イスタブラク

和名:イスタブラク

英名:Istabraq

1992年生

鹿毛

父:サドラーズウェルズ

母:ベティズシークレット

母父:セクレタリアト

病魔に倒れた調教師の期待に応えてロイヤル&サンアライアンスノービスハードルを勝ち英チャンピオンハードル3連覇も果たした近年最も人気を博した障害競走馬

競走成績:2~10歳時に英愛で走り通算成績40戦25勝2着7回(うち障害29戦23勝2着3回)

誕生からデビュー前まで

ドバイのシェイク・ハムダン殿下率いるシャドウェルステーブルにより生産された愛国産馬で、ハムダン殿下の所有馬として、英国ジョン・H・M・ゴスデン調教師に預けられた。父が欧州に君臨する大種牡馬サドラーズウェルズ、半兄が英ダービー馬セクレトという血統背景から平地競走における活躍を期待されており、英ダービーが目標とされていた。

その期待を裏付けるように、アラビア語で「稲妻」を意味するイスタブラクと命名された(パキスタンのシンド州の公用語であるシンディー語で「ブロケード(色糸や金銀糸を多彩に使って浮き模様を織り出した織物)」を意味する言葉だとする資料もある)。

母ベティズシークレットは他の繁殖牝馬に対して攻撃を仕掛けるほど気性が激しい馬だったが、本馬にはそうした気性の激しさは見られなかった。ただ、内向的な性格だったのか、他の若馬から離れて一頭で過ごすのを好んだという。血統的には期待されていたが、幼少期からそれほど速さを感じさせる馬ではなかったようである。

競走生活(平地競走時代)

2歳11月にドンカスター競馬場で行われた芝7ハロンの未勝利ステークスでデビューした。単勝オッズ9倍の4番人気だったが、スタートでまったく行き脚が付かず、それでもゴール前で追い上げてきたが、勝ったグランディネアから4馬身3/4差の8着に敗れ、2歳時の出走はこれだけだった。既にこの時点で陣営は、本馬は兄セクレトのように英ダービーに出走できるような馬ではないことを把握していたようである。

3歳時は4月にケンプトンパーク競馬場で行われた芝10ハロンの未勝利ステークスから始動。主戦となるウィリー・カーソン騎手を鞍上に迎えた本馬は、単勝オッズ11倍の5番人気だった。前走とは異なり序盤から逃げ馬を積極的に追いかけたが、レース終盤に失速して、勝ったリヤディアンから16馬身差の12着に敗れた。

次走のチェスター競馬場芝10.5ハロンの未勝利ステークスでは、単勝オッズ12倍の6番人気で、何の見せ場も無く後方のまま、勝ったロイヤルソロから16馬身差の8着に沈み、その後しばらく休養入りした。

7月末のジフレモンH(T12F)で復帰した。132ポンドのトップハンデを背負いながらも、単勝オッズ5倍の2番人気に推された。ここでは先行して早めに先頭に立ったが、ゴール前でシルクテイルに差されて1馬身半差の2着だった。

次走ソールズベリー競馬場芝14ハロンの未勝利ステークスでは、単勝オッズ1.83倍の1番人気に支持された。ここでは好位を追走して残り1ハロン地点で先頭に立ち、2着ディキシーメロディに2馬身半差をつけて、ようやく初勝利を挙げた。

その後はハンデ競走路線を進み、バトリーズキャッシュ&キャリーH(T13F194Y)に出走。単勝オッズ8.5倍の4番人気となった。レースではスタートして間もなく先頭に立ち、そのまま押し切りを図ったが、ゴール前で後方から来た単勝オッズ4倍の1番人気馬セレリックに競り負けて、頭差の2着に惜敗した。なお、勝ったセレリックは後にアスコット金杯・ジョッキークラブC・ヨークシャーCなどに勝つ名長距離馬となる。

次走のロックステディセキュリティH(T15F)では、133ポンドのトップハンデが課されたが、それでも単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。ここではレース中盤で先頭に立つと、そのままゴールまで押し切り、2着バウンダリーエクスプレスに2馬身半差で勝利した。

次走のゴードンカーターH(T16F45Y)では単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持された。しかしここでは最初から最後まで後方のまま、勝ったフジヤマクレストから22馬身差の11着と大敗を喫した。

次走のヴォーダフォングループH(T16F)では単勝オッズ5倍の2番人気となった。スタートから順調に先頭を走ったが、ゴール前でエンヴァカンスに差されて首差の2着だった。

次走のコーライトドラゴンH(T16F110Y)では、131ポンドを背負って単勝オッズ5.5倍の2番人気となった。スタート直後は先頭だったのだが、しばらくして後退していき、勝ったメリットから15馬身半差の10着と振るわなかった。

3歳時を9戦2勝で終えたこの年の本馬に7回騎乗した名手カーソン騎手は、本馬について何も感銘を受けなかったそうで、単なる遅い馬という印象しか抱かなかったという。また、本馬は産まれつき偏平足だったため、装蹄が困難であり、3歳シーズン終了時期には裂蹄に悩まされていたようである。

4歳時は6月のペニーレーンH(T14F)から始動した。136ポンドという厳しい斤量となったが、単勝オッズ5.5倍の2番人気だった。結果は逃げてゴール前で捕まり、ツルゲーネフの1馬身差2着に敗れた。ここで陣営は本馬に見切りをつけて売却する事を決定した。

障害競走へ転向

この頃、ゴスデン師の調教助手にジョン・ダーカン氏という人物がいた。アマチュア騎手の経験もあったダーカン氏は、ゴスデン師の元から独立して厩舎を開業する事を考えていた。ダーカン氏は本馬の走りを見て、この馬は障害競走馬としての素質があり、英国障害競走の祭典チェルトナムフェスティバルで行われるロイヤル&サンアライアンスノービスハードルも勝てる器であると考えていた。本馬がタタソールズ社のニューマーケットジュライセールに出されると聞いたダーカン氏は、愛国の有力馬主であるジョン・パトリック・マクマナス氏に本馬を所有するよう薦めた。ダーカン氏の義父ティミー・ハイド氏により3万8千ギニーで購入された本馬はマクマナス氏の所有馬となり、障害競走馬として安定した活躍をするために去勢されて騙馬となった。

そしてゴスデン師の元から独立して愛国に厩舎を構え、本馬の調教を開始したダーカン師だったが、10月頃に彼は体調不良を訴えて医師の診察を受けた。診断結果は急性骨髄性白血病だった。ダーカン師は調教を行うどころではなくなり、自分の病気が治るまでの間という約束で、友人であるエイダン・パトリック・オブライエン調教師に本馬の調教を依頼した。後に世界一の平地調教師となるオブライエン師だが、この頃は障害調教師として活躍していた。オブライエン師に本馬を委ねたダーカン師は、ニューヨークにある世界有数の癌病院であるメモリアルスローンケタリング癌センターで闘病生活を送る事になった。

ダーカン師とオブライエン師の調教を受けた本馬は、すぐに障害競走馬としての才能を開花させていた。本馬の障害レース全てに騎乗することになるチャーリー・スワン騎手は、「飛越の際に尻込みも躊躇もしない。驚くほどに産まれつきの飛越の天才だった」と本馬の印象を語っている。

競走生活(96/97シーズン)

4歳11月にパンチェスタウン競馬場で行われたロックスレストランノービスハードル(16F)で障害競走デビューを果たした。前走の障害GⅠ競走チャンピオンINHフラットレースを勝ってきたノーブルサインが単勝オッズ1.8倍の断然人気に支持され、本馬は単勝オッズ2.5倍の2番人気となった。オブライエン師はスワン騎手に「レースは楽しいものだと馬に思わせる必要がある。そのため最初は抑え気味に走らせ、最後に前方の馬を抜き去るレースをするように」と指示を出した。最終障害を越えるまでは予定どおりだったが、先頭に立って気を抜いたところをノーブルサインに差されて短頭差2着に敗れた。

しかし陣営はこのレース内容に満足し、次走としてロイヤルボンドノービスハードル(愛GⅠ・16F)を選択した。前走で敗れたノーブルサインや3連勝中のパレットを差し置いて、単勝オッズ2.375倍の1番人気に支持された。スタートしてしばらくは前方を走っていたが徐々に位置取りを下げて5番手に落ち着いた。そして残り3ハロン地点でスパートすると、最終障害で躓きながらも先頭に立ち、2着パレットに1馬身差をつけて、障害初勝利をGⅠ競走でマークした。

年末のファーストチョイスノービスハードル(愛GⅢ・18F)では、単勝オッズ1.3倍という圧倒的な1番人気に支持された。そして2着パレットに1馬身差で勝利した。

年明け2月のデロイト&トウシュノービスハードル(愛GⅡ・18F)では、単勝オッズ1.36倍の1番人気だった。ここでは最初から後方待機策を採り、レース終盤でパレットを置き去りにして追い上げてきた。最後から2番目の障害で躓いてしまったが、最終障害を飛越すると先頭のフィンネガンズホロウに並びかけ、叩き合いを頭差で制した。これらのレースは、一時的に帰国していたダーカン師も生で観戦しており、自分の見立て通りに本馬が活躍する姿を見た彼は、病気に打ち勝つ決意を新たにしたという。

そして本馬は英国に移動してチェルトナムフェスティバルに参戦し、ダーカン師が勝てると予言していたロイヤル&サンアライアンスノービスハードル(英GⅠ・21F)に出走した。翌日に骨髄移植の手術を控えていたダーカン師は、ニューヨークで妻のキャロル夫人と共に、義父ハイド氏が持っていた携帯電話に耳を傾けてレースの状況を聞いていた。

単勝オッズ2.2倍の1番人気に推された本馬だったが、あまりの観衆の多さに怯えてパドックで焦れ込み、多量の発汗が見られた。ダーカン師は元々本馬には焦れ込む傾向があるとオブライエン師に忠告していたのだが、今までのレースではあまりそうした事は無く、これほど顕著に焦れ込んだのは初めてだった。陣営は処分覚悟で本馬を他馬に先んじてパドックから本コースに出すことにした(これはナショナルハントの規則で原則禁じられている)。スタートでも暴れて前に飛び出そうとしたために、出走馬の中で本馬のみ前方にテープが張られてフライングを阻止する必要があった。

こうして何とかスタートを切った本馬は、レース序盤は後方につけ、徐々に位置取りを上げていった。しかし途中の障害で何度か他馬と接触して落馬しそうになる危機に見舞われた。しかしスワン騎手の手綱捌きで何とか危機を乗り越え、本馬を含めて4頭が横一線先頭で直線を向いた。ここから叩き合いが始まったが、本馬が先頭で最終障害を飛越すると、食い下がるマイティモスを1馬身差の2着に抑えて見事に優勝し、愛国から来た応援団に取り囲まれて祝福を受けた。義父ハイド氏が持っていた携帯電話から漏れ聞こえてくるマクマナス氏、オブライエン師、スワン騎手の声にならない歓声を耳にしたダーカン師は安心して、翌日に骨髄移植の手術を受けた。

さらに本馬はスタンリークッカーチャンピオンノービスハードル(愛GⅠ・20F)に出走。単勝オッズ1.36倍の断然人気に応えて2着ソルダットに9馬身差をつける圧勝劇を演じ、96/97シーズンを締めくくった。

競走生活(97/98シーズン)

翌97/98シーズンの初戦は、本馬の馬主マクマナス氏の父親の名を冠したジョンジェームズマクマナス記念ハードル(16F)となった。このレースには愛チャンピオンハードルを勝っていたコックニーラッドという強敵も出走していた。しかし単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された本馬が、3番手追走から抜け出して後続馬をちぎり捨て、2着コックニーラッドに7馬身差をつけて圧勝した。

次走のハットンズグレイスハードル(愛GⅠ・20F)でもコックニーラッドとの対戦となったが、本馬が単勝オッズ1.33倍の断然人気に支持された。ここでも先行策から悠々と抜け出して、2着コックニーラッドに2馬身差で勝利した。

続くディセンバーフェスティヴァルハードル(愛GⅡ・16F)では、単勝オッズ1.17倍の断然人気となった。ここでは後方待機策からレース終盤で追い込み、2着パンチングピートに2馬身半差をつけて楽勝した。

しかしこの頃、骨髄移植の手術が失敗に終わったダーカン師の健康状態は悪化の一途を辿っており、回復の見込みが無くなったため、最後の日々を過ごすために愛国に戻ってきていた。ハットンズグレイスハードルに出走した本馬を競馬場で見たのが、彼が本馬を見た最後となった。

本馬は年明け1月25日にレパーズタウン競馬場で行われる愛国短距離ハードル界最大のレースである愛チャンピオンハードル(愛GⅠ・16F)に出走する事になった。しかしレースの4日前、ダーカン師は遂に息を引き取った。まだ31歳という若さだった。彼の葬式はレース前日にレパーズタウン競馬場最寄りの教会で執り行われた。

愛チャンピオンハードルの当日、過去の経緯を知っている観客が大勢集まり、本馬に勝ってほしいという彼らの気持ちが、レパーズタウン競馬場を異様な雰囲気に包ませた。単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された本馬は、ここでは無難に好位を追走。さすがに若干のプレッシャーがあったのか、障害で躓く場面もあったが、最後から2番目の障害で先頭に立つと、追いすがってきたヒズソングとの直線における叩き合いを1馬身半差で制して優勝した。

大観衆が涙ながらにジョン・ダーカンの頭文字である「J・D」コールを連呼する中、本馬の口取りをして表彰台に上がってトロフィーを授与されたのは、喪服姿のキャロル未亡人だった。オブライエン師は「私の勝利ではありません」と、表彰台には上がらなかった。喪服代わりに黒い腕章を装着してレースに臨んだスワン騎手はインタビューで「この勝利はジョンのためのものです」と語った。ダーカン師が亡くなったため、本馬は引退までそのままオブライエン師の元に留まることになった。

本馬は続いてチェルトナムフェスティバルに向かい、英国短距離ハードル界の最高峰である英チャンピオンハードル(英GⅠ・16F110Y)に参戦。単勝オッズ1.33倍の断然人気に支持された。レース前日に日頃無口なオブライエン師は、スワン騎手に「圧勝間違いなし」と伝えた。スワン騎手が「しかしチャンピオンハードルですよ」と応じると、オブライエン師は「それでもだ」と自信満々に答えた。結果はオブライエン師の見立て通りとなった。スタートから3番手につけた本馬は、レース中盤で位置取りを上げて先頭を奪うと、直線に入る前から後続を引き離し始め、2着となった同厩のシアターワールドに12馬身差をつけて圧勝した(ゴール前では完全に馬なりだった)。この着差は1932年のインシュランスと並ぶ同レース史上最大着差タイだった。

しかし次走のエイントリーハードル(英GⅠ・20F)は本馬の苦手な重馬場で行われた。マクマナス氏とオブライエン師は本馬を出走させるべきかどうか議論をかわしたが、結局マクマナス氏の決断により出走に踏み切った。単勝オッズ1.57倍の1番人気となった本馬は、最後方待機策からレース中盤で進出を開始。そして直線に入ると先頭のプライドウェル(前走の英チャンピオンハードルでは4着だった)との長い叩き合いとなった。最終障害ではいったん先頭に立ったのだが、ゴール前で差し返されて頭差2着に敗れ、連勝は10でストップした。それでも97/98シーズンは6戦5勝2着1回の見事な成績を収めた。

ハードルの有力馬の多くはやがてスティープルチェイスへと活躍の場を移すが、本馬はその後もハードル競走のみに出走し続けた。この時期、オブライエン師はクールモアグループの総裁ジョン・マグナー氏に手腕を認められ、引退したヴィンセント・オブライエン調教師の後継者としてバリードイル厩舎を引き継ぎ、障害から平地へと活躍の場をシフトしていったが、本馬のみは例外的に調教を継続した。また、調教師に転身することを考え始めていたスワン騎手も、障害競走における騎乗を制限するつもりでいたが、本馬の鞍上だけは誰にも譲らなかった。

競走生活(98/99シーズン)

98/99シーズンを迎えた本馬はしゃっくりが止まらなくなるという症状に見舞われたが、何とか克服して、11月のジョンジェームズマクマナス記念ハードル(16F)から始動。単勝オッズ1.29倍の1番人気に支持された。レースでは好位を追走し、途中の障害で躓く場面がありながらも、2着マスターベベルドに4馬身差をつけて楽勝した。

次走のハットンズグレイスハードル(愛GⅠ・20F)では、単勝オッズ1.2倍という圧倒的な1番人気に支持された。ここでは3番手の好位につけただのが、途中の障害で飛越に失敗したり、先頭に立った直後によれたりと、今ひとつスムーズなレース運びが出来なかった。ゴール前では前走の障害GⅡ競走モルジアナハードルを勝ってきた単勝オッズ6.5倍の2番人気馬ノーマディックに迫られたが、なんとか半馬身差で勝利を収めた。

次走のディセンバーフェスティヴァルハードル(愛GⅡ・16F)では僅か3頭立てとなった事もあり、単勝オッズ1.1倍の圧倒的1番人気に支持された。当初は2番手につけていたが、レース中盤で早々に先頭に立つと、2着シャンタリーニに8馬身差をつけて圧勝した。

そして迎えた愛チャンピオンハードル(愛GⅠ・16F)では、前年のロイヤル&サンアライアンスノービスハードルや前走の障害GⅠ競走クリスマスハードルを勝ってきたフレンチホリーが本馬に挑戦してきた。フレンチホリーを管理していたファーディー・マーフィー調教師は「イスタブラクなど恐れるに足らず」と豪語してレースに臨んだ。レースでは、単勝オッズ1.53倍の1番人気だった本馬と、単勝オッズ3.25倍の2番人気だったフレンチホリーが直線で叩き合いを演じた。しかし本馬鞍上のスワン騎手はフレンチホリーの様子を伺いながら、フレンチホリーが加速するとスピードアップし、フレンチホリーが遅れると減速するという挑発的な走りを展開した。そして1馬身差のリードをキープしたまま走り、そのままフレンチホリーを1馬身差の2着に下して2連覇を達成した。着差は小さかったが、直線における状況からして、本馬とフレンチホリーの間には決定的な実力差がある事は明らかだった。

次走の英チャンピオンハードル(英GⅠ・16F110Y)では、単勝オッズ1.44倍という1954年のサーケン以来となる断然人気に支持された。レースでは先行するフレンチホリーを見る形で進み、最終コーナー手前でフレンチホリーをかわして先頭に立つと、後は悠々と直線を走り抜き、3年連続で同競走2着となったシアターワールドに3馬身半差をつけて楽勝し、やはり2連覇を達成した。

次走は前年に勝てなかったエイントリーハードル(英GⅠ・20F)となった。ここでも単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されると、最終障害飛越後に前を行くフレンチホリーをかわし、そのまま1馬身差のリードを保ちながら先頭でゴールインした。

次走のパンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ・16F)では、3戦連続で本馬に挑んで全て返り討ちにあったフレンチホリーの姿は無く(この半年後に調教中の事故で命を落とした)、本馬が単勝オッズ1.25倍の断然人気となった。そして先行して抜け出す隙のないレースぶりを見せて、2着デコパージュに3馬身半差をつけて完勝。98/99シーズンは7戦全勝と完璧な結果を出した。

競走生活(99/00シーズン)

翌99/00シーズンは、主戦のスワン騎手が本馬不在のレースで落馬して両腕を骨折するアクシデントから始まった。復帰したスワン騎手を鞍上に迎えたシーズン初戦のジョンジェームズマクマナス記念ハードル(16F)では、単勝オッズ1.29倍の1番人気となった。ここでも先行して抜け出す優等生的な走りを見せて、前走パンチェスタウンチャンピオンハードルで本馬から8馬身半差の3着だったライムストーンラッドを7馬身差の2着に破って勝利した。

しかし単勝オッズ1.14倍の断然人気に支持されたハットンズグレイスハードル(愛GⅠ・20F)では、前走の障害GⅡ競走モルジアナハードルを圧勝してきたライムストーンラッドを直線で猛追したが、暴風雨と重馬場で体力を消耗してしまった本馬は前を捕らえることが出来ず、ゴール前では勝負あったと判断したスワン騎手が追うのを止めたため、勝ったライムストーンラッドから5馬身半差をつけられて2着に敗退し、連勝は8で止まった。

しかし次走のディセンバーフェスティヴァルハードル(愛GⅡ・16F)では前走の鬱憤を晴らすかのような快走を披露。先行して抜け出した後も後続との差を広げ続け、最後は2着デリーモイレに15馬身差をつけて、単勝オッズ1.125倍の断然人気に応えた。

3連覇を目指した愛チャンピオンハードル(愛GⅠ・16F)では、本馬を破ったハットンズグレイスハードルを含めて5連勝中と絶好調のライムストーンラッドとの顔合わせとなった。本馬が単勝オッズ1.22倍の1番人気で、ライムストーンラッドが単勝オッズ5.5倍の2番人気となった。レースでは逃げるライムストーンラッドを直線入り口でかわして先頭に立つと、そのまま2着ステージアフェアーに4馬身差をつけて、3連覇を達成した。しかしその翌月に本馬は裂蹄を発症してしまった。

それでも装蹄師の適切な対応により事なきを得て、3連覇を目指して英チャンピオンハードル(英GⅠ・16F110Y)に向かった。しかしレース前夜に本馬の鼻から出血していることが確認された。これが単なる外傷性又は炎症性の鼻出血なのか、それとも運動誘発性肺出血なのか(後者であれば競走能力に致命的な影響を及ぼすため、出走制限が掛けられる)なのかの診断を行うために、本馬の鼻にチューブが入れられたが、本馬が暴れて嫌がったので、鎮静剤を投与せざるを得なかった。競走能力には影響が無いと診断されたため出走には踏み切ったが、オブライエン師が「これがチャンピオンハードルでなかったら確実に回避していたでしょう」と語ったとおり、陣営にとっては一か八かの賭けだった。それでも単勝オッズ1.53倍の1番人気に支持された本馬は、ファンの期待を裏切らなかった。近走は先行するレースぶりが多かったが、ここでは慎重に馬群の中団につけた。そして最後から3番目の障害を飛越した直後からスパートを開始。2番手で直線を向くと、最終障害を先頭で飛越し、そのまま2着ホルスラロイに4馬身差で圧勝した。英チャンピオンハードルを3連覇したのは、1951年のハットンズグレース、1954年のサーケン、1970年のパーシャンウォー、1987年のシーユーゼンに次いで史上5頭目だった。その後は大事をとって休養入りし、99/00シーズンの成績は5戦4勝2着1回となった。

競走生活(00/01シーズン)

史上初の英チャンピオンハードル4連覇を目指して翌00/01シーズンも現役を続行。まずは大晦日に行われたディセンバーフェスティヴァルハードル(愛GⅡ・16F)から始動した。単勝オッズ1.25倍の1番人気に支持されたのだが、レースの早い段階から障害飛越時に大きく躓く場面が見られた。それでもなんとか最終障害までやってきたのだが、ここで初の落馬を喫して競走中止となってしまった。勝利を収めたのは、ロイヤルボンドノービスハードル・イブニングヘラルドチャンピオンノービスハードルと障害GⅠ競走で2勝を挙げていたモスクワフライヤーだった。

それでも次走の愛チャンピオンハードル(愛GⅠ・16F)では、モスクワフライヤーを抑えて単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。レースでは好位を追走したが、先頭を走るモスクワフライヤーとの差がなかなか縮まらずに敗色濃厚だった。しかし直線に入ったところでモスクワフライヤーが飛越に失敗して落馬競走中止となったために、何とか勝ちを拾い4連覇を達成した。

そして英チャンピオンハードルに出走するはずだったが、この年に英国を襲った口蹄疫の流行によりチェルトナムフェスティバルが中止となったため、史上初の4連覇の機会を逃した。

次走パンチェスタウンチャンピオンハードル(愛GⅠ・16F)では、単勝オッズ1.29倍の1番人気となった。ここでは逃げるモスクワフライヤーを見るように走り、前走とは異なりすんなりとモスクワフライヤーをかわして先頭に立った。そして直線を先頭でひた走ったのだが、勝利目前だった最終障害で落馬して2度目の競走中止となってしまった(前走とは逆に今度はモスクワフライヤーが勝ちを拾っている)。00/01シーズンは3戦して1勝に留まり、障害転向後では最悪の成績となった。

競走生活(01/02シーズン)

翌01/02シーズンも走り、ディセンバーフェスティヴァルハードル(愛GⅡ・16F)に出走。単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された。ここでは逃げ馬の直後2番手を追走し、直線で先頭に立った。最終障害も無事に飛越したが、ここでスタミナが切れてしまい、後方から来たバストアウトに迫られた。しかしなんとか頭差凌いで勝利した。

そして史上初の4勝目を目指して英チャンピオンハードル(英GⅠ・16F110Y)に出走した。近走の不振などから衰えが指摘されていた本馬だが、それでもファンは本馬を単勝オッズ3倍の1番人気に支持した。しかしスタートから行き脚がつかずに最後方からのレースとなり、さらに本馬の異常を感じたスワン騎手は2番目障害の飛越後に競走を中止した(勝ち馬ホルスラロイ)。本馬に投じられていた多額の賭け金が戻らなくなったにも関わらず、チェルトナム競馬場に詰め掛けていた大観衆はまだレースが終了していないのに、引き揚げていく本馬をスタンディングオベーションで見送った。

その後の検査で右後脚飛節のアキレス腱を負傷している事が判明したため、英チャンピオンハードルの9日後に現役引退が発表された。

チェルトナムフェスティバルにおける本馬の4年連続勝利は、早くも伝説の領域に入っており、近年における障害競走馬としては最高の人気を博した馬だった。2003年に英レーシングポスト紙が企画した“Favorite 100 Horse”では、アークルデザートオーキッドレッドラムに次ぐ第4位(5位はブリガディアジェラード)に選出されている。2009年に愛国で行われた過去25年間で最も好きな馬を決める投票では、本馬が第1位に選出された。

血統

Sadler's Wells Northern Dancer Nearctic Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Fairy Bridge Bold Reason Hail To Reason Turn-To
Nothirdchance
Lalun Djeddah
Be Faithful
Special Forli Aristophanes
Trevisa
Thong Nantallah
Rough Shod
Betty's Secret Secretariat Bold Ruler Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Miss Disco Discovery
Outdone
Somethingroyal Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Imperatrice Caruso
Cinquepace
Betty Loraine Prince John Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Not Afraid Count Fleet
Banish Fear
Gay Hostess Royal Charger Nearco
Sun Princess
Your Hostess Alibhai
Boudoir

サドラーズウェルズは当馬の項を参照。

母ベティズシークレットは不出走馬。加国の名馬産家エドワード・P・テイラー氏の所有馬で、北米供用時代に本馬の半兄セクレト(父ノーザンダンサー)【英ダービー(英GⅠ)・テトラークS(愛GⅢ)】を産んでその名を馳せた。後にテイラー氏によって愛国に送られ、日本の障害競走で活躍したロードプリヴェイル【京都ハイジャンプ(JGⅡ)・小倉サマージャンプ(JGⅢ)・阪神ジャンプS(JGⅢ)】の母である本馬の半姉ダンスプレイ(父ザミンストレル)を産んだ。その後テイラー氏が死去するとハムダン殿下に購入されていた。本馬の出産は非常な難産であり、本馬以降に子を産むことはなかった。また、本馬の半姉カトペトル(父ノーザンダンサー)の子にはクローズコンフリクト【イタリア大賞(伊GⅠ)】、曾孫には日本で走ったホウライアキコ【デイリー杯2歳S(GⅡ)・小倉2歳S(GⅢ)】、ホウライエイブル【梅見月杯】が、本馬の半姉フロムシートゥシー(父グレゴリアン)の曾孫にはスムーズローラー【オーサムアゲインS(米GⅠ)】がいる。ベティズシークレットの曾祖母ユアホステスは、ユアホスト【サンタアニタダービー・デルマーフューチュリティ・サンフェリペS】の全妹であり、近親には活躍馬が多数いるが、その詳細はセクレトやユアホストの項を参照してほしい。→牝系:F4号族①

母父セクレタリアトは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、マクマナス氏が愛国に所有しているマーティンズタウンスタッドにおいて、仲が良いリスクオブサンダーという馬と一緒に現在も余生を送っている。

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