チョーサー

和名:チョーサー

英名:Chaucer

1900年生

鹿毛

父:セントサイモン

母:カンタベリーピルグリム

母父:トリスタン

母の父として根幹種牡馬と次々と送り出したセントサイモン直子の偉大なブルードメアサイアー

競走成績:2~6歳時に英で走り通算成績35戦8勝2着6回3着5回

競走馬及び種牡馬としては優秀だが偉大というほどではないといった成績だったが、繁殖牝馬の父として記録的な大成功を収めた。特に種牡馬の母父として優れており、本馬を母父に持つ一流種牡馬は何頭もいる。

誕生からデビュー前まで

第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿により生産・所有された英国産馬である。本馬が誕生したのは、第17代ダービー伯爵の父で母カンタベリーピルグリムの所有者だった第16代ダービー伯爵フレデリック・アーサー・スタンリー卿が健在だった時期であり、本馬は後に大馬産家として名を馳せる第17代ダービー伯爵の最初期の生産馬である。父は大種牡馬セントサイモン、母カンタベリーピルグリムは英オークス馬という良血馬だった。

英国ニューマーケットのスタンリーハウスステーブル(旧セフトンスタッド)に厩舎を構えるようになっていたジョージ・ラムトン調教師に預けられた。調教開始時点で体高15ハンド、成長しても体高は15.15ハンド程度にしかならない小柄な馬であり、鬈甲(きこう)部(肩甲骨の間)は短い上に窪んでいた(これらの特徴は母カンタベリーピルグリム譲りだと言われている)。しかし洗練され、優美かつ均整の取れた馬体の持ち主でもあったという(これは父セントサイモン譲りだと言われている)。両親共に気性難で知られていたが、本馬もその特徴を受け継いだのか、かなり気性が激しい馬だった。調教で走ることも嫌がったというが、その一方でいったん走る気になれば素晴らしい闘志を見せたという。

競走生活(2・3歳時)

2歳6月にサンダウンパーク競馬場で行われた無名の競走でデビューした。この初戦はメルトン産駒の無名の牡馬に敗れて2着だったが、名牝ハンマーコップ(後のジュライS・ヨークシャーオークスの勝ち馬で、1920年の英ダービー馬スピオンコップの母でもある)には先着した。翌7月にグッドウッド競馬場で出走したロウス記念Sでは、ティプラー、フロットサム(後のミドルパークプレート・インペリアルプロデュースS・ニューマーケットSの勝ち馬)に続く3着。

翌8月のジムクラックS(T6F)では、ニューSの勝ち馬サーモンやレディースマイルといった馬達を破って初勝利を挙げたが、斤量はサーモンの133ポンドに対して本馬は119ポンドであり、あまり威張れるものではなかった。しかし10月にニューマーケット競馬場で出走したボスコーエンSでは、パーシステンスやソルトペトレ(後のグッドウッドC勝ち馬)などを退けて勝利。それから2週間後に同じくニューマーケット競馬場で出走したプレンダーガストS(T5F)では、サーモンと並んで131ポンドのトップハンデが課された。結果はサーモンが勝ち、本馬は4馬身差の2着に敗れたが、後のクレイヴンSの勝ち馬カウンターマークなどには先着した。2歳時は5戦2勝2着2回3着1回という安定した成績を残した。

3歳時は英国クラシック競走の制覇も期待されたが、スタンリーハウスステーブルで流行した流行性結膜炎に本馬も罹患してしまい調子を崩してしまった。3歳初戦となった英2000ギニー(T8F)では調整不足ながらも、デューハーストプレート・ウッドコートS・コヴェントリーS・英シャンペンSを勝っていた後の英国三冠馬ロックサンド、フロットサム、ナショナルブリーダーズプロデュースSの勝ち馬ラブレーに続く4着に頑張り、「非常に立派だった」と評された。

ハーストパーク競馬場で出走した次走のヨーク公爵夫人プレート(T12F)では着外に敗退。アスコット競馬場で出走した3歳3戦目のロイヤルハントC(T8F)でも、5歳牡馬クンストラー、一昨年の英2000ギニー馬ハンディキャッパーなどに屈して、クンストラーの着外に敗れた。本馬が流行性結膜炎に感染しているのが正式に確認されたのは、このロイヤルハントCの直前だった。その後は目の治療に時間を費やし、ようやく3歳秋にハーストパーク競馬場で行われたモレシーパークオータムHで復帰したが着外に敗れてしまい、3歳時は4戦未勝利に終わった。

競走生活(4~6歳時)

4歳時は5月にケンプトンパーク競馬場で行われたスチュワーズH(T6F)から始動して、バチェラーズファンシーの2着と好走。しかしガトウィック競馬場で出走した次走アレクサンドラHでは大敗。アスコット競馬場で出走したウォーキンガムS(T6F)も着外に敗れた。その後は出走するレースのレベルを落として、6月にニューマーケット競馬場で出走したソーハムプレートでようやく久々の勝利を挙げた。さらにリヴァプール競馬場で出走したセフトンプレート(T8F)も勝利した。しかしその後はヨーク競馬場で出走したハーウッドH、ドンカスター競馬場で出走したクリーブランドH、ニューマーケット競馬場で出走したホーソーンHと3戦連続で着外に敗れた。11月になってリヴァプール競馬場で出走したスチュワーズプレートを勝利したが、2着馬のサルーテから9ポンドのハンデを貰ってのものだった。ダービー競馬場で出走した次走のチャデスデンプレートでは着外に終わり、4歳時の成績は10戦3勝となった。

5歳時は、リヴァプール競馬場で出走した初戦のアールオブセフトンズプレートで、1歳年上の愛ダービー馬セントブレンダンとアザーワイズの2頭から首差、首差の3着と好走。ニューマーケット競馬場で出走した次走のクローファードSでは2着。3戦目となった5月のドンカスタースプリングHでは、2着アンドリアや3着アンキャスター以下に勝利した。しかし続いて出走したロイヤルハントC(T8F)では、ディナーSの勝ち馬アンドーバー、シティ&サバーバンHの勝ち馬ファリシー、後のコロネーションC・トライアルS(現クイーンアンS)2回・シティ&サバーバンH2回・リヴァプールサマーC・セレクトS・チェスターフィールドCの勝ち馬ディーンスウィフトなどに屈して、アンドーバーの着外に敗退。アスコット競馬場で出走したロウス記念S(T7F)では、牝馬ハックラーズプライドと僅か2頭立てのレースとなった。しかし相手のハックラーズプライドはケンブリッジシャーHを2連覇していた馬で、この年の暮れの英チャンピオンSではプリティポリーの2着するほどの実力馬だったため、歯が立たずに敗れた。それでも7月のリヴァプールサマーC(T11F)では単勝オッズ13.5倍の人気薄を覆して、ソングスラッシュやアンドーバー以下に勝利した。グッドウッド競馬場で出走したドレイトンHと、ダービー競馬場で出走したペヴェリルオブザピークプレートでは、いずれも着外に敗戦。その後にニューマーケット競馬場で出走したヒースSでは、ガスパールとコックスコームに続く3着。リヴァプールオータムC(T11F)では、セントウルフランの2着だった。5歳時は11戦して2勝を挙げるに留まった。

6歳時も現役を続け、エプソム競馬場で行われたシティ&サバーバンH(T10F)から始動したが、ディーンスウィフト、後のエボアH・ゴールドヴァーズの勝ち馬ゴールデンメジャー、後のグレートジュビリーHの勝ち馬ドンネッタなどに屈して、ディーンスウィフトの着外に敗退。しかし2戦目のリヴァプールサマーC(T11F)では単勝オッズ9倍といった程度の評価ながらも、ケンブリッジシャーHの勝ち馬で後にドンカスターC2回・シティ&サバーバンH・チェスターフィールドCを勝つヴェロシティを首差の2着に、ゴードンS・ロイヤルハントCの勝ち馬で後にプリンスオブウェールズS・ジュライCにも勝利するディンフォードを3着に抑えて勝利した。このレースにおける斤量は、本馬が115ポンド、ヴェロシティは126ポンド、ディンフォードは122ポンドだった。次走のチェスターフィールドC(T10F)では、この年の英オークス2着馬ゴールドライアックとヴェロシティの2頭に屈して、ゴールドライアックの3着に敗退。次走のロスチャイルドプレートでは、チェスターフィールドC・グレートジュビリーH2回の勝ち馬イプシランティ、セントウルフランとの3頭立てのレースとなったが、結果は3着最下位。ドンカスター競馬場で出走したグレートヨークシャーH(T14F)では4着だった。その後、リヴァプールオータムCに向けた調教中に腱に故障を起こしてしまい、6歳時5戦1勝の成績で競走馬を引退した。

本馬が好走したレースの多くは短距離戦であり、当時の長距離戦全盛時代では、競走馬としての活躍の場は限られていたようである。馬名の由来となったジェフリー・チョーサーは「カンタベリー物語」などの作品で知られる、英国を代表する14世紀の詩人。「カンタベリー物語」が、カンタベリーピルグリム(カンタベリー大聖堂に参詣する巡礼者)によって語られていくという形をとっている作品であるため、母の名前から連想して命名されたようである。

血統

St. Simon Galopin Vedette Voltigeur Voltaire
Martha Lynn
Mrs. Ridgway Birdcatcher
Nan Darrell
Flying Duchess The Flying Dutchman Bay Middleton
Barbelle
Merope Voltaire
Juniper Mare
St. Angela King Tom Harkaway Economist
Fanny Dawson
Pocahontas Glencoe
Marpessa
Adeline Ion Cain
Margaret
Little Fairy Hornsea
Lacerta
Canterbury Pilgrim Tristan Hermit Newminster Touchstone
Beeswing
Seclusion Tadmor
Miss Sellon
Thrift Stockwell The Baron
Pocahontas
Braxey Moss Trooper
Queen Mary
Pilgrimage The Palmer Beadsman Weatherbit
Mendicant
Madame Eglentine Cowl
Diversion
Lady Audley Macaroni Sweetmeat
Jocose
Secret Melbourne
Mystery

セントサイモンは当馬の項を参照。

カンタベリーピルグリムは当馬の項を参照。→牝系:F1号族⑥

母父トリスタンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は英国ノースリースタッドで種牡馬入りし、翌年にはウッドランドスタッドに移動した。現役時代の成績のためそれほど期待されなかったが、1916年に英愛種牡馬ランキング2位(1位はポリメラス)、1918年に同4位になるなど期待以上の成績を残した。本馬の直系はセントサイモンの悲劇で衰退しながらも生き延び、産駒プリンスチメイの直子ヴァトーからボワルセルが出て再び繁栄したが現在はまた衰退している。

種牡馬時代の本馬は、牡馬よりも牝馬の方が優秀な子が多かったと言われたが、事実、本馬が本領を発揮したのは繁殖牝馬の父としてである。1927・33年には英愛母父首位種牡馬に輝いたばかりでなく、牝駒のシリーンシックルファラモンド、そしてハイペリオンの母となり、同じく牝駒のスカパフロウは母としてファロスフェアウェイを産んだ。本馬を母父として持つこれらの名馬達は根幹種牡馬として成功を収め、現代競馬の主流血脈を形成している。また、英1000ギニーを勝ったキャニオンも名馬コロラドやカーリオンの母となっている。1926年2月にウッドランドスタッドにおいて本馬が麻痺を伴う発作のため26歳で安楽死の措置が執られた後、第17代ダービー伯爵は、本馬こそが自身の牧場を発展させた最大の功労馬であると認めて、ウッドランドスタッドに本馬を描いた額を飾ったという。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1908

Stedfast

セントジェームズパレスS・サセックスS・ジョッキークラブS・コロネーションC・ハードウィックS・英チャンピオンS・プリンスオブウェールズS

1909

Imperial

ノアイユ賞

1911

Dan Russel

チェスターヴァーズ

1912

Lavendo

MRCコーフィールドC・VATCコーフィールドS・VRCマッキノンS

1913

Canyon

英1000ギニー

1914

Dansellon

クレイヴンS

1915

Prince Chimay

ジョッキークラブS

1915

Queen's Square

ジョッキークラブC・グッドウッドC

1919

Selene

チェヴァリーパークS・ナッソーS・パークヒルS

1923

Pillion

英1000ギニー

1924

Lord Chaucer

ホープフルS

1925

Covenden

ゴールドヴァーズ

1926

Rattlin the Reefer

リッチモンドS

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