マカロニ

和名:マカロニ

英名:Macaroni

1860年生

鹿毛

父:スウィートミート

母:ジョーコース

母父:パンタルーン

3歳時7戦無敗で英2000ギニー・英ダービーを制覇し、種牡馬としては主に牝馬の活躍馬を出して母系にその名を残す

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績8戦7勝2着1回

誕生からデビュー前まで

初代ウェストミンスター公爵ヒュー・ルーパス・グローヴナー卿により、彼が所有するチェシャー州イートンホールスタッドにおいて生産された。本馬が1歳の時にイートンホールスタッドで腺疫が流行し、本馬を含む6頭の1歳馬が感染した。腺疫はリンパ節が膨張して膿が混ざった鼻水が出る病気だが、余程のことが無い限り致命的な病気では無い。この6頭も生命には問題なかったが、いずれも調教がなかなか出来ない状況になってしまった。そのせいもあって本馬を含むこの6頭はイートンホールスタッドの近郊にフートンパークスタッドを開設して間もなかった銀行家リチャード・C・ネイラー氏に、700ポンドで一括売却された。

本馬は成長しても体高15.3ハンドで、とりたてて大きい馬ではなかったが、砲骨が少々長すぎる事を除けば馬体のバランスは良く、非常に素晴らしいと評価された。もっとも、腺疫の影響で調教が遅れて成長が遅く、当初の評価はネイラー氏所有の馬の中では一番という訳ではなかったようである。ネイラー氏が最も期待を寄せていた同世代馬は、同じスウィートミート産駒のカーニバルという馬だった。本馬は、ニューマーケットに厩舎を構えていたジェームズ・ゴッディング調教師に預けられた。

競走生活(3歳初期まで)

2歳の秋にニューマーケット競馬場で行われた2頭立てのスウィープSで、主戦となるトム・シャロナー騎手を鞍上にデビューしたが、唯一の対戦相手オートマトンに3/4馬身差で敗れた。しかし敗戦にも関わらずネイラー氏は、この時点で本馬は将来の英ダービー馬になれる器と判断して大きな期待を抱き、早くも翌年の英ダービーを見据えた。2歳時はこの1戦のみで終え、3歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたスウィープS(T8F17F)から始動。馬場は異常に乾燥しており堅良だったが、本馬は馬なりのまま走って、2着となった仏国調教の牝馬バレンタイン(所有者は本馬より2歳年下の英国三冠馬グラディアトゥールの所有者となるフレデリック・ラグランジュ伯爵だった)に3馬身差で楽勝した。

そして同コースで行われる2週間後の英2000ギニー(T8F17Y)に駒を進めた。英国でクリアウェルS・クリテリオンSを勝っていた仏国調教馬ホスポダール(この馬もラグランジュ伯爵の所有馬だった)が単勝オッズ2.25倍の1番人気、本馬と同じスウィートミート産駒のサッカロメーターが単勝オッズ7倍の2番人気となっており、本馬は単勝オッズ11倍の3番人気だった。レースは2週間前のスウィープSと同じく非常に乾燥した堅良馬場で行われた。そしてスウィープSで既にその馬場状態を経験済みだった本馬にとってはそれだけで有利であり、サッカロメーターを半馬身差の2着に退けて優勝し、ホスポダールは着外だった。仏国調教馬のホスポダールではなく英国調教馬の本馬が勝った事を喜んだ観衆達は、所有者ネイラー氏に大きな拍手を送った。

英ダービー

引き続き出走した英ダービー(T12F)では、豪快な末脚を武器に2歳時に英シャンペンSなど3戦全勝の成績を挙げていたロードクリフデンが単勝オッズ5倍の1番人気となり、ホスペンダーとゲーリという2頭の馬が並んで単勝オッズ10倍の2番人気、本馬は相変わらず単勝オッズ11倍で、サッカロメーターと並び4番人気だった。エプソム競馬場には結婚2か月の新婚だった当時21歳のアルバート・エドワード・ウェールズ皇太子(後の英国王エドワードⅦ世)も姿を見せていた。しかしレース当日は大雨だったため、英2000ギニーとは打って変わって馬場状態は不良であった。しかも複数の馬がスタート地点に来るのが遅れた上に、スタートで32回という記録的な回数のフライングがあり、レース開始が1時間も遅れた。

ようやく正規のスタートが切られたレースでは、ブライトクラウドという馬がまずは先頭に立ち、本馬は先行馬勢を見る形で好位につけた。末脚が武器の1番人気馬ロードクリフデンはレース序盤こそ本馬より後方にいたのだが、坂を上る途中で早くも加速して先頭に立った。ドニーブルックという馬もつられて上がっていき、この2頭が先頭を引っ張る形となった。それでも本馬鞍上のシャロナー騎手は好位でじっと我慢していた。それからしばらくしてキングオブザヴェールという馬の騎手が落馬して、サッカロメーターを含む2頭が巻き込まれて競走を中止する事故が起きたが、本馬はその影響を受けなかった。そして直線に入ると、先頭のロードクリフデンがエプソム競馬場の長い直線で押し切りを図った。直線入り口で5番手だった本馬もロードクリフデンを追って加速。残り1ハロン地点まではロードクリフデンがそのまま押し切って勝ちそうな雰囲気だったが、内側から追い上げてきた本馬が並びかけ、そして2頭が殆ど並んでゴールインした。体勢はロードクリフデン有利に見えたが、結果は本馬が短頭差で勝利を収めており、ネイラー氏の期待どおりに英ダービー馬の栄冠を手にした。ロードクリフデンから半馬身差の3着には後のクラレットSの勝ち馬ラピッドローヌが入った。負けたロードクリフデンはこの敗戦によりかえって大衆人気を得たが、別に本馬が悪役視されたわけではなく、本馬が調教されていたニューマーケットでは教会の鐘を盛大に鳴らして本馬の勝利を祝ったという。

競走生活(英ダービー以降)

本馬は続いてグッドウッド競馬場に向かい、7月に行われたドローイングルームSに出走した。他の出走馬2頭とは10ポンドの斤量差があったが、単勝オッズ2倍を切る圧倒的な1番人気に応えて、10馬身差で圧勝した。翌8月にはヨーク競馬場で古馬相手のヨークC(T16F)に出走した。このレースには前年の英セントレジャー3着馬クラリッシマスも出走していたのだが、本馬がクラリッシマスを5馬身差(4馬身差とする資料もある)の2着に破って圧勝した。

英2000ギニー・英ダービーを勝った本馬の次の目標は英セントレジャーを勝って英国三冠馬になる事、と思われるかもしれないが、本馬の現役時代はまだ英国三冠という概念が完全に定着していなかった(英国三冠という用語が一般的となったのは早くとも1870年代以降であり、この年より10年程度後の話である)ためか、本馬は英セントレジャーに出走しなかった。本馬不在の英セントレジャーは、ロードクリフデンがあり得ないほど後方から差し切って勝利を収めているが、本馬が出走していたらどのような結果になっていただろうか。本馬が英セントレジャーを勝つだけのスタミナ能力を有していたのは間違いないし、世間一般の人気では本馬よりロードクリフデンが上位でも、専門家はロードクリフデンより本馬のほうが実力上位と見ていたらしいから、本馬が勝った可能性は十分にあったと思われる。

英セントレジャーに出走しなかった本馬は、英セントレジャーの数日後にドンカスターC(T20F)に出走した。このレースには、英セントレジャーでロードクリフデンの半馬身差2着してきたばかりの英オークス馬クイーンバーサの姿もあった。結果は本馬がクイーンバーサを1馬身差の2着に抑えて勝利した。10月にはニューマーケット競馬場でセレクトS(T8F)に出走したが、対戦相手がいなかったために単走で勝利を収め、このレースを最後に3歳時7戦全勝の成績で競走馬を引退した。

血統

Sweetmeat Gladiator Partisan Walton Sir Peter Teazle
Arethusa
Parasol Pot-8-o's
Prunella
Pauline Moses Seymour
Gohanna Mare
Quadrille Selim
Canary Bird
Lollypop Voltaire Blacklock Whitelock
Coriander Mare
Phantom Mare Phantom
Overton Mare
Belinda Blacklock Whitelock
Coriander Mare
Wagtail Prime Minister
Orville Mare
Jocose Pantaloon Castrel Buzzard Woodpecker
Misfortune
Alexander Mare Alexander
Highflyer Mare
Idalia Peruvian Sir Peter Teazle
Boudrow Mare 
Musidora Meteor
Maid of All Work
Banter Master Henry Orville Beningbrough
Evelina
Miss Sophia Stamford
Sophia
Boadicea Alexander Eclipse
Grecian Princess
Brunette Amaranthus
Mayfly

父スウィートミートは3歳時にアスコットゴールドヴァーズ・グッドウッド金杯など16戦無敗の戦績を誇ったが、4・5歳時には1戦ずつしてともに着外だった。種牡馬としては本馬の他に、ミンスパイ、ミンスミートの2頭の英オークス馬を出すなど活躍したが、本馬が2歳時の1862年に独国に輸出されて、本馬とサッカロメーターが英2000ギニーで産駒のワンツーフィニッシュを決めたときには既に他界していた。スウィートミート産駒の活躍馬は名前からの連想で食べ物の名前ばかりである。スウィートミートの父は英国三冠馬グラディアトゥールの母父としても知られるグラディエイターである。

母ジョーコースの競走馬としての経歴は不明だが、血統的にはタッチストン【英セントレジャー・アスコット金杯2回・ドンカスターC2回】やランスロット【英セントレジャー・シャンペンS】の半妹であり、かなりの良血馬である。本馬の半妹フリッパント(父ケープフライアウェイ)の子孫が一定の繁栄を見せており、子にフリビュスティエ【ダリュー賞】、牝系子孫にブラックマリア【ケンタッキーオークス・レディーズH2回・メトロポリタンH・ホイットニーS】、1932年の加国三冠馬クイーンズウェイ、ネイティヴダンサーの父となった1947年の米最優秀短距離馬ポリネシアン【プリークネスS・ウィザーズS】、エルピス【CCAオークス・デラウェアH】、フレンズウッド【リディアテシオ賞(伊GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)】などが出ている。→牝系:F14号族②

母父パンタルーンは現役成績7戦6勝で、遡るとキャストレル、バザード、ウッドペッカーを経てヘロドに行きつく血統。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はフートンパークスタッドで種牡馬入りした。6歳時に英国の政治家・事業家だったメイヤー・アムシェル・ド・ロスチャイルド男爵により7100ギニーで購入されて、彼が所有するメントモア&クラフトンスタッドに移動した。なお、取引が成立したのは1875年であるとする資料もあるが、ロスチャイルド男爵は1874年に55歳で死去しているので、時系列的に無理である。ロスチャイルド男爵の死去後も本馬はメントモア&クラフトンスタッドに残り(資料には何の記載も無いが、ロスチャイルド男爵の一人娘で当時独身だったハンナ嬢に代わってメントモア&クラフトンスタッドを任されたロスチャイルド男爵の甥レオポルド・ド・ロスチャイルド氏の所有となったと思われる)、1887年12月に27歳で他界するまで有力種牡馬として活躍した。

本馬は4頭の英国クラシック競走の勝ち馬を出したが、そのうち牡馬は英2000ギニー馬マグレガーのみである。どちらかと言えば牡駒よりも牝駒の活躍が目立っており、フィリーサイアーだったようである。そのためか直系は繁栄しなかったが、繁殖牝馬の父としては、オーモンドボナヴィスタ、ケンダル(英国三冠馬ガルティモアの父)、ムンカスター(プリティポリーの母父サラバンドの父)、英2000ギニー馬ガリアードなどを、繁殖牝馬の祖父としては、英国クラシック競走4勝馬セプターなどを出し、後世に大きな影響を与えている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1866

Martinique

コロネーションS

1867

Frivolity

ミドルパークS

1867

Macgregor

英2000ギニー

1869

Como

トライアルS

1870

Surinam

ミドルパークS

1871

Lily Agnes

ドンカスターC

1872

Spinaway

英1000ギニー・英オークス・ヨークシャーオークス・ナッソーS

1872

The Bay of Naples

セントジェームズパレスS

1873

Camelia

英1000ギニー・英オークス

1877

Novice

エボアH

1880

Bonny Jean

英オークス

1880

Macheath

ミドルパークS・ジュライS

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