ボニースコットランド

和名:ボニースコットランド

英名:Bonnie Scotland

1853年生

鹿毛

父:イアーゴー

母:クイーンメアリー

母父:グラディエイター

根幹繁殖牝馬クイーンメアリーの息子という良血馬ながら英国では種牡馬として全く評価されず、輸出先の米国で種牡馬として活躍し、後世に大きな影響力を残す

競走成績:3歳時に英で走り通算成績4戦3勝2着1回

誕生からデビュー前まで

英国ノースヨークシャー州モールトンのスプリングコテージにあるハンガーフォードハウスステーブルにおいて馬産を行っていたウィリアム・イアンソン氏により生産・所有・調教された。母クイーンメアリーはイアンソン氏の馬産を支える大繁殖牝馬となる馬だったのだが、当初の産駒成績が良くなかったためにイアンソン氏によりいったん手放されてしまい、後で再びイアンソン氏に買い戻されたという経緯があった。本馬は母の7番子で、母が再びイアンソン氏の元に戻った後に誕生した子である。

競走生活

2歳時には故障のため1度もレースに出なかった。3歳時は英セントレジャー(T14F132Y)で、ウォーロックの2着(アーティレリーと同着)に入った。ドンカスターS(T16F)では、同世代の英ダービー・英シャンペンSの勝ち馬エリントンを2着に破って勝利。リヴァプールセントレジャー(T12F)も勝利した。古馬になっての飛躍が期待されたが、3歳シーズン終盤に故障を起こしたために、この年限りで競走馬を引退する事になった。

血統

Iago Don John Waverley Whalebone Waxy
Penelope
Margaretta Sir Peter Teazle
Highflyer Mare
Comus Mare Comus Sorcerer
Houghton Lass
Marciana Stamford
Marcia
Scandal Selim Buzzard Woodpecker
Misfortune
Alexander Mare Alexander
Highflyer Mare
Haphazard Mare Haphazard Sir Peter Teazle
Miss Hervey
Princess Precipitate
Colibri
Queen Mary Gladiator Partisan Walton Sir Peter Teazle
Arethusa
Parasol Pot-8-o's
Prunella
Pauline Moses Seymour
Gohanna Mare
Quadrille Selim
Canary Bird
Plenipotentiary Mare  Plenipotentiary Emilius Orville
Emily
Harriet Pericles
Selim Mare
Myrrha Whalebone Waxy
Penelope
Gift Young Gohanna 
Sir Peter Teazle Mare

父イアーゴーはグランドデュークマイケルS・コラムS・レーシングS・ウェルカムSの勝ち馬。英セントレジャーではサータットンサイクスの半馬身差2着だったが、同月のグランドデュークマイケルSでは同斤量のサータットンサイクスを1馬身差の2着に破って借りを返している。他にもグレートヨークシャーSで2着するなど活躍したが、4歳初戦で故障して引退に追い込まれた。種牡馬としてははっきり言って不成功だったが、本馬を出したことにより後世に影響力を有する事になった。イアーゴーの父ドンジョンは当馬の項を参照。

クイーンメアリーと母父グラディエイターはクイーンメアリーの項を参照。→牝系:F10号族②

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は4歳時から英国で種牡馬入りした。本馬が種牡馬入りした1857年は、本馬の1歳年下の半妹ブリンクボニーが英ダービー・英オークスを勝つ大活躍を見せた年だった。ブリンクボニーがこの2競走を勝ったのは繁殖シーズン終了後ではあったが、ブリンクボニーは2歳戦から大活躍して既に英ダービーの本命に挙げられていたくらいだから、その半兄である本馬にも注目が集まった・・・と思われるかもしれないが、本馬の種牡馬人気は非常に低かった。何しろ初年度産駒は2頭しかおらず、これではお話にならなかった。

しかし本馬に注目している人物はいた。それは英国の人ではなく、米国マサチューセッツ州在住のコーニッシュ大尉という人物だった。コーニッシュ大尉により購入された本馬は、1857年11月にニューヨークの港に降り立った。その後、オハイオ州の馬産家ジョン・リーバー氏とファッションスタッドにより1200ドルで購入された本馬は、翌5歳時から米国で種牡馬生活を開始した。

本馬が米国で種牡馬生活を開始した3年後の1861年に南北戦争が勃発し、戦地となったケンタッキー州などにいたレキシントンなどの種牡馬は徴用を避けて雲隠れせざるを得なくなった。しかし本馬がいたオハイオ州は戦地では無かったため、本馬は普通に種牡馬生活を続けることが出来た。1865年に南北戦争が終わった後も本馬はオハイオ州にいたが、この時期になると本馬の産駒は優秀なスピード能力を武器に各地で活躍を始めていた。そのために本馬は1868年にケンタッキー州に移り住んだ。しかし同年暮れにはイリノイ州に移動した。翌1869年6月に本馬は1千ドルで売却され、同じイリノイ州のグレンフローラファームに移り住み、1872年までこの地で暮らした。1868年・71年には北米種牡馬ランキングでいずれも2位(1位はレキシントン)に入っていたにも関わらず、本馬に対する評価は今ひとつ上がらなかった。

種牡馬としての飛躍

しかし1872年、テネシー州ナッシュビル近郊にあったベルミードスタッドの所有者ウィリアム・ヒックス・ジャクソン将軍が本馬に注目した。ジャクソン将軍が所有するベルミードスタッドは、当時米国で最高の馬産牧場の一つだった。しかしこの1872年に同牧場に繋養していた有力種牡馬のヴァンダルとジャックマローンが相次いで他界してしまい、ジャクソン将軍はその代わりになる種牡馬として本馬に目をつけたのだった。こうしてベルミードスタッドに購入された本馬は、既に19歳になっていたのだが、さらに産駒成績を上昇させ、年齢を感じさせない活躍を見せた。これは交配される繁殖牝馬の質量共に向上した事も影響したのだろうが、本馬の種牡馬としての潜在能力によるところも大きかった。

1875年にそれまで米国競馬界を席巻していたレキシントンが他界すると、本馬と、同じく英国から米国に種牡馬として輸入された同世代馬リーミントンが米国の2大種牡馬として君臨するようになった。1878年にペンシルヴァニア州エーデンハイムスタッドにいたリーミントンが本馬より先に他界。そして本馬も1880年2月にベルミードスタッドにおいて27歳で他界した。しかし本馬の死後も産駒は活躍を続け、この1880年には北米首位種牡馬を獲得。1882年には2度目の北米首位種牡馬を獲得し、19世紀後半に英国から米国に輸入された種牡馬の中ではリーミントンに次いで最も影響力を残した種牡馬となった。

本馬の体格等に関しては、米国到着直後にヘンリー・W・ハーバート氏という競馬記者が次のように書き残している。「鹿毛馬ですが、身体の毛色は血の色のようで、むしろ栗毛に近かったです。額にある星形の流星を除いて身体に白い部分はありませんでした。体高は優に16ハンドはありました。肩は長く、優れた前脚と、短い背中、そして非常に力強い下半身を有していました。特に下半身の強靭さはかつて見たことが無いほど素晴らしいものでした。」

本馬の直系は、代表産駒の1頭ブランブルが父として輩出した名馬ベンブラッシュを経由して、スウィープブルームスティックといった大物種牡馬に受け継がれ、20世紀初頭の米国競馬界をリードした。現在では本馬の直系は残っていないが、米国の活躍馬の血統表を見ると、あちらこちらにこれら後継種牡馬達の名前を見ることが出来る。自身も繁殖牝馬の父としてハノーヴァーを出し、こちらからも後世に大きな影響を与えた。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1874

Bombast

ウィザーズS

1875

Bramble

サラトガC

1876

Ben Hill

オハイオダービー

1877

Glidelia

アラバマS

1877

Luke Blackburn

1878

Barrett

ジェロームH

1878

Bootjack

オハイオダービー

1880

George Kinney

ベルモントS・ウィザーズS・ジェロームH・ディキシーS

TOP