ブラウンジャック

和名:ブラウンジャック

英名:Brown Jack

1924年生

黒鹿

父:ジャックダウ

母:クォクイデラ

母父:クルーンスタッド

障害競走で活躍した後に平地に転向して英国最長距離平地競走クイーンアレクサンドラSの6連覇を達成した、英国競馬史上に残る名長距離馬にして人気馬

競走成績:3~10歳時に愛英で走り通算成績65戦25勝(うち障害10戦7勝。いずれも入着回数は不明)

誕生からデビュー前まで

愛国キングス郡の馬産家ジョージ・S・ウェブ氏により生産された愛国産馬である。父ジャックダウと母クォクイデラの間に最初に産まれた子が健康面で問題があったため、ウェブ氏は本馬も健康不安を抱えるようになるのではないかと不安に思ったそうである。しかし実際に誕生した本馬は、予想よりも頑丈な馬だった上に見栄えが良い馬であり、セリでそれなりに高く売れるのではと期待した。

ウェブ氏は1歳になった本馬を1歳時にダブリンで行われたゴフズセールに出品したのだが、ウェブ氏の予想に反して、血統の地味さ、見栄えがしない馬体が嫌われた事などから誰からも見向きもされず主取りとなった(先に見栄えが良いと書いたのとは矛盾するが、資料にこのように書かれているので止むを得ない。馬体の見栄えの良し悪しなど、見る人によって変わるものである)。

それでもその後にマーカス・トンプソン氏という買い手が現れて、110ポンドで購入された。トンプソン氏の所有馬となった本馬はこの直後に去勢されて騙馬にされているのだが、その理由については諸説あり、気性が激しくて扱い辛い馬だったためという意見、(これまた先に書いたのとは矛盾するが)体質がさほど強くなかったために体質を改善するためだったという意見、血統的価値の低さが理由だという意見などが存在している。

本馬が2歳時の時、愛国の調教師チャールズ・ロジャース師が運転する自動車がガソリン切れを起こした。その場所が、たまたま本馬が繋養されていたトンプソン氏所有の牧場の近くだった。ロジャース師を手助けしたトンプソン氏は、ロジャース師から障害用競走馬を探して回っているという話を聞き出し、本馬を購入しないかと持ちかけた。本馬を目にしたロジャース師は障害競走馬としての能力があると感じ、本馬を275ポンドで購買した。

競走生活(障害競走馬時代前半)

ロジャース師は本馬をいきなりレースに出すのではなく、本馬がある程度成熟するまで待ち、3歳5月に愛国ナバン競馬場で行われた障害未勝利戦で本馬をデビューさせた。しかし結果は最下位。次走の障害未勝利戦でも敗戦したが、前走よりは内容が良くなっていた。

ちょうどこの時期に、英国チェルトナム競馬場においてチャンピオンハードル(現在、英国のハードル競走では最上級の競走となっている)という障害の大競走が創設されていた。英国の貴族だった第3代准男爵ハロルド・アウグストゥス・ウェルナー卿(プリシピテイションメルドの所有者レディ・ジーア・ワーナー女史の夫。この家族は英王室とは親しく、特に娘のジョージア・ケナード夫人は競馬を通じて英国エリザベスⅡ世女王陛下と親しくなり、女王陛下の次男であるヨーク公爵アンドルー王子の名付け親になっている)は、自身の所有馬でこのチャンピオンハードルを勝ちたいと考え、懇意にしていたオーブリー・ヘイスティングス調教師に依頼して、優秀な障害未勝利馬を探していた。この話を耳にしたロジャース師はヘイスティングス師に接触して、本馬の購入を持ちかけた。取引は750ポンド(本馬がチャンピオンハードルに勝った場合は50ポンド加算のオプション付き)で成立し、本馬はウェルナー卿の所有馬となった。

そして本馬は英国ロウトンに本拠があったヘイスティングス厩舎の一員となった。ヘイスティングス師は、1906年の英グランドナショナルをアセチックスシルバーで制するなど、障害競走馬を育てる事には定評があった。転厩直後の本馬は環境の変化が理由で病気になり、ヘイスティングス師は本馬を手厚く看護(熱いビールや卵、ウイスキーを本馬に与えたらしい)した。また、本馬は去勢されても気性が激しくて乗りこなせる調教助手が殆どいなかったため、アルフィー・ガラット氏という調教助手が本馬1頭のみの担当となり、辛抱強く本馬を育成していった。本馬の馬格については、見栄えがする、見栄えがしないという正反対の評価が存在していた旨は先に述べた。確かに本馬の脚は短かったが、肩から前脚にかけての筋肉が発達しており、脚力は非常に強かったという。また、気性は確かに激しかったが、頭は良かったようで物覚えに長けており、飛越はめきめきと上達していった。

競走生活(障害競走馬時代後半):英チャンピオンハードルの制覇

3歳9月に英国ボーンマス競馬場で行われた障害未勝利戦で、英国デビュー戦を迎えた。この初戦は3着。しかし10日後にウォルヴァーハンプトン競馬場で出走した障害未勝利戦で初勝利を挙げると、その後も連勝を続け、転厩後6戦5勝の好成績を残して3歳時を終えた。本馬は平地における速度には特に見るべきものは無かったが、その飛越センスは素晴らしく、障害を飛ぶごとに他馬勢に2~3馬身の差をつけたという。この時期における本馬の卓越した飛越センスは、他の騎手達の目も惹き、当時障害競走のトップ騎手の1人だったジョージ・デューラー騎手も本馬が勝ったレースで他馬に騎乗していた際に本馬を見初めて、機会があれば本馬に乗せてほしいとわざわざ陣営に頼み込んできたほどだった。しかしヘイスティングス厩舎には、ルイス・ビルビー・リーズ騎手という専属の優秀な障害騎手がいたため、デューラー騎手が本馬に乗る機会は結局無かった。デューラー騎手は本馬の強さを理解していたため、この後に本馬が出走する障害競走で乗ることを極力避けるようになったという。

連勝街道を邁進していた本馬は、チャンピオンハードルの前哨戦として、リングフィールドハードルCに出走。賞金も安くたいしたレースでは無かったのだが、ゼノ、ピースリバー、翌年のチャンピオンハードルを勝つロイヤルファルコンといった優秀な障害競走馬達が参戦してくる高レベルなレースとなった。特にインペリアルCでピースリバーを6馬身ちぎっていたゼノの前評判は凄まじく、打破不可能とまで評されていた。しかしレースでは本馬が、先行したゼノをあっさりと差し切り、2着ピースリバーに1馬身差をつけて勝利した。

次走が、陣営の最大目標だった第2回チャンピオンハードル(16F110Y)だった。このレースには、ゼノとピースリバーの2頭に加えて、前年の同競走で記念すべき第1回優勝馬となっていたブラリスも出走していた。ブラリスが単勝オッズ3倍の1番人気、リングフィールドハードルCでは本馬やピースリバーにハンデを与えていたゼノが単勝オッズ3.5倍の2番人気、本馬が単勝オッズ5倍の3番人気、ピースリバーが単勝オッズ6倍の4番人気となった。今回もゼノが逃げて、ブラリスがそれを追って先行、本馬は後方2番手、ピースリバーが最後方からの競馬となった。しかしやがて空中を飛ぶように障害を飛越してきた本馬が、ゼノとブラリスをかわして先頭に立った。そして最後は追い込んで2着に入ったピースリバーに1馬身半差をつけて勝利。3歳9月の英国障害競走デビューから僅か7か月間で頂点に立った。しかも本馬の勝ちタイムは前年の同レースのそれより8秒も速かった。しかし、たまたまエジプトに出張していたウェルナー卿は、自分が待ち望んでいたチャンピオンハードル勝利の瞬間を生観戦できなかった。

競走生活(平地競走転向後から5歳時まで)

しかしウェルナー卿の代わりにというわけではないが、本馬の勝利の瞬間を見ていた1人の人物により、本馬の運命はまた大きく変わる事になる。その人物とは、10度の英平地首位騎手に輝く、当時の英国平地競走におけるトップ騎手の1人スティーヴン・ドノヒュー騎手だった。ヘイスティングス師がドノヒュー騎手に対して、本馬は平地競走でも活躍できると思うか意見を聞いたところ、ドノヒュー騎手は「間違いなく活躍できます。もし良ければ私が彼に乗っても構いませんよ」と返答したのである。それを知ったウェルナー卿は、既にチャンピオンハードル勝利の夢は叶えた(観戦は出来なかったが)事もあり、本馬を平地競走に転向させる事を決断。本馬が障害競走に出走したのは、このチャンピオンハードルが最後となった。平地競走で行き詰った馬が障害競走に活路を求めるのは古今東西珍しいことではないが、障害競走から平地競走に来る馬というのは今も昔もやはり珍しかった。それが既に障害競走で頂点を極めた馬であれば尚更である。

平地競走に転向した本馬は、ドノヒュー騎手を主戦として長距離戦を中心に走る事になった。まずはハーストパーク競馬場で行われたダラムプレート(T14F)に出走したが、ここでは着外に終わった。しかしその後はアスコットS(T16F)を3馬身差で快勝するなど3連勝した。

5歳になった本馬は、前年勝利したアスコットS(T16F)に出走した。ここでは、マンチェスターノーベンバーHの勝ち馬オールドオークニーの短頭差2着に敗れた。しかしその僅か3日後に出走したクイーンアレクサンドラS(T22F34Y)では、4馬身差で勝利した。このクイーンアレクサンドラSというレースは、1864年にアレクサンドラプレートの名称で創設された、ロイヤルアスコットミーティングの一環として施行される英国伝統の長距離戦であり、平地競走としては当時英国内で最も長い距離のレースだった。20世紀後半の長距離競走の権威低下に伴い、クイーンアレクサンドラSの格も下がり、現在ではグループ競走ですらも無い下級競走に落ちぶれているが、本馬以前には、英ダービー・アスコット金杯の勝ち馬ドンカスター、英セントレジャー・パリ大賞・英チャンピオンS・アスコット金杯の勝ち馬ロバートザデヴィル、英ダービー・アスコット金杯・ジョッキークラブC3回の勝ち馬セントガティエン、アスコット金杯の勝ち馬ウィリアムザサードなどが、本馬以降にも、カドラン賞4連覇などのマーシャスといった、歴史に名を残す強豪馬達が勝利馬に名を連ねる上級長距離競走だった。しかしこの直後の5月に、管理していたヘイスティングス師が死去したため、本馬の管理はアイヴォー・アンソニー調教師が引き継ぐ事になった。

夏場にはグッドウッドC(T20F)に出走したが、またしてもオールドオークニーの短頭差2着に敗れた。秋にはシザレウィッチH(T18F)にも出走したが、22ポンドのハンデを与えたウエストウィックロー、27ポンドのハンデを与えたフレンドシップの2頭に後れを取り、勝ったウエストウィックローから2馬身差の3着に敗れた。この年には米国アーリントンパーク競馬場が企画した国際競走への招待を受け、ウェルナー卿は出走を受諾したのだが、他の招待馬の不参加が相次いだために、結局この国際競走は不成立となり、本馬が米国に渡る事は無かった。

競走生活(6~9歳時)

6歳時は、3年連続出走となったアスコットS(T16F)でボニーボーイの着外に敗れた。しかし次走のクイーンアレクサンドラS(T22F34Y)では、オールドオークニー以下を蹴散らして2連覇を達成した。そして前年は惜しくも敗れたグッドウッドC(T21F)に向かい、単勝オッズ1.44倍の1番人気に応えて、2着ジューゴに1馬身差で勝利した。秋にはエボアH(T14F)に出走して、コースターとジェントルメンズレリッシュの同着勝利から半馬身遅れの3着。その後に出走したドンカスターC(T18F)では単勝オッズ2.1倍の1番人気に応えて、リヴァプールセントレジャーの勝ち馬エンパイアビルダーを5馬身差の2着に破って圧勝した。これで本馬は英国長距離カップ三冠競走のうち、グッドウッドCとドンカスターCの2戦を同一年で制したわけだが、しかし三冠競走の残り1戦であるアスコット金杯は騙馬の出走を当時認めていなかった(現在は出走可能)ため、本馬が英国長距離カップ三冠馬になる可能性は最初から絶たれていた。

7歳時には、春のチェスターC(T18F)で、132ポンドを背負いながらも、ゴールドヴァーズの勝ち馬トリムドンを1馬身差の2着に抑えて勝利。さらにクイーンアレクサンドラS(T22F34Y)を勝ち、3連覇を達成した。グッドウッドC(T21F)では、ニューベリーサマーCの勝ち馬でアスコット金杯3着のサーモンリープ(翌年にコロネーションCを勝ちアスコット金杯で2着している)の首差2着に惜敗したが、アスコット金杯を勝ってきた3着トリムドンには4馬身差をつけた。前年に敗れたエボアH(T14F)では131ポンドを背負いながらも、前年の同競走で屈した相手であるコースターを2馬身差の2着に、ダフニ賞・ユジェーヌアダム賞の勝ち馬アーゴノートをさらに半馬身差の3着に破って勝利した。ドンカスターC(T18F)では、前年の英セントレジャー馬でアスコット金杯2着のシンガポールに4馬身差をつけられて2着に完敗した。さらにこの年は、ローズベリー記念プレートにも勝っている。この7歳の時点で本馬の競走馬としての人気は絶大なものとなっていた。

8歳時には、クイーンズヴァーズ(T16F45Y)でシルヴァーミアの着外に敗れたが、それをステップに、クイーンアレクサンドラS(T22F34Y)に出走。前年の英オークスやこの年のカドラン賞・ジョッキークラブCなどを勝っていたブルレット(ヴェイグリーノーブルオールアロングディミニュエンドなどの牝系先祖)を破って4連覇を達成した。しかしグッドウッドC(T21F)では、そのブルレットに4馬身差をつけられて2着に敗れた。ドンカスターC(T18F)では、翌年のアスコット金杯を勝つフォックスハンター、前年の英セントレジャー・キングエドワードⅦ世S・チェスターヴァーズの勝ち馬で英ダービー・エクリプスS3着のサンドウィッチの2頭に屈して、フォックスハンターの3着に敗れた。

9歳時にはクイーンアレクサンドラS(T22F34Y)を勝ち、5連覇を達成した。グッドウッドC(T21F)では、キングエドワードⅦ世Sの勝ち馬サンペンヌの4馬身差2着だった。この年にはロバート・チャールズ・ライル氏という人物が本馬の伝記を出版している。

競走生活(10歳時):クイーンアレクサンドラSの6連覇達成

10歳になった本馬は、“the Old Man”と呼ばれながらも現役を続行した。チェスターC(T18F)では、ブルーヴィジョンの4馬身半差3着だった。そして6度目のクイーンアレクサンドラS(T22F34Y)に出走した。英国競馬界のアイドルとなっていた本馬だが、実は過去5回のクイーンアレクサンドラSにおいて1番人気に支持された事は1度も無かった。しかしこの年は、前年の愛ダービー・愛セントレジャーの勝ち馬ハリネロ、愛オークス・シザレウィッチH・ジョッキークラブCを勝っていたニチシン、ニューベリーオータムCの勝ち馬でこの年のグッドウッドCを勝つルースストライフなどを抑えて1番人気に支持されていた。本馬の人気は凄まじいまでの高さとなっており、アスコット競馬場には大観衆が詰め掛けていた。アンソニー師はプレッシャーに耐えられず、本馬のレースを見ずにパドック内の木の下で座り込んでいたという。しかし本馬にはそんなプレッシャーなど微塵も感じられず、2着ソラリアムに2馬身差で勝利を収め、同レース6連覇という大偉業を達成した。

本馬と鞍上のドノヒュー騎手には満場の観衆から大喝采が送られ、名手ドノヒュー騎手は人目を憚らず嬉し涙を流した。本馬はこのクイーンアレクサンドラSを最後に、競走馬を引退した。本馬とドノヒュー騎手が一緒に最後の記念写真に収まった際に、本馬はドノヒュー騎手の顔を片耳からもう一方の耳まで嘗め回したという。その後、時の英国王ジョージⅤ世の命令により、馬を描かせれば英国史上最高と言われていた画家アルフレッド・マニングス卿がデザインした本馬の銅像がアスコット競馬場に建てられた。

競走馬としての評価と人気

前述のとおり、当時は騙馬にアスコット金杯の出走権が無かったため、本馬はこのレースには1度も出走していない。しかし、本馬が7歳時に出走したチェスターCやグッドウッドCで本馬に敗れた2歳年下のトリムドンは、その年と翌年のアスコット金杯を連覇しており、当時から騙馬にアスコット金杯の出走権が認められていれば、本馬もこのレースを1度くらいは勝った可能性が高いと思われる。

また、ドノヒュー騎手はかつて、ザテトラークポマーンゲイクルセイダーなどの主戦を務め、英ダービーは3連覇を含む6勝、他の英国クラシック競走も全て制した1920年前後の英国を代表する名騎手だったが、彼が騎手時代に最も印象に残ったのは本馬だったという。1937年にドノヒュー騎手が53歳で騎手を引退した際に引退記念セレモニーが行われたが、この時にドノヒュー騎手が本馬に挨拶が出来るようにと、ウェルナー卿の指示により本馬の馬房にはラジオが設置された。そしてドノヒュー騎手がラジオ放送を通して本馬に語りかけた瞬間、本馬の耳はぴんと立ったと言われている。

当初は気性が激しかった本馬だが、晩年は落ち着いたらしく、普段の生活では調教と食事のとき以外は横になっていることが多かった。起きている時でも、常に眠たそうな目をしていたという。好物は黒パンとチーズ(高級チーズではなく安物のチェダーチーズ)だったという。また、陣営から深い愛情を持って育てられ、騙馬ながら酷使されることは無かった。1シーズンの出走回数は最多でも11戦までとなっている。

長きに渡って一線級で活躍した本馬は、多くのファンから愛された。本馬のために使ってくれと電話機を送られたり、教会の説教の材料として本馬の話が使われたり、本馬が使用していた蹄が幸運の象徴として崇められたり、本馬の名前をチーム名にしたサッカー団体が登場したり、本馬の名前を付けたカクテルが販売(今でもある)されたりした。英国の鉄道会社だったロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)が運行していたLNERクラスA1/A3蒸気機関車の最終型には、本馬の名前がそのまま付けられた。

血統

Jackdaw Thrush Missel Thrush Orme Ormonde
Angelica
Throstle Petrarch
Thistle
Chemistry Charibert Thormanby
Gertrude
Retort Rosebery
Re-Echo
Sakuntala St. Frusquin St. Simon Galopin
St. Angela
Isabel Plebeian
Parma
Ashdown Muncaster Doncaster
Windermere
Miss Maria Scottish Chief
Silver Ring
Querquidella Kroonstad Kilwarlin Arbitrator Solon
True Heart
Hasty Girl Lord Gough
Irritation
Sabra St. Simon Galopin
St. Angela
Belinda Hampton
Belle of Bury
Garganey Wildfowler Gallinule Isonomy
Moorhen
Tragedy Ben Battle
The White Witch
Sapphire Buckingham Galopin
Lady Yardley
Criosphinx Rosicrucian
The Sphynx

父ジャックダウは本馬が6連覇したクイーンアレクサンドラSを1912年に勝利した長距離馬だった。主に障害用種牡馬として活躍し、グラックル、ケルスボロジャックと2頭の英グランドナショナル優勝馬を出したが、平地でも愛1000ギニー馬ウエストインディーズを出している。ジャックダウの父スラッシュは現役成績24戦16勝。息子や孫とは正反対に、サセックスS・ジュライC・キングズスタンドプレート・チャレンジSを制した名短距離馬だった。スラッシュの父ミゼールスラッシュはオーム産駒。

母クォクイデラは現役成績16戦未勝利。近親にはこれといった活躍馬がいないが、クォクイデラの全姉ワトルボウの牝系子孫からは、キャヴァン【ベルモントS・ピーターパンS】とインディアナ【英セントレジャー】の兄弟、ノーブルダンサー【サンルイレイS(米GⅠ)2回・ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)2回】、シロッコ【BCターフ(米GⅠ)・独ダービー(独GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)・コロネーションC(英GⅠ)】などが、クォクイデラの半妹ラドガ(父クルーンスタッド)の牝系子孫からは、キングパーシャン【愛フェニックスS(愛GⅠ)】などが、クォクイデラの半妹オーガナ(父フライングオーブ)の牝系子孫からは、ハットンズグレイス【英チャンピオンハードル3回・愛チャンピオンハードル】、フィグラ【ラスオークス・インテルナショナル大賞典・ムニシパルデヴィーニャデルマール賞】、フィグロン【ポージャデポトリジョス賞・ナシオナルリカルドリヨン賞・アルベルトビアルインファンテ賞・サンパウロ大賞】、ドルティコス【チリ銀杯(智GⅠ)・ポージャデポトリジョス賞(智GⅠ)・エルダービー(智GⅠ)・智ラティーノアメリカーノジョッキークラブ協会大賞(智GⅠ)】、スパークオブライフ【ザギャラクシー(豪GⅠ)・マニカトS(豪GⅠ)2回】などが出ている。→牝系:F2号族①

母父クルーンスタッドは現役成績91戦22勝、アスコットダービーS(現キングエドワードⅦ世S)を勝ち、英チャンピオンSでセプターの2着している。クルーンスタッドの父キルワーリンは英セントレジャー勝ちなど10戦5勝。さらに遡ると、リヴァプールオータムCの勝ち馬アービットレイター、ソロンを経て、英国三冠馬ウエストオーストラリアンへと行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ワーナー卿が本馬のために英国レスターシャー州ソープルベンハムホールに作った厩舎で余生を過ごし、1948年に24歳で他界した(没年を1949年で享年25歳とする資料もある)。死後に本馬の遺体を解剖したところ、心臓の重さは19ポンド(通常は9ポンド程度)あり、エクリプスファーラップ(いずれも14ポンドほど)をも上回る巨大な心臓だった。本馬の遺骨は現在ロンドン自然史博物館に展示されている。

本馬は、英国競馬史上を代表する名長距離馬、及び英国競馬史上屈指の人気馬であると各種資料に書かれているが、長距離馬としての評価はともかく、人気馬というのは過去の話である。2003年に英レーシングポスト紙が行った企画“Favourite 100 Horses”において本馬はランク外であり、今日では英国でも本馬の知名度は低くなっているようである。もっとも、この企画でランクインした馬100頭のうち、99頭が第二次世界大戦の終了後に活躍した馬である。第二次世界大戦前の活躍馬ではチェルトナム金杯を5連覇したゴールデンミラー(71位)の1頭しかランクインしていない。やはり競走馬を好きになるには現役時代を知らなければ難しいようである。第二次世界大戦前に同様の企画があれば、本馬が上位に入ったのはほぼ間違いないだろう。

なお、本馬は騙馬ゆえに子孫を残す事はなかったが、その存在が後世のサラブレッド血統界に大きな影響を残したらしき逸話が残っている。本馬の競走馬引退後の1935年に、米国の実業家ポール・メロン氏がメアリー・コノバー・ブラウン嬢と結婚し、新婚旅行で英国にやって来た。メロン夫妻は、周囲の勧めを受けて、障害競走馬訓練施設キングスクレア厩舎を訪れた。そこで夫妻は、ヘイスティングス未亡人やアンソニー師と知り合いになった。2人はメロン夫妻に本馬に関する色々な話を聞かせた。米国に戻ったメロン氏は、第二次世界大戦に従軍して活躍した後、自分の母親が地元のヴァージニア州に設立していたロークビーステーブルを受け継ぎ、平地と障害の競走馬の生産・所有を本格的に開始した。そしてアーツアンドレターズフォートマーシーの2頭の米国顕彰馬を生産した。その後メロン氏は1968年に生産した一頭の牡馬を、ヘイスティングス師の孫娘エマ・ヘイスティングス夫人の夫となっていた英国の調教師イアン・ボールディング師に委ねた。この馬こそが歴史的名馬にして名種牡馬のミルリーフである。

TOP