和名:カヴァルケイド |
英名:Cavalcade |
1931年生 |
牡 |
青鹿 |
父:ランスゲイ |
母:ヘイスティリー |
母父:ハリーオン |
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3歳時に名馬ディスカヴァリー相手に全勝し「爆砕機」の異名で呼ばれた強烈な末脚が魅力のケンタッキーダービー馬 |
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競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績22戦8勝2着5回3着3回 |
誕生からデビュー前まで
米国ニュージャージー州メドウビューファームにおいて、F・ウォーリス・アームストロング氏により生産された。1歳時のサラトガセールにおいて米国ヴァージニア州ブルックミードステーブルの所有者イサベル・クレーヴズ・ダッジ・スローン女史(後にソードダンサーの生産・所有者となっている)の専属調教師として雇われたばかりのボブ・スミス師に見出されて1200ドルで購入され、スローン女史のブルックミードステーブル名義で競走馬となった。スミス師は相馬眼に定評があった人物で、同年には後に本馬と米国三冠競走で戦う事になるタイムクロックやハイクエストも購入している。
競走生活(2歳時)
2歳5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート4.5ハロンの一般競走でデビューしたが、後のユースフルSの勝ち馬ビリーエムから5馬身差をつけられた4着に敗退。その4週間後にはアーリントンパーク競馬場に場所を移して、ダート5.5ハロンの未勝利戦に出走したが、シンギングウッドの7馬身半差3着に敗退。しかし翌7月に同コースで出走したハイドパークS(D5.5F)では、112ポンドの軽斤量と重馬場に助けられたのか、単勝オッズ91倍の超人気薄を覆して、2着シンギングウッドに首差で勝利を収め、初勝利をステークス競走で挙げた。
ニューヨーク州に戻ってきた本馬は8月のユナイテッドステーツホテルS(D6F)に出走したが、前走と同じ重馬場だったにも関わらず、斤量が124ポンドまで増えていた影響が出たのか、勝ったレッドワゴンから6馬身3/4差をつけられた4着に敗れた(ジュヴェナイルS・ナショナルスタリオンSを勝っていたブラックバディが2着だった)。それから僅か3日後に出走したサラトガセールスS(D5.5F)では、後にサラトガスペシャルSを勝つ牝馬ワイズドーター、ブラックバディの2頭に屈して、勝ったワイズドーターから4馬身差の3着に敗れた。同月末に出走したサンフォードS(D6F)では、後にジュニアチャンピオンSも勝つファーストミンストレルの2馬身差2着に敗れた。
それから1か月後にはハヴァードグレイス競馬場でイースタンショアH(D6F)に出走。114ポンドまで斤量が下がっていた事にも助けられて、同厩馬ハイクエストの1馬身差2着に入り、3着ワイズドーターや、6着だったホープフルS3着馬ディスカヴァリーに先着した。10月にはローレル競馬場でダート5.5ハロンの一般競走に出走して、2着キャントリメンバーに1馬身差で勝利して2勝目を挙げた。しかしそれから4日後に出走したリチャードAジョンソンS(D6F)では、112ポンドの軽斤量だったにも関わらず、シックストロー、ワイズドーター、ディスカヴァリーの3頭に屈して、勝ったシックストローから4馬身差の4着に敗退。同月末に出走したスポルディングロウジェンキンズH(D8F)では、ホープフルSを勝っていた牝馬バザーの1馬身差2着に敗退。11月のウォルデンH(D8.5F)では、2着ディスカヴァリーを首差抑えて勝ったシックストローから6馬身1/4差の3着と振るわず、2歳時の成績は11戦2勝に終わった。しかしこの年は、余程2歳牡馬が不作だったようで、後年になって選定されたこの年の米最優秀2歳牡馬には本馬が単独で選出されている。
競走生活(3歳時)
2歳時こそ世代王者と呼ぶには疑問符が付く成績だった本馬だが、3歳になると文句無しに世代王者と呼べる成績を残す。まずは4月にハヴァードグレイス競馬場で行われたダート1マイル70ヤードの一般競走に、初コンビとなるマック・ガーナー騎手を鞍上に出走すると、1分41秒8のコースレコードを計時して、2着アグラリアンに2馬身差で勝利。その3日後に出走したチェサピークS(D8.5F)では1分43秒6のコースレコードを計時して、2着アグラリアンに1馬身1/4差、3着ディスカヴァリーにはさらに鼻差をつけて勝利。これでケンタッキーダービー馬の有力候補として完全に認知された。
チェサピークSの翌週に出走したケンタッキーダービー(D10F)では、アグラリアン、ディスカヴァリー、フロリダダービーを勝っていた同厩馬タイムクロック、ブリーダーズフューチュリティ・ケンタッキージョッキークラブS・アーリントンラッシーSの勝ち馬マタハリとバザーの前年の米最優秀2歳牝馬2頭、レムセンHで2着していたピースチャンス、前年のハイドパークSで本馬に敗れた後にベルモントフューチュリティSを勝っていたシンギングウッドなどが対戦相手となった。本馬とタイムクロックのカップリングが単勝オッズ2.5倍の1番人気に支持された。レースでは、イースタンショアH・リチャードジョンソンS・ウォルデンH・チェサピークSで本馬と過去4回戦って2勝2敗ながら6番人気の伏兵扱いだったディスカヴァリーが直線入り口でマタハリをかわして先頭に立ったが、後方からレースを進めていた本馬がディスカヴァリーを一気に差し切ると、最後は2着ディスカヴァリーに2馬身半差、3着アグラリアンにはさらに4馬身差をつけて勝ち、名実共に3歳牡馬の頂点に立った。
次走のプリークネスS(D9.5F)では、陣営は前走で7着に敗れたタイムクロックに代わってウッドメモリアルSを制したハイクエストも出走させた。本馬とハイクエストがカップリングで単勝オッズ1.45倍の1番人気に支持された。レースは1番人気に支持された同厩の2頭によるゴール前の接戦となったが、ハイクエストが鼻差で勝ち、本馬は2着に惜敗した(ディスカヴァリーは本馬から1馬身差の3着だった)。この本馬とハイクエストの一騎打ちは「プリークネスS史上最も壮絶な戦い」と評されたほどだった。
その後は翌6月のアメリカンダービー(D10F)に参戦。またもディスカヴァリーとの対戦となったが、単勝オッズ2.05倍の1番人気に支持された本馬が、ディスカヴァリーを2馬身差の2着に、ケンタッキーダービーで7着だったシンギングウッドをさらに6馬身差の3着に破って勝利した。勝ちタイム2分04秒0はコースレコードだった。爆発的な末脚で他馬を蹴散らし続ける本馬はマスコミから“a machine-like burst(爆砕機)”の異名を付けられ、「殆ど打破不可能に思える」とまで評された。
米国三冠馬の権利が無い事もあってか、アメリカンダービーから1週間後のベルモントSには出走せず(ケンタッキーダービーで5着だったピースチャンスがハイクエストを2着に破って勝っている)、そのまた1週間後にデトロイトフェアグラウンズ競馬場で行われたデトロイトダービー(D9.5F)に向かった。ここにもディスカヴァリーが出走してきたが、11着に沈んだディスカヴァリーとは対照的に、本馬が1分58秒2のコースレコードを樹立して、2着となったテキサスダービーの勝ち馬プライトに1馬身半差をつけて快勝した。
その後は7月のアーリントンクラシックS(D10F)に出走した。ここにもディスカヴァリーの姿があり、6戦連続でディスカヴァリーとの顔合わせとなった。ただしディスカヴァリーはその間に他レースの出走を挟んでおり、特に前走ブルックリンHでは6馬身差で圧勝してようやく頭角を現し始めていた。しかし結果はあっけなかった。単勝オッズ1.33倍という圧倒的な1番人気に支持された本馬が例によって後方から追い込んで差し切り、ディスカヴァリーを4馬身差の2着に下して圧勝。アーリントンパーク競馬場に詰めかけていた3万人の観衆を熱狂の渦に巻き込んだ。鞍上のガーナー騎手は本馬を「かつて乗った中で一番闘志がある馬」と評した。
この頃、英ダービー馬ウインザーラッド、パリ大賞の勝ち馬アドミラルドレイク、仏2000ギニー馬ブラントームらを米国に招待して本馬と対戦させる国際レースが企画されたらしいが、結局実現しなかった。
8月には、米国の代表的週刊誌であるタイムの8月20日号の表紙を飾った。タイムの表紙を飾った競走馬としてはセクレタリアトが有名で、他にはネイティヴダンサーも飾っているが、史上初の栄誉を手にしたのは本馬である(マンノウォーの現役時代にはまだタイムは創刊されていなかった)。
3歳時はこの後レースに出走する事は無かったが、7戦6勝の成績で、この年の米年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選出された。また、所有者のスローン女史は本馬やハイクエストの活躍などにより、女性として史上初めて北米首位馬主となった。しかし本馬はどうも気性が激しい馬だったらしく、次第に調教するのも困難になっていたようである。3歳シーズン後半にレースに出なかったのも、それが原因であると推察される。
競走生活(4・5歳時)
4歳時はサンタアニタHを目標としていたらしいが結局間に合わず、本馬が再び競馬場に姿を現したのは4歳5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート8ハロンのハンデ競走だった(なお、3歳時に本馬の全レースに騎乗したガーナー騎手は4歳以降本馬には一度も騎乗していない)。結果は、2歳年上のプリークネスS・サンアントニオH・サンフアンカピストラーノ招待Hの勝ち馬ヘッドプレイの3馬身差2着だった。それでも、127ポンドの斤量と休み明けを考慮すれば悪くは無い内容だった。
次走のサバーバンH(D10F)では、ヘッドプレイ、前年のアーリントンクラシックS2着後にケナーS・ホイットニーS・ロードアイランドH・ポトマックH・メリーランドHを勝っていたディスカヴァリーとの顔合わせとなった。ところが本馬はスタートした直後に落馬して競走中止。レースはヘッドプレイがディスカヴァリーを1馬身半差の2着に抑えて勝利した。このレースで負傷したのか、4歳時はこの後にレースに出ることは無く、この年の成績は2戦未勝利となった。
次に本馬が競馬場に姿を現したのは、サバーバンHから1年3か月が経過した5歳9月、ナラガンセットパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走だった。鞍上には名手ジョージ・ウルフ騎手を迎えたが、何の見せ場も無く、勝ったチャンシングから12馬身1/4差をつけられて、7頭立ての6着に大敗。その3日後には同コースのハンデ競走に出たが、勝ったアーリントンHの勝ち馬サンテディから23馬身差をつけられた6着と惨敗。3歳時の輝きを取り戻すことなく、5歳時2戦未勝利の成績で競走馬引退となった。
本馬が古馬になって失速したのとは対照的に、ディスカヴァリーが古馬になって活躍したため、後世の評価では本馬よりディスカヴァリーの方が上位になってしまっている(米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選でディスカヴァリーは第37位に選出されているが、本馬は選外)。先に本馬は気性が激しかったらしいと記したが、本馬の調教助手を務めたバディ・レインズ氏は「非常に親切で物静かである」と本馬を評している。また、非常に少食だったため、食事は一日5回に分けて少しずつ与える必要があった。馬名は英語で「(騎馬の)行列」という意味である。
血統
Lancegaye | Swynford | John o'Gaunt | Isinglass | Isonomy |
Dead Lock | ||||
La Fleche | St. Simon | |||
Quiver | ||||
Canterbury Pilgrim | Tristan | Hermit | ||
Thrift | ||||
Pilgrimage | The Palmer | |||
Lady Audley | ||||
Flying Spear | Spearmint | Carbine | Musket | |
Mersey | ||||
Maid of the Mint | Minting | |||
Warble | ||||
Gallop-Along | Galloping Lad | Galopin | ||
Braw Lass | ||||
Highland Beauty | Burnaby | |||
Scotch Lassie | ||||
Hastily | Hurry On | Marcovil | Marco | Barcaldine |
Novitiate | ||||
Lady Villikins | Hagioscope | |||
Dinah | ||||
Tout Suite | Sainfoin | Springfield | ||
Sanda | ||||
Star | Thurio | |||
Meteor | ||||
Henley | Junior | Symington | Ayrshire | |
Siphonia | ||||
Scylla | Eager | |||
Sirenia | ||||
Helenora | Bayardo | Bay Ronald | ||
Galicia | ||||
Helvia | Cicero | |||
Mismanagement |
父ランスゲイはスウィンフォード産駒で、ハードウィックSを勝ち、英ダービーでコロナックの2着している。種牡馬としては最初英国で供用され、後に米国に輸入されたが、本馬以外には数えるほどしかステークスウイナーを出しておらず、種牡馬として成功したとは言い難い。
母ヘイスティリーは英国産の不出走馬で、4歳12月に出品されたニューマーケット繁殖牝馬セールにおいて1100ギニーで取引されて米国に輸入された。この時点で既に胎内には本馬がいたため、本馬は日本で言うところの持ち込み馬に当たる(資料によっては英国産馬として紹介される事もあるらしい)。本馬の半妹ヘイスティリーユアーズ(父ジョンピーグリア)の子にはアラーティド【ファウンテンオブユースS・ディスカヴァリーH・ジェロームH・ディキシーH】がいる。また、本馬の半妹ラッシュハリー(父ジョンピーグリア)の牝系子孫は21世紀まで地道に続き、末裔に2012年のエクリプス賞最優秀短距離牡馬に選ばれたトリニバーグ【BCスプリント(米GⅠ)】が出ている。ヘイスティリーの祖母ヘレノラの半妹フィンズベイの牝系子孫には凱旋門賞馬マリエンバードがいる。→牝系:F12号族②
母父ハリーオンは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は、スローン女史が所有するヴァージニア州ブルックミードスタッドで種牡馬入りした。9歳10月にケンタッキー州シャンドンファームに移動する事になったが、輸送中に輸送熱(家畜の輸送ストレスによる発熱)を発症して9歳の若さで他界し、ブルックミードスタッドに埋葬された。産駒数が少ないために活躍馬も多くは無く、障害競走で活躍し191戦37勝を挙げた騙馬ディナーパーティーがいる程度である(牝駒を通じて血は21世紀まで伝えられている)。母父としてネイティヴダンサー、ボールドルーラー、インテンショナリーなどを出して成功したディスカヴァリーと比べると種牡馬成績でも見劣りしてしまうが、米国競馬の殿堂入りという点では、ディスカヴァリーより24年遅れながらも1993年に果たして、肩を並べている。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1939 |
Milcave |
ヴァインランドH |