サーアーチー

和名:サーアーチー

英名:Sir Archy

1805年生

鹿毛

父:ダイオメド

母:カスティアニラ

母父:ロッキングハム

父ダイオメドと共に米国競馬の礎を築いた米国競馬史上初の歴史的名馬にして最古の米国顕彰馬

競走成績:3・4歳時に米で走り通算成績7戦4勝2着1回

サラブレッドの三代始祖は、バイアリータークダーレーアラビアンゴドルフィンアラビアンの3頭。この3頭の直系が現在に残る立役者となった事実上のサラブレッド三代始祖と言える存在は、マッチェムヘロドエクリプスの3頭で、これらの馬達により英国においてサラブレッドという品種が形成されたと言える。しかし英国から大西洋を渡った先である米国競馬の発展に最も直接的に貢献したのは、ヘロドの直系子孫である第1回英ダービー馬ダイオメドとその直子である本馬の2頭である。この父子がいなければ現在の米国競馬界(それどころか世界中の競馬界も)は全く異なる様相を呈していた事であろう。その意味においては、ダイオメドは米国におけるサラブレッドの始祖であり、本馬は米国における事実上のサラブレッドの始祖であると言えるだろう。

誕生からデビュー前まで

米国ヴァージニア州において、アーチボルド・ランドルフ大尉とジョン・テイローⅢ世大佐の両名により、ランドルフ大尉が所有していたベンロモンドファームで生産された。最初は“Robert Burns(ロバートバーンズ)”と命名されていたが、ランドルフ大尉に敬意を表したテイローⅢ世大佐により、ランドルフ大尉の名前“Archibald”に由来する“Sir Archy”と改名された。ただし、本馬の馬名表記に関しては現役当時から複数あり、“Archy”、“Archie”、“Sir Archie”とする資料も存在している。テイローⅢ世大佐は1791年から1806年までの間に自身の生産・所有馬を141回レースに出してそのうち113のレースに勝ったという、当時の米国競馬界における最高の馬産家・馬主の1人だった。しかしテイローⅢ世大佐が生産した最高傑作である本馬は、彼の名義で走ることは無かった。本馬は2歳時に他の牝馬とセットで、テイローⅢ世大佐の甥であるラルフ・ワームリーⅣ世氏により400ドルで購入されたのである。ワームリーⅣ世氏はさらに本馬を転売しようとしたが、購入希望者が現れなかったため、そのまま自身の所有馬とした。なお、本馬の名前を“Sir Archy”に改名したのはテイローⅢ世大佐ではなく、ワームリーⅣ世氏であるとする資料もある。

競走生活(3歳時)

トーマス・ラーキン調教師に預けられた本馬は、3歳時にワシントンDCで行われたスウィープSで競走馬デビューした。既に体高16ハンドと当時としてはかなり大柄な馬格に成長していた本馬だが、デビュー前に患っていた腺疫(馬特有の感染症で、発熱、リンパ節の化膿性膨張、膿が混ざった濃い鼻水が出るなどの症状がみられる。大抵は自然治癒する。ペニシリンが有効だが、ペニシリンが発見されたのは本馬の死後100年近く経過した1928年である)の回復が十分ではなく、ブライトフォイボス(アメリカンエクリプスの母となるミラーズダムセルの2歳年下の全弟)に引き離されて着外に敗れた。体調が回復していなかったにも関わらずこのレースに出走した理由は、出走回避した際に支払わなければならない罰金をワームリーⅣ世氏が嫌がったからであるらしい。1か月後にはヴァージニア州リッチモンドで行われたフェアフィールドスウィープSに出走したが、まだ体調が万全ではなく、3戦目のヒート競走で1位になったのみで、レース全体としてはトゥルーブルーの4着(3着とする資料もある)という結果だった。

このレースの後、ワームリーⅣ世氏は自身の所有馬を全て売り払う事を決めた。本馬はトゥルーブルーの所有者だったウィリアム・ランサム・ジョンソン大佐に目を付けられており、1500ドルで購入された。ジョンソン大佐は「競馬場のナポレオン皇帝」と呼ばれていたほど米国南部では有名な馬主であり、後の1823年に行われた北部代表馬アメリカンエクリプスと南部代表馬サーヘンリーのマッチレース、及び1842年に行われた北部代表馬ファッションと南部代表馬ボストンのマッチレースなどの仕掛け人となった人物でもある。ジョンソン大佐の専属調教師だったアーサー・テイラー師の調教を受け、4歳春になって競走に復帰した本馬は、前年とは見違える強さを身につけていた。

競走生活(4歳時)

復帰初戦となったポストSでは、前日のジョッキークラブパースを勝利していたラングラーという馬相手に勝利した。このレースでは2日連続出走だったラングラーに疲労が残っていたとされ、2週間後に行われたジョッキークラブパースにおける2頭の再戦で両馬の実力が試される事となった。1戦目のヒート競走ではラングラーが勝ち、2戦目のヒート競走は本馬が勝利した。この2戦目で本馬がラングラーを圧倒したため、3戦目のヒート競走の実施は保留となった。ジョンソン大佐はラングラー陣営に決着をつけるよう申し入れたが、ラングラー陣営は首を縦に振らなかった。

夏場を休養に充てた本馬は、ジョッキークラブパースでラングラーと三度顔を合わせた。夏場の間に元々大きかった本馬の身体はさらに大きくなっており、馬体が絞りきれていないのではないかとそれを不安視する声もあったようである。1戦目のヒート競走では最初の2マイルまではラングラーが先行したが、後半は本馬の独走状態となった。最後は歩くように走って勝利した本馬と他馬との着差が大きすぎたため、2戦目のヒート競走は行われることなく本馬が勝利馬となった(ヒート競走には、勝ち馬から240ヤード以上離された馬は失格になるというルールがあった)。翌週には再度ジョッキークラブパースに出走し、ここでも1戦目のヒート競走で決着をつけて勝利した。

その後はヴァージニア州を出てノースカロライナ州に移動し、ブランクという馬との2頭立ての競走に出走。結果は1戦目、2戦目のヒート競走共に本馬がブランクに約1馬身差をつけ、勝利馬となった。1戦目のヒート競走における本馬の勝ちタイム7分52秒0は当時の米国競馬の中心地であるジェームズ川南部における距離4マイルのレコードタイムだった。本馬の強さに気を良くしたジョンソン大佐は、本馬が全米中の全ての馬に勝つ事が出来るという事に1万ドルを賭けると発表した。しかしその賭けに乗る者は誰もいなかった。また、本馬に挑戦しようとする他馬陣営も登場しなかった。

ジョンソン大佐は後の1829年に“American Turf Register and Sporting Magazine”の12月版に寄せた文章の中で「私はサーアーチーこそが私が過去に見てきた中で最高の馬だった事をひたすら強調しなければなりません。私は他のどの馬も彼の領域には達しえない事を十分に承知していました」と記し、本馬が当時の米国競馬界における最高の馬だった事を主張しているが、それは別にジョンソン大佐だけの見解ではなく、他者も同じ意見だったようである。特に米国独立戦争で大活躍しノースカロライナ州知事を務めた事もあったウィリアム・リチャードソン・デイビー将軍は本馬の走りを見て非常に感動し、当時としては破格の5千ドルで本馬を売ってほしいとジョンソン大佐に申し出た。ノースカロライナ州生まれだったジョンソン大佐はあっさりと首を縦に振り、本馬はデイビー将軍の所有馬となった。デイビー将軍は本馬をすぐに競走馬を引退させて種牡馬入りさせた。

なお、本馬の4歳時の戦績は各種資料で5戦4勝2着1回となっており、ラングラーとの2度目の対戦(1戦目のヒート競走でラングラーが勝ち、2戦目のヒート競走で本馬が勝利、3戦目は実施されなかった)が本馬の2着扱いになっているようである。また、本馬の生年は1805年ではなく1802年とする資料があるとする文章を目にした事があるが、筆者が調べた範囲では本馬の生年を1802年とする信頼できる資料は見当たらなかった。

体格については、体高は前述したように3歳時点で既に16ハンド(その後はさらに大きくなった)、見栄えが良い顔立ちとすらりとした首を有し、脚は長くて背は短く、深い胴回りと筋肉質の強靭な馬体を誇っており、その馬格はまさしく理想的だったと評されている。

血統

Diomed Florizel Herod Tartar Croft's Partner
Meliora
Cypron Blaze
Salome
Cygnet Mare Cygnet Godolphin Arabian
Godolphin Blossom
Young Cartouch Mare Young Cartouch
Ebony 
Sister to Juno Spectator Crab Alcock Arabian 
Sister to Soreheels
Partner Mare Croft's Partner
Bonny Lass
Horatia Blank Godolphin Arabian
Amorett
Sister One to Steady Flying Childers
Miss Belvoir
Castianira Rockingham Highflyer Herod Tartar
Cypron
Rachel Blank
Regulus Mare
Purity Matchem Cade
Partner Mare
Pratts Old Mare Squirt
Mogul Mare
Tabitha Trentham Gower's Sweepstakes  The Gower Stallion
Brown Crofts 
Miss South  South 
Young Cartouch Mare
Bosphorus Mare Bosphorus Babraham
Childers Mare
Forester Mare William's Forester 
Coalition Colt Mare

ダイオメドは当馬の項を参照。なお、本馬の晩年になって、本馬の父はダイオメドではなくガブリエルという馬ではないかという噂が立った事がある。それは本馬とガブリエルの外見が似ていたからという理由だった。しかしテイローⅢ世大佐は、1826年8月11日付の“American Farmer”の中で「ガブリエルが(本馬が誕生した前年の)1804年まで生きていた事も、サーアーチーとガブリエルが似ている事も否定しませんが、1804年に(本馬の母)カスティアニラをダイオメド以外の種牡馬と交配させたような事は絶対にありませんから、サーアーチーがダイオメドの子である事に疑いの余地はありません」と、その噂を明確に否定した。本馬が産まれる前年にダイオメドを繋養していたセルデン大佐の息子も、確かにダイオメドとカスティアニラが交配するのを見たと証言したため、噂は結局完全否定された。事実がどうであれ、同じ年に複数の種牡馬と交配されたために、血統表に2頭の父名が記載されている馬は米国のみならず欧州でも昔は頻繁に存在していたから、本馬のみをことさらに取り上げて騒ぎ立てる理由も意味もないだろう。

母カスティアニラは英国産馬で、テイローⅢ世大佐により購入されて米国に渡り、友人のランドルフ大尉との共同所有馬となっていた。2歳時に競走馬デビューしたが、ほとんど活躍できないまま引退したようである。しかもどういう経緯があったのか不明だが、カスティアニラは耳が切り落とされ、目が見えなくなっていたという。本馬の2歳年下の半弟にはバザードを父に持つヘフェスティオンという馬がいるのだが、奇しくもこのヘフェスティオンと同じ1807年に英国で誕生したアレクサンダー産駒の牡駒に同名のヘフェスティオンという馬がおり、この2頭が混同されている事が時々あるようである。アレクサンダー牡駒のヘフェスティオンのほうは第2回英2000ギニーの優勝馬だが、この馬は明確に英国産馬であり、本馬の半弟ヘフェスティオンは明確に米国産馬である。カスティアニラの母タビサの半姉プリンセスの牝系子孫には、米国顕彰馬キングストン、同じく米国顕彰馬のハウスバスターなど多くの活躍馬が出ている。タビサの祖母フォレスターメアの全妹グレシャンプリンセスはエクリプス直子で母父として活躍した前述のアレクサンダーの母である。→牝系:F13号族②

母父ロッキングハムはハイフライヤー産駒で、1780年代に英国で競走馬として活躍し、当時の名馬ダンガノンとマッチレースで対戦した事もある(結果は敗北)。種牡馬としてはフィリーサイヤーだったようで、英オークス馬ベリーナなどを出している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はデイビー将軍の息子アレン・ジョーンズ・デイビー氏所有のもと、ヴァージニア州ニューホープ牧場で種牡馬入りした。翌6歳時は本馬の所有者だったジョンソン大佐にリースされ、ジョンソン大佐の義父が所有していたオークランズスタッドで供用された。翌7歳時はW・E・ブロードナックス氏という人物にリースされ、その翌8歳時から3年間はニューホープ牧場に戻った。11歳時にはエドモンド・アービー氏という人物にリースされ、12歳時はニューホープ牧場に戻っていた。13歳時にウィリアム・アミス氏により購入されてノースカロライナ州モウフィールドに移動し、アミス牧場で種牡馬生活を続けた。1823年にアミス氏が死去した後、本馬はアミス氏の息子ジョン・D・アミス氏に受け継がれた。各地を転々とした本馬であるが、別にこれは本馬が種牡馬として軽く見られたからではなく、当時の米国においては優秀な種牡馬は各地を渡り歩くのが一般的だったからである。

本馬は種牡馬としては少なくとも31頭のチャンピオン級の競走馬を出すという大成功を収めた。この時期の米国競馬界における種牡馬ランキングの正確な記録は残っていないが、おそらく毎年のように本馬が種牡馬ランキング首位を独走していたものと思われる。当初50ドルだった本馬の種付け料は、やがて75ドルに値上がりし、最終的には100ドルという当時としてはかなりの高額となった。晩年になってもこの種付け料100ドルは下がることが無く、本馬がアミス牧場に来て以降、本馬の種付け料によって得た収入は7万6千ドルに上ったとジョン・D・アミス氏は述べている。本馬の産駒はスピード面にもスタミナ面にも長け、距離の長短を問わずに活躍した。あまりに本馬の産駒が活躍するため、ワシントンDCジョッキークラブやメリーランド州ジョッキークラブは1827年に、本馬の産駒の出走に関して様々な規制を実施した。しかし本馬の産駒の優秀さは当時の米国競馬界において他に類を見ないものであり、規制があろうと無かろうと本馬以外の種牡馬の産駒が活躍する機会は少なかったようである。2つのジョッキークラブも、こんな規制はどうせ長続きしないと考えていたようで、やがて規制は自然消滅していった。

1831年に26歳で種牡馬を引退した本馬は、その後もモウフィールドの牧場で余生を送り、1833年6月7日、偶然にも本馬の代表産駒であるサーチャールズと同じ日に28歳の生涯を閉じた。遺体は生まれ故郷であるベンロモンドファームに埋葬されたとする説と、他界したモウフィールドの牧場に埋葬されたとする説があるが、正確な埋葬場所は分かっていない。1955年、米国競馬の名誉の殿堂が創設された際に、本馬は初年度にして殿堂入りを果たした。本馬は米国顕彰馬の中で最も生年が古い馬である。

後世に与えた影響

前述のとおり本馬の産駒は競走馬として大活躍したが、さらに本馬の産駒は種牡馬や繁殖牝馬としても大活躍した。その結果として、本馬や父ダイオメドの血を引く馬を同系配合する事は米国競馬界における流行となった。本馬の直系子孫であるボストンはダイオメドのクロスを、その息子レキシントンは本馬のクロスも有している。ボストンとレキシントンの種牡馬としての成功が決定打となり、米国競馬界、ひいては世界中の競馬界は本馬の血を引く馬ばかりとなっている(ただしレキシントン系の衰退により直系は残っていない)。そのため、本馬はサラブレッドの成立に大きな影響を与えたゴドルフィンアラビアンにちなんで“The Godolphin Arabian of America(アメリカのゴドルフィンアラビアン)”の愛称で呼ばれている。別の資料には、ダーレーアラビアンにちなんで“Darley of America(アメリカのダーレーアラビアン)”と呼ばれたとも書かれている。

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