グレイラグ

和名:グレイラグ

英名:Grey Lag

1918年生

栗毛

父:スターシュート

母:ミスミニー

母父:メドラー

米国の名馬産家ジョン・マッデン氏をして生涯最高傑作と言わしめた名馬だが、種牡馬失格の烙印を押されて2度の現役復帰など波乱万丈の生涯を送る

競走成績:2~13歳時に米加で走り通算成績47戦25勝2着9回3着6回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ハンブルグプレイススタッドにおいて、父スターシュートを種牡馬として所有していたジョン・E・マッデン氏により生産された。マッデン氏は馬主兼調教師であり、かつて1200ドルで購入したハンブルグを4万ドルで売却して、そのお金でハンブルグプレイススタッドを購入して馬産を開始していた。彼はその生涯で、史上初の米国三冠馬サーバートンを筆頭に、オールドローズバド、ポールジョーンズ、ゼヴ、フライングエボニーの5頭のケンタッキーダービー馬、5頭のベルモントS勝ち馬(サーバートン、本馬、ゼヴ以外に、ザフィンとジョーマッデンの2頭)、名馬キングジェームズ、名牝プリンセスドリーンなど182頭ものステークスウイナーを生産して、8回も北米首位生産者に輝いた名馬産家だが、そんなマッデン氏をして後年、自身が生産した最良の馬であると言わしめたのが本馬である。

馬名に「灰色」という言葉が入っているため誤解を生じやすいが、本馬は芦毛でなく栗毛である。しかし腹部に灰色の斑点があり(鞍を置かれると隠される位置だった)、それが馬名の由来になったと考えられる。ちなみに「グレイラグ」とは欧州に生息している野生のガチョウのことである。体幹部に白色と有色の毛色を両方有する馬の事を駁毛(ぶちげ、はくげ)馬と呼ぶ(サラブレッド血統書の記載要綱においては駁毛という毛色は無く、有色部分の毛色に従って鹿毛や栗毛などとして登録され、稀に誕生する白色部分が極端に多い馬は白毛として登録される)が、本馬は3本の脚と額の流星以外には目立つ白色が無く、駁毛馬としては最も白色部分が少ない部類の馬だったという。

1歳時に名伯楽として名高いマックス・ハーシュ調教師により1万ドルで購入されて、彼の所有・管理馬として走る事になった。成長すると体高16.5ハンドに達したというから、当時としてはかなり背が高い馬だったようである。

競走生活(2歳時)

2歳8月にサラトガ競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビューして、ダートムーアの首差2着。ちなみにこのダートムーアの1歳年上の全兄アップセットは、前年のサンフォードSにおいてマンノウォーに生涯唯一の黒星をつけた事で有名である。それから8日後にはサラトガ競馬場ダート5.5ハロンの未勝利戦に出走したが、1馬身差の2着に敗れた。さらに5日後には未勝利馬の身でホープフルS(D6F)に出走したが、2歳時に4戦無敗の成績を残すことになるレオナルド、この年の米最優秀2歳牝馬に選ばれることになるプルデリーなどに手も足も出ず、勝ったレオナルドから12馬身差をつけられた10着に惨敗した。それから4日後にベルモントパーク競馬場で出走したダート6ハロンのハンデ競走も、ヒルダーの4馬身3/4差4着に敗退。さらに4日後に出たベルモントパーク競馬場ダート5.5ハロンのハンデ競走を、2着クエクリークに頭差で制してようやく初勝利を挙げた。さらに3日後にはベルモントフューチュリティS(D6F)に出走すると、勝った牝馬ステップライトリーから1馬身半差の3着と好走。さらに3日後に出走したシャンペンS(D6.75F)では、2着バンクシアに6馬身差をつけて圧勝した。

このシャンペンSの少し前の時期、ハリー・F・シンクレア氏という人物が本馬の購入をハーシュ師に申し出ていた。シンクレア氏は米国の石油会社シンクレアオイル社の社長であり、ニュージャージー州ランコーカスステーブルを購入して、サム・ヒルドレス調教師を専属調教師として馬主活動を開始したばかりだった。しかしヒルドレス師は後に米国競馬の殿堂入りを果たすほどの名調教師でありながら少々迷信深い人物であり、駁毛馬は弱いと考えていたために本馬の事を嫌っており、シャンペンSのレース前に本馬を馬鹿にするような発言をしていた。シャンペンSのレース後に本馬はハーシュ師からシンクレア氏にトレードされた(いったんはヒルドレス師が名義上の馬主となり、3歳時からランコーカスステーブル名義となっている)が、ヒルドレス師の発言を根に持っていたハーシュ師は、当初の取引予定価格4万ドルに2万ドルを上乗せして6万ドルで本馬を売却した(もちろん、シャンペンSの圧勝ぶりも価格上乗せの理由だっただろうし、本馬は後にシンクレア氏の下で12万ドルを稼いでいるため、6万ドルでもお釣りは出ている)。

その後は、オークデールH(D6F)でノビーの1馬身半差2着、バビロンH(D6F)ではノビーの5馬身差3着と連敗した。しかしレムセンH(D6F)ではノビーを首差2着に退けて勝利した。128ポンドを課されたオーシャナスH(D6F)では、バビロンHで2着だったマルシベールの2馬身差2着に敗退(3着ノビーには先着した)。しかしオータムデイズS(D5.5F)は2着マルシベールに半馬身差で勝利。2歳最後のレースとなった新設競走ケンタッキージョッキークラブS(D8F)では、主戦となるアール・サンド騎手と初コンビを組んだ。ここではサラトガスペシャルS・ユースフルS・キーン記念Sを勝っていたこの年の米最優秀2歳牡馬トライスターには敵わずに、1馬身差の2着に敗れたが、安定して力を発揮できるようにはなっていた。2歳時の成績は13戦4勝だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は脚を怪我してしまったために復帰が5月までずれ込んだ。そのためケンタッキーダービーとプリークネスSには出走しなかった。本馬不在のケンタッキーダービーは、ケンタッキージョッキークラブSで3着だったビヘイヴユアセルフがトライスターなどを破って勝利を収め、プリークネスSは2歳時に特に目立つ成績が無かったブルームスパンが勝っている。本馬の復帰初戦となったのは、5月末にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンのハンデ競走で、2着ドライムーンに1馬身差で勝利した。それから僅か2日後に出走したウィザーズS(D8F)は、レオナルド、スポーティングブラッドの2頭に屈して、レオナルドの4馬身半差3着に終わった。しかしその次に出走したベルモントS(D11F)では先行して抜け出し、2着スポーティングブラッドに3馬身差をつけて完勝した。3着がレオナルドであり、ちょうどウィザーズSと逆の着順となった。

その6日後のブルックリンH(D9F)では、前年の米最優秀ハンデ牡馬騙馬でもある3年前のケンタッキーダービー馬エクスターミネーター、前年のドワイヤーSでマンノウォーを本気にさせたジョンピーグリアという強敵が相手となったが、2着ジョンピーグリアに1馬身半差、3着エクスターミネーターにはさらに1馬身半差をつけて勝利した(ただし本馬の斤量はエクスターミネーターより17ポンドも軽かった)。

次走のドワイヤーS(D9F)では、2着スポーティングブラッドに4馬身差をつけて、1分49秒0の全米レコードタイで勝利。次走のエンパイアシティ競馬場ダート8ハロンの一般競走では、130ポンドを背負いながらも、2着クエクリークに3馬身差で勝利。129ポンドを背負って出たエンパイアシティダービー(D10F)では、2着スポーティングブラッドに3/4馬身差で勝利した。ニッカーボッカーH(D8.5F)では3歳馬にして135ポンドを課されたが、それでも2着ケアフル(スカイラヴィルSなどを勝利して前年の米最優秀2歳牝馬にプルデリーと共に選出された馬で、翌年の米最優秀ハンデ牝馬にも選出される)に2馬身半差で勝利。次走のマウントキスコS(D8F70Y)では、唯一の対戦相手カッパーデーモン(ドワイヤーS・エンパイアシティダービー・ニッカーボッカーHでいずれも本馬の3着だった)に7馬身差をつけて圧勝。デヴォンシャー国際S(D9F)では、2着ブラックサーヴァント(ケンタッキーダービー2着馬で、名馬ブルーラークスパーの父)との着差は鼻差ながら、1分50秒0のコースレコードで勝利と、向かうところ敵なし状態で8連勝を記録した。

しかしローレンスリアライゼーションS(D13F)では、トラヴァーズSを勝ってきたスポーティングブラッド(3着)には先着したものの、グレートアメリカンSの勝ち馬タッチミーノットの1馬身半差2着とまさかの敗戦。ジョッキークラブ金杯(D16F)では、タッチミーノット(3着)には先着したものの、この年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれるメトロポリタンHの勝ち馬マッドハターの2馬身半差2着に敗退。ラトニアCS(D14F)では、スポーティングブラッド、ブラックサーヴァントなどに屈して、勝ったスポーティングブラッドから3馬身1/4差の4着に敗れた。この3戦はどうやら距離が長かったようで、以降本馬は10ハロンを超える距離のレースには2度と出走しなかった。3歳時はラトニアCSが最後のレースとなったが、この年13戦9勝の成績で後年になって米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選出された。

競走生活(4・5歳時)

4歳時は6月にベルモントパーク競馬場で行われたダート8ハロンのハンデ競走から始動して、2着フリゲートに2馬身差で勝利。続くブルックリンH(D9F)で2連覇を狙ったが、前年の同レースで負かしたエクスターミネーター(今回も本馬より斤量は10ポンド多かった)と激戦を演じた末に、頭差の2着に敗れた。次走のクイーンズカウンティH(D8F)では、サバーバンHを勝ってきたキャプテンアルコックとの対戦となったが、本馬が2着セニングスパークに1馬身半差で勝利した。続くエンパイアシティH(D9F)では132ポンドを課されたが、2着ボンホームに1馬身半差で勝利。次走のマウントキスコS(D8F70Y)では、前年と同じく対戦相手が1頭だけであり、本馬が唯一の対戦相手レターマンに2馬身1/4差をつけて勝利した。

次走のサラトガH(D10F)では、エクスターミネーターに加えて、かつてホープフルSで対戦したことがある牝馬プルデリーとの顔合わせとなった。スピナウェイS・グランドユニオンホテルS・ファッションS・ローズデールS・アラバマS・ミラーSを勝ち、ケンタッキーオークスとトラヴァーズSで2着、ケンタッキーダービーでも3着していたプルデリーは牡馬顔負けの有力牝馬だった。しかし130ポンドを背負っていた本馬が2着ボンホームに半馬身差で勝利を収め、プルデリーは3着、エクスターミネーターは5着最下位に敗れた。4歳時の成績は6戦5勝で、後年に選定された米年度代表馬の座はエクスターミネーターに譲ったが、米最優秀ハンデ牡馬の座をエクスターミネーターと分け合った。

5歳時も本馬の勢いは衰えなかった。まずは5月にジャマイカ競馬場で行われたキングズカウンティH(D8.5F)に出走すると、1歳年下のウィザーズSの勝ち馬スノッブを1馬身3/4差の2着に破って勝利した。その1週間後に出たエクセルシオールH(D8.5F)では130ポンドを背負いながらも、2着エクソダスに3馬身差で勝利した。133ポンドを背負わされたロングビーチH(D8.5F)では、コースレコードで走破したスノッブの2馬身差2着に敗れて、前年からの連勝は6で止まった。しかしメトロポリタンH(D8F)では同じ133ポンドを背負いながらも、2着ディーナケアに3馬身差で勝利。さらに135ポンドを課されたサバーバンH(D10F)では、2着スノッブに1馬身半差で勝利した。しかしこの後に脚部不安を発症し、5歳時5戦4勝の成績を残していったん競走馬を引退した。後年になってこの年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている。

種牡馬失格の烙印を押されて競走馬に2度も復帰させられる

競走馬を引退した本馬はシンクレア氏の下を離れて6歳時から種牡馬入りしたが、受精率が悪く4年間で僅か19頭の産駒しか出せなかった。最終的には受精能力がほぼ無くなってしまったため、9歳時の1927年に種牡馬を引退して、競走馬として復帰させられた。

まずは6月にアケダクト競馬場で行われたダート8ハロンの一般競走に出走した。4年ぶりの実戦だったが、2馬身差で勝利を収めた。その5日後に出走した同コースの一般競走では、4歳年下のアワジェネラルという馬を3馬身差の2着に破って勝利した。9歳時はこの2戦のみで終えた。

10歳時は4月にジャマイカ競馬場で行われたダート8.5ハロンのハンデ競走から始動したが、リタリエートの9馬身差4着に敗れた。次走のジャマイカ競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走も、ゴーモンドの3馬身半差3着に敗れた。しかし10歳3戦目となったジャマイカ競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走では、3馬身差で勝利した。次走は5年ぶりの出走となるエクセルシオールH(D8.5F)となった。5年前に勝利したときより12ポンド軽い118ポンドの斤量だったこともあって期待されたが、ブラウンフラッシュの3馬身差3着に敗れた。結局10歳時は4戦1勝の成績に留まり、ここで再び競走馬を引退した。

その後に本馬は、獣医をしていた人物に乗馬として購入されたが、直後その人物が急死してしまった。遺産処分により売却された本馬は、何人かの人物の下を転々とした後、13歳時にまたしても競走馬として復帰させられた。復帰戦は加国ブルーボネッツ競馬場で行われた譲渡要求額1000ドルのクレーミング競走であり、要するに勝つためにではなく売るために競走馬として復帰させられたのであった。しかしこの復帰戦は7着に敗れ、買い手は現れなかった。その後もクレーミング競走に出走を続けたが敗退を繰り返し、やはり買い手はつかなかった。この年はクレーミング競走のみ4戦したが3着が最高であり、獲得賞金は40ドルだった。

完全に競走馬を引退して天寿を全うする

本馬の窮状を耳にしたかつての馬主シンクレア氏は、最後のクレーミング競走において本馬を買い戻し、自身が所有するニュージャージー州ランコーカスステーブルで余生を送らせることにした。シンクレア氏はティーポットドーム事件(1920年代に米国を揺るがせた汚職事件。ワイオミング州ティーポットドーム油田など3つの国有油田から石油を採掘する権利を安値で借り受けるために、パンアメリカン石油運輸会社のエドワード・L・ドヘニー氏がウォレン・ハーディング大統領の閣僚だったアルバート・B・フォール内務長官に贈賄した事が発覚したもので、フォール内務長官は大統領閣僚として米国史上初めて懲役刑を受けた。ウォーターゲート事件が発覚する以前は大統領が関与する米国史上最大のスキャンダルであるとされていた。パンアメリカン石油運輸会社と共に石油採掘権を借り受けたのが、マンモス石油会社の子会社だったシンクレアオイル社であり、シンクレア氏はフォール内務長官やドヘニー氏の友人だったため、事件への関与を疑われ、裁判において陪審員を買収しようとした咎で6か月半の懲役刑を受けていた)により服役して出所した後であり、事件で背負った悪名を少しでも払拭しようとしたようである。もっとも動機はともかく、本馬にとってはシンクレア氏の行動はまさしく救いの手であり、ようやく安楽の場を得る事になった。そして11年後の1942年にランコーカスステーブルにおいて24歳で他界した。1957年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第54位。

本馬の数少ない産駒には、1927年産まれの牝駒グレイオラがいる。グレイオラは現役成績21戦9勝、2歳時にリンブルッククレーミングSでステークス競走勝ちを収め、3歳時のアグアカリエンテダービーではトラヴァーズSの勝ち馬ジムダンディを破るなど将来が有望視されていたが、輸送中の事故で他界してしまい、本馬の血を後世に残すことは適わなかった。

血統

Star Shoot Isinglass Isonomy Sterling Oxford
Whisper
Isola Bella Stockwell
Isoline
Dead Lock Wenlock Lord Clifden
Mineral
Malpractice Chevalier d'Industrie
The Dutchman's Daughter
Astrology Hermit Newminster Touchstone
Beeswing
Seclusion Tadmor
Miss Sellon
Stella Brother to Strafford Young Melbourne
Gameboy Mare
Toxophilite Mare Toxophilite
Maid of Masham
Miss Minnie Meddler St. Gatien The Rover Blair Athol
Crinon
Saint Editha Kingley Vale
Lady Alice
Busybody Petrarch Lord Clifden
Laura
Spinaway Macaroni
Queen Bertha
Spectrum Orvieto Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Napoli Macaroni
Sunshine
False Sight Melton Master Kildare
Violet Melrose
Mirage Speculum
Euonyma

スターシュートは当馬の項を参照。

母ミスミニーの競走馬としてのキャリアは不明。ミスミニーは本馬以前に1頭の勝ち上がり馬も産んでおらず、本馬以降も活躍馬を産んでいないため、本馬が登場しなければ歴史に埋もれる事になっていたはずである。しかし本馬の活躍を受けてか、競走馬としては活躍しなかった本馬の姉妹は繁殖牝馬としてそれなりの扱いを受けた。そして本馬の半姉ミスフォントルロイ(父フォントルロイ)の牝系子孫からは、ワルツソング【ダイアナH・デラウェアH・マスケットH】、ウエイクフィールドミス【レディーズH】などが、本馬の半妹ミニマ(父フライアーロック)の牝系子孫からは、ポーターズマイト【ベルモントフューチュリティS・サンタマリアH】、スターアップ【フラミンゴS・ウッドメモリアルS】、インディアンサンライト【デモワゼルS・ニューヨークH】、トラックロバリー【ヴァニティ招待H(米GⅠ)・アップルブロッサムH(米GⅠ)・スピンスターS(米GⅠ)】、パレスミュージック【英チャンピオンS(英GⅠ)・ジョンヘンリーH(米GⅠ)】、エルナンド【仏ダービー(仏GⅠ)・リュパン賞(仏GⅠ)】、ラビーブ【ハリウッドダービー(米GⅠ)・ウッドバインマイル(加GⅠ)】、キャットシーフ【BCクラシック(米GⅠ)・スワップスS(米GⅠ)】、日本で走ったトミシノポルンガ【ダービーグランプリ】などが登場しているわけであるから、自身の子孫は殆ど残せなかった本馬も後世に影響力を有していることにはなる。→牝系:F13号族①

母父メドラーはセントガティエン産駒。デューハーストプレートなど英国で3戦3勝の競走馬で、米国で種牡馬として活躍した。

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