シアトルスルー

和名:シアトルスルー

英名:Seattle Slew

1974年生

黒鹿

父:ボールドリーズニング

母:マイチャーマー

母父:ポーカー

当初の評価は低かったが史上初めて無敗で米国三冠馬に輝き、種牡馬としても超一流の成績を残したアメリカンヒーロー

競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績17戦14勝2着2回

史上10頭目の米国三冠馬。1歳時のセリにおいて1万7500ドル(当時の為替レートで約490万円)という安値で取引されながら、米国競馬史上初めて無敗で三冠を達成し、そして種牡馬としても素晴らしい実績を残した。まさしくアメリカンドリームを体現した馬であり、サラブレッド史上最も完璧な馬であるとも賞賛された。

誕生からデビュー前まで:まったく期待されていなかった幼少期

米国ケンタッキー州ホワイトホースエーカーズファームにおいて、ベン・S・キャッスルマン氏により、父ボールドリーズニングと母マイチャーマーそれぞれの初年度産駒としてこの世に生を受けた。誕生した本馬を見た、牧場の経理担当者ポール・マロリー氏は一言「醜い」と言ったという。同じ牧場にいた他馬とも打ち解けられず、いつも孤独に草を食んでいたという。

1歳時のキーンランド7月セールに出品されようとしたが、その血統と見栄えの悪さから受理してもらえず、代わりにファシグ・ティプトン社がレキシントンで実施した一般部門のセリに出品された。ファシグ・ティプトン社のテッド・ベイツ氏は、このセリに出された本馬について「体格は平均以上で、肩も良く発達していました。首から背中にかけても強靭で、肋骨は優れたバネのようでした。後脚も良かったのですが、ただ右前脚の膝だけが極端に外向していました」と述懐している。この評価からすると、本馬の見栄えの悪さというのは前脚が曲がっているという一点に集約されていたようであり、それ以外の点ではさほど悪くはなかったようである(もっとも、脚が曲がっているというのは競走馬として一番あってはならない欠点の一つではあるけれども)。

本馬は、ワシントンで製材業者を営んでいたミッキー・テイラー氏とカレン・テイラー夫人、及びニューヨークで獣医をしていたジム・ヒル氏とサリー・ヒル夫人の2組の夫婦により、1万7500ドルで購入された。両夫婦が本馬を購入した経緯については、原田俊治氏の「新・世界の名馬」に詳しい。それによると、宿泊先のホテルでたまたま出会って意気投合した両夫婦が資金を出し合い、ジム・ヒル氏が選んだ本馬を購入するに至ったのだという。海外の資料には、ジム・ヒル氏が本馬を選んだ理由についても記載されている。ジム・ヒル氏はかつて本馬の父ボールドリーズニングの治療をした事があり、そのボールドリーズニングの初年度産駒であるという事で興味をそそられ、実際にボールドリーズニング産駒の中では一番優れていると感じたためだという。

テイラー夫妻がシアトル出身だったことと、彼等が仕事で重い丸太を運搬するのに沼地(英語で“Slough”)を活用していた事にちなんで、彼等は本馬を“Seattle Slough”と命名しようと考えた。しかし“Slough”は綴りが難しくて覚えにくいと感じたカレン夫人の提案により、“Slough”が簡単な綴りの“Slew”に変更され、本馬は“Seattle Slew”という名前になったという。なお、本馬の命名の由来に付いてはもう一説ある。ヒル夫妻の出身地であるフロリダ州の地方には沼地が多く、この地方では沼地のことを“Slew”と呼んでいた事によるというものであり、「新・世界の名馬」にはこちらの説が採用されている。また、本馬にはテイラー夫妻とヒル夫妻のほかに、もう1人グレン・ラスムッセン氏という会計担当の共同所有者がいたという。

まったく期待されていなかった本馬は当初、米国競馬の中心地からは遠く離れたニューメキシコ州サンランドパーク競馬場で行われる、ライリーアリソンフューチュリティSというマイナー競走が目標だったという。しかし本馬を預かる予定だったデイブ・ホフマン調教師の都合がつかなくなったために、その予定は変更され、本馬は獣医をしていたジム・ヒル氏が仕事柄付き合いのあった、ウィリアム・“ビル”・ターナー・ジュニア調教師に預けられることになった。ターナー・ジュニア師は元障害競走騎手で、騎手引退後はメリーランド州で厩舎を開業し、後にニューヨーク州に本拠を移していた。

本馬は両夫妻によってセリで一緒に購入された他馬達と共に、アンドールファームに送られ、そこでターナー・ジュニア師の妻ポーラ夫人の騎乗により調教が施された。ターナー・ジュニア師が2歳4月に最初に本馬を見た際に受けた印象は「身体は大きいが不器用である」という程度のものだった。調教でも、右前脚が外向している本馬はカーブを曲がる際にしばしば外側に膨らんだという。そのため、ターナー・ジュニア師は本馬に“Baby Huey(ベイビー・ヒューイ。米国の古典的アニメ作品ウッディーウッドペッカーに登場するキャラクター「醜いアヒルの子」のこと)”というニックネームをつけた。

しかしある日の午前中の調教で、本馬がダート6ハロンを馬なりのまま1分10秒0という快タイムで駆け抜けると、ターナー・ジュニア師は「なんてこった!」を連呼した。この調教光景を見ていた人達は度肝を抜かれて、各方面にこの事実を言いふらしたが、伝言ゲームのように本馬の名前は「シアトルスー」と誤って伝えられた。本馬が特別な馬である事をようやく理解したターナー・ジュニア師は、本馬が成熟するまで慎重に見守る事とし、デビューは予定より少し遅くなった。

競走生活(2歳時)

2歳9月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦で、主戦となる仏国出身のジーン・クリュゲ騎手を鞍上にデビュー。単勝オッズ3.5倍の1番人気に支持された本馬は、2着プラウドアリオンに5馬身差をつけて圧勝した。この頃、名馬オネストプレジャーの1歳年下の全弟フォーザモーメントが、ベルモントフューチュリティSや分割競走カウディンSを勝つ活躍を見せていた。しかしクリュゲ騎手は騎手仲間に対して「フォーザモーメントよりもっと凄い馬がいます。それはシアトルスルーという馬です」と言っていた。

翌10月にはベルモントパーク競馬場ダート7ハロンの一般競走に出走。ここでも終始持ったままで、2着クルーズオンインに3馬身半差をつけて楽勝した。その11日後にはシャンペンS(GⅠ・D8F)に出走。このレースには、4連勝で臨んできた前述のフォーザモーメントに加えて、サプリングSの勝ち馬でカウディンS2着のアリウープ、分割競走カウディンSのもう一方の勝ち馬セイルトゥローマ、サンフォードSの勝ち馬でサラトガスペシャルS・ホープフルS2着のターンオブコイン、ベルモントフューチュリティS3着馬ウエスタンウインド、カウディンS3着馬サンヘドリン、同じくカウディンS3着のジョンスキロ、前走で本馬の2着だったクルーズオンインなどが出走してきた。しかし本馬がフォーザモーメントを抑えて1番人気に支持された。そしてその見立ては正しかった。本馬はスタート直後に先頭に立つと、そのまま先頭を爆走。2番手を走っていたフォーザモーメントが四角で差を縮めてきたが、直線に入るとフォーザモーメントとの差を逆にどんどん広げていき、最後は2着となったフォーザモーメントに9馬身3/4差をつけて、1分34秒4の北米2歳馬レコードを樹立して圧勝してしまったのである。

2歳時は3戦全勝の成績で、この年のエクリプス賞最優秀2歳牡馬に選ばれた。

競走生活(3歳初期)

ターナー・ジュニア師は本馬をケンタッキーダービーに向かわせることとし、前哨戦として3回レースを走らせる日程を組んだ。本馬が2002年に死去した際に、ターナー・ジュニア師は「ケンタッキーダービーもプリークネスSも問題ではありませんでした。私が一番心配していたのは、距離が長いベルモントSでスタミナが保つかどうかだけでした」と、この時点で既に米国三冠馬を意識していた事を明らかにしている。そしてベルモントSで距離延長の走りをさせるためには、本馬をリラックスさせて気性面を落ち着かせることが必要であると考え、冬場は温暖なフロリダ州で本馬を過ごさせ、調教も無理には行わなかった。

そして3歳3月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で復帰した。そして2着ホワイトランマーに9馬身差をつけて、1分20秒6のコースレコードを樹立して復帰戦を飾った。次走のフラミンゴS(GⅠ・D9F)では、ファウンテンオブユースS・分割競走フロリダダービーを連勝してきたルーシーズネイティヴ、分割競走フロリダダービーのもう一方の勝ち馬コインドシルバー(後に日本に種牡馬として輸入されて活躍)、ファウンテンオブユースS・フロリダダービー3着のフォートプレヴェル、フロリダダービー3着馬サーサーなどが対戦相手となった。しかし同レース史上3番目の好タイムとなる1分47秒4で走り抜けた本馬が、2着ジブリーに4馬身差をつけて快勝した。ニューヨーク州に戻って出走したウッドメモリアルS(GⅠ・D9F)も、シャンペンSで本馬の5着だったサンヘドリンを3馬身1/4差の2着に破って快勝。

競走生活(3歳中期):史上初の無敗の米国三冠達成

そして無敗のままケンタッキーダービー(GⅠ・D10F)に挑んだ。対戦相手は、前年のシャンペンS2着後にローレルフューチュリティ・フロリダダービー・サンタアニタダービーと2着が続いたが前走のブルーグラスSを勝ってきたフォーザモーメント、アーリントンワシントンフューチュリティS・ブリーダーズフューチュリティS・ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬でブルーグラスS2着のランダスティーラン、ケンタッキージョッキークラブS2着馬ゲットジアクス、ハリウッドダービーの勝ち馬でファウンテンオブユースS2着・サンタアニタダービー3着のスティーヴズフレンド、シャンペンS7着後に一般競走を3連勝してブルーグラスSで3着してきたウエスタンウインド、ハリウッドダービーで2着してきたアフィリエイト、ホーソーンジュヴェナイルSの勝ち馬でレムセンS2着のノスタルジア、イリノイダービーを勝ってきたフラッグオフィサー、サンヘドリン、ジブリー、フラミンゴSで本馬の11着に敗れていたサーサーなどだった。事前に本馬の対抗馬と目されていたのは、ベイショアS・ゴーサムSなど破竹の7連勝中だったコーモラントだったが、熱発のために回避していた。それもあって、本馬が単勝オッズ1.5倍という断然の1番人気に支持された。

しかしさすがの本馬も、初めて経験する大観衆の前で動揺していたようで、大量の発汗が見られたという。それが原因なのか、スタートでゲートに頭をぶつけてしまうアクシデントがあり、危うくクリュゲ騎手は落馬するところだった。何とか落馬は免れたが、後方からの競馬になってしまった。しかしすぐに体勢を立て直すと、他馬の間をすり抜けて進出し、最初のコーナーに入る頃にはもう先頭のフォーザモーメントに並びかけていた。そのまま道中はフォーザモーメントを見るように2番手を追走し、四角途中で先頭に立つとそのまま押し切り、追い上げてきた2着ランダスティーランに1馬身3/4差で優勝した。

次走のプリークネスS(GⅠ・D9.5F)では、ケンタッキーダービーに続いて出走してきた対戦相手はランダスティーランと前走12着のサーサーのみであり、ケンタッキーダービー回避後に出走したウィザーズSで2着と無難にまとめてきたコーモラント、欧州でリッチモンドS・英シャンペンSを勝ち仏グランクリテリウムで3着した後に米国に移籍してきたジェイオートービン、フラミンゴS5着・ウッドメモリアルS6着といずれも本馬に歯が立たなかったが前走ウィザーズSを勝って急上昇してきたアイアンコンスティテューション、ウッドローンSで2着してきたカウンターパンチといったケンタッキーダービー不参戦組が主要な対戦相手となった。

本馬は単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持されたが、新規対戦組の1頭コーモラントのスタートダッシュはかなり評判が高く、スピード指数の大家アンドリュー・ベイヤー氏を始めとして、コーモラントが本馬の前を走ってそのまま勝つと予想した専門家も多かった。レースではスタートからコーモラントと本馬が激しく先頭を争い、最初の半マイル通過が45秒3、6ハロン通過は1分09秒4という、プリークネスS史上最速級のハイペースとなった。このハイペースのためにコーモラントは三角手前で遅れ始めた。そして単独先頭に立った本馬はそのまま直線に入ると、二の脚を使って後続の追撃を完封し、2着アイアンコンスティテューションに1馬身半差で優勝。本馬が負けると予想した専門家達を沈黙させた。勝ちタイムの1分54秒4は、1971年にキャノネロが計時した1分54秒0に次いで、同レース史上当時2番目に速いものだった(後に1973年の勝ち馬セクレタリアトの勝ちタイムが1分53秒0に訂正されたため、実際には当時史上3位である)。

次走のベルモントS(GⅠ・D12F)では、プリークネスS2着後にジャージーダービーに出て2着していたアイアンコンスティテューション、プリークネスSで3着だったランダスティーラン、同6着だったサーサー、ケンタッキーダービー3着後にピーターパンSで2着していたサンヘドリンなど7頭が本馬の三冠制覇を阻むべく立ち向かってきた。厩舎からベルモントパーク競馬場に向かう途中で違法駐車された自動車が道を塞いでいたため、本馬を乗せた車は大回りをして20分遅れで競馬場に到着するという事態が発生し、本馬が落ち着いて走れるかどうかが鍵だと考えていたターナー・ジュニア師は心配した。しかもレースは本馬にとって初めて経験する重馬場となり、本馬のスタミナ面を懸念していたターナー・ジュニア師をさらに心配させることになった。

しかしその心配は杞憂に終わった。単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された本馬は、スタートしてすぐに先頭に立った。そして道中でアイアンコンスティテューションやランダスティーランなど後続馬のしつこい圧力を受けながらも先頭を死守。三角に入る頃には、競り掛けてきた馬達は本馬に付いていけなくなってしまい、差が広がり始めた。そこに後方からサンヘドリンが一気に上がってきたが、本馬に追いつけるほどの勢いは無く、むしろ先頭の本馬のほうが脚色は良かった。そのままの状態で直線に入ると、後はゴールまで駆け抜けるだけだった。最後はクリュゲ騎手が派手なガッツポーズを見せながら、2着に粘ったランダスティーランに4馬身差をつけて優勝し、1973年のセクレタリアト以来4年ぶり史上10頭目の米国三冠馬となった。デビューから無敗のまま米国三冠馬になったのは史上初であり、2015年現在でも本馬唯1頭である。また、一般部門のセリで取引された馬が米国三冠馬になったのも史上初の事だった。

米国の大競走においてゴール前から騎手がガッツポーズをするような光景は当時あまり見られなかった(後には一般的慣習になっている)らしく、勝利騎手インタビューでその事を尋ねられたクリュゲ騎手は「まだゴール前なのは分かっていましたが、後続馬は私達を捕らえられない事を知っていましたし、それに私はあまりにも幸福でしたので(思わずガッツポーズをしてしまいました)」と応えた。

競走生活(3歳後期)

ベルモントSの後、カリフォルニア州ハリウッドパーク競馬場が、7月に実施されるスワップスSの賞金を40万ドルまで増額させて、本馬陣営に対して参戦を打診してきた。ターナー・ジュニア師は本馬には休養が必要であるとしてスワップスS参戦に反対したが、高額賞金に目が眩んだ馬主サイドは、反対を押し切って本馬を米国西海岸に送り、スワップスS(GⅠ・D10F)に出走させた。主な対戦相手は、プリークネスSで5着だったジェイオートービン、ケンタッキーダービーで9着だったアフィリエイト、アーゴノートHを勝ってきたテキストくらいであり、本馬が普通に能力を発揮すれば負けるようなメンバー構成ではないはずだった。

しかしジェイオートービン鞍上の名手ウィリアム・シューメーカー騎手には秘策があった。プリークネスSでもジェイオートービンに騎乗していた彼は、そこでコーモラントが本馬と競り合って潰れたのを見ていたはずだが、それでも本馬を倒すためには本馬の前を走るしかないと確信していた。そしてスタートから徹底してジェイオートービンを逃げさせた。ジェイオートービンは翌年にエクリプス賞最優秀短距離馬に選ばれるほどの快速を存分に発揮し、最初の2ハロンを22秒4、半マイルが45秒4、6ハロンは1分09秒2、1マイルでは1分33秒6という猛烈な勢いで逃げまくった。そしてジェイオートービンの快速に本馬は付いていくことができず、最後には失速してしまい、アフィリエイトとテキストの2頭にも遅れて、1分58秒4という全米レコードに迫る好タイムで8馬身差の圧勝を飾ったジェイオートービンから16馬身差も離された4着に惨敗してしまった。ちなみに2着のアフィリエイトは後にモンマス招待H・ヴォスバーグSなどを勝ち、3着のテキストも後にエイモリーLハスケルH・セクレタリアトS・サンフェルナンドSなどを勝っており、本馬に先着した3頭は全てGⅠ競走を勝つ実力の持ち主だった。

その後、本馬は体調を崩して咳き込むようになったため、シーズン後半は全休することになった。そのためにスワップスSが3歳時最後の出走となったが、それでも7戦6勝の成績で、この年のエクリプス賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選ばれている。

なお、スワップスS出走の件で馬主サイドとの対立が決定的となったターナー・ジュニア師(酒飲みだった彼は以前から馬主サイドと飲酒の件で揉めることがあった)は、本馬の管理調教師を解雇され、本馬はダグ・ピーターソン調教師の管理馬となっている。なお、本馬の死後にターナー・ジュニア師は「米国三冠馬を手掛けた唯一の存命する調教師となれたわけですから、(馬主に対する)敵意は持っていません。私達はみな誤りを犯しながら学習して成長したわけですから」と語っている。

競走生活(4歳中期まで)

前年同様にフロリダ州で冬場を過ごした本馬は、4歳時はフロリダ州で3戦した後にメトロポリタンHに向かう予定が立てられた。前年に発症していた咳も概ね治癒していたはずだった。ところが4歳1月に本馬は急激に体調を悪化させてしまった。食欲不振に陥り、大量の発汗が見られ、そして立っていられずに崩れ落ちるように倒れるようになったのである。原因はおそらくウイルス性の疾患であると考えられ、一時期は競走馬復帰どころか生命も危ぶまれる状況となった。ミッキー・テイラー氏は、かつて同じ症状に陥った馬を見た事があり、その馬が24時間以内に死んだため、本馬もまた同じ運命を辿るのではないかと危惧した。しかし本馬は強靭な生命力で病魔を克服し、体調は徐々に快方に向かい、5月にはレースに出られるまでになった。

そしてアケダクト競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で復帰した。ここでは不良馬場の中を快走して、2着プラウドアリオンに8馬身1/4差で圧勝。しかしレース後に脚の靭帯を痛めたために、再び休養を余儀なくされた。

8月にサラトガ競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走で復帰した。マールボロカップ招待H・エヴァーグレイズSの勝ち馬プラウドバーディーとの対戦となったが、やはり不良馬場の中を快走して、プラウドバーディーを6馬身差の2着に切り捨てて圧勝した。

この頃、1歳年下のアファームドが本馬に続いて米国三冠馬の栄誉を手にしており、本馬とアファームドの対戦が取り沙汰されるようになっていた。本馬陣営もその気になり、アファームドとの対戦に向けた前哨戦として、パターソンH(D9F)に本馬を出走させた。ところが、14ポンドのハンデを与えたドクターパッチズにゴール前で差されて、首差の2着に敗れてしまった。ドクターパッチズはこのレース前まではステークス競走の勝ちが無かった全くの無名馬だったが、翌月のヴォスバーグSや翌々月のメドウランズCHを勝つほどの馬であり、休み明けと斤量差を考慮すれば良く走ったほうだと思われる。しかしこの敗戦の責を問われたため、デビュー以来ずっと本馬に騎乗してきたクリュゲ騎手は主戦を降ろされてしまい、以降はアンヘル・コルデロ・ジュニア騎手が主戦を務めることになった。

競走生活(4歳後期):アファームド、エクセラーとの対決

コルデロ・ジュニア騎手との初コンビとなったマールボロC招待H(GⅠ・D9F)が、後輩三冠馬アファームドとの初対決の舞台となった。米国三冠馬同士の直接対決は史上初の事であり、大きく盛り上がった。単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持されたのは、アリダーという強敵を打ち負かして三冠を達成したアファームドのほうで、戦ってきた相手が弱いと言われていた本馬は、アファームドより4ポンド重い斤量だった事もあり、単勝オッズ3倍で生涯唯一の2番人気となった。なお、当初はアファームドの好敵手アリダーもこのレースに出走を予定していたが、故障のために前週に回避が決まっていた。そのため、ブルックリンH・アメリカンダービーを勝っていたナスティアンドボールドなど、米国三冠馬2頭以外の出走馬はどれも蚊帳の外だった。

アファームドはスタートしてすぐに先頭に立って、そのまま後続に抜かさせないレースぶりを得意とする逃げ馬であり、やはり逃げ馬である本馬とどちらが先手を取るのかが注目されたが、スタートから先頭に立ったのは本馬のほうだった。アファームドは2馬身ほど後方の2番手を追走した。アファームドは三角手前で仕掛けたが、本馬も同時に加速したために2頭の差は縮まらなかった。そしてその差は直線に入っても縮まらず、そのまま本馬がアファームドを3馬身差の2着に下して、1分45秒8の好タイム(セクレタリアトのコースレコードより0秒4遅いだけ)で完勝。史上初めて米国三冠馬に勝った米国三冠馬という栄誉を手にした。

2週間後のウッドワードS(GⅠ・D10F)では、仏国のトップホースとして活躍した後に米国西海岸に移籍して活躍していたパリ大賞・ロワイヤルオーク賞・コロネーションC・サンクルー大賞・加国際S・サンフアンカピストラーノH・ハリウッド招待H・ハリウッド金杯・サンセットHとGⅠ競走9勝のエクセラー、ジョッキークラブ金杯・ブルックリンH・ローレンスリアライゼーションS・グレートアメリカンSの勝ち馬でフロリダダービー・ジョッキークラブ金杯2着・ベルモントS・ウッドワードS・サバーバンH・ブルックリンH3着のグレートコントラクターという強敵との対戦となった。スタートが切られると本馬は即座に先頭に立ち、エクセラーやクイーンズカウンティHの勝ち馬イッツフリージングに圧力をかけられながらも先頭を維持。向こう正面では単騎の逃げに持ち込み、そのままゴールまで先頭で走り抜け、2分フラットのコースレコードを計時して、エクセラーを4馬身差の2着に下して完勝した。

次走のジョッキークラブ金杯(GⅠ・D12F)は、アファームド、エクセラー、前走4着のグレートコントラクター達との対戦となり、米国三冠馬の直接対決第2ラウンドとなった。このレースはCBSネットワークにより全米にテレビ中継されており、事前の盛り上がりは大変なものだった。本馬をすんなり逃がしてマールボロC招待Hの二の舞になるのを避けたかったアファームド陣営は、ライフズホープという馬をラビット役として用意していた。本馬がスタート前にフライングしてゲートを飛び出す場面があり、場内は一時期騒然となったが、コルデロ・ジュニア騎手は落ち着いて本馬をゲート内に再誘導した。

そしてレースが始まると、本馬は抜群のスタートからすぐに先頭に立った。そこにアファームドがライフズホープと共に猛然と競りかけ、この3頭が後続を大きく引き離して先頭争いを演じ続けた。レースは不良馬場で行われたが、最初の2ハロン通過タイムが22秒6、半マイル通過は45秒2、6ハロン通過が1分09秒4という超ハイペースとなった。あまりのハイペースに耐えられなくなったライフズホープが向こう正面で失速して後退し、レースは本馬とアファームドのマッチレースの様相を呈した。三角入り口で本馬がアファームドを引き離し、離されたアファームドは四角で鞍ずれを起こして失速した。しかしここで遥か後方を走っていたはずのエクセラーがアファームドの内側から突然姿を現し、内側から本馬を追い抜こうと迫ってきた。エクセラーの鞍上は、かつてスワップスSにおいてジェイオートービンに騎乗して本馬のペースを掻き乱して勝利したシューメーカー騎手だった。老練なシューメーカー騎手は、前走のウッドワードSで本馬を2番手で追いかけて結局最後まで追いつけなかった反省を活かし、本馬とアファームドの競り合いによる超ハイペースに乗じて、追い込み馬であるエクセラーの能力を最大限に発揮させるべく、レース序盤はじっと我慢していたのである。そしてアファームドを抜き去ったエクセラーがさらに本馬に並びかけるまでは、シューメーカー騎手の目論見どおりに事が進んでいた。しかしここからの展開は、シューメーカー騎手の予想とは少し違ったようである。一気にエクセラーにかわされるかのように見えた本馬だったが、一瞬だけエクセラーに目をやったコルデロ・ジュニア騎手が合図を送ると、それに即座に反応してエクセラーに食い下がったのである。そして2頭が並んで直線を向き、本馬とエクセラーの壮絶な一騎打ちが始まった。1マイルの通過タイムが1分35秒2という超ハイペースで逃げてきた本馬よりもエクセラーのほうが手応えは良く、直線半ばで半馬身ほど前に出た。しかしここで本馬も驚異的な粘り腰を見せて、エクセラーを差し返しに出た。しかし僅かに及ばず、鼻差の2着に敗れた。本馬から実に14馬身半差も離された3着にグレートコントラクターが入り、アファームドはさらに4馬身半差の5着に終わった。

このレースにおけるエクセラーと本馬の死闘は米国競馬史上に残る名勝負として現在も語り継がれている。そのため、ほぼ全ての人はこれを「史上最も偉大なる敗戦」であるとして、これこそが本馬のベストレースであると考えているようである。かつてプリークネスSで本馬が負けると予想したベイヤー氏も「勝ち馬はエクセラーですが、英雄はシアトルスルーでした」と賞賛の声を送った。負けてなお強いというところを見せた本馬の評価はむしろ上昇することになり、勝ち星や優勝賞金よりも大切なものを本馬はこのレースで獲得したと言われている。

その1か月後にはスタイヴァサントH(GⅢ・D9F)に出走。134ポンドという過酷な斤量が課されるのを承知でこのレースに出たのは、古参の競馬ファンの中には、130ポンド以上を背負って勝たなければ真の王者とは言えないと主張する者がいたためであるという。そして本馬は、19ポンドものハンデを与えた2着ジャンピングヒル(この年のサンタアニタH3着馬。後にワイドナーH・ドンHなどを勝つGⅠ競走級の馬であり、決して弱い馬ではない)に3馬身1/4差をつけて逃げ切り、古参の競馬ファンの声も完封した。

そしてこのレースを最後に、4歳時7戦5勝の成績で競走馬を引退した。この年のエクリプス賞年度代表馬はアファームドに譲ったが、エクセラーを抑えてエクリプス賞最優秀古馬牡馬に輝いた。1万7500ドルで買われた本馬だが、現役時代に稼いだ賞金は120万8726ドルに上った。

競走馬としての評価と特徴

本馬は、現役時代にはそれほど人気がある馬ではなかったと日本では紹介される場合が多い。その理由は、同じ無敗の三冠馬であるシンボリルドルフと同様、先行抜け出しの優等生的なレースぶりが面白みに欠けるからだとされている。しかし実際には本馬は先行抜け出しではなく猛然と逃げて勝つレースぶりを得意としており、シンボリルドルフとは明らかに戦法が異なっているため、その理由は正しいとは言えない。

本馬が現役時代にそれほど人気が無かったのであれば、それは走り方のせいではなく、本馬を所有していたテイラー夫妻とヒル夫妻のせいであろう。米国のマスコミは、安値で買った馬がこれだけ走るという幸運に恵まれた両夫妻ばかりにスポットライトを当て、本馬自身の注目度は今ひとつ高くなかった一面は否定できない。「新・世界の名馬」における本馬の稿でも、本馬自身の競走能力や個性よりも、両夫妻に関する逸話に多くの部分が割かれている。しかも両夫妻はターナー・ジュニア師と対立して彼を解雇し、さらにはクリュゲ騎手も主戦から降ろすなど、良からぬ話題を提供し続けた(本馬の引退後には所有権を巡ってテイラー夫妻とヒル夫妻の間にも諍いが生じ、遂には法廷闘争まで発展したという)。両夫婦とも平凡な一市民だったのが、本馬のために一躍時の人となったのであるから、色々と慣れない事ばかり起こり、結果として様々な問題が引き起こされたのは確かだろうが、これら人間同士の争いが本馬にとって決して良い結果をもたらしたとは言えない。

ただ、本馬の人気が低かったというのは、あくまでも一般大衆受けしたかどうかという点におけるものであって、競馬関係者からの評価が低かったわけでは決して無い。本馬が引退した際にコルデロ・ジュニア騎手は、たった4戦しか本馬に騎乗しなかったにも関わらず「かつて乗った最高の馬でした」と評しているし、本馬の主戦を降ろされたクリュゲ騎手も「彼は翼がある馬でした。彼は私が実行したいと考えていた全ての事を行うことができました」と語っている。

本馬に接した経験がある人々は共通して、温和で頭が良い馬という印象を抱いたという。人間から声を掛けられると、本馬はまるで人間同士が会話するかのように対応したという。特に人間の子どもが好きであり、子どもが近くに来ると、温和な本馬の目がさらに優しくなったという。また、写真を撮られるのが好きで、カメラを向けられるとポーズを取ってくれたという、シンボリルドルフと同じ逸話も存在している。担当厩務員のトム・ウェード氏は、「彼は全ての四足動物は勿論、人間よりも優れています」と語っている。

平素は物静かな本馬だが、いざレースが近づくと闘争心を丸出しにして、かなりハイテンションになったようである。コルデロ・ジュニア騎手は「(レース前の本馬は)まるで(試合に臨む直前の)モハメド・アリのような存在感がありました」と言っている。スタート前には爪先立ちで踊るように歩く習慣があり、それは「出陣の踊り」と呼ばれ、本馬の代名詞として知られていた。そしてゲート内に入ると、昂ぶっていた精神状態を自分で落ち着かせようとした。コルデロ・ジュニア騎手は、マールボロC招待Hで本馬に初騎乗した際に、ゲート内で本馬がいきなり深呼吸を始めたので、びっくりしたという。本馬は午前中の調教をいつも楽しみにしていたというくらいだから、嫌々ながら走らされる大多数の競走馬と異なり、基本的に走ること自体が好きだったらしく、レースにおける集中力は並々ならぬものがあった。その集中力がスタート直後における抜群の加速を生み出していたのだろう。

血統

Bold Reasoning Boldnesian Bold Ruler Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Miss Disco Discovery
Outdone
Alanesian Polynesian Unbreakable
Black Polly
Alablue Blue Larkspur
Double Time
Reason to Earn Hail to Reason Turn-to Royal Charger
Source Sucree
Nothirdchance Blue Swords
Galla Colors
Sailing Home Wait a Bit Espino
Hi-Nelli
Marching Home John P. Grier
Warrior Lass
My Charmer Poker Round Table Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Knight's Daughter Sir Cosmo
Feola
Glamour Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Striking War Admiral
Baby League
Fair Charmer Jet Action Jet Pilot Blenheim
Black Wave
Busher War Admiral
Baby League
Myrtle Charm Alsab Good Goods
Winds Chant
Crepe Myrtle Equipoise
Myrtlewood

父ボールドリーズニングは現役成績12戦8勝。ウィザーズS・ジャージーダービーなどを勝った後に脚の故障で戦線を離脱。しかし故障を克服して競馬場に戻り、ベルモントパーク競馬場ダート6ハロンのコースレコード1分08秒4を計時し、さらにメトロポリタンHで2着している。かなりスピードに優れた馬だったようだが、脚部不安や喉の病気などが影響して競走馬として大成することは出来なかった。競走馬引退後はクレイボーンファームで種牡馬入りしていた。種牡馬入り当初のボールドリーズニングはまったくの無名種牡馬であり、しかも1975年4月に種付け中の事故によって負傷し、それが原因で疝痛を発症して本馬の活躍を待たずして7歳の若さで他界してしまっている。産駒は僅か61頭しかいないが、初年度産駒である本馬のほかに、2年目産駒であるモルニ賞・仏グランクリテリウムの勝ち馬スーパーコンコルドなど、9頭のステークスウイナーを出している。ステークスウイナー率は15%と非常に優秀(産駒数が違いすぎるので一概に比較は出来ないが、これは本馬より高い割合である)であり、本馬の父であることからしても、余命があれば種牡馬として人気を集め、20世紀有数の名種牡馬になれた器だったとして、早世を惜しむ声も強い。

ボールドリーズニングの父ボールドネシアンは現役成績5戦4勝で、主な勝ち鞍はサンタアニタダービー。種牡馬としてはそれなりの数のステークスウイナーを出したが、名種牡馬が多いボールドルーラー産駒としては、それほど目立つ成績ではなかった。ボールドリーズニングと同じく本馬の活躍を待たずに1975年に12歳で他界している。

母マイチャーマーは本馬の生産者キャッスルマン氏の生産・所有馬であり、母フェアチャーマーの初子だった。競走馬としては米国で走り、フェアグラウンズオークス勝ちなど32戦6勝の成績を残した。マイチャーマーの4代母は米国顕彰馬マートルウッドであり、その牝系子孫からはミスタープロスペクタータイプキャスト、プリテイキャスト、バーリチーフベアハート、オウケンブルースリなど多くの活躍馬が出ており、後から見れば優秀な牝系であると言えなくも無いが、近い親戚に活躍馬がいるわけではない。それ故に繁殖入り当初のマイチャーマーもあまり期待されておらず、ボールドリーズニングという無名種牡馬が初年度の交配相手に指名されたのはそのためである。しかし本馬の大活躍を受けて一流種牡馬と交配されるようになった。そして、本馬の半弟ロモンド(父ノーザンダンサー)【英2000ギニー(英GⅠ)・グラッドネスS(愛GⅢ)】、半弟シアトルダンサー(父ニジンスキー)【デリンスタウンスタッドダービートライアルS(愛GⅡ)・ガリニュールS(愛GⅡ)】を産む活躍を見せ、1993年に24歳で他界した。シアトルダンサーは1985年のキーンランド7月セール(その10年前には兄の本馬が出品さえ許可されなかった)において、当時の世界記録となる1310万ドル(約31億円)で落札されたことでも有名である。

本馬の姉妹には繁殖入りしている馬も多いが、半妹クランデスティーナ(父セクレタリアト)がデザートシークレット【ロイヤルロッジS(英GⅡ)】を産んだ以外は、今ひとつ繁殖牝馬として成功していない。クランデスティーナの曾孫に、南米チリの名馬ハッサン【ドスミルギネアス賞(智GⅠ)・グランクリテリウム賞(智GⅠ)・智セントレジャー(智GⅠ)】が、本馬の半妹チャーミングティアラ(父アリダー)の曾孫にカイザエレトロニカ【チャールズタウンクラシックS(米GⅡ)・トゥルーノースH(米GⅡ)・ウエストチェスターS(米GⅢ)・フォールハイウェイトH(米GⅢ)】が、本馬の半妹ガシュター(父ニジンスキー)の孫にナシージ【メイヒルS(英GⅡ)・スウィートソレラS(英GⅢ)・フレッドダーリンS(英GⅢ)】がいるが、マイチャーマーの牝系子孫はあまり発展していない。→牝系:F13号族①

母父ポーカーはラウンドテーブルの直子で、現役成績はボーリンググリーンH・ヴェントナーH勝ちなど36戦7勝。ボーリンググリーンHでは同厩のバックパサーに黒星を付けている。種牡馬としての活躍は普通だったが、母父としては本馬の他にシルバーチャームを出している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、購入価格の実に680倍に当たる1200万ドルの巨額シンジケートが組まれて、米国ケンタッキー州スペンドスリフトファームで種牡馬入りした。その7年後にはスリーチムニーズファームに移動した。本馬は種牡馬としての成績も素晴らしく、114頭以上のステークスウイナーを送り出し、1984年の北米首位種牡馬に輝いた。産駒のステークスウイナー率は12%である。また、繁殖牝馬の父としても優秀で、100頭以上のステークスウイナーを出し、1995・96年にはシガーの活躍によって北米母父首位種牡馬にも輝いている。しかもエーピーインディを筆頭に数々の後継種牡馬も残しており、ボールドルーラーの直系が21世紀まで残る最大の原動力となった。1981年に米国競馬の殿堂入りを果たした。1997年には本馬のケンタッキーダービー制覇20周年記念祝賀会が催され、19年ぶりにコルデロ・ジュニア騎手が本馬に騎乗して記念写真に収まった。種牡馬入りした本馬が好きな季節は冬だったという。その理由は、冬が明ければ数多くの花嫁達が本馬の元にやってくるからだったらしく、繁殖牝馬が入ってくる戸口を見つめながらそわそわとする事も多かったという。

競走馬時代にも病気のために生死の境を彷徨った経験がある本馬だが、種牡馬入り後には心臓を悪くして、スリーチムニーズファームにおいて2度の手術を受けた。また、関節炎や腰痛などにも悩まされ、脊椎の手術を受けたこともあるという。しかし本馬は老年期を迎えても強い精神力で病気と闘い、長寿を保ち続けた。テイラー夫妻は本馬の世話をするためにワシントンからケンタッキー州に転居して、牧場内で寝泊りしていたという。2002年3月にいよいよ状態が悪くなったため、牝馬を見た本馬が興奮しないように、スリーチムニーズファームからヒルンデールファームに移動して療養生活を送った。2002年5月7日、かつて自身がケンタッキーダービーを制した記念日に、ヒルンデールファームで睡眠中に28歳で他界し、遺体はヒルンデールファームに埋葬された。前年にアファームドが他界していたため、本馬の死をもって、1919年6月11日にサーバートンが史上初の米国三冠馬になって以来初めて存命中の米国三冠馬が1頭もいなくなる事態となり、それは2015年6月6日にアメリカンファラオがアファームド以来37年ぶりの米国三冠を達成するまで続いた。スリーチムニーズファームは本馬の栄誉を讃えて、牧場内に数多くの彫像を作成した。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第9位。

筆者は以前ケルソの項において、ケルソこそが米国競馬史上最強馬であると考えていると書いた。その理由は、斤量が軽い段階の3歳時までしか実績が無い馬よりも、古馬になって一番重い斤量を背負いながらも他馬を薙ぎ倒した馬のほうが最強と呼ぶのに相応しいと考えているためである。その意味では、本馬もまた米国競馬史上最強馬の候補として捨てがたいと思っている。何故なら、本馬はアファームドとの2度の対戦において、いずれもアファームドより重い斤量を背負いながら2度ともアファームドに勝ったからである。アファームドもアリダーやスペクタキュラービッドに打ち勝った米国三冠馬であり、米国競馬史上有数の名馬である事は間違いないわけだから、そのアファームドにハンデを与えて勝利した本馬の競走能力は底が知れないものがある。確かに三冠競走の勝ち方では、驚異的な勝ちタイムと着差を誇ったセクレタリアトや、アリダーと大激戦を演じたアファームドのような、一般受けするインパクトは無いが、競走馬の強さはインパクトだけでは測れないものである。なお、競走成績に繁殖成績を含めたサラブレッドの総合能力では、本馬が他の追随を許さずに米国競馬史上最高であると断言できるだろう。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1980

Adored

サンタマルガリータ招待H(米GⅠ)・デラウェアH(米GⅠ)・ホーソーンH(米GⅡ)2回・ミレイディH(米GⅡ)2回・サンタマリアH(米GⅡ)

1980

Landaluce

オークリーフS(米GⅠ)・ハリウッドラッシーS(米GⅡ)・デルマーデビュータントS(米GⅡ)・アノアキアS(米GⅢ)

1980

Slew o'Gold

ウッドメモリアルS(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)2回・ホイットニーH(米GⅠ)・ウッドワードS(米GⅠ)・マールボロC招待H(米GⅠ)・ピーターパンS(米GⅡ)

1980

Slewpy

ヤングアメリカS(米GⅠ)・メドウランズCH(米GⅠ)・パターソンH(米GⅡ)

1981

Al Mundhir

ゲルゼンキルヒェン市大賞(独GⅢ)

1981

Le Slew

ヴェイグランシーH(米GⅢ)

1981

Seattle Song

サラマンドル賞(仏GⅠ)・ワシントンDC国際S(米GⅠ)

1981

Swale

ケンタッキーダービー(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・ベルモントフューチュリティS(米GⅠ)・ヤングアメリカS(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)・サラトガスペシャルS(米GⅡ)・ブリーダーズフューチュリティS(米GⅡ)・ハッチソンS(米GⅢ)

1981

Tsunami Slew

アメリカンH(米GⅠ)・カールトンFバークH(米GⅠ)・デルマーダービー(米GⅡ)・エディリードH(米GⅡ)・ウィルロジャーズH(米GⅢ)

1982

Oriental

アクサーベンクイーンズH(米GⅢ)

1982

Savannah Slew

リンダヴィスタH(米GⅢ)・ラブレアS(米GⅢ)

1982

Slew the Dragon

ハリウッドダービー(米GⅠ)

1982

So She Sleeps

コロンビアナH(米GⅢ)

1983

Life At the Top

マザーグースS(米GⅠ)・レディーズH(米GⅠ)・ロングルックH(米GⅡ)・ラスヴァージネスS(米GⅢ)・レアパフュームS(米GⅢ)・ランパートH(米GⅢ)

1983

Vernon Castle

カリフォルニアダービー(米GⅡ)・デルマーダービー(米GⅡ)・ラホヤマイルH(米GⅢ)

1984

Capote

BCジュヴェナイル(米GⅠ)・ノーフォークS(米GⅠ)

1984

Slew City Slew

ガルフストリームパークH(米GⅠ)・オークローンH(米GⅠ)・サルヴェイターマイルH(米GⅢ)

1985

Bitooh

クリテリウムドメゾンラフィット(仏GⅡ)

1985

Glowing Honor

ダイアナH(米GⅡ)2回・リークサブルS(米GⅢ)

1985

Magic of Life

ミルリーフS(英GⅡ)・コロネーションS(英GⅡ)

1986

Fast Play

レムセンS(米GⅠ)・ブリーダーズフューチュリティS(米GⅡ)

1986

Houston

ベイショアS(米GⅡ)・ダービートライアルS(米GⅢ)・キングズビショップS(米GⅢ)

1986

Seattle Meteor

スピナウェイS(米GⅠ)

1986

Slew the Knight

サラナクS(米GⅡ)・ヒルプリンスS(米GⅢ)

1986

Tokatee

レイザーバックH(米GⅡ)

1987

Digression

ロイヤルロッジS(英GⅡ)

1987

Hail Atlantis

サンタアニタオークス(米GⅠ)

1987

Nelson

アークラテックスH(米GⅢ)

1987

Seaside Attraction

ケンタッキーオークス(米GⅠ)

1987

Septieme Ciel

フォレ賞(仏GⅠ)・クリテリウムドメゾンラフィット(仏GⅡ)・トーマブリョン賞(仏GⅢ)・メシドール賞(仏GⅢ)

1987

Yonder

レムセンS(米GⅡ)・ジャージーダービー(米GⅡ)

1988

Compelling Sound

ウィルロジャーズH(米GⅢ)・シルヴァースクリーンH(米GⅢ)

1988

General Meeting

ヴォランテH(米GⅢ)

1988

Metfield

シェリダンS(米GⅢ)

1989

A. P. Indy

ベルモントS(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・ハリウッドフューチュリティ(米GⅠ)・サンタアニタダービー(米GⅠ)・サンラファエルS(米GⅡ)・ピーターパンS(米GⅡ)

1989

Blacksburg

ラホヤH(米GⅢ)・ヴォランテH(米GⅢ)

1990

Borodislew

チュラヴィスタH(米GⅡ)・ホーソーンH(米GⅡ)・ポルトマイヨ賞(仏GⅢ)・レディーズシークレットH(米GⅢ)

1990

Williamstown

ウィザーズS(米GⅡ)

1990

ダンツシアトル

宝塚記念(GⅠ)・京阪杯(GⅢ)

1991

Lakeway

ラスヴァージネスS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)・ハリウッドオークス(米GⅠ)・チャーチルダウンズディスタフH(米GⅡ)

1991

Recognizable

ディスタフH(米GⅡ)・ファーストレディH(米GⅢ)・セイビンH(米GⅢ)

1991

Serious Spender

ディスカヴァリーH(米GⅢ)・ギャラントフォックスH(米GⅢ)

1991

Top Rung

ラブレアS(米GⅡ)・レディーズシークレットH(米GⅡ)

1991

タイキブリザード

安田記念(GⅠ)・大阪杯(GⅡ)・京王杯スプリングC(GⅡ)

1992

Rose of Portland

VRCハーディーブラザーズクラシック(豪GⅡ)

1992

Sleep Easy

ハリウッドオークス(米GⅠ)・レイルバードS(米GⅡ)

1993

ヒシナタリー

ローズS(GⅡ)・阪神牝馬特別(GⅡ)・フラワーC(GⅢ)・小倉記念(GⅢ)

1995

Anguilla

ミセスリヴィアS(米GⅡ)・ブラックヘレンH(米GⅡ)・ナッソーS(加GⅢ)・カナディアンH(加GⅢ)

1995

Event of the Year

ジムビームS(米GⅡ)・ストラブS(米GⅡ)・エルカミノリアルダービー(米GⅢ)

1996

Doneraile Court

ジェロームH(米GⅡ)・ナシュアS(米GⅢ)

1996

Honest Lady

サンタモニカH(米GⅠ)・サンタイネスS(米GⅡ)・ディスタフBCH(米GⅡ)・アグリームH(米GⅡ)

1996

マチカネキンノホシ

アメリカジョッキークラブC(GⅡ)・アルゼンチン共和国杯(GⅡ)

1997

Another

ファーストレディH(米GⅢ)

1997

Serra Lake

ゴーフォーワンドH(米GⅠ)・ピムリコディスタフH(米GⅢ)

1997

Surfside

フリゼットS(米GⅠ)・ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・ラスヴァージネスS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)・クラークH(米GⅡ)・サンタイザベルS(米GⅢ)

1998

Ask Me No Secrets

オークローンBCS(米GⅢ)

1998

Fleet Renee

アッシュランドS(米GⅠ)・マザーグースS(米GⅠ)

1998

Flute

ケンタッキーオークス(米GⅠ)・アラバマS(米GⅠ)

1998

Sahara Slew

リブルスデールS(英GⅡ)

1998

Scorpion

ジムダンディS(米GⅠ)

1999

Sea of Showers

ジェニーワイリーS(米GⅢ)

2000

Loving Kindness

カブール賞(仏GⅢ)

2000

Vindication

BCジュヴェナイル(米GⅠ)・ケンタッキーCジュヴェナイルS(米GⅢ)

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