サーバートン

和名:サーバートン

英名:Sir Barton

1916年生

栗毛

父:スターシュート

母:レディースターリング

母父:ハノーヴァー

初勝利をケンタッキーダービーで挙げた後にプリークネスS・ベルモントSも制覇して後に史上初の米国三冠馬と呼称される

競走成績:2~4歳時に米加で走り通算成績31戦13勝2着5回3着5回

今日、米国三冠競走に位置付けられているケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントSの3競走を全て制した史上初の馬であり、初代米国三冠馬としてその名を残している。

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ハンブルグプレイスファームにおいて、20世紀初頭の米国を代表する大馬産家ジョン・E・マッデン氏とヴィヴィアン・A・グーチ氏の両名により生産され、調教師も兼ねていたマッデン氏の所有馬及び管理馬として競走馬となった。

競走生活(2歳時)

2歳6月にアケダクト競馬場で行われたトレモントS(D6F)でデビューしたが、勝ったロードブライトンから6馬身差をつけられた5着に敗退。2戦目となった8月のフラッシュS(D5.5F)では、勝ったビリーケリーから15馬身差をつけられた9着に敗退。その2日後のユナイテッドステーツホテルS(D6F)では、127ポンドを背負いながらもグレートアメリカンSの勝ち馬ダンボインを2着に抑えて勝ったビリーケリーから、16馬身差をつけられた9着に敗退。次走のサンフォードS(D6F)では、勝ったビリーケリーから19馬身差をつけられた7着に敗退。

この頃の本馬は見るべきところは何も無い凡馬であり、マッデン氏は、本馬は馬ではなく犬のようであると考えたという。そのためマッデン氏は、加国の実業家ジョン・ケネス・レヴィソン・ロス氏に1万ドルで本馬を売ってしまった。

カナディアンパシフィック鉄道の創設者であるジェームズ・ロス氏の息子として生を受けたロス氏は、様々な方面にその才能を発揮した。1911年には4時間45分の大格闘の末に680ポンドという当時世界最大のマグロを釣り上げたり、第一次世界大戦においては加国海軍の司令官として活躍したりした。また、競馬にも興味を抱き、父親から受け継いだ1200万~1600万ドルにも及ぶ莫大な財産を元手として1915年から有力な競走馬をかき集めていた。彼は1916年のプリークネスSの勝ち馬ダムロッシュなどを所有し、1918・19年に北米首位馬主になるほどの成功を収めることになる。2歳時の本馬を歯牙にも掛けなかったビリーケリーもまた彼の所有馬であった。

ロス氏は面白そうな馬を探して各地を回り、ハンブルグプレイスファームに立ち寄った時にマッデン氏に購入を持ちかけたのであった。本馬はロス氏の専属調教師で、ビリーケリーも管理していたハーヴェイ・ガイ・ベッドウェル調教師に委ねられた。

スターシュートが現役時代に悩まされていた脚部不安を受け継いだのか、本馬は蹄が非常に柔らかかったため、走っている最中に蹄鉄が外れることがしばしばあった。そのため、ベッドウェル師は蹄と蹄鉄の間にフェルトを挟み込む事で対処を図った。フェルトとは、羊毛など動物の毛で出来た生地であり、圧力などによって繊維が密に絡み合って離れにくくなる性質がある。これを蹄と蹄鉄の間に挟み込む事で蹄鉄が外れにくくなる効力が期待できたのだった。しかし、蹄と蹄鉄の間にフェルトを挟み込まれていた事が不快な感覚を与えていた一面もあったのか、本馬はいつも不機嫌であり、担当厩務員であるトゥーツ・トンプソン氏を除く殆どの人間、他馬、他の動物達を嫌悪していた。ロス氏の息子は、本馬を「短気ですぐに激昂する生き物」と評している。調教も大嫌いであり、嫌悪している他馬に追いかけられた時でもなければまともに走ろうとしなかった。そのためにベッドウェル師は本馬を調教する際には、他馬で本馬を順番に追いかけさせる必要があり、ベッドウェル師は本馬の調教のために他馬の2倍の労力を費やしたという。本馬はスタート直後の加速力には見るべきものがあったが、直線に入ると早々に失速する事が多く、スピードよりもスタミナの強化が課題だったようである。

ロス氏の所有馬となってからの初戦となったホープフルS(D6F)では、名手アール・サンド騎手とコンビを組んだが、勝ったエターナルから大差(正式な着差不明)をつけられて16着に惨敗。しかし2歳最後のレースとなったベルモントフューチュリティS(D6F)では、ゴール前で末脚を伸ばし、勝ち馬ダンボインから2馬身半差の2着に入る意外な好走を見せて、多くの人を驚かせた。しかし結局2歳時は6戦未勝利に終わった。一方、本馬と同馬主同厩となったビリーケリーは2歳時に17戦14勝の成績を残し、後年になって米最優秀2歳牡馬騙馬に選ばれるほどの活躍を見せていた(追記。2015年に米国競馬の殿堂入りも果たした)。

競走生活(3歳前半):史上初の米国三冠競走完全制覇

ロス氏はビリーケリーに大変な期待を寄せており、ビリーケリーのケンタッキーダービー制覇に5万ドルもの大金を賭けたほどだった(賭けの相手は馬主兼マフィアのアーノルド・ローススティーン氏だった)。そして本馬は3歳初戦として、ビリーケリーと共にケンタッキーダービー(D10F)に出る事になった。1番人気はビリーケリーと共に後年に米最優秀2歳牡馬に選ばれるエターナルで、2番人気はビリーケリーと本馬のカップリングだった。陣営の本命はあくまでもビリーケリーであり、本馬はエターナルに競りかけて潰すためのラビット役としての出走だった。

ところが初コンビを組んだジョニー・ロフタス騎手を鞍上に最内枠から絶好のスタートを切った本馬は、重馬場の中を快調に逃げ続けた。そしてそのまま直線でも失速せずに、最後は2着ビリーケリーに5馬身差をつけて圧勝。初勝利がケンタッキーダービー(しかも3歳初戦)という珍記録を作った。ロス氏がビリーケリーのケンタッキーダービー制覇に賭けた5万ドルは、カップリングされていた本馬が勝ったために一応的中したことになり、彼はローススティーン氏から払い戻しを受けることが出来たが、その心中がいかばかりだったかは定かではない。また、本馬の負担重量はビリーケリーより7ポンド、エターナルより10ポンド軽かった(この当時のケンタッキーダービーは定量戦ではなかった)ため、本馬の勝利は斤量に恵まれたフロックだという意見が多かった。

それでもロス氏とベッドウェル師は本馬の実力をある程度は認めたようで、この4日後のプリークネスS(D9F)にはビリーケリーを参戦させずに本馬のみを出走させた。ここでは、ケンタッキーダービー10着からの巻き返しを図るエターナル、前年のベルモントフューチュリティSで本馬を2着に破って勝ったダンボインとの対戦となった。今回本馬が背負っていた斤量はエターナルと同じ126ポンドであり、本馬の真価が試される一戦となった。レースはケンタッキーダービーとは異なり良馬場で行われた。前走をフロック視されながらも1番人気に支持された本馬は、今回もスタートから終始先頭をひた走った。直線でエターナルが追撃してきたが、その差が縮まることは無く、ゴール前では馬なりで走り、エターナルを4馬身差の2着に、ダンボインをはるか後方の11着に破って優勝した。ケンタッキーダービーの勝利をフロック視する意見が多かった旨は先に書いたが、プリークネスS翌日にボルチモア・サン紙が「サーバートンに脱帽!」という記事を掲載したところからすると、ここでようやく本馬の実力は公に認められたようである。

プリークネスSから10日後に出走したウィザーズS(D8F)では、2着エターナルに2馬身半差、3着パストラルスウェインにはさらに8馬身差をつけて勝利した。

ウィザーズSからさらに18日後にはベルモントS(D11F)に出走。対戦相手は、プリークネスSで3着だったグランドユニオンホテルSの勝ち馬スウィープオンと、ナチュラルブリッジの2頭のみだった。レースではナチュラルブリッジを先に行かせ、断然の1番人気に支持された本馬は3馬身ほど後方を追走。そして直線で先頭に立つと、2分17秒4という全米レコードを樹立して、2着スウィープオンに5馬身差、3着ナチュラルブリッジにはさらに8馬身差をつける圧勝を収めた。このときのレースぶりをニューヨーク・タイムズ紙は以下のように記述している。「ロフタス騎手はラスト1ハロン地点まで彫像のように鞍上に鎮座していましたが、ここから本馬に闘争心を注入し、最小限の労力で鮮やかに直線を突き抜けてみせました。」

これで本馬はケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントSのいわゆる米国三冠競走を全て制した史上初の競走馬となった。ただし、当時はこの3競走を総称して三冠競走と呼ぶことはなかった(米国三冠競走という用語が一般的になったのはこれから11年後の1930年、ギャラントフォックスが2代目米国三冠馬になった年である)ため、それほど大騒ぎとなる事は無かった。ちなみに、当時の米国競馬における3歳馬限定競走で最も格が高かったのは、いずれもニューヨーク州ベルモントパーク競馬場で施行されるウィザーズS・ベルモントS・ローレンスリアライゼーションSの3競走だった(この3競走をもって旧米国三冠と呼ぶとする日本の資料を見かけたが、そのような呼称は海外の資料には見当たらず、当該資料の記載者が勝手にそう呼んでいるだけである)。もっとも、ケンタッキーダービーとプリークネスSの2競走も既に賞金2万ドルを超える全米規模の大競走にはなっていた。本馬は僅か32日間で上記5競走のうち、秋に行われていたローレンスリアライゼーションSを除く4競走全てを制覇したわけであり、これは並の馬に出来る芸当ではない(この4競走を全て制した馬は本馬とカウントフリートの2頭のみである)。

競走生活(3歳後半)

ベルモントSの次はドワイヤーS(D9F)に出走したが、127ポンドの斤量と不良馬場が堪えたのか、後にジョッキークラブ金杯の初代勝ち馬となるパーチェス(斤量118ポンド)の3馬身差2着に敗れた。

夏場は休養し、秋はハヴァードグレイス競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走して、短距離路線に転じていたビリーケリーと対戦。この距離ではビリーケリーのほうに分があったようで、本馬は1馬身差の2着に敗れた。続くポトマックH(D8.5F)でもビリーケリーとの対戦となったが、ここでは本馬が132ポンドの斤量をものともせず、2着ビリーケリーに1馬身半差で勝利した(この年のピムリコオークス・ガゼルHなどを勝利して米最優秀3歳牝馬に選ばれることになる同馬主のミルクメイドがさらに頭差の3着だった)。

次走のハヴァードグレイス競馬場ダート8ハロンの一般競走では、ザポーターの5馬身差2着に敗退。ハヴァードグレイスH(D9F)では、この年の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれる同馬主のカジェル、1歳年上のケンタッキーダービー馬エクスターミネーターの2頭に後れを取り、勝ったカジェルから僅か半馬身差の3着に敗れた。それでもメリーランドH(D10F)では前走より10ポンドも重い133ポンドを背負いながら、27ポンドのハンデを与えたマッドハター(後にメトロポリタンH2回・ジョッキークラブ金杯2回・サバーバンH・トボガンH・クイーンズカウンティHなどに勝って米最優秀ハンデ牡馬にも選ばれる実力馬)を2馬身差の2着に、後にサバーバンH・カーターH2回・クラークHを勝つオーダシャスをさらに1馬身半差の3着に破って勝利した。

続くピムリコオータムH(D10F)では132ポンドの斤量と重馬場に加えて、最後の直線で脚に痛みを訴えたためにロフタス騎手が最後まで追わなかったため、111ポンドの軽量を活かして勝ったマッドハターから12馬身差をつけられて3着に敗れた。脚の異常は大事ではなく、その後はクラレンス・クマー騎手と組んで、ピムリコフォールシリアルナンバー2(D8F)に出走。ザポーターを2馬身差の2着に、ビリーケリーを3着に破って勝利した。3歳最後のレースとなったピムリコフォールシリアルナンバー3(D9F)では、2着ビリーケリーに3馬身差をつけて勝利。

3歳時の成績は13戦8勝で、後年になってこの年の米年度代表馬・米最優秀3歳牡馬に選出された。

競走生活(4歳前半)

4歳時も重い負担重量と戦いながら現役を続行。まずは4月にハヴァードグレイス競馬場で行われたベルエアH(D6F)から始動した。このレースにはビリーケリーも参戦してきた。斤量は本馬が133ポンドで、ビリーケリーは132ポンドとほぼ互角だった。しかしやはりこの距離ではビリーケリーのほうが上位だったようで、ビリーケリーが勝ち、本馬は26~30ポンドのハンデを与えた軽量馬2頭にも後れを取って、ビリーケリーの2馬身半差4着に敗れた。

続くハヴァードグレイス競馬場ダート6ハロンのハンデ競走でも本馬には133ポンドが課せられた。このレースには、前年のポトマックHで、本馬、ビリーケリーに続く3着だった前年の米最優秀3歳牝馬ミルクメイドも出走してきた。ミルクメイドはこの年も米最優秀ハンデ牝馬に選ばれる馬であり、本馬より11ポンド軽いとはいえ牝馬としては決して楽ではない122ポンドの斤量だった。レースはハンデキャッパーの想定どおりにこの2頭の一騎打ちとなったが、本馬が2着ミルクメイドに1馬身半差をつけて勝利した。

次走のマラソンH(D8.5F)では135ポンドを課されてしまい、25ポンドのハンデを与えた3歳馬ワイルドエアと、29ポンドのハンデを与えた5歳馬ボルスターの2頭に屈して、ワイルドエアの4馬身差3着に敗れた。次走のフィラデルフィアH(D8.5F)では、ビリーケリー、クイーンズカウンティH・ヴィクトリーHの勝ち馬スターマスターという強敵2頭が対戦相手となった。斤量は本馬が132ポンド、ビリーケリーが127ポンド、スターマスターが126ポンドに設定された。しかし厳しい斤量を課された有力馬勢の足元を掬ったのは、100ポンドの軽量馬クリスタルフォードだった。スターマスターが首差の2着、ビリーケリーがさらに首差の3着、本馬はさらに1馬身差の4着に敗退した。しかしレナートH(D8F)では132ポンドの斤量を克服して、2着フォアグラウンドに1馬身差で勝利した。

3か月間の休養を経て出走した8月のサラトガH(D10F)では、ワイルドエア、ザポーター、マッドハターといった馬達に加えて、エクスターミネーターも参戦してきて、本馬とは2度目の対戦となった。サンド騎手が騎乗した本馬はエクスターミネーターより3ポンド重い129ポンドを背負っていたが、エクスターミネーターを2馬身差の2着に破って、2分01秒8のコースレコードで勝利した。これは本馬のベストレースであるとされており、サンド騎手も引退後に、自身の現役時代に最も印象に残ったレースとして挙げている。

その後は加国のフォートエリー競馬場に赴き、ドミニオンH(D10F)に出走した。ここでは134ポンドの斤量と重馬場を克服して、2着ボンデージに1馬身半差で勝利した。いったん米国に戻って出走したマーチャンツ&シチズンズH(D9.5F)も133ポンドを背負いながら、1分55秒6の全米レコードを樹立して、18ポンドのハンデを与えた2着ノーム(東京優駿勝ち馬クモハタの母父)に鼻差で勝利した。

競走生活(4歳後半):マンノウォーとの対決

この時期の本馬がエクスターミネーターと並んで当時の米国競馬における最強古馬である事には誰も何の異論も無かった。しかしこの年、1頭の3歳馬が本馬とは別路線で猛威を振るっており、本馬以上に高い評価を受けていた。2頭の直接対決はまだ無かったため、本馬とその3歳馬のどちらが真の最強馬なのかはまだ確定されていなかった。その3歳馬の名前はマンノウォー。全米の競馬ファンは2頭の直接対決を求めて大騒ぎし、各地の競馬場は2頭の対戦イベントの招致合戦を繰り広げた。そして両馬の所有者の合意により、加国のケニルワース競馬場で施行されるケニルワースパーク金杯(D10F)が2頭のマッチレースの舞台となった。

なお、マンノウォーとエクスターミネーターのマッチレースに同意しなかったマンノウォーの所有者サミュエル・D・リドル氏が、本馬とマンノウォーのマッチレースには同意した理由は定かではない。8万ドルという高額賞金が魅力だったのか、それともエクスターミネーターよりも本馬のほうが組し易いと見たのだろうか。ちなみにこのケニルワースパーク金杯には当初エクスターミネーターも招待されていたがエクスターミネーター陣営が出走を拒否したという話や、それとは正反対に最初からエクスターミネーターは招待されずにエクスターミネーター陣営が不満を漏らしたという話も伝わっており、どれが事実なのかはさっぱり分からない。

いずれにしてもエクスターミネーターはこのレースに不参加だったが、それでも当時の米国を代表する名馬2頭が直接対決するこのレースは“Race of the Century”として大きく喧伝され、両馬の厩舎には2頭の状態を知ろうとする人々が大勢押しかけてきて、関係者はそれらの対処に追われる日々となった。しかしこの世紀のマッチレースは、終始リードを奪ったマンノウォーがそのまま本馬に7馬身差をつけて圧勝してしまった。

ただし、本馬の名誉のために付け加えると、このときの本馬には不利な条件がこれでもかというほど重なっていた。斤量は古馬である本馬が6ポンド重く、しかも鞍上は体調を崩していたサンド騎手から初騎乗となるフランク・キーオー騎手に乗り代わっていた(本馬に騎乗経験がある有力騎手のうち、ロフタス騎手は前年のサンフォードSでマンノウォーに騎乗して敗戦した責任を問われて騎手免許を返上し、クマー騎手はマンノウォーの主戦としてこのレースでは本馬の敵に回っていた)。さらに前述のとおり蹄鉄が外れやすかった本馬は、このレース中にこともあろうに4つの蹄鉄全てが外れてしまっていたのである(理由はケニルワース競馬場の馬場が堅すぎたせいだと言われている)。これらの悪条件が無ければ、もっと接戦になっていた事は想像に難くない。

マンノウォーはこれが現役最後のレースだったが、本馬もこのレースで燃え尽きたのか、以降は重い斤量でもないのに敗戦が続く。次走のローレルS(D8F)では124ポンドの斤量だったが、ブレイゼズ、ザポーターの2頭に屈して、ブレイゼズの2馬身差3着に敗退。続くピムリコフォールシリアルナンバー2(D8F)では、マッドハター、ビリーケリーの2頭に屈して、マッドハターの1馬身1/4差3着に敗戦。そして現役最後のレースとなったピムリコフォールシリアルナンバー3(D9F)では、3着マッドハターには先着したものの、結局最初から最後まで本馬の宿敵であり続けたビリーケリーの1馬身半差2着に敗れた。4歳時の成績は12戦5勝だった。

30年近く経過した後に与えられた初代米国三冠馬という名誉

本馬はマンノウォーとのマッチレース大敗の影響もあり、最強馬という評価は得られなかったが、史上初の米国三冠馬として歴史にその名を刻んでいる。なお、米国三冠競走という概念が一般的となったのは、本文中やギャラントフォックスの項に記載したとおり、1930年のことである。そのため本馬は当初、米国三冠馬として扱われておらず、それはギャラントフォックス、オマハウォーアドミラルワーラウェイ、カウントフリート、アソールトが米国三冠馬となった後も変わらなかった。

1948年、サイテーションが米国三冠馬となった年になってようやく本馬が初代米国三冠馬として公式に認められた。現在は(少なくとも筆者が確認した範囲内では)全ての資料において本馬は栄光ある米国三冠馬として扱われている。

米国競馬におけるトップクラスの名馬は、大抵何らかの愛称を付けられている。本馬と同時代では、マンノウォーの“Big Red”、エクスターミネーターの“Old Bones”などが代表例である。一方の本馬にはこれと言った愛称が無く、後にアーサー・マーヴィン・ドレーガー氏という人物が“The Tender Toed Typhoon(柔らかい爪先のタイフーン)”という愛称を考案しているが、定着はしていないようである。

血統

Star Shoot Isinglass Isonomy Sterling Oxford
Whisper
Isola Bella Stockwell
Isoline
Dead Lock Wenlock Lord Clifden
Mineral
Malpractice Chevalier d'Industrie
The Dutchman's Daughter
Astrology Hermit Newminster Touchstone
Beeswing
Seclusion Tadmor
Miss Sellon
Stella Brother to Strafford Young Melbourne
Gameboy Mare
Toxophilite Mare Toxophilite
Maid of Masham
Lady Sterling Hanover Hindoo Virgil Vandal
Hymenia
Florence Lexington
Weatherwitch
Bourbon Belle Bonnie Scotland Iago
Queen Mary
Ella D Vandal
Falcon
Aquila Sterling Oxford Birdcatcher
Honey Dear
Whisper Flatcatcher
Silence
Eagle Phoenix Cymbal
Belle Etoile
Au Revoir See Saw
Young Melbourne Mare

スターシュートは当馬の項を参照。

母レディースターリングの競走馬としてのキャリアは不明。その産駒には、本馬の半兄サーマーティン(父オグデン)【コロネーションC・サラトガスペシャルS・チャレンジS】がいる他、本馬の半姉レディードリーン(父オグデン)の子には米国顕彰馬プリンセスドリーン【ケンタッキーオークス・CCAオークス・ボウイーH・サラトガH】が、プリンセスドリーンの牝系子孫にはブラウンベス【ラモナH(米GⅠ)・イエローリボンS(米GⅠ)・サンタバーバラH(米GⅠ)】がいる。→牝系:F9号族①

母父ハノーヴァーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はヴァージニア州オードリーファームで種牡馬入りした。しかし本馬は僅か7頭のステークスウイナーしか出せず、種牡馬として成功することは出来なかった。なお、金銭面で気前が良すぎたロス氏は1928年に破産してしまい、本馬はモントフォート・ジョーンズ氏という人物に購入されている。1933年頃には、ヴァージニア州やネブラスカ州にある国営の補充馬ステーションにおいて、種付け料5~10ドルで細々と種牡馬生活を続けていた(繋養先は米国陸軍所有の牧場であり、競走馬生産よりも軍馬生産目的で供用されていたようである)。この1933年の終わり頃に、J・R・ヒルトン氏という医師兼農場経営者により購入された本馬は、ワイオミング州ダグラスのララミー山脈山麓にあったヒルトン氏所有の牧場に移動した。1937年10月、疝痛を発症したため、この地で21年の生涯を閉じた。遺体はいったんヒルトン氏所有の牧場に埋葬されたが、後の1968年に本馬の功績を讃えてダグラスに作られたワシントン公園に改葬された。このワシントン公園にはガラス製の本馬の彫像が作られている。ケンタッキー州レキシントンにあるハンブルグショッピングセンターには、本馬の名を冠したサーバートン通りが存在する(すぐ近くには父スターシュートやマンノウォーの名を冠した通りもある)。1957年に米国競馬の殿堂入りを、1976年には加国競馬の殿堂入りを果たした。ちなみに本馬の最大の好敵手ビリーケリー(対戦成績では本馬が4勝8敗と大きく負け越している)も、本馬より58年遅れではあったが、2015年に米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第49位。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1925

Easter Stockings

ケンタッキーオークス・ゴールデンロッドS

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