ザバーブ

和名:ザバーブ

英名:The Barb

1863年生

青毛

父:サーヘラクレス

母:フェアエレン

母父:ドクター

青毛の真っ黒な馬体と炎のような激しい気性から「黒い悪魔」の異名で恐れられ親しまれた豪州競馬史上初の歴史的名馬

競走成績:2~5歳時に豪で走り通算成績23戦16勝2着2回3着1回(異説あり)

まともに走った時の強さは圧倒的だったが、極めて気性が激しい馬であり、青毛の真っ黒な馬体と相まって、“The Black Demon(黒い悪魔)”との異名をとった、豪州競馬史上初の歴史的名馬である。

誕生からデビュー前まで

豪州ニューサウスウェールズ州バサースト市において、莫大な面積の牧場を所有していたジョージ・リー氏により生産された。身体は小柄だったが、「完全な肩と最上級の脚を備えている」と評されたほど見栄えが良い馬だったようである。その見栄えの良さが災いしたのか、幼少期に本馬は牧場に侵入した山賊によって母フェアエレン共々誘拐されてしまった。リー氏はすぐさま追っ手を差し向け、ヘンリー・リー氏とチャールズ・ティンダル氏の両名によりフェアエレンは無事に保護されたが、本馬は行方不明のままだった。やがて、バサーストから南に20マイル離れたモナロ地区にある牧場に置き去りにされているところを保護されたが、山賊の手元にいる間に相当ひどい待遇を受けたらしく、脚を引き摺って歩いていた。本馬が神経質で怒りっぽい性格になったのはこの一件が原因であると言われている。

1歳時に200ギニーで事業家兼馬主兼調教師のジョン・テート氏により購入された。英国スコットランド生まれで24歳時に豪州に移住したテート氏は、豪州タスマニア州ホバートに宝石店を開業して成功し、さらにシドニーやバサーストのホテル事業にも手を伸ばして大きな財を成した。彼はルールを守らない客を容赦なく拳で打ち据えた事から、“正直者のテート”と呼ばれた。彼はまた、豪州史上初めて競馬を投機的事業として確立させた人物でもあり、今日では「豪州競馬の父」と呼ばれるまでになっている。テート氏は2006年に豪州競馬の殿堂入りを果たしたほど優れた調教師でもあり、本馬以降にもグレンコー、ザパール、ザクアックと3頭のメルボルンC勝ち馬を手掛けている(ザパールは単勝オッズ101倍での優勝だった)。しかしそんなテート氏をもってしても本馬の激しい気性は容易に矯正出来なかったようである。

競走生活(2歳時)

デビュー戦となった2歳4月の試走においては、スタート時に大暴れして騎手を振り落とすと、そのまま逃げ回ったという。この時の本馬の振る舞いが、“The Black Demon”なる異名を頂戴するきっかけになったとされる。初の公式戦となった2戦目では、スタートで大きく出遅れて3着に敗退。デビュー3戦目のナーサリーH(T6F)で、本馬のデビュー戦と2戦目における1着馬でもある豪シャンペンSの勝ち馬フィッシュフックを2着に退けてようやく初勝利を挙げたが、1865/66シーズンの出走はこの3戦のみだった。

それでも翌66/67シーズンまでの間に、テート氏の調教により少しは気性難が改善されたらしく、徐々に素質を開花させていった。なお、先述した本馬が山賊に誘拐された話だが、それは幼少期のことではなく、本馬がテート氏の管理馬となった後の話だとする説もある。テート氏の厩舎から誘拐された本馬は、バサーストから延々と300kmも歩かされたために脚を悪くした。そしてその場所で山賊は地元の農民に本馬の世話を依頼して立ち去った。その農民は警察に通報したときに、山賊が本馬の事をたいそう心配していたと説明した。そして本馬は保護された場所から再度300kmを歩かされてテート氏の厩舎まで戻り、そしてまた300kmを歩いてシドニーまで行き、そこでデビューを迎えた。この誘拐事件から8か月後に本馬はメルボルンCを優勝しており、その山賊は実はかなり馬を見る目があったのだった。しかし誘拐事件以降、本馬は非常に気性が悪化しており、蹴ったり噛み付いたりするため、誰も本馬に近寄る事が出来なかった。と、こういった話になっている。メルボルンCを本馬が勝利したのは3歳11月なので、逆算するとこの誘拐事件は2歳3月(豪州では8月に馬齢が加算される)の時期、つまりデビューの前月に起きたという事になり、リー氏の下から幼少期に母フェアエレンと共に誘拐されたという話とは整合性が取れない。そもそも、バサーストから本馬が保護された場所までの距離が違いすぎる(最初の話では20マイル、つまり約32kmであるのに対し、次の話では300kmとなっている)。いずれの話が真実なのか、それとも両方とも作り話なのかは定かではない。

競走生活(3・4歳時)

話を本馬の競走生活に戻す。翌66/67シーズンは、初戦でいきなりAJCダービー(T12F)に出走し、見事に逃げ切って2着バイロングに2馬身差で優勝した。次走は2着に敗れたが、続くスプリングブリューS(T8F)ではフィッシュフック以下に勝利した。続いて出走した豪州最大のレースであるメルボルンC(T16F)では堂々の1番人気に支持され、先行争いを制して抜け出すと、2着エグザイルに頭差で優勝した。なお、本馬が勝って得たメルボルンCの優勝カップは、現存する最古のメルボルンCの優勝カップ(同レースで優勝カップが授与されるようになったのは前年からだが、前年の優勝カップは出来が悪かったために売却されて消息不明になってしまったらしい)であり、2012年から豪州国立博物館で展示されている。次走のオールエイジドS(T8F)では気性の悪さを出してしまい、スタートから暴走気味に飛ばすとゴール前で失速して、2歳牝馬サワーグレープスの2着に敗戦。しかし年明け初戦のオーストラレーシアンチャンピオンS(T24F)は、5分38秒0のコースレコードを樹立して勝利。次走のホームブッシュプレート(T12F)にも勝った。しかし次走のAJCセントレジャー(T14F)では、AJCクイーンズプレートとシドニーCを勝ってきた好敵手フィッシュフックの着外に沈んだ。続くレースも着外に惨敗して、66/67シーズンを9戦5勝の成績で終えた。

翌67/68シーズンは、ポートフィリップS(T24F)・ラウンセストンタウンプレートと2連勝して挑んだシドニーC(T16F)をレースレコードで圧勝した。しかし次走のAJCクイーンズプレート(T24F)では、気性の悪さが再燃して他馬の進路を妨害したために失格となった(勝ち馬は前年のメルボルンCを144ポンドの斤量で制したティムウィッフラー)。これが67/68シーズン最後の出走で、このシーズンの成績は4戦3勝だった。

競走生活(5歳時)

翌68/69シーズンは正に本馬の全盛期となった。初戦のグレートメトロポリタンS(T16F)では、本馬が失格となったAJCクイーンズプレートの勝ち馬ティムウィッフラーを2着に下して勝利。次走のクレイヴンプレート(T12F)もワーウィック以下に勝利。ランドウィックプレート(T24F)もワーウィックを2着に退けて勝利した。さらにロイヤルパークスS(T16F)では単走で勝利。年が明けても本馬の強さは変わらず、まずはポートフィリップS(T24F)を勝利。そしてシドニーC(T16F)では、前年の勝利時よりも24ポンドも重い、豪州競馬における当時の最高斤量記録となる148ポンドを背負いながら優勝して2連覇を達成。さらに前年は失格になったAJCクイーンズプレート(T24F)も勝利した。

翌69/70シーズンもメルボルンCを目標として現役を続ける予定だったが、メルボルンCで161ポンドという非常識な斤量が課せられる事になったため、テート氏はすぐさま本馬の競走馬引退を決断。68/69シーズン7戦全勝の成績を残して現役を引退した。なお、本馬が出走しなかったメルボルンCは、テート氏が代わりに送り込んだグレンコーが制している。また、フィッシュフックと共に本馬の好敵手として活躍したティムウィッフラーは本馬の引退後も走り続け、AJCクイーンズプレートを2連覇して同レースを合計3勝とし、オールエイジドSを2連覇、マッキノンSも制覇するなど大活躍し、本馬の評価を上げるのに一役買っている。

なお、本馬の出走数については異説があり、本項では23戦16勝という説を採用しているが、21戦16勝という説や、23戦15勝という説もある。騎手を振り落として競走中止となったデビュー戦は公式戦ではなく試走であるため経歴に含めなかったり、3着に敗れた2戦目から2着に敗れたオールエイジドSまでの間に、本項ではナーサリーH・AJCダービー・スプリングブリューS・メルボルンCなど5戦したとしているが、この期間に3戦しかしていないとする説や、6戦を消化したとする説まであったりするのが原因である。

馬名はバルブ種(北アフリカ原産の軽種馬)の意味だが、どのような由来で本馬がバルブ種と命名されたのかは定かではない(もちろん本馬はサラブレッドでありバルブ種ではない)。しかしバルブ種は主に騎兵馬として使役されていた戦闘向きの気性を有する馬であり、激しい気性を有する本馬には適合した名前だと評されている。

血統

Sir Hercules Cap-a-Pie The Colonel Whisker Waxy
Penelope
Delpini Mare Delpini
Tipple Cyder
Sultan Mare Sultan Selim
Bacchante
Duchess of York Waxy
Gohanna Mare
Paraguay Sir Hercules Whalebone Waxy
Penelope
Peri Wanderer
Thalestris
Paradigm Partisan Walton
Parasol
Bizarre Peruvian
Violante
Fair Ellen Doctor Physician Brutandorf Blacklock
Mandane
Primette Prime Minister
Miss Paul
Young Johanna Southcote Walton Sir Peter Teazle
Arethusa
Johanna Southcote Beningbrough
Lavinia
Young Gulnare Gohanna Rous Emigrant Pioneer
Ringtail
Gulnare Young Gohanna 
Ultima
Deception Theorem Merlin
Pawn
Cutty Sark ?
?

父サーヘラクレスは、息子バードキャッチャーを通じて現在の主流血脈を形成したサーヘラクレスとは同名の別馬。ちなみに本馬の父であるほうの2代目サーヘラクレスの母父が初代サーヘラクレスである。この2代目サーヘラクレスは当時の豪州におけるトップクラスの種牡馬であり、18頭のステークスウイナー(ステークス勝利数は45勝)を送り出している。2代目サーヘラクレスの直系を遡ると、キャップアパイ、英セントレジャー馬ザカーネルを経てウィスカーに行きつく。

母フェアエレンの競走馬としての経歴は不明だが、繁殖牝馬としての成績は優秀であり、本馬の全妹バーベル【シドニーC・ドンカスターH・フライングS3回】の他に、種牡馬としてメルボルンCの勝ち馬ズールーを出した本馬の全弟バーバリアンも産んでいる。

フェアエレンの牝系子孫は発展しなかったが、フェアエレンの半妹ガルネア(父リトルジョン)の牝系子孫が発展しており、今世紀も残っている。主にオセアニアの活躍馬が中心だが、日本で走ったヤマニンウエーブ【天皇賞秋】もガルネアの牝系子孫出身馬である。→牝系:C3号族

母父ドクターの競走馬としての経歴は不明。ドクターの直系を遡ると、フィジシアン、ブルタンドルフを経て、ブラックロックに行きつくことができる。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、チャールズ・レイノルズ氏という人物により購入され、ニューサウスウェールズ州ハンター地域にあるトカルスタッドで種牡馬入りした。しかし本馬は種牡馬としては期待に応えられるだけの成績を収められなかった。1888年に、ヴィクトリア州のミッタミッタという小さな町にある、ボウラー氏という人物の所有する牧場において25歳で他界した。2004年に豪州競馬の殿堂入りを果たした。

種牡馬としては失敗に終わった本馬だが、母系に入るとそれなりの成績を収めており、祖母の父としても、同じ豪州顕彰馬であるカーバインの豪州における代表産駒ウォーレス(豪首位種牡馬5回)【ヴィクトリアダービー・ヴィクトリアセントレジャー・シドニーC・コーフィールドギニー】を出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1873

Tocal

AJCオールエイジドS

TOP