ザバロン

和名:ザバロン

英名:The Baron

1842年生

栗毛

父:バードキャッチャー

母:エキドナ

母父:エコノミスト

脚部不安や気性難を克服して英セントレジャーを勝利した愛国産馬は「種牡馬の皇帝」ストックウェルの父としても名を残す

競走成績:3・4歳時に愛英で走り通算成績12戦5勝2着1回3着1回

誕生からデビュー前まで

愛国の馬産家ジョージ・ワッツ氏により生産・所有された愛国産馬である。元々獣医だったワッツ氏は、愛国カラーに移住して馬産や調教も手掛け、本馬が誕生した頃には既に愛国でも有数の名オーナーブリーダーになっていた。

本馬は他馬と容易に識別できるほど鼻が長かったらしい。本馬を描いた肖像画ではその特徴は描かれていないというが、本馬の血を引く馬の多くにはその特徴が受け継がれたという。父バードキャッチャーに似て優れた馬格の持ち主だったが、蹄が膿みやすいという脚部不安を抱えていた。また、気性もあまり良くなかったという。しかし後に英セントレジャーに出走しているところを見ると、つまり英セントレジャーに登録をされていたわけであるから、ワッツ氏は本馬に対して一定以上の期待を持っていたようである。

競走生活(英セントレジャーまで)

本馬は2歳時にはレースに出ず、3歳4月にカラー競馬場で行われたマドリードSでデビューして、ハイウェイマンの3着となった。次走は前走と同じ名称のマドリードSとなり、8ポンドのハンデを与えた他馬2頭を下して初勝利を挙げた。6月にはカーワンSを楽勝し、さらにウォーターフォードSも3馬身差で快勝して、デビューの地であるカラー競馬場で3連勝を飾った。

この後、ワッツ氏は本馬を英国に派遣して7月のリヴァプールセントレジャーに出走させたが、脚部不安が悪化していたために調教が出来ず、明らかに余分な肉が付いた状態だった。その結果、ニューカッスルノーザンダービーの勝ち馬メンターの着外に敗れた。しかし、このレースを見ていた“北方の魔術師”ジョン・スコット調教師はワッツ氏に対して「この馬を私に任せてくれれば(英)セントレジャーを勝ってみせます」と伝えた。そこでワッツ氏は本馬をスコット師に委ねた。

スコット師は英セントレジャーまで2か月ほどで、脚部不安を抱えていた上に気性も荒い本馬を仕上げた、しかしさすがのスコット師も「今までで一番多くの労力と注意深い管理を必要としました」と後に述懐したほどの急仕上げであった。しかし本馬は試走で好走したため、スコット師は自信を持って本馬を英セントレジャー(T14F132Y)に送り出した。フランク・バトラー騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ11倍と一定の評価を受けた。そしてゴール前の数完歩で先頭に立ち、英オークス3着馬で後にパークヒルS・グレートヨークシャーSを勝つミスサラを1馬身差の2着に、リヴァプールセントレジャーで本馬に先着する2着だったパンタサを3着に破って勝利を収めた。ミスサラ陣営は、本馬がゴール前でミスサラの進路を妨害したとか、本馬が年齢を詐称している疑いがあるなどとして、ドンカスター競馬場に異議を申し立てたが通らなかった。

競走生活(英セントレジャー以降)

その後はニューマーケット競馬場でシザレウィッチH(T18F)に出走した。英セントレジャーは15頭立てだったが、このレースは27頭立ての他頭数となった。しかし単勝オッズ6倍の評価を受けたN・フラットマン騎手鞍上の本馬が他馬26頭を蹴散らし、10ポンドのハンデを与えた5歳牝馬ウィーペットを1馬身差の2着に、2ポンドのハンデを与えた4歳牡馬ボローバンをさらに1馬身差の3着に破って勝利した。このレース後に本馬を4千ポンドで購入したいという申し出が、エドワード・ローソン・クラーク氏という人物からワッツ氏になされ、本馬はクラーク氏の所有馬となった。その後本馬はケンブリッジシャーH(T8.5F)に出走したが、アラームの着外に敗れた。3歳時の成績は8戦5勝だった。

本馬は翌4歳時も現役を続けたが、スコット師の手を離れた本馬は脚部不安に悩まされ、競走馬としての栄光がやってくる事は二度と無かった。4歳途中ではクラーク氏からジョン・ミトン氏の所有馬に変わっている。本馬はまず、チェスターC(T18F117Y)に出走したが、3年前のシザレウィッチHと一昨年のトライアルS(現クイーンアンS)を勝っていた7歳牡馬コランナの着外に終わった。クレイヴンS(T8F)では、スピットヘッドの短頭差2着と好走したが惜しくも勝つまでには至らず。ロシア皇帝プレート(T20F・現アスコット金杯)では、クラレットSを勝ってきたアラーム、クリテリオンS・グランドデュークマイケルS・ニューマーケットセントレジャーの勝ち馬ジェリコなどに屈して、アラームの着外に敗れた。リヴァプールCでもライトニングの着外に敗退。4歳時は4戦未勝利の成績に終わった。

翌5歳時も現役を続行する予定だったが、ロンドン郊外のストックウェルスタッドの所有者ジョン・シアボールド氏により種牡馬として購入されたため、5歳時はレースに出ることなく引退となった。

血統

Birdcatcher Sir Hercules Whalebone Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Peri Wanderer Gohanna
Catherine
Thalestris Alexander
Rival
Guiccioli Bob Booty Chantcleer Woodpecker
Eclipse Mare
Ierne Bagot
Gamahoe Mare
Flight Escape Commodore
Moll in the Wad
Young Heroine Bagot
Old Heroine 
Echidna Economist Whisker Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Floranthe Octavian Stripling
Oberon Mare
Caprice Anvil
Madcap
Miss Pratt Blacklock Whitelock Hambletonian
Rosalind
Coriander Mare Coriander
Wildgoose
Gadabout Orville Beningbrough
Evelina
Minstrel Sir Peter Teazle
Matron

バードキャッチャーは当馬の項を参照。

母エキドナは非常に不恰好な頭の形をした馬だったらしく、そのためかどうかは分からないが不出走のまま3歳時に繁殖入りした。そして翌4歳時にエキドナが産んだ初子が本馬である。エキドナは本馬を産んだ後も大物こそいなかったがコンスタントに活躍馬を産んでいる。本馬の全妹カウンテスの牝系子孫からはヴェネダ【オークレイプレート・オールエイジドS】、メイアプ【VRCニューマーケットH】が、本馬の半妹プリンセス(父レトリーバー)の孫にはメイドオブアセンス【愛ダービー】とカールデイリー【愛ダービー】の姉弟、曾孫にはジェンキンスタウン1【英グランドナショナル】が出た他、本馬の半妹シトロン(父スウィートミート)の牝系子孫が南米でしばらく残っていたが、3系統とも現在ではほぼ途絶している。エキドナの母ミスプラットは英国産馬で、愛国出身の英国の軍人H・B・ギャンブル大佐に購入されて彼の所有馬として英国で走り、ギャンブル大佐が軍を退役して愛国に戻った際に一緒に愛国に移り住んで繁殖入りした。ギャンブル大佐の死後にワッツ氏に購入されて繁殖生活を続けた。→牝系:F24号族

母父エコノミストはウィスカー産駒の英国産馬だが、ワッツ氏に購入されて愛国で種牡馬入りしていた。種牡馬としては、グッドウッドCを2連覇するなど38戦25勝の成績を挙げ、バードキャッチャーに勝利した事もあるハーカウェイを出した。ハーカウェイは後述するポカホンタスとの間にストックウェルやラタプランの半弟である名種牡馬キングトムを出している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はストックウェルスタッドで種牡馬入りした。しかし、ストックウェルスタッドには既にキャメルなどの優秀な種牡馬がいたため、本馬に集まる繁殖牝馬は質量ともに低水準だった。1849年10月にシアボールド氏が83歳で死去すると本馬はセリに掛けられ、仏国政府の命を受けて種牡馬を購入しに来たペロー・ド・ツンベルグ氏により1010ポンドで購入され、仏国ナショナルスタッドに移動した。

結局本馬のストックウェルスタッドにおける種牡馬生活は5歳から7歳までの僅か3シーズンだった。ところがこの僅か3シーズンの間に、本馬はポカホンタスという牝馬の間にストックウェルとラタプランという2頭の牡駒を出した。ストックウェルは競走馬として英2000ギニー・英セントレジャーを制覇し、種牡馬としても“種牡馬の皇帝”の異名を取る記録的大成功を収め、現在世界中で走っているサラブレッドの大半の直系先祖となった。ラタプランもドンカスターC・アスコットゴールドヴァーズを勝つなど82戦42勝の成績を残し、種牡馬としても良績を挙げた。後世になってサラブレッド史上最も影響力がある繁殖牝馬とまで呼ばれるようになったポカホンタスも、現役時代は未勝利であり、本馬の前にキャメルやムーリーモロクなどの種牡馬との間に産んだ子はまともな競走成績を残せなかったため、不人気種牡馬だった本馬が交配相手として指名されたようであるが、その事が後世に絶大な影響を与える結果となったのである。ストックウェルやラタプランの活躍により、既に仏国に売られていた本馬の英国における評価は上がったものと思われるが、仏国でも数多くの活躍馬を出した本馬を当然仏国政府が手放すわけは無く、本馬は仏国に骨を埋める事になった(ただし没年は不明である)。

本馬が後世に与えた影響力は、ストックウェルやラタプランの父としてのものが大半ではあるが、それが全てというわけでもない。仏国で出した牝駒ヴェルメイユは、パリ大賞・バーデン大賞の勝ち馬ヴェルムート、バーデン大賞の勝ち馬ヴェルテュガダンの母、いずれも仏オークス馬であるヴェルシーニ、ヴェールボンヌの祖母となるなど、19世紀後半の仏国競馬界に大きな功績を残した。ヴェルメイユの牝系子孫は現在も南米に残っている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1849

Stockwell

英2000ギニー・英セントレジャー

1850

Rataplan

ドンカスターC・ゴールドヴァーズ

1853

Dame d'Honneur

仏オークス

1853

Isolier

アンペルール大賞

1855

Etoile du Nord

仏オークス

1855

La Maladetta

バーデン大賞

1855

Phenix

グロシェーヌ賞

1855

Tonnerre des Indes

仏グランクリテリウム

1858

Isabella

仏グランクリテリウム・仏2000ギニー

1859

Noelie

ランペルール大賞

1860

La Reine Berthe

ケルゴルレイ賞

1860

La Toucques

仏ダービー・仏オークス・バーデン大賞・ロワイヤルオーク賞

1860

Nobility

ケルゴルレイ賞

1860

Pergola

ダリュー賞

1861

Baronella

仏2000ギニー

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