デザートオーキッド

和名:デザートオーキッド

英名:Desert Orchid

1979年生

芦毛

父:グレイミラージュ

母:フラワーチャイルド

母父:ブラザー

芦毛の真っ白な馬体で果敢に先頭を走り続け、キングジョージⅥ世チェイス4回・チェルトナム金杯制覇などを果たした英国の名障害競走馬

競走成績:4~12歳時に英愛で走り通算成績72戦34勝2着12回3着8回

芦毛のアイドルホースと言えば日本においてはオグリキャップ、米国ではネイティヴダンサーが真っ先に思い浮かぶ存在である。それでは競馬の母国たる英国における芦毛のアイドルホースとして1番にその名前が挙がる馬は何か。それはおそらく本項の主人公デザートオーキッドである。日本では馴染みが薄い障害競走馬であるため、日本における知名度はあまり高くないが、英国では競馬ファンでなくても誰もがその名を1度は聞いたことがある存在である。

現役時代から真っ白な馬体をしており、その目立つ毛色を光らせながらほぼ全てのレースで果敢に先頭を走った事が人気の秘訣であり、“Dessie(デジー)”の愛称で英国民に親しまれた。英レーシングポスト紙が本馬存命中の2004年に企画した「Favorite 100 Horse」では、アークルに次ぐ第2位(第3位がレッドラム)にランクされている。しかし決して人気先行の馬ではなく、英タイムフォーム社のレーティングにおいてはスティープルチェイス部門歴代6位となる187ポンドが与えられている実力馬でもあった(ただし英国障害競走の祭典チェルトナムフェスティバルにおける成績が後述する理由のため悪く、これでも評価は抑えられているほうである)。

誕生からデビュー前まで

ジェームズ・バリッジ氏という人物によって英国で生産された。バリッジ氏は当初本馬を狩猟馬として使役していた。しかしデビッド・エルスワースという調教師にその素質を見出され、ジェームズ・バリッジ氏に加えて、彼の家族であるミッジ・バリッジ氏、リチャード・バリッジ氏、サイモン・ブリモア氏達の共同所有馬として障害競走で走る事になった。エルスワース師は後に名牝インザグルーヴや長距離競走のアイドルホース・パーシャンパンチも手掛けることになる人物である。

競走生活(82/83シーズン)

デビュー戦は4歳になったばかりの1983年1月にケンプトンパーク競馬場で行われた16ハロンのノービスハードル競走だった。しかし主戦となるコリン・ブラウン騎手騎乗の本馬は単勝オッズ51倍の低評価だった上に、最初の障害でいきなり落馬競走中止となった(勝ち馬ボードマンズクラウン)。あまりにも無残に落ちたので、この1戦のみで競走馬としてのキャリアは終わると思った人も多く、このデビュー戦を見た者で本馬の後の活躍ぶりを予測できた人は誰もいなかったらしい。

次走は翌月にウィンカントン競馬場で行われた16ハロンの未勝利ハードル競走だった。ここでは単勝オッズ10倍まで評価を上げ、一応は完走を果たした(レースはレイズジオファーという馬が勝ち、本馬の順位は着外)。翌月にサンダウンパーク競馬場で出た16ハロンのノービスハードル競走では単勝オッズ8倍で、勝ち馬ダイアモンドハンターから首差の2着と好走。しかし同月に出たニューベリー競馬場16ハロンのノービスハードル競走では、単勝オッズ3.5倍で2番人気に推されながらもアップルジョーの7着に敗退。結局1982/83シーズンは4戦未勝利に終わった。

競走生活(83/84シーズン)

翌1983/84シーズンは、10月にアスコット競馬場で行われた16ハロンのノービスハードル競走から始動。ここでは単勝オッズ2.375倍の2番人気に推されると、スタートからゴールまで先頭を驀進し、単勝オッズ2.25倍の1番人気に推されていたラッキーラスカルを20馬身差の2着に切り捨てて初勝利を挙げた。翌月にも同コースのノービスハードル競走に出走して、2着ドンジョヴァンニに15馬身差をつけて圧勝した。

翌月に出たサンダウンパーク競馬場21.5ハロンのノービスチェイス競走では単勝オッズ1.83倍の1番人気に支持されたが、ゴール直前でキャッチフレーズに差されて3/4馬身差の2着に敗れた。

しかしハードル競走に戻るとやはり強く、デビュー戦と同じケンプトンパーク競馬場16ハロンのノービスハードル競走では単勝オッズ2.75倍の1番人気に応えて、2着アイハブントアライトに15馬身差をつけて逃げ切り圧勝。年明け1月にサンダウンパーク競馬場で出たトルワースハードル(16F)では単勝オッズ1.83倍となり、2着アイハブントアライトに8馬身差をつけて逃げ切り圧勝した。2月に出たアスコット競馬場16ハロンのノービスハードル競走では単勝オッズ3倍の1番人気で、2着ヒルズページェントに8馬身差で圧勝。同月にウィンカントン競馬場で出たキングウェルハードル(16F)でも単勝オッズ3倍の1番人気で、2着スタンズプライドに4馬身差で逃げ切り圧勝。

翌3月には初めてチェルトナム競馬場に姿を現し、英チャンピオンハードル(16F)に参戦した。快進撃を続けていた本馬だったがここでは相手も手強く単勝オッズ8倍止まり。そしてレースでも逃げてゴール前で失速し、単勝オッズ1.8倍の1番人気に推されていた牝馬ドーンラン(後に史上唯一の英チャンピオンハードル・チェルトナム金杯ダブル制覇を果たし、愛国競馬史上最も活躍した障害競走馬の1頭に数えられている)の着外に敗れた。以後も本馬にとってチェルトナム競馬場は鬼門となる。それでも1983/84シーズンの成績は8戦6勝で、全シーズンと比べると大きな飛躍を遂げた1年となった。

競走生活(84/85シーズン)

1984/85シーズンは、10月にケンプトンパーク競馬場で行われた16ハロンのハードル競走から始動。単勝オッズ3倍の1番人気に支持されたが、ラノヴァの5馬身半差3着に敗れた。次走のアスコット競馬場16ハロンのハードル競走では単勝オッズ6倍の評価で、シーユーゼンの7馬身差3着。次走のケンプトンパーク競馬場16ハロンのハードル競走では単勝オッズ11倍まで評価を下げ、結果もブラウンズガゼットの15馬身差2着だった。翌1月には愛国レパーズタウン競馬場に向かい、ハンデ戦のリステッドハードル競走に出たが、単勝オッズ12倍とそれほど評価されず、結果はハンセルラグの13着と惨敗した。しかし翌2月にサンダウンパーク競馬場で出た16ハロンのハードル競走では単勝オッズ3倍の1番人気に支持されると、3番手追走から鮮やかに抜け出し、2着ミスタームーンレイカーに10馬身差をつけて1年ぶりの勝ち星を挙げた。

そして再びチェルトナム競馬場に向かい英チャンピオンハードル(16F)に参戦。しかし単勝オッズ21倍の人気薄だった。レースはシーユーゼンが圧勝を収める一方で、本馬は大差をつけられて14着最下位に惨敗(記録上は競走中止)。翌4月にチェプストウ競馬場で出たウェルシュチャンピオンハードル(16F)でも、勝ち馬ブラウンズガゼットから大差をつけられて7着最下位に惨敗(記録上は競走中止)。さらにアスコット競馬場16ハロンのハードル競走に出走。単勝オッズ5.5倍の評価を受けたが、今回は落馬して競走中止(勝ち馬コメディフェア)。

ここでエルスワース師は試みに本馬を平地競走で走らせてみる事にしたようで、次走はサガロS(英GⅢ・T16F)となった。しかし単勝オッズ34倍の人気薄で、結果もやはり通用せず、勝ち馬ロングボートから大差をつけられて着外に敗れた。1984/85シーズンの成績は9戦1勝で、明らかに壁に突き当たってしまった。

競走生活(85/86シーズン)

1985/86シーズンは10月にケンプトンパーク競馬場で行われた16ハロンのハードル競走から始動。単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持されたのだが、またしても落馬競走中止。ここに至ってエルスワース師は本馬のハードル競走出走を諦め、スティープルチェイス競走に向かわせることにした。

そして翌11月にデヴォン競馬場で行われた17ハロンのノービスチェイス競走に出走した。本馬がチェイス競走を走るのは2度目であり、前回は1番人気に応えられずに3/4馬身差の2着に惜敗していた。しかし今回は単勝オッズ1.8倍の1番人気に応えて、2着チャコールウォーリーに25馬身差をつけて逃げ切り圧勝した。同月にアスコット競馬場で出たハーストパークノービスチェイス(T16F)では単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持されると、2着コカインに12馬身差をつけて圧勝。さらに同月にサンダウンパーク競馬場で出た16ハロンのノービスチェイス競走では単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持され、2着タフィージョーンズに7馬身差をつけて逃げ切り勝利。さらに翌12月に出たアスコット競馬場20ハロンのノービスチェイス競走では単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持され、2着イヴニングソングに20馬身差をつけて圧勝した。年が変わって1月にはアスコット競馬場16ハロンのノービスチェイス競走に出て単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持されたが、ここでは落馬競走中止。翌月のサンダウンパーク競馬場16ハロンのノービスチェイス競走では単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持されたが、ベルリンの半馬身差2着に敗れた。

翌月には鬼門のチェルトナム競馬場に向かい、アークルチャレンジトロフィー(16F)に参戦。単勝オッズ6.5倍の評価だった本馬はスタートから先頭に立って逃げたが、最後に失速して、オレゴントレイルの8馬身3/4差3着に敗退した。

その後はサンダウンパーク競馬場20.5ハロンのノービスチェイス競走に向かい、単勝オッズ1.91倍の1番人気に推されたが、クララマウンテンの1馬身半差2着に敗れた。続いて出たアスコット競馬場20ロンのノービスチェイス競走では1番人気ながら単勝オッズは6倍と絶対視はされず、レースでも最終障害で飛越に失敗して落馬こそ免れたが順位を落とし、レピントンの7馬身1/4差5着に終わった。1985/86シーズンの成績は10戦4勝で、前シーズンよりはましだがあと一息といったところだった。

競走生活(86/87シーズン)

1986/87シーズンは11月にサンダウンパーク競馬場で行われた20.5ハロンのチェイス競走から始動。単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持されると、2着ジアルゴーに4馬身差をつけて逃げ切った。次走のアスコット競馬場20ハロンのチェイス競走では単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持されるも、途中の障害飛越でもたつき、チャーチワーデンの5馬身半差4着に敗れた。しかしビクターチャンドラーハンデキャップチェイス(英GⅡ・16F)では単勝オッズ4.5倍の3番人気ながら、2着チャコールウォーリーに12馬身差をつけて圧勝。

さらにキングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ・24F)では単勝オッズ17倍の人気薄ながら、スタートから先頭に立って途中の障害を次々に無事飛越し、2着ドアラッチに15馬身差をつけて圧勝した。年明け初戦のゲインズボローチェイス(24.5F)では単勝オッズ3.75倍の2番人気だったが、2着スティアーズビーに10馬身差をつけて圧勝した。次走のジムフォードチャレンジC(25F)では単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されると、2着ミスタームーンレイカーに12馬身差をつけて逃げ切り勝利した。

そしてチェルトナム競馬場に向かい、クイーンマザーチャンピオンチェイス(16F)に出走。単勝オッズ3.25倍で2番人気での出走だった。レースでは障害を全て無事に飛越したものの、平地のスピード能力で後れを取り、勝ったパーリーマンから3馬身1/4差の3着に敗退。

次走のアスコット競馬場20ハロンのチェイス競走では単勝オッズ2.75倍の1番人気に応えて、2着ゴールドベアラーに2馬身差で勝利。ウィットブレッド金杯(29F)では単勝オッズ4.5倍での出走となったが、早い段階の障害で飛越に失敗して後方まで下がり、最後から6番目の障害でブラウン騎手が飛越を断念して競走中止。1986/87シーズンの成績は9戦6勝となった。

競走生活(87/88シーズン)

1987/88シーズンは10月にウィンカントン競馬場で行われたテリービドレコンベチャレンジトロフィーチェイス(21F)から始動。ここでは単勝オッズ1.14倍という圧倒的な1番人気に支持された。そしてスタートから延々と後続馬を引き離し続け、2着ビショップスヤーンに着差測定不能の大差をつけて圧勝した。次走のランキボクシングデイトライアルチェイス(20F)でも単勝オッズ1.2倍という圧倒的な1番人気に支持されると、2着ビショップスヤーンに12馬身差をつけて逃げ切り勝利。

その後は軽度のスランプに陥り、ティングルクリークチェイス(英GⅡ・16F)では単勝オッズ1.91倍の1番人気に応えられず、ロングエンゲージメントの3馬身差2着に敗退。キングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ・24F)でも単勝オッズ2倍の1番人気に応えられず、勝ったヌプサラから15馬身差をつけられて2着に敗れた。年明け初戦のゲインズボローチェイス(24.5F)では単勝オッズ4.5倍の2番人気と少し評価を下げると、ゴール前の平地の脚で敵わずに、チャーターパーティの8馬身1/4差3着に敗れた。次走のジムフォードチャレンジC(25F)では単勝オッズ3倍の1番人気となったが、やはりゴール前で差されて、キルディモの1馬身半差2着に敗れた。

次走はチェルトナム競馬場で行われたクイーンマザーチャンピオンチェイス(16F)となった。単勝オッズ10倍という評価での出走となった本馬はスタートから先頭を走り続け、最終障害を先頭で飛越するも、最後に差されてパーリーマンの5馬身差2着に敗退。これでチェルトナム競馬場では5戦全敗となった。

その後はエイントリー競馬場に向かい、チヴァスリーガルカップチェイス(25F)に参戦。キルディモが単勝オッズ3倍の1番人気で、今まで長らく主戦を務めてきたブラウン騎手に代わってサイモン・シャーウッド騎手を新たな相棒に迎えた本馬は単勝オッズ4倍の2番人気だった。しかし新コンビの呼吸はぴったりで、飛越も走りも完璧であり、キルディモを8馬身差の2着に破って勝利した。

続いてウィットブレッド金杯(29F)に出走。ここではキルディモと並んで単勝オッズ7倍での出走となった。レースではゴール前でキルディモに詰め寄られながらも、2馬身半差をつけて逃げ切った。1987/88シーズンの成績は9戦4勝となった。

競走生活(88/89シーズン)

1988/89シーズンは10月にウィンカントン競馬場で行われたテリービドレコンベチャレンジトロフィーチェイス(21F)から始動。単勝オッズ1.29倍の1番人気に支持されると、2着ビショップスヤーンに15馬身差をつけて楽勝した。次走のティングルクリークチェイス(英GⅡ・16F)では単勝オッズ3.5倍の2番人気だったが、2着ジムソープに12馬身差をつけて逃げ切り圧勝。次走のキングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ・24F)では単勝オッズ1.5倍の1番人気に応えて、2着キルディモに4馬身差をつけて勝利した。

年明け初戦となったビクターチャンドラーハンデキャップチェイス(英GⅡ・16F)では単勝オッズ2.5倍の1番人気だった。ここでは先頭で最終障害に臨むも少し飛越に失敗して後続との差を縮められたが、なんとか2着パントプリンスに頭差で勝利した。次走のゲインズボローチェイス(T24.5F)では単勝オッズ2.2倍の1番人気だった。前走と同じくゴール前で後続馬に詰め寄られて苦戦を強いられたが、2着ペグウェルベイに3/4馬身差で勝利を収めた。

これで前シーズンからの連勝を7まで伸ばした本馬だが、次走は鬼門中の鬼門チェルトナム競馬場で行われるレースとなった。しかも出走したのは本馬にとって初挑戦となる、定量戦のチェイス競走としては最高峰に位置するチェルトナム金杯(英GⅠ・26F)だった。過去5戦全敗の競馬場だった上に、レース当日は雪混じりの雨天のためスタミナを消耗する不良馬場となっており、元々スタミナ面の不安が指摘されていた本馬にとって最悪の条件となった。それでも単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持されたのは、既に本馬のアイドルホースとしての人気が不動のものとなっていたからでもあろう。

スタートが切られると本馬はいつも通り逃げを打ったが、レース半ばから徐々に後退し、テンプラスに先頭を奪われた。やがてテンプラスとの差が徐々に開き、もはやここまでかと思われたのだが、最後から3番目の障害でそのテンプラスが落馬競走中止。代わりに先頭に立ったのは本馬と、内側を突いて上がってきた単勝オッズ26倍の伏兵ヤフー(重馬場を非常に得意としていた)の2頭だった。この2頭がほぼ同時に最終障害を飛越し、最後は2頭の一騎打ちとなった。本馬は直線で大きく外側に膨らんでいた(後述するように本馬は疲れてくると右側によれる癖があった)が、徐々に左側に戻ってきて、ヤフーに馬体を併せると競り落とし、2着ヤフーに1馬身半差、3着チャーターパーティにはさらに8馬身差をつけて勝利した。本馬鞍上のシャーウッド騎手は「彼は馬場に脚を取られており、地面を蹴るたびに苦しそうでした。それでも彼は走り続けました。私はこんな勇敢な馬を見た事はありません」と評した。勝ち戻ってきて鞍が外された本馬の周囲には、競馬場に来場していた5万8千人のファンのうち数千人が集結して万歳三唱を行った。後の2004年に英レーシングポスト誌が企画した「100 Greatest Races」において、本馬が優勝したこのチェルトナム金杯が堂々の第1位に選ばれている。

その後はエイントリー競馬場に向かい、チヴァスリーガルカップチェイス(25F)に出走。単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持されたが、12番目の障害で落馬競走中止。レースは前走で破ったヤフーが2着デリウスに10馬身差、3着ビショップスヤーンにもさらに10馬身差をつけて勝利を収めた。最後にこけてしまったものの、1988/89シーズンの成績は7戦6勝で、過去最高と言えるシーズンとなった。

競走生活(89/90シーズン)

1989/90シーズンは11月にウィンカントン競馬場で行われたリルバーバックチェイス(25F)から始動した。このレースから本馬の主戦はリチャード・ダンウッディ騎手となった。レースはロールアジョイントという馬との2頭立てだったため、落馬さえしなければ本馬が負ける要素は少なく、単勝オッズ1.22倍の1番人気に支持されると、終始先頭を走り続けてロールアジョイントを12馬身ちぎって勝利した。次走のティングルクリークチェイス(英GⅡ・16F)では単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されたが、ゴール前でロングエンゲージメントに差されて2馬身半差の2着に敗れた。しかし次走のキングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ・24F)では単勝オッズ1.67倍の1番人気に応えて、2着バーンブルックアゲインに8馬身差をつけて逃げ切り勝利した。

年明け初戦のレーシングインウェセックスチェイス(21F)では単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持されると、2着バートレスに20馬身差をつけて圧勝した。さらにレーシングポストチェイス(24F)では171ポンドというとんでもない斤量が課せられながらも単勝オッズ1.73倍の1番人気に支持されると、期待に応えて2着デリウスに8馬身差をつけて勝利した。

そして2連覇を目指してチェルトナム金杯(英GⅠ・26F)に参戦して、単勝オッズ1.91倍の1番人気に支持された。今回はスタートから先頭を走り続け、最終障害を無事に先頭で飛越した。しかしここで後続馬に差されて4馬身3/4差の3着に敗退。勝ったのは単勝オッズ101倍の超人気薄ノートンズコインだった。

その後は愛国に向かい、愛グランドナショナル(28F)に参戦。168ポンドという最高負担重量ながらも単勝オッズ2倍の1番人気に支持された。そして最終障害で体勢を大きく崩しながらも2着バーニーバーネットに10馬身差をつけて圧勝し、人気に応えた。1989/90シーズンの成績は7戦5勝だった。

競走生活(90/91シーズン)

1990/91シーズンは11月にデヴォン競馬場で行われたハルドン金杯チャレンジチェイス(17F)から始動。単勝オッズ2倍の1番人気に支持されたが、レースではスタートから先頭に立つことができずに2番手を走り、そのままサバンデュロワールの6馬身差2着に敗れた。次走のティングルクリークチェイス(英GⅡ・16F)では単勝オッズ6倍の4番人気に評価を落とし、レースでも道中で先頭から脱落するとそのまま伸びずに、勝ったヤングスナッグフィットから20馬身差の4着に敗れた。

次走のキングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ・24F)では単勝オッズ3.25倍の1番人気となり、今回はスタートからゴールまで先頭を走り抜けて、2着トビートバイアスに12馬身差をつけて圧勝を収め、同競走3連覇(4勝目)を達成した。年明け初戦となったビクターチャンドラーハンデキャップチェイス(英GⅡ・16F)でも単勝オッズ3.25倍の1番人気に支持されたが、逃げ切りに失敗して、ブリッツクリーグの6馬身差4着に敗退。次走のアグファダイアモンドチェイス(英GⅡ・24.5F)では単勝オッズ1.67倍の1番人気となり、2着ニックザブリーフに3/4馬身差で際どく勝利した。

その後は3度目のチェルトナム金杯(英GⅠ・26F)に向かった。単勝オッズ5倍の2番人気で出走した本馬はスタートから逃げを打ったが、最後から6番目の障害で順位を落とし、そのまま盛り返せずに、勝ったギャリソンサバンナと2着ザフェローの同着寸前の大激戦から15馬身差をつけられて3着に終わった。これがチェルトナム競馬場における最後のレースで、同競馬場における最終成績は8戦1勝となった。1990/91シーズンの成績は6戦2勝だった。

競走生活(91/92シーズン)

1991/92シーズンは10月にウィンカントン競馬場で行われたデザートオーキッドサウスウェスタンパターンチェイス(英GⅡ・21F)から始動。自身の名を冠したレースだったが、単勝オッズ1.73倍の1番人気に推されたのはサバンデュロワールで、本馬は単勝オッズ2.75倍の2番人気だった。そしてレースでもサバンデュロワールに終始先手を取られ、そのまま追いつけずに6馬身差の2着に敗れた。11月に出たピーターボローチェイス(英GⅡ・20F)でも、サバンデュロワールが単勝オッズ1.57倍の1番人気で、本馬は単勝オッズ3.5倍の2番人気だった。そしてやはり逃げることが出来ずに、サバンデュロワールの4馬身差3着に敗退した。

翌12月に出た6度目のキングジョージⅥ世チェイス(英GⅠ・24F)では単勝オッズ5倍の2番人気だった。レースではスタートから先手を取ることに成功するも、11番目の障害で飛越に失敗した辺りから走り方がおかしくなり、そのまま殿に落ちて、ザフェローの8着最下位(記録上は競走中止)に惨敗。このレースを最後に競走馬生活に終止符を打った。

競走馬としての特徴

チェルトナム競馬場における成績は非常に悪かったが、その原因は同競馬場が左回りのコースだったためらしい。本馬はスタミナが無くなってくると右側によれる癖があった。右回りの競馬場であれば右側に柵があるために斜行によるロスを抑えることが出来たが、左回りの競馬場だと延々と右側に漂流してしまう事が多かった。チェルトナム金杯で敗れた2回も、クイーンマザーチャンピオンチェイスで敗れた2回もまさにそれで失速している。

本馬は英グランドナショナルには1度も参戦しなかったが、その理由について共同所有者の1人リチャード・バリッジ氏は、同レースが左回りだった上に、その第8及び24障害であるキャナルターン(飛越した直後にコースが90度曲がるので、非常に事故が多発している事で悪名高い)の飛越は本馬に致命的な怪我を負わせる危険性が高いと考えたからだと述べている(実際には距離不安など他に様々な要因もあったのだろうが)。

怪我と書いたので思い出したが、本馬の特筆すべきところは、現役時代を通じて故障知らずの馬だった事である。落馬競走中止は何度かあったが、それでも怪我をする事は無かったから、非常に頑丈な馬だったのであろう。本馬に最も多く騎乗したブラウン騎手は後に「彼は引退するまで故障する事はありませんでした。ライオンのような闘争心を持った偉大なる障害競走馬で、まるで車を運転するかのように加減速する事が出来ました」と述べている。

それでは気性が良い馬だったのかというと、決してそんな事は無かったようで、本馬の現役時代終盤に主戦を務めたダンウッディ騎手は「まるで悪魔のような気性の持ち主で、スタート前に背中に乗ることが一番困難でした」と語っている。もっともダンウッディ騎手は「レースが始まると安定しました」とも付け加えており、平素は非常に気性が荒いがレースにおいては優等生というタイプの競走馬だったようである。

ところで本馬の通算成績に関しては、各種資料で必ずと言って良いほど70戦34勝2着11回3着8回となっている。しかし筆者が本馬の全レースが掲載された資料を精査すると、72戦34勝2着12回3着8回になってしまう。その当の資料の冒頭で70戦34勝2着11回3着8回と書かれているにも関わらず、である。平地競走には1回しか参戦していないので、それを別にしてもやはり計算が合わない。この食い違いの原因が何なのかは筆者にはよく分からない。

血統

Grey Mirage Double U Jay Major Portion Court Martial Fair Trial
Instantaneous
Better Half Mieuxce
Malay Bride
Renounce Big Game Bahram
Myrobella
Refreshed Hyperion
Monsoon
Fair Inez Prince Chevalier Prince Rose Rose Prince
Indolence
Chevalerie Abbot's Speed
Kassala
Floria Tosca Dante Nearco
Rosy Legend
Cincture Hyperion
Cinnebar
Flower Child Brother Nearula Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Respite Flag Of Truce
Orama
Aunt Agnes Lambert Simnel Fair Trial
Simnel
Cosmo Girl Sir Cosmo
Bellona
Grey Orchid No Orchids Felicitation Colorado
Felicita
Serena Blandish Gainsborough
Blandishment
Harbour Lights Portlaw Beresford
Portree
Twilight Sleep Son and Heir
Nightfall

父グレイミラージュは英国産馬で、競走馬としても英国で走り、アスコット2000ギニートライアルS・ラドブローク2000ギニートライアルSなど7勝を挙げ、ロッキンジS(英GⅡ)でブリガディアジェラードの2着に入っている。種牡馬としては本馬以外に特筆できる産駒はいない。グレイミラージュの父ダブルユージェイは現役時代9戦4勝、ピーターヘイスティングスS・サマーヴィルSを勝っているが、それほど目立つ競走馬ではなく、種牡馬としても活躍は出来なかった。ダブルユージェイの父メジャーポーションはコートマーシャルの直子で、現役時代はミドルパークS・セントジェームズパレスS・サセックスS・クイーンエリザベスⅡ世S・チェシャムSを勝ち、英2000ギニーでポールモールの2着に入った名マイラー。英最優秀2歳牡馬と英最優秀マイラーに選出されている。種牡馬としての成績は並だった。

母フラワーチャイルドは本馬と同じくジェームズ・バリッジ氏の生産・所有馬で、やはり障害競走を走り、勝ち星も挙げている。近親には活躍馬はいないが、母系は欧州短距離女王ロックソングや、ビワハヤヒデ、ナリタブライアン、ファレノプシス、キズナ達と同じである(フラワーチャイルドの4代母ダークリンの半妹フィフィから7代目がパシフィカス)。→牝系:F13号族②

母父ブラザーは競走馬としてのキャリアは不明。ブラザーの父ネアルーラはナスルーラ産駒で、現役成績14戦7勝。英2000ギニー・英チャンピオンS・ミドルパークS・セントジェームズパレスSを勝った名馬。種牡馬としてはそれほど実績を残していないが、本邦輸入繁殖牝馬マイリーが日本に来た際に受胎していたキューピット(華麗なる一族の祖)の父として日本では知られている。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はエルスワース師のところで余生を送ることになった。引退から1年後に疝痛を発症して生命の危機に見舞われたが克服した。その後は、夏場はバリッジ一家のところで休暇を過ごし、冬場にはエルスワース師と共に各地を回ってイベントに参加するという日々を過ごした。特に4勝を挙げたキングジョージⅥ世チェイスが行われる際には本馬がパレードを先導するのが通例となっていた。

本馬は慈善事業のイベントに参加することが多く、その存在により多額の寄付金が集まった。また、本馬には共同所有者の1人ミッジ・バリッジ氏が家族や友人と一緒に設立したファンクラブがあり、カレンダーの販売などにより多くの収益を得て、その全てが慈善団体に寄付されていた。本馬の誕生日やクリスマスには毎年数百枚のカードが送られてきたし、ニンジンやお菓子なども大量に送られてきた。

2005年にエルスワース師が長年過ごしたホワイツバリーを離れてニューマーケットに引っ越した時に、本馬も一緒についていった。その後はニューマーケットのエジャートンハウスステーブルにおいて余生を過ごしていたが、2006年11月に体調を崩し、同月13日の午前6時5分に、関係者達に見守られながら27歳で静かに息を引き取った。遺灰はキングジョージⅥ世チェイスが行われるケンプトンパーク競走場に建てられていた本馬の彫像の隣に埋葬された。

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