッチレースの噂が流れており、本馬の状態を見ようとする者が多かったためである。

ロディとのマッチレース

この噂は事実で、2頭のマッチレースは翌年5月23日に2マイルのヒート競走として行われた。賞金5千ドルと破格だったこのレースで人気を集めたのは本馬の方だった。ロディ陣営はこのレースのために東部からギルパトリックという名前の騎手を呼び寄せていた。対する本馬には厩務員のハーヴェイ氏が騎乗したが、彼は1マイルを超える距離のレースに騎乗した経験が無かった。また、斤量は本馬が10ポンド重かった。しかし本馬は1戦目を頭差で制すると2戦目も楽勝してこのマッチレースに勝利した。

しかしロディの支持者達が、馬場状態が乾燥して堅過ぎたとクレームをつけた事や、2頭のマッチレースが非常に盛り上がった事もあり、さらに2頭の対戦が9月にサクラメントで2度組まれる事になった。1度目は賞金1000ドルの2マイルヒート競走で、2度目はその6日後に行われる賞金2千ドルの3マイルヒート競走だった。

最初のヒート競走には他馬も参戦予定があったらしいが、結局2頭立てとなった。2頭の以前の対戦と同様に斤量は本馬が10ポンド重く設定された。1戦目ではハーヴェイ騎手の制御を振り切った本馬が最初の1マイルを1分45秒という当時のカリフォルニアレコードで通過し、道中は3馬身のリードを奪った。その後ロディが猛然と追ってきて、一時期は首差まで迫られたが、ここからハーヴェイ騎手が仕掛けると本馬が差を1~2馬身差程度に広げて、そのまま3分37秒6の全米レコードで勝利した。2戦目では最初の1マイルを1分46秒で通過した本馬がそのまま3分38秒25で駆け抜けて3馬身差で勝利し、2連勝でこのヒート競走を制した。しかし本馬は裂蹄を発症してしまい、6日後の競走までに完治しなかった。

しかし1万2千人の群集が詰め掛けた3度目のマッチレースに本馬の姿はあった。1戦目では本馬が5分27秒5という全米レコードで駆け抜けて勝利した。さらに2戦目でも本馬が5分29秒5で駆け抜けて勝利した。3マイルのヒート競走において2戦とも5分30秒を切るタイムで勝ったのは本馬が史上唯一である。もっともロディは、1戦目は2馬身差以内、2戦目は1馬身差以内までに詰め寄っており、本馬は決して楽勝という訳にはいかず、全力疾走した本馬の蹄は完全に割れて2戦目は出血しながら走っていた。そのためこれが本馬の現役最後のレースとなった。

血統

Lexington Boston Timoleon Sir Archy Diomed
Castianira
Saltram Mare Saltram
Symes Wildair Mare 
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel Diomed
Atkinsons Shark Mare
Alderman Mare Alderman 
Clockfast Mare
Alice Carneal Sarpedon Emilius Orville
Emily
Icaria The Flyer
Parma
Rowena Sumpter Sir Archy
Robin Redbreast Mare
Lady Grey Robin Grey
Maria 
Novice Glencoe Sultan Selim Buzzard
Alexander Mare
Bacchante Williamson's Ditto
Mercury Mare
Trampoline Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Web Waxy
Penelope
Chloe Anderson Rodolph Sir Archy Montorio  Sir Archy
Transport
Haxall's Moses Mare Haxall's Moses
Whip Mare
Belle Anderson  Sir William of Transport Sir Archy
Transport
Butterfly Sumpter
Buzzard Mare

レキシントンは当馬の項を参照。

母ノーヴィスはアレクサンダー氏が馬産に関わるようになって最初に生産した馬の一頭で、かなり優秀なスピードを持った馬だったようで、勝ち星も挙げているが、4歳時に早々に繁殖入りしている。繁殖牝馬としては19頭の産駒を産んでいる。その中で特筆すべき産駒を何頭か挙げてみる。まずは本馬の全兄に当たる初子の騸馬ノートンで、生産者のアレキサンダース氏をして「かつて欧米のレースを見た中で最も速い馬」と言わしめた。次が本馬の全弟ニューリーで、カリフォルニアダービーを勝っている。次は本馬の全妹ザナンである。ザナンがグレネルグとの間に産んだ牝駒シスターアンは、アメリカンダービーやサラトガCに勝つなど84戦35勝の成績を挙げたヴォランテの母となった。さらにシスターアンの1歳年上の全姉であるクララディーは、ガゼルHを勝ったウィノナを産んだだけでなく、本馬の息子エンペラーオブノーフォークとの間にアメリカスを産んだ。アメリカスはムムタズマハルの祖母アメリカスガールの父となっている。次が本馬の全妹ノーティスで、末裔に1945年のクラークHを勝ったセンチメントセイクを出したが、牝系はそれ以上伸びなかった。最後が本馬の半妹ノータブル(父プラネット)で、末裔に1918年のキングズプレート(現クイーンズプレート)を勝ったスプリングサイドが出たが、こちらも牝系はそれ以上伸びなかった。→牝系:A2号族

母父グレンコーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はマルガレッタ氏所有のままカリフォルニア州に留まり、翌5歳時からアロヨ牧場で種牡馬生活を開始し、晩年はリオ牧場で種牡馬生活を続けた。本馬は当時におけるカリフォルニア州繋養種牡馬としてはトップクラスの成績を収め、産駒は東部でも活躍した。本馬の産駒を東部に送りやすいように、本馬が繋養された2つの牧場の所在地は東部への交通の便が良いサクラメントだった。また、マルガレッタ氏はネバダ州にもシエラ牧場を所有しており、本馬はそこでも種付けを行い、カリフォルニア州とネバダ州を行き来する生活だったという。

種牡馬になった後も本馬の大衆人気は高く、しばしばパレードに参加しており、繋養先にはファンの来訪が絶えなかった。また、種牡馬入り後も運動代わりに野兎狩りに出ており、若い頃と比べても引けを取らないほどのスピードで野兎を追い立てていたという。そのため歳をとっても若々しい馬体を保ち続けたという。そのためかどうかは分からないが、本馬の種牡馬成績は晩年になっても衰えず、本馬の最高傑作と言われる米国顕彰馬エンペラーオブノーフォークと7戦全勝のエルリオレイの2頭はいずれも晩年の産駒だった(エンペラーオブノーフォークは1885年産まれ、エルリオレイは1887年産まれで、1861年産まれの本馬との歳の差は相当なものである)。

しかしさすがにエルリオレイが産まれた頃には本馬にも老いが忍び寄っており、繁殖牝馬の数はかなり制限されており、受精率も下がっていた。1887年は6頭の牝馬と53回交配してようやく6頭とも受胎するという状況で、翌1888年は4頭の牝馬と交配して全て不受胎だった。1890年11月に本馬はリオ牧場において29歳で他界。遺体は大きな樫の木の下に埋葬され、墓石には“Norfolk Unbeaten 1861-1890(無敗のノーフォーク、1861年生まれで1890年に死去)”と記載された。

本馬の死後もリオ牧場は本馬の産駒エルリオレイなどが種牡馬として活躍した事により繁栄し、既にレースから撤退して馬産に専念していたマルガレッタ氏を支え続けた。しかしマルガレッタ氏が死去すると、リオ牧場はサクラメント市に購入され、飛行場とその周辺の商業及び住宅地として開発された。本馬の直系も長持ちはせず、やがて途絶えてしまった。しかし前述のとおりエンペラーオブノーフォーク産駒のアメリカスからアメリカスガール、レディジョセフィン、ムムタズマハルを経て本馬の血は現在に受け継がれている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1872

Bradley

カリフォルニアダービー

1885

Emperor of Norfolk

アメリカンダービー・ブルックリンダービー

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