プライアム

和名:プライアム

英名:Priam

1827年生

鹿毛

父:エミリウス

母:クレシダ

母父:ウィスキー

エクリプスにも比肩する名馬と言われた距離不問の英ダービー馬は、史上初めて英米両国で首位種牡馬を獲得した名種牡馬ともなる

競走成績:3~5歳時に英で走り通算生成18戦16勝2着1回3着1回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英国サセックス州の牧場において、第6代准男爵ジョン・シェリー卿により生産された。成長しても体高は15.2~15.3ハンド程度であり、脚はやや長く、全体的に牝馬のような体格をしていたという。シェリー卿は1811年の英ダービー馬ファントムや1824年の英ダービー馬セドリックをいずれも自身で生産・所有していたのだが、本馬は自身で所有せずに売りに出すことにした。

本馬が1歳になると、まずシェリー卿は第5代ジャージー伯爵ジョージ・チャイルド・ヴィリエ卿に本馬の購入を打診した。しかしヴィリエ卿は本馬の脚に骨瘤があるとして購入を拒絶した。そのために本馬はニューマーケットのセリに出され、サム・チフニー・ジュニア騎手の目に留まった。確かに本馬は脚部に問題があるように見えたらしいが、競りは予想外に高騰し、結局チフニー騎手と彼の兄弟だったウィリアム・チフニー調教師及びマクシミリアン・モントゴメリー・ディリー調教師の3名が共同購入できたのは1000ギニーという価格に達してからだった。

本馬を管理する事になったチフニー師は、自身の管理馬にハード調教を施す主義の人物だった。しかし本馬は成長が遅かったため、チフニー師は自分の主義を曲げて、厳しい調教を課すことは無く、2歳時にレースに出すことも無かった。

競走生活(3歳時)

3歳時も3月に喉の感染症に罹ってしまいデビューがさらに遅れたが、翌4月にニューマーケット競馬場で行われたリドルスワースS(T8F)でデビューした。そして、後の英ダービー3着馬マームードなど他の出走馬5頭を破って初勝利を挙げた。その2日後には同じくニューマーケット競馬場でコラムSに出走した。ここでは8頭立ての最後方を進んだが、ゴール前で見事な追い込みを決めて、後の英2000ギニー馬アウグストゥスを短頭差の2着に下して勝利した。それから2週間後にはニューマーケット競馬場で行われた450ポンドスウィープSを単走で勝利した(同時期に400ポンドスウィープSも単走で勝利したとする資料があるが、同資料に記載されている3歳時の競走成績と矛盾するため本項では採用していない)。

そして本馬は英ダービー(T12F)に参戦して、単勝オッズ5倍で24頭立ての1番人気に支持された。主戦だったチフニー・ジュニア騎手が既に他馬に乗る約束があったため、本馬の鞍上はベテランのサミュエル・デイ騎手に代わっていた。スタートで13~14回ものフライングがあって発走が1時間遅れ、しかも突如降り出した大雨の中でようやく正規のスタートが切られると、本馬はやはり馬群の後方からレースを進めた。しかし早めに位置取りを上げ始め、先行していた単勝オッズ7倍の2番人気馬リトルレッドローバーを射程圏内に捉えた5番手でタッテナムコーナーを回ってきた。そして残り1ハロン地点でリトルレッドローバーを抜き去ると、最後は2着リトルレッドローバーに2馬身差をつけて優勝を飾った。チフニー師の兄弟は本馬の単勝にかなりの額を賭けており、1万2千ポンドもの大金を得たという。

さらにアスコット競馬場に向かい、スウィープSに出走した。そして英ダービーで3着だったマームードを今回も3着に破り、2着となった無名馬に2馬身差をつけて楽勝した。秋は英セントレジャー(T14F132Y)に出走した。夏場の天候不良のため元から馬場状態が悪化していた上に、レース当日にも大雨が降ったため、当日のドンカスター競馬場はまるで田圃のような泥だらけの不良馬場となっていた。チフニー・ジュニア騎手が騎乗した本馬は28頭立ての中団を進み、直線に入ってから仕掛けて、先に先頭に立っていたエマンシペーターを残り1ハロン地点で内側から抜き去った。しかしゴール前で重巧者バーミンガムの強襲を受けて、半馬身差の2着に敗れ、初黒星を喫した。その2日後にはドンカスター金杯を勝っていた4歳馬レトリーバーとの500ソヴリンマッチレースに出走して3馬身差で勝利。なお、この翌日にレトリーバーはドンカスターCを勝っている。本馬は引き続きドンカスター競馬場でガスコインSに出走したが、対戦相手がいなかったために単走で勝利。3歳時を8戦7勝の成績で終えた。

競走生活(4歳時)

4歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたクレイヴンS(T8F)から始動して勝利。さらに4日後のポートS(T15F127Y)でも単勝オッズ1.33倍の1番人気に応えて勝利した。このレース後に本馬は3000ギニーで第6代チェスターフィールド伯爵ジョージ・スタンホープ卿に購入され、ジョン・ケント厩舎に転厩した。

スタンホープ卿の元でも本馬は活躍を続けた。まずは前年のアスコット金杯を制した1歳年上の牝馬ルセッタとのマッチレースに出走。鞍上は、所有者が変わっても主戦の座であり続けたチフニー・ジュニア騎手だった。レースはルセッタが先行して、本馬は追走する形となった。そして勝負どころに差し掛かると瞬く間にルセッタを抜き去り、最後は4馬身差をつけて勝利した。7月にはグッドウッドC(T21F)に出走。前年まで同競走を2連覇していた他にドンカスターC勝ちもあった牝馬フルールドリス、同世代の英オークス馬ヴァリエーションなどが対戦相手となったが、本馬が彼女達を蹴散らして勝利を収めた。10月には再度ルセッタとのマッチレースが予定されていたが、ルセッタが回避したため単走で勝利した(このレースを公式戦としてカウントしていない資料もある)。続いて出走したアウグストゥスとのマッチレースでは16ポンドのハンデを与えながらも1馬身差で勝利。4歳時を6戦全勝の成績で終えた。なお、4歳時には他にヒートンパーク競馬場で行われたレースを単走で勝利したという説もある。

競走生活(5歳時)

5歳時は前年同様にクレイヴンS(T8F)から始動したが、チャップマン、キャプテンアーサーの2頭に後れを取って、チャップマンの3着に敗れた。しかし引き続きニューマーケット競馬場で出走した5月のキングズプレートでは、ルセッタを破って勝利した。6月にアスコット競馬場で出走したエクリプスフットという名前の距離20ハロンの競走では、自身の半兄弟であるサルペドンを破って勝利した。そして7月には2度目のグッドウッドC(T21F)に出走した。139ポンドのトップハンデを課されたが、単勝オッズ2倍の1番人気に応えて勝利。2着になった3歳牡馬バーアムは本馬より31ポンド斤量が軽く、同じく3歳だったこの年の英ダービー馬セントジャイルズは4着だった。その後は、この年のアスコット金杯を勝った1歳年下の牝馬カマリネとのマッチレースを始めとして、10月までに3つのレースに出走する約束があった。しかし陣営は罰金を払って、本馬に3レース全てを回避させた。理由は資料に記載がなく不明だが、筆者が推測するに、139ポンドを背負ってグッドウッドCを勝った際に脚を痛めたのではないかと思われる。そして5歳時4戦3勝の成績を残して競走馬を引退した。

競走馬としての評価

本馬は距離不問の馬で、どんな距離でも勝利する事が出来たという。本馬の強さは、18世紀の名馬エクリプスに比肩すると評され、当時の英国競馬史上において有数の名馬とされた。本馬が競走馬を引退してから50年以上が経過した1886年6月に、英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第27位にランクインした。たいした順位ではないと思うかもしれないが、本馬より上位に入った馬は全て本馬より年下の馬である事、1830年以前に誕生した馬の中で同ランキングに入ったのは本馬と、本馬の2歳年上のヴェロシペード(30位)の2頭だけである事は念頭に入れなければならない。アンケート形式でこういったランキングを作成すると、比較的最近に活躍した馬が上位に入りやすいのは、2000年に日本中央競馬会が実施した20世紀の名馬大投票の結果を見れば明らかである。50年以上前に走ったにも関わらずランクインした本馬は、紛れもなく19世紀英国を代表する名馬だったのである。馬名は古代ギリシアの詩人ホメロスの長編叙事詩イーリアスに登場するトロイ最後の王プリアモスの事である。

血統

Emilius Orville Beningbrough King Fergus Eclipse
Creeping Polly
Fenwick's Herod Mare Herod
Pyrrha
Evelina Highflyer Herod
Rachel
Termagant Tantrum
Cantatrice
Emily Stamford Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Horatia Eclipse
Countess
Whiskey Mare Whiskey Saltram
Calash
Grey Dorimant Dorimant
Dizzy
Cressida Whiskey Saltram Eclipse Marske
Spilletta
Virago Snap
Regulus Mare
Calash Herod Tartar
Cypron
Teresa Matchem
Brown Regulus
Young Giantess Diomed Florizel Herod
Cygnet Mare
Sister to Juno Spectator
Horatia
Giantess Matchem Cade
Partner Mare
Molly Long Legs Babraham
Foxhunter Mare

エミリウスは当馬の項を参照。

母クレシダは競走馬としての経歴はよく分からないが、クレシダの半姉には英首位種牡馬3回のソーサラー(父トランペッター)、全姉にはエレノア【英ダービー・英オークス】、ジュリア【ジュライS・2着英オークス】がおり、ジュリアの子にはファントム【英ダービー】が、クレシダの半妹ウォルトンメア(父ウォルトン)の子にはニコロ【英2000ギニー】がいるなど、当時としては相当優秀な牝系の出であった。クレシダ自身の繁殖牝馬としての実績も相当なもので、本馬の半兄アンター(父ハファザード)【英2000ギニー】も産んでいる。また、本馬の半姉リンダ(父ウォータールー)の子にコリオラヌス【英シャンペンS】、孫にグリムストン【グッドウッドC】とザキュア【英シャンペンS】の兄弟がいる。本馬はクレシダの10番子。しかしクレシダの牝系子孫は上述した以上には発展しなかった。

クレシダの半妹ウォルトンメアの牝系子孫は発展しており多くの活躍馬が出ているが、既にソーサラーの項に記載したので、本項では省略する。→牝系:F6号族①

母父ウィスキーは英ダービー6着など競走馬としてはあまり目立つ成績を残せなかったが、種牡馬としては優秀な成績を収めた。ウィスキーの父ソルトラムはマイル戦として行われた最後の英ダービーの勝ち馬で、後に米国に輸出されている。ソルトラムの父はエクリプスである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はスタンホープ卿所有のブレットビーパークスタッドにおいて、種付け料30ギニーで種牡馬入りした。しかし本馬の英国における種牡馬供用期間は僅か4年だった。1836年、米国アラバマ州に在住していた愛国系米国人のジェームス・ジャクソン氏が種牡馬購入のために英国に来て、本馬かプレニポテンシャリー(本馬と同じくエミリウス産駒の英ダービー馬)のいずれかを購入する事をサラブレッド競売会社タタソールズ社の代表エドモンド・タタソール氏(タタソールズ社の創設者リチャード・タタソール氏の息子)に打診してきた。しかしタタソール氏は両馬とも売る事は出来ないと拒否したため、ジャクソン氏は両馬の代わりに英2000ギニー・グッドウッドC・アスコット金杯の勝ち馬グレンコーを購入する事になった。しかし続いて米国ヴァージニア州のA・T・B・メリット博士が1万5千ドル(3500ギニー)で本馬の購入を打診してきたとき、当時重い負債に悩んでいたスタンホープ卿は本馬の売却を決定。本馬は翌1837年に米国に移動し、ヴァージニア州ヒックスフォードスタッドで種牡馬生活を開始した。

本馬が渡米した直後になって英国に残してきた産駒が活躍。前述の19世紀における英国の名馬ランキングにおいて本馬より上位の20位に入った英国クラシック競走3勝馬クルシフィックスなどが出て、1839・40年と2度の英首位種牡馬に輝いた。そして本馬は米国でも優秀な種牡馬成績を挙げ、1842・44・45・46年と4度の北米首位種牡馬に輝いた。英米両国で首位種牡馬を獲得した馬は史上初めてであり、本馬以降はナスルーラの登場まで100年以上出現しなかった。英国における産駒の活躍を受けて、本馬を米国から買い戻す動きも出たが、米国でも成功していた本馬の買い戻しは失敗に終わった。

本馬は15歳時にテネシー州の馬産家レナード・チータム氏に購入された後、ハーディング将軍が所有するテネシー州ナッシュビル近郊のベルミードスタッド(後にボニースコットランドが種牡馬入りする米国の名門牧場)で種牡馬生活を続けた。そして1847年、20歳の時に他界した。種牡馬として大きな成功を収めた本馬だが、英国における活躍馬は牝馬が多く、また米国ではサイアーラインの継続よりも米国由来の牝系の発展に力が入れられていた(もともと本馬を米国に輸入したのは、米国由来の牝系から出た馬との異系交配を目的としていたらしい)事もあり、結果として本馬の直系は繁栄せず、牝駒を通じて後世に血を残した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1834

Miss Letty

英オークス

1835

Industry

英オークス

1837

Crucifix

英2000ギニー・英1000ギニー・英オークス・ジュライS・モールコームS

1837

Giges

仏2000ギニー・ランペルール大賞

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