ロバートザデヴィル

和名:ロバートザデヴィル

英名:Robert the Devil

1877年生

鹿毛

父:バートラム

母:キャストオフ

母父:ザプロミスドランド

英ダービーこそ好敵手ベンドアに惜敗するがその後の大活躍で競走馬としての評価を逆転させた英セントレジャー・アスコット金杯の優勝馬

競走成績:2~4歳時に英仏で走り通算成績15戦11勝2着4回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英国ケンブリッジシャー州において、著名なブックメーカー業者チャールズ・ブリュワー氏により生産・所有され、ニューマーケットに厩舎を構えていたチャールズ・ブラントン調教師に預けられた。ブリュワー氏は本馬の所有権の半分をブラントン師に売却しており、本馬は2名の共同所有馬だったが、公式にはブリュワー氏の所有馬ということになっていた。成長すると体高は16.2ハンドに達した、当時としてはかなり背が高く大柄な馬だった。

競走生活(3歳前半まで)

2歳7月にグッドウッド競馬場で行われたロウス記念Sでデビューして、後にミドルパークプレート・デューハーストプレートでいずれも3着する牝馬ドラ、後にドンカスターCで2着するエーデルワイスなどを破って勝利した。その後はしばらくレースに出ず、10月にニューマーケット競馬場で行われたファーストオクトーバーSで復帰して勝利。2歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は2戦2勝に過ぎなかったが、かなり素質は評価されていたようで、2歳戦終了時点の英ダービーの前売りオッズにおいては9倍の2番人気に推されていた。8倍の1番人気に推されていたのは、チェスターフィールドS・リッチモンドS・ロウス記念Sなど2歳時5戦全勝のベンドアだった。

3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたバイエニアルSから始動した。単勝オッズ2倍を割る1番人気に支持された本馬だったが、4ポンドのハンデを与えた後のセントジェームズパレスS3着馬アポロと大激闘を演じた末に、頭差の2着に敗れた。レース自体は見る者を非常に興奮させる名勝負だったが、負けてしまったために、レース前にいったん7.67倍まで下がっていた本馬の英ダービーの前売りオッズは、13.5倍まで上昇してしまった。

そして迎えた英ダービー(T12F29Y)では、ベンドアが単勝オッズ3倍の1番人気に支持されており、E・ロシター騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ8倍の2番人気での出走となった。当日は快晴で絶好の競馬日和であり、英国の国会議員の中には会議を延期してエプソム競馬場にやってくる者もいた。あまりにも多くの観衆が詰めかけたために、そのうちの一部がコース内に溢れてしまい、発走が遅延する事態となった。そんな中でレースが始まると、好スタートを切った本馬は、そのままマスクという馬と一緒に馬群を牽引した。そしてそのままタッテナムコーナーを回って先頭で直線に入ってきた。マスクは本馬に付いていけずに脱落し、先行馬達も本馬の影を踏むことは出来なかった。しかし唯1頭、本馬に迫ってきた馬がいた。それは6番手で直線を向いたベンドアだった。そして直線では本馬とベンドアの激しい叩き合いが延々と展開されたが、名手フレッド・アーチャー騎手が負傷していた腕の痛みを無視して追いまくったベンドアが勝利を収め、本馬は頭差の2着に惜敗した(本馬から6馬身差の3着には粘ったマスクが入った)。本馬とベンドアの着差は、馬の能力差ではなく騎乗した騎手の手腕の差であると言われた。

しかしそれからしばらくして、ブリュワー氏とブラントン師の2人は英国ジョッキークラブに対して、とある申し立てを行った。その内容は「英ダービーでトップゴールしたのはベンドアではなく、本当はタドカスターという馬だった。たからベンドアは失格になるべきで、ロバートザデヴィルが勝利馬となるべきだ」というものだった。本馬陣営は、ベンドアの所有者だった初代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿が所有するイートンスタッドにおいて3年前に誕生した、牝馬ローグローズの息子ベンドアと牝馬クレメンスの息子タドカスターの2頭が、イートンスタッドからニューマーケットの牧場を経て調教場に移動した際に手違いで入れ代わっっており、英ダービーに出走したのは(ベンドアという名前で競走馬登録されていた)クレメンスの息子タドカスターだったという旨を主張した。しかし本馬陣営に2頭が入れ代わっていたという情報を伝えたリチャード・アルヌル氏という元イートンスタッドの厩務員が、グローヴナー卿から解雇されており、それを恨んで復讐のために偽証をした疑いが強かった事や、ベンドアの特徴的な毛色とローグローズやクレメンスの毛色を比較した等の結果としてベンドアはローグローズの息子で間違いないと判断されたため、本馬陣営の申し立ては棄却された。

しかし後の21世紀になって実施されたDNA鑑定の結果、どうも本当にベンドアとタドカスターが入れ代わっていた可能性が高い事が判明したのは、ベンドアの項に記載したとおりである。この一報を受けて、英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏を始めとして、今こそロバートザデヴィルを正式な英ダービーの勝者として認めるべきだと主張する人間がごく一部だけ登場した。大半の人間は何をいまさらという印象を抱いたようだが、モリス氏の意見に触発された日本人はいたようで、日本語版ウィキペディアの本馬の項には「ロバートザデヴィルは本来は優勝馬となるべきであった」と書き込まれている。しかし筆者がベンドアの項に記載したとおり、ベンドアとタドカスターが入れ代わっていた可能性は確かに高いが100%ではない。それに、年上の馬を3歳馬と偽って出走させたというなら話は別だが、ベンドアとタドカスターが仮に入れ代わっていたとしても同じ3歳馬である事には変わりが無い。本馬は、相手が何者であれ同じ3歳馬と堂々と戦って負けたわけであり、本馬を英ダービーの勝利馬として扱ったところで、本馬の評価が上がるわけはない。むしろ「繰り上がり英ダービー馬」というあまり聞こえが良くない立場になり、かえって本馬の名誉を傷つけるような気がする。本馬は別に英ダービー馬でなくても19世紀英国有数の名馬としての評価を受けている。したがって、本馬を今になって英ダービー馬として扱う意味は全く無いと筆者はここに断言する。モリス氏は本当に本馬の名誉のためを思って上記の主張をしているとは筆者には思えず、この逸話を材料としてゴシップ好きの人間向けに記事を書いただけだろう。というわけで、本項ではこれ以上ベンドアの入れ代わり疑惑に関して触れることはしない。

英ダービーで惜敗してしまった本馬は、すぐに仏国に渡り、パリ大賞(T3000m)に参戦した。本馬の評判は仏国にも知れ渡っていたようで、愛国心が強い仏国の競馬ファンは本馬を単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持した。ロシター騎手が騎乗する本馬は今回、逃げ馬を射程圏内に捉えた位置取りの中団好位を追走。9頭立ての5番手で直線に入ってくると、速やかに末脚を伸ばし、2着ディスティールに1馬身差をつけて勝利した(後にカドラン賞を勝つミランが3着だった)。着差はそれほどでもなかったが、内容的には楽勝と評された。本馬陣営は、獲得した4千ポンド分の賞金から200ポンドをパリ在住の貧困者層に寄付すると、本馬を引き連れて英国に戻ってきた。

そしてストックブリッジ競馬場に向かい、バイエニアルSに出走したが、対戦相手がいなかったために単走で勝利した。すると今度はニューマーケット競馬場に向かい、7月のミッドサマーSに出走した。単勝オッズ1.36倍の1番人気に支持された本馬だったが、ここでは11ポンドのハンデを与えた同世代の牝馬シポラタの逃げ切りを許し、半馬身差の2着に敗れた。

競走生活(3歳後半)

その後は英セントレジャー(T14F132Y)に出走した。英ダービー後にセントジェームズパレスSも勝って7戦全勝としていたベンドアが単勝オッズ2.25倍の1番人気に支持されており、本馬は単勝オッズ5倍の2番人気だった。レースは当日の暴風雨のため水溜りがあちこちに出来ているような不良馬場で実施された。スタートが切られると、ベンドアが先行して、トム・キャノン騎手が騎乗する本馬はそれをマークするように好位を追走した。そして直線に入ると前を行くベンドアを瞬く間に抜き去った。ゴール前では馬なりのまま走り、前走ミッドサマーSで屈した相手であるシポラタを3馬身差の2着に、英2000ギニー3着馬ジアボットをさらに首差の3着に下して勝利。ベンドアは5着(6着とする資料もある)に終わった。ブリュワー氏は本馬の単勝にしこたま賭けており、このレースで8万ポンドという超巨額の大金を獲得。これは英ダービーの優勝賞金の20倍以上の額であり、本馬陣営は英ダービーで取り逃した分を埋めて余りある巨利を得た。

その13日後にはニューマーケット競馬場でグレートフォールS(T10F73Y)に出走。このレースにもベンドアが出走してきて、本馬と3度目の対戦となった。今回は本馬のほうが単勝オッズ1.62倍の1番人気に支持された。レースでは英セントレジャーと逆に本馬が先行して、ベンドアが追撃してくる展開となった。残り1ハロン地点でベンドアが本馬に並びかけてきて、英ダービーと同様に2頭の激しい叩き合いとなった。いったんはアーチャー騎手の檄に応えたベンドアが前に出る場面もあったが、ゴール前でキャノン騎手の檄に応えた本馬が差し返し、ベンドアを頭差の2着に、ナッソーSを勝ってきたミュリエルをさらに3馬身差の3着に破って勝利。このレースで2頭の斤量は131ポンドと同等であり、英ダービー直後に言われた「2頭の競走能力に差は無く勝敗を分けたのは騎手の差」という意見が立証された形となった。

次走は翌10月のシザレウィッチH(T18F)となった。本馬は英セントレジャー出走前に既に同競走に出走した場合には116ポンドの斤量を課される事になっていたが、英セントレジャーの結果を受けて118ポンドに増量されていた。118ポンドと聞くと、たいした斤量ではないと思われるかもしれない。確かに英国古馬路線や米国の競走では130ポンド以上の斤量が課される事例がごろごろあり、それに比べれば軽量である。しかしこのシザレウィッチH、軽量馬は90ポンドを割り込むことがざらであり、他馬との比較でみると決して恵まれた斤量では無かった。事実、1839年に創設された同競走史上、118ポンド以上を背負って勝った3歳馬は過去に1頭たりとも存在しないという厳然たる事実が存在していたのである。そのために本馬の評価は単勝オッズ9.5倍止まりだった。しかしキャノン騎手が手綱を取る本馬は馬群の中団を進むと、残り2ハロン地点で内側を抜けて先頭に立った。ゴール前では馬なりのまま走り、14ポンドのハンデを与えたシポラタを4馬身差の2着に、32ポンドのハンデを与えた同世代の牡馬ザスターをさらに1馬身差の3着に破って勝利を収め、同競走の歴史に新たな一頁を書き加えてみせた。

それから僅か2日後には英チャンピオンS(T10F)に出走。このレースにはグレートフォールSから直行してきたベンドアも出走しており、4度目の対戦となった。本馬が単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持され、ベンドアが単勝オッズ2.25倍の2番人気となった。ここではキャノン騎手ではなくロシター騎手が本馬に騎乗した。本馬陣営はロシター騎手に対して、スタートから問答無用で本馬を逃げさせるように指示を出していた。ロシター騎手はこの指示を確実に実践。序盤から着実に後続との差を広げていった。そして最後まで後続との差を広げ続けて、ベンドアを10馬身差の2着に、前月のグレートヨークシャーHを勝ってきたレベラーをさらに10馬身差の3着に葬り去って圧勝。勝ちタイム2分10秒0は当時としては驚異的な好タイムだった。3歳時はこれが最後のレースで、この年の成績は9戦6勝だった。

グレートフォールSだけでなくシザレウィッチHも英チャンピオンSも、ニューマーケット競馬場で施行されたレースだった。つまり本馬はシーズン終盤にニューマーケット競馬場で3連勝したわけであり、その内容の見事さも相まって、「過去数年にニューマーケット競馬場で走った馬の中でも最も人気を博した馬」「過去に英国で登場した中でも最高の3歳馬」と絶賛された。

競走生活(4歳時)

4歳時も現役を続け、まずは春にニューマーケット競馬場で行われたローズベリープレートから始動した。しかし本馬が出走すると耳にした他馬陣営は全て回避してしまい、本馬が単走で勝利した。次走は6月のエプソム金杯(T12F・現コロネーションC)となった。このレースでも他馬陣営の回避が相次ぎ、本馬に立ち向かってくる馬は殆どいなかった。唯一の例外が、4歳初戦のシティ&サバーバンHでトップハンデを克服して勝ってきたベンドアで、本馬との2頭立てとなった。同斤量の本馬とベンドアのマッチレースという事で、2頭立てにも関わらずこのレースは大きく注目され、むしろ他馬がいない事により余計に盛り上がった。スタートが切られると本馬が先手を取り、ベンドアが直後を追走してきた。本来なら前年の英チャンピオンSのように序盤から差を広げるのが最善策だったのだが、このレースにおける本馬は今ひとつ反応が悪く、ベンドアとの差を広げることは出来なかった。そして残り1ハロン地点でアーチャー騎手鞍上のベンドアが本馬に並びかけ、2頭の叩き合いが始まった。最後はベンドアが競り勝ち、本馬は首差で敗れた。これが本馬とベンドアの最後の対戦で、対戦成績は本馬の3勝2敗だった。

本馬の次走はアスコット金杯(T20F)となった。このレースにはベンドアに代わって新たな強敵が2頭出走してきた。それは、直前のパリ大賞を勝って参戦してきた米国産の3歳馬フォックスホールと、本馬とは同世代ながら今まで直接対決が無かった英2000ギニー馬ペトロネルだった。しかし直線入り口で先頭に立った本馬がそのまま押し切り、2着ペトロネルに5馬身差をつけて圧勝。一昨年の英セントレジャー3着馬でこの直後のハードウィックSを勝つエクセターが3着に入り、フォックスホールは5頭立ての4着に終わった。

この僅か2日後にはクイーンアレクサンドラプレート(T24F)に出走。このレースを勝った本馬は、これを最後に4歳時4戦3勝の成績で競走馬を引退した。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第10位にランクインした(本馬にアスコット金杯で敗れた後に大活躍したフォックスホールが第12位に入っている)。好敵手ベンドアは第22位であり、その当時は本馬のほうがベンドアより実力一枚上手とみなされていたことが分かる。

馬名は13世紀頃から現在まで伝わっている中世欧州の伝承「悪魔ロバート」に由来すると思われる。

血統

Bertram The Duke Stockwell The Baron Birdcatcher
Echidna
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Bay Celia Orlando Touchstone
Vulture
Hersey Glaucus
Hester
Constance Faugh-a-Ballagh Sir Hercules Whalebone
Peri
Guiccioli Bob Booty
Flight
Milk Maid Glaucus Partisan
Nanine
Dame Durdan Banker
Beningbrough Mare
Cast Off The Promised Land Jericho Jerry Smolensko
Louisa
Turquoise Selim
Pope Joan
Glee Touchstone Camel
Banter
Harmony Reveller
Orville Mare
Wanona Womersley Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Cinizelli Touchstone
Brocade
Hampton Mare Hampton Sultan
Rachel
Cervantes Mare Cervantes
Camillus Mare

父バートラムは、距離5ハロンのグランドスタンドS(現キングズスタンドS)の勝ち馬。これだけ見ると短距離馬だが、英セントレジャーと同距離のグレートヨークシャーHで2着するなど、長距離戦でも活躍できるスタミナは有していた。バートラムの父ザデュークはストックウェル産駒で、グッドウッドCを勝っている。

母キャストオフの競走馬としての経歴は不明。受胎率があまり良くない馬だったらしく、11歳時に産んだ本馬がどうやら2番子のようである。本馬の名前の由来になったと思われる「悪魔ロバート」は、子どもが出来ない母親が悪魔に願った結果誕生したロバートという人物が蛮行の限りを尽くした後に改心するという話であり、本馬の命名はその辺りに由来しているのかもしれない。ちなみに「悪魔ロバート」をモデルにしてドイツの作曲家ジャコモ・マイアベーア氏が「ロベール・ル・ディアブル」というオペラを1831年に作っているが、この中に登場するロベール(ロバート)の父である悪魔の名前は本馬の父と同じベルトラム(バートラム)であり、それもまた本馬の命名に影響している可能性が高そうである。

牝系は当時も今もサラブレッド界最大級の勢力を誇る所謂ファミリーナンバー1号族であるが、本馬の近親にはほぼ活躍馬が見当たらず、優れた牝系であるとはとても言えない。キャストオフの牝系子孫も殆ど発展していない。キャストオフの祖母ハンプトンメアの半妹ヘットマンプラットオフメアの牝系子孫がオセアニアで生き残り、今世紀に入っても何頭かの活躍馬が出ているのと、ハンプトンメアの4代母ポテイトウズメアの半兄にラダマンサス、ディーダラスという2頭の英ダービー馬がいるが、これらをもって牝系のアピールポイントに出来るほど本馬には近くは無い。→牝系:F1号族⑦

母父ザプロミスドランドは1859年の英2000ギニー・グッドウッドCの勝ち馬で、アスコット金杯では3着だった。ザプロミスドランドの父ジェリコはクリテリオンS・グランドデュークマイケルS・ニューマーケットセントレジャーの勝ち馬で、ロシア皇帝プレート(現アスコット金杯)で2着2回・3着1回している。さらに遡ると、1824年の英セントレジャー馬ジェリー、1813年の英2000ギニー・英ダービー馬スモレンスコを経て、名種牡馬ソーサラーに行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、9千ポンドで取引されて、英国バークシャー州ビーナムスタッドで種牡馬入りした。初年度の種付け料は50ギニーに設定された。同じ年に種牡馬入りした好敵手ベンドアの種付け料は201ギニーだったから、競走馬としての評価は本馬が上でも種牡馬としての評価はまた違っていた事が分かる。そして実際にそのとおりの結果となった。ベンドアが種牡馬として大成功したのとは対照的に、本馬の種牡馬成績は今ひとつ振るわなかった。もっとも、大失敗というほどでは無かった。1889年にビーナムスタッドにおいて12歳で他界した。ベンドアが1903年に26歳で往生したのとは対照的な余生だった。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1883

Deuce of Clubs

オールエイジドS

1883

Mephisto

ジュライC・グレートチャレンジS・オールエイジドS・チャレンジS

1883

The Devil to Pay

モールコームS

1886

Chittabob

英シャンペンS

1886

Criniere

仏オークス

1887

Beldemonio

オールエイジドS

1889

Hoche

ボイアール賞・グロシェーヌ賞2回・モートリー賞

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