サイリーン

和名:サイリーン

英名:Cyllene

1895年生

栗毛

父:ボナヴィスタ

母:アルカディア

母父:アイソノミー

英国クラシック未登録の鬱憤をアスコット金杯の圧勝劇で払拭するも偏見のため英国を追われて亜国に移り住んだ大種牡馬

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績11戦9勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

英国ハードウイックスタッドにおいて、チャールズ・デイ・ローズ氏(後に准男爵)により生産・所有された。ローズ氏は事業家兼政治家であり、後の英国王エドワードⅦ世とは皇太子時代から懇意にしており、1890年に英国ジョッキークラブの会員にも選任されていた。

本馬の両親はいずれもローズ氏の所有馬だった。本馬の牝系は決して悪いものではなかったが、母アルカディアが最初に産んだ2頭の産駒(ミンティング産駒の牝馬とシーン産駒の牡馬。前者は2戦未勝利、後者は4戦未勝利のまま表舞台から姿を消している)が活躍しなかったため、本馬に対するローズ氏の期待は低かった。しかも本馬は誕生日が5月28日という遅生まれの上に馬体が小さかったため、ローズ氏は英国クラシック競走に本馬を登録しなかった。そして1歳になった本馬が、非常に見栄えが良い馬となり、走っても優れた能力を垣間見せるようになると、ローズ氏はクラシック登録を怠ったことを後悔したが、既に手遅れだった。そのため、本馬は英国クラシック競走に出ることなくして自身の能力を証明する必要が生じたのだった。

成長した本馬は、次のように評されている。「身体の構成は緻密であり、気性は天使のようであり、素晴らしく凛々しい馬だった。」担当調教師はニューマーケットのウィリアム・ジャーヴィス師、主戦はサミュエル・ローテス騎手が務めた。ローズ氏は自身がクラシック登録を怠った本馬に償う目的だったのか、本馬専用の豪華な列車を準備して、ニューマーケットの厩舎と各競馬場の行き来にはこの列車を使用させたという。

競走生活(2歳時)

2歳3月(本馬の誕生日より2か月前)にリヴァプール競馬場で行われたセフトンパークプレートでデビューした。このレースにはこれといった有力馬は他にいなかったこともあり、馬なりのまま2着コモンダンスに3馬身差で楽勝した。2戦目のワースSでは2歳馬にして129ポンドを課されたが、当時無名だったサイミントン産駒の牝馬(後にワイラムと命名されてステークスウイナーとなっている)を3/4馬身差の2着に抑えて勝利した。3戦目はアスコット競馬場で行われたトリエニアルSとなり、ここでも129ポンドを背負いながら、3ポンドのハンデを与えたナンナイサー(翌年の英1000ギニーを勝ち英オークスで2着している)を退けて3馬身差で勝利した。

次走は、当時の英国における最大級の2歳戦の1つだったナショナルブリーダーズプロデュースS(T5F)となり、単勝オッズ1.83倍の1番人気に支持された。ここでは130ポンドを課せられた影響もあってかゴール直前まで今ひとつ伸びを欠いていたが、それでも7ポンドのハンデを与えたエバを頭差の2着に抑えて勝利した。

その後は3か月ほどの休養を経て、10月のインペリアルプロデュースS(T6F)に出走した。ここでは遂に136ポンドまで斤量が増え、10ポンドのハンデを与えたデュードネの1馬身差2着に敗れた。デュードネは後に、本馬が不在のミドルパークプレート・サセックスS・英チャンピオンSを勝利する事になる。本馬の2歳時の成績は5戦4勝であり、しかも大半のレースで重い斤量を課せられていた事から、同世代トップクラスの評価を得た。

競走生活(3歳時)

前述のとおり英国クラシック登録が無かったため、3歳時は裏街道を進むこととなった。まずは4月のコラムプロデュースSから始動したが、単勝オッズ1.18倍という断然の1番人気に応えられずに、セヤヌス産駒の無名牝馬の3着に敗退した。次走は、英2000ギニーの2週間後に行われたニューマーケットS(T10F)となった。ヘアメイルという有力馬に加えて、当時は無名だったジェダーが対戦相手となったが、2分07秒0のコースレコードで走破した本馬が、2着ヘアメイルに4馬身差をつけて圧勝した。この後の英ダービーでヘアメイルは着外に沈んだが、ニューマーケットSで3着(5着だったとする資料もある)だったジェダーが単勝オッズ101倍の超人気薄を覆して優勝したため、英国クラシック競走に参加資格がない本馬が同世代トップの実力を持つという評価がほぼ確立された。

夏場は休養に充て、秋には当時英ダービー以上の高額賞金レースだったジョッキークラブS(T10F)に出走。一昨年のナショナルブリーダーズプロデュースS・インペリアルプロデュースSを勝ち、前年には英1000ギニーを勝ち、英オークス・英セントレジャーでも2着していた4歳牝馬チェランドリー、一昨年のニューS・ジュライS・英シャンペンSの勝ち馬で、ミドルパークプレート・英2000ギニー・英ダービーでいずれも英国三冠馬ガルティモアの2着、エクリプスSでもパーシモンの2着だったが、その後に英チャンピオンS・エクリプスS・プリンセスオブウェールズSなどを勝つまでに成長していた4歳牡馬ヴェラスケス、この年の英オークスを勝ってきたエアーズアンドグレイシズ、インペリアルプロデュースSで本馬に黒星をつけたミドルパークプレート・サセックスSの勝ち馬デュードネなどの強豪馬勢が相手となった。しかし蓋を開けてみれば、単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持された本馬が、ヴェラスケスを6馬身差(4馬身差とする資料もある)の2着に、エアーズアンドグレイシズをさらに頭差の3着に下して圧勝した。

3歳最後のレースとなったサンダウンパークフォールSでは140ポンドを背負いながら、馬なりのまま2着パイパウダーに4馬身差で圧勝した。3歳時の成績は4戦3勝だった。

競走生活(4歳時)

4歳になった本馬は、英国クラシック競走に縁が無かった馬が出走できる最高のレースだったアスコット金杯を目指した。本番2日前に行われたアスコットトリエニアルSに調教代わりに出走すると、2着グリーナンに2馬身差で楽勝した。

本番のアスコット金杯(T20F)には、前年の仏ダービー・リュパン賞に加えてこの年のサブロン賞(現ガネー賞)を制した仏国最強馬ガルドフューも参戦してきた。しかし結果は単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された本馬が生涯最高のパフォーマンスを披露して、2着となった3歳馬ロードエドワードに8馬身差をつけて圧勝した(ガルドフューは3着だった)。このレースは序盤から終盤まで出走馬の順位に変動が無かったため、まるで行列のようだったと評された。また、鞍上のローテス騎手はゴール前で本馬の首を撫でて、かつ、観衆の声援に応えるために自分の帽子に手を触れて会釈するほどの余裕があったという。

これで名実共に英国最強の座に就いた本馬だったが、馬場が堅いアスコット競馬場で3日間に2戦したことが影響したのか、脚を痛めてしまい、長期休養を余儀なくされた。秋シーズンになると、本馬とこの年の英国三冠馬フライングフォックスの対戦を希望する声が高まり、実際に英チャンピオンSで2頭の直接対決が予定されていた。フライングフォックスとの対戦に向けて調教が再開された本馬だったが、故障した脚の状態は予想以上に悪く、結局アスコット金杯以降はレースに出ることなく、4歳時2戦2勝の成績で競走馬引退となった。なお、フライングフォックスも結局英チャンピオンSには出走しておらず、両雄不在の英チャンピオンSは本馬に黒星をつけた数少ない馬の1頭であるデュードネが優勝している。

本馬が出走したレースは、アスコット金杯を除けばあまり重要ではないものが多く、それが玉に瑕であると批評されることもあったが、チェランドリー、エアーズアンドグレイシズ、ヴェラスケス、ジェダー、ナンナイサーといった英国クラシック競走の上位組をことごとく粉砕している事から、その批評は当たらないとする意見も多い。少なくとも、本馬が同世代の中で最高の競走馬であった事には異論の余地は無いようであり、“English turf writer(イングリッシュ・ターフ・ライター)”には、もし本馬が英国クラシック登録をされていれば英国三冠馬になっていたはずであり、もしかしたらオーモンドの再来と呼ばれるようになっていたかもしれないと記載されている。

馬名は南ギリシアにあるサイリーン山(ギリシア神話においてヘルメス神の出身地とされている)のことで、母アルカディアの名前がギリシアの地名(転じて理想郷の意味)であることに由来すると思われる。

血統

Bona Vista Bend Or Doncaster Stockwell The Baron
Pocahontas
Marigold Teddington
Ratan Mare
Rouge Rose Thormanby Windhound
Alice Hawthorn
Ellen Horne Redshank
Delhi
Vista Macaroni Sweetmeat Gladiator
Lollypop
Jocose Pantaloon
Banter
Verdure King Tom Harkaway
Pocahontas
May Bloom Newminster
Lady Hawthorn
Arcadia Isonomy Sterling Oxford Birdcatcher
Honey Dear
Whisper Flatcatcher
Silence
Isola Bella Stockwell The Baron
Pocahontas
Isoline Ethelbert
Bassishaw
Distant Shore Hermit Newminster Touchstone
Beeswing
Seclusion Tadmor
Miss Sellon
Land's End Trumpeter Orlando
Cavatina
Faraway Young Melbourne
Maid of Masham

ボナヴィスタは当馬の項を参照。

母アルカディアは競走馬として2勝を挙げている。アルカディアの母ディスタントショアはローズ氏が1881年、1歳時のセリにおいて580ギニーで購入した馬で、彼が最初期に所有した馬の1頭である。ディスタントショアも競走馬として勝ち星を挙げている。本馬の全妹シーナの子にアスワン【サラマンドル賞】がいる他、アルカディアの半兄にはヴァンディーマンズランド(父ロバートザデヴィル)【3着英ダービー】、ガリバー(父ガリアード)【リッチモンドS・ハードウィックS】、半弟にはセントダミアン(父セントサイモン)【ハードウィックS】がいる。

また、アルカディアの半姉ヴァージニアショア(父ジョンデイヴィス)の子にダスキークイーン【ジムクラックS】とホイッティアー【チャレンジS】がいる他、ヴァージニアショアの牝系子孫には、ドナー【サプリングS・シャンペンS・ジェロームH・マンハッタンH】、プリンセスカレンダ【ハリウッドオークス(米GⅠ)・サンタマルガリータ招待H(米GⅠ)】、エルマームル【エクリプスS(英GⅠ)・愛チャンピオンS(愛GⅠ)】、リームズオブヴァーズ【英オークス(英GⅠ)・フィリーズマイル(英GⅠ)】、ザフォニック【英2000ギニー(英GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)・サラマンドル賞(仏GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)】、カーリング【仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、ソーンソング【シャドウェルターフマイルS(米GⅠ)・シューメーカーマイルS(米GⅠ)】、リーガルパレード【スプリントC(英GⅠ)・モーリスドギース賞(仏GⅠ)】、ミッデイ【BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)・ナッソーS(英GⅠ)3回・ヨークシャーオークス(英GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、日本で走ったローエングリン【中山記念(GⅡ)2回・マイラーズC(GⅡ)2回】などがいる。

また、アルカディアの半妹キメラ(父シーン)の牝系子孫には、インビゴレーター【カウディンS・ピーターパンS・ブルックリンH】、日本で走ったリードアン【中山大障害春】、イシノヒカル【菊花賞・有馬記念】、エビチカラ【東京大賞典】、パルブライト【東京三歳優駿牝馬・大井記念・新潟記念(GⅢ)・函館記念(GⅢ)】などがいる。

アルカディアから牝系を4代遡ると、33戦してグレートヨークシャーS・ニューカッスル金杯・カンバーランドS・クロックステスSなど22勝を挙げた名牝メイドオブマシャム(所謂ファミリーナンバー9号族を代表する根幹繁殖牝馬)に行きつく事ができ、“Thoroughbred Heritage”にも決して悪い牝系ではないと書かれている。しかし当時はそれほど近親から有力馬が登場しておらず、しかも本馬が誕生した1895年に豪州の競馬研究家ブルース・ロウ氏が発表した牝系研究により、9号族からは名競走馬も名種牡馬もあまり登場しないと結論付けられてしまった(9号族からは後に数え切れないほどの名競走馬・名種牡馬が登場しており、この説が全くの出鱈目なのは周知の事実となっている)ため、この当時の評価は低かったとされている。→牝系:F9号族②

母父アイソノミーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はローズ氏の所有のもと、英国で種牡馬入りした。初年度の種付け料は150ギニーと比較的手頃な値段に設定された。しかし本馬の種牡馬人気は上がらず、種牡馬入り5年目の1905年には100ギニーまで種付け料が下げられた。本馬が種牡馬として不人気だった理由は“Thoroughbred Heritage”によると、英国クラシック競走未勝利という理由の他に、父ボナヴィスタが既にハンガリーに売却されていたという偏見や、前述のとおり本馬の牝系からは名種牡馬が出ないというブルース・ロウ氏の説が発表されていた事などが挙げられるという。

初年度産駒は不振を極めたが、1904年にデビューした2年目産駒が活躍を見せ始めた(この世代からは英ダービー馬キケロ、本馬の後継種牡馬ポリメラスが登場している)。それで少しは見直されたのか、1905年に本馬はウィリアム・バス卿によって3万ギニーで購入され、リチャード・マーシュ調教師が所有していたエジャートンハウススタッドに移動し、エアシャーなどと共に供用された。この年には同牧場に繋養されていた女傑セプターとの交配相手にも指名されている(2頭の間にはメイドオブザミストが産まれている)。

しかし本馬がエジャートンハウススタッドにいたのは僅か2年強であり、1908年1月、本馬は亜国の有名牧場オホデアグアスタッドに2万5千ギニーで売却され、同年7月に英国から亜国へと旅立っていった。

本馬を亜国へ売却したのは、英国の馬産家にとって致命的な失敗だったと評されている。何しろ輸出の翌1909年から1912年までの4年間で3度も本馬の産駒が英ダービーを優勝し、1909・10年には英愛首位種牡馬に輝いたのである。本馬は英ダービー馬を4頭送り出したが、これはサーピーターティーズルブランドフォードモンジューと並ぶ史上最多タイ記録である。本馬は亜国でも亜ダービー馬を2頭、亜2000ギニー馬を1頭、亜セントレジャー馬を1頭出し、1913/14シーズンの亜首位種牡馬に輝く成功を収めた。1921年には英愛母父首位種牡馬も獲得している(亜国の母父種牡馬ランキングでは2位が2回だった)。

亜国の温暖で日当たりが良い気候が本馬に適合したのかどうかは定かではないが、本馬は長期間に渡り健康を保ち、現役種牡馬として活躍を続けた。しかし1923年、28歳の頃にはかなり老いが忍び寄っていたようである。デビッド・R・ガン氏は英ブラッドストックエージェンシー社が発行している“The Bloodstock Breeders' Review(ブラッドストック・ブリーダーズ・レビュー)”において、この頃の本馬の様子を次のように記載している。「私は世界最高の種牡馬の1頭であるサイリーンを見てきました。この偉大なる老いた馬は、しかし小屋の中で生きているのか死んでいるのか判然としない状態でした。彼の大きな頭と肩は最盛期から何も変わっていませんでした。腰は少し弱っている程度でした。背中は窪んでいて、肉付きは良くなく、骨が浮き出ていました。小屋の中にいるときは大人しいのですが、外に出て運動するときは不機嫌そうにしていました。牧場経営者のトム・マーフィー氏は悲しそうに私にこう言いました。最後に彼をしっかり見てあげてください。もう生きている彼に会うことは出来ないでしょうから。」本馬はそれから2年間生き、本馬の後継種牡馬筆頭格であるポリメラスが英国で他界した翌年の1925年に30歳の高齢で他界した。死去の前年には小屋の床に終始横たわっており、ほとんど寝たきりに近い状態だったと“The Bloodstock Breeders' Review”に記載されている。遺体はオホデアグアスタッドの墓地に埋葬され、後に亜首位種牡馬に7回輝いた大種牡馬コングリーヴ(本馬牝駒との間に多くの活躍馬を出している)も同墓地内に埋葬されたという。

英国に残してきた代表産駒の1頭ポリメラスが種牡馬としてファラリスを出し、ファラリスの直系子孫からはネアルコネイティヴダンサーなどが登場し、本馬の直系子孫は現代サラブレッドの大半を占めるまでになっている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1902

Cicero

英ダービー・コヴェントリーS・ジュライS

1902

Polymelus

英チャンピオンS・リッチモンドS・プリンセスオブウェールズS・ケンブリッジシャーH

1906

Maid of the Mist

チェヴァリーパークS・ナッソーS

1906

Minoru

英2000ギニー・英ダービー・グリーナムS・セントジェームズパレスS・サセックスS

1907

Lemberg

英ダービー・エクリプスS・英チャンピオンS2回・コロネーションC・ニューS・デューハーストS・ミドルパークS・セントジェームズパレスS・ジョッキークラブS・ドンカスターC

1907

Maid of Corinth

チェヴァリーパークS

1908

Lycaon

チェスターヴァーズ

1909

Cylba

チェスターヴァーズ

1909

Tagalie

英ダービー・英1000ギニー

1910

Energica

カルロスペレグリーニ大賞

1911

Tronador

ミラノ大賞

1913

Saint Emilion

ナシオナル大賞

1917

Gaulois

ナシオナル大賞

1918

Pulgarin

ラウル&ラウルEチェバリエル大賞・ポージャデポトリジョス大賞・ナシオナル大賞

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