ファラリス

和名:ファラリス

英名:Phalaris

1913年生

黒鹿

父:ポリメラス

母:ブロマス

母父:セインフォイン

驚異的な遺伝力を存分に発揮して現代競馬の主流血脈全ての祖となった快速短距離馬

競走成績:2~5歳時に英で走り通算成績24戦16勝2着2回3着1回

20世紀で最も重要な基礎種牡馬の1頭で、それまでの長距離偏重の競馬から、スピード重視の近代競馬へと移り変わる過渡期に活躍した快速馬。

誕生からデビュー前まで

英国の名馬産家として知られる第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿により、英国ニューマーケットにおいて生産・所有され、彼の専属調教師だったジョージ・ラムトン師に預けられた。全身が逞しい筋肉に覆われており、唯一の欠点である膝の僅かな湾曲を除けば、非常に見栄えが良い馬体の持ち主だった。また、気性はとても穏やかだったという。

競走生活(2・3歳時)

2歳春にニューマーケット競馬場で行われたファーストスプリング2歳Sでデビューしたが、フォックスグローブの着外に敗れた。2戦目のスタッドプロデュースS(T5F)では、4ポンドのハンデを与えたコンドティエーレを頭差で破って初勝利を挙げた。3戦目のレッドメアナーサリープレートH(T5F)では、他馬勢より5~19ポンドも重い126ポンドを背負わされた上に、スタートで出遅れてしまったが、最後は2馬身差で勝利した。2歳時の成績は3戦2勝で、2歳フリーハンデでは117ポンドで第5位(1位はチェヴァリーパークSを勝った牝馬フィフィネラの126ポンド)だった。

本馬の実力は英国クラシック競走を狙うに十分であると考えたラムトン師の判断により、3歳時は英国クラシック路線に向かった。まずは英2000ギニーの前哨戦クレイヴンS(T8F)に出走。しかしサーディグトンとロアデコッセが1着同着で勝利を収め、本馬は3着に敗れた。それでも英2000ギニー(T8F)には参戦したが、勝ったクラリッシマスから大きく離されて着外に敗れた。次走のスチュワーズHでも99ポンドの軽量にも関わらず着外に敗れ、英ダービーは断念することになった。なお、この年の英ダービーは、2歳フリーハンデでトップだった牝馬フィフィネラが英オークスとのダブル制覇を果たしている。

その後は調子を取り戻し、僅か4頭立てながらも古馬相手のレースとなったボーフォートS(T7F)では、スチュワーズHより20ポンドも重い119ポンドを背負いながら楽勝した。次走のセントジョージH(T6F)では113ポンドの軽量に恵まれた事もあり、6馬身差で圧勝した。次走はロイヤルS(T10F)となった。斤量が124ポンドまで増えた上に、距離面でも厳しいと思われたが、対戦相手が僅か2頭だった事もあって、勝利を収めた。10月にはチャレンジS(T6F)に出走して勝利した。120ポンドで出走したライムキルンS(T10F)では、8頭立てでボスケットの2着に敗れ、3歳時を7戦3勝の成績で終えた。

・・・ときちんとレース数を数えながら読んできた人はおかしいと思うかも知れない。ここまでで本馬が3歳時に出走したと記載したレースは、クレイヴンS・英2000ギニー・スチュワーズH・ボーフォートS・セントジョージH・ロイヤルS・チャレンジS・ライムキルンSの8戦あるからである。実は本馬を紹介した各種資料には、3歳時にチャレンジSに出走したとは書かれていないのである。しかしながら複数の基礎資料には本馬が3歳時にチャレンジSを勝っていると明記されている。そうすると本馬の3歳時は8戦4勝になるわけだが、どの資料でも本馬の通算成績は24戦16勝となっており、2歳時3戦2勝、4歳時9戦7勝、5歳時5戦4勝というのもどの資料も一致しているから、いずれにしても整合性が取れない。上記8戦のうち2戦が実は同一競走なのか、参考資料か基礎資料のいずれかが誤っているのか、本当は本馬の通算成績は25戦17勝なのかなど、いろいろ考察してみたが結局真相は筆者には分からなかった。本馬の競走馬時代は第一次世界大戦の最中で、ニューマーケット競馬場以外の英国の主要競馬場が閉鎖され、英国内の競馬開催が大幅に縮小されるなど混乱が生じていたから、英国クラシック競走などの主要競走以外のレース記録に不明瞭な部分が出てしまっているのかもしれない。

競走生活(4・5歳時)

4歳時以降は、ハンデ戦を中心とした短距離レースを中心に走り、重い斤量と闘いながら勝ち鞍を増やしていった。4歳初戦のクローファードHこそ、22ポンドのハンデを与えたヴェアダンから僅差の2着に敗れた。しかし次走のブレットバイH(T6F)では勝利。チェスターフィールドコースS(T5F)も勝利。セントイヴズH(T5F)では、他馬勢より最大47ポンドも重い131ポンドを背負いながらも勝利した。次走のバリーセントエドモンズプレート(T8F)では、前年の英ダービーを勝った牝馬フィフィネラとの顔合わせとなった。マイル戦だけに本馬には不利かと思われたが、フィフィネラを3着最下位に沈めて勝利した。その後は短距離戦に戻り、スネイウェルS(T5F)・チャレンジS(T6F)を続けて勝利した。

ところが次走はいきなり距離が10ハロン以上も伸びるザホイップ(T16F118Y)となった。本馬にとっては明らかに距離が長かった上に、課された斤量は140ポンドと過酷なものだった。しかし他に出走馬が1頭もいなかったため、単走で勝利を収めて7連勝を記録した。この7連勝中に本馬が背負った斤量は全て130ポンドを超えていた。次走のケンブリッジシャーH(T9F)では126ポンドと本馬にしては軽量だったが、距離がやや長かったのと、他馬との斤量差、それに1年間の疲労も出たのか、21ポンドのハンデを与えたジョッキークラブCの勝ち馬ブラウンプリンス、同じく21ポンドのハンデを与えた後のアスコット金杯2着馬プラネット、15ポンドのハンデを与えたジュライSの勝ち馬でミドルパークプレート3着のグランドフリートなどに屈して、ブラウンプリンスの10着に敗れた。4歳時はこれが最後のレースとなり、9戦7勝の成績を残した。

5歳時も現役を続けた。初戦のアビンドンプレート(T5F)では147ポンドを課せられたが、2着シンドリアンに半馬身差で勝利した。次走のジューンS(T8F)では134ポンドを背負い、前年のケンブリッジシャーHで屈した相手であるブラウンプリンスやプラネットに雪辱して勝利した。続くボーフォートS(T5F)では146ポンドを課せられて大敗したが、ランウェイズプレート(T7F)では他の出走馬7頭全てより33ポンド以上重い141ポンドを背負いながらも勝利した。次走のチャレンジS(T6F)では他馬が全て回避してしまい、2度目の単走勝利。もし本馬が3歳時に同競走を勝っていたのであれば、これで3連覇ということになる。次戦はジュライCの予定だったが、154ポンドという酷量が課せられることが分かり、ラムトン師もさすがに出走を断念。そのまま5歳時5戦4勝で現役引退となった。

競走馬としての特徴と馬名に関して

本馬には確かにマイル戦や10ハロン戦での勝ち鞍もあるが、マイル以上のレースではスローペースで推移しなければスタミナ切れを起こして敗戦したらしく、その本領はやはり短距離戦でこそ発揮されるものだった。ラムトン師によると、本馬は父のポリメラスと同様に3歳前半には本領を発揮していなかったが、年を経るにつれて強くなっていったのだという。ラムトン師はさらに本馬を「最上級のスピード能力と、素晴らしい気性の持ち主で、斤量にも非常に強い馬でした」と賞賛している。

なお、本馬の1歳年下の同厩馬には、英1000ギニー・コヴェントリーSを勝ち、古馬になってキングズスタンドプレート2連覇・ジュライC2連覇・チャレンジS・オールエイジドS勝ちなど短距離路線で大活躍した名牝ダイアデムがいた。しかしラムトン師はどちらかが負けるのを恐れて、本馬とダイアデムを同じレースに出すことは無かった。ラムトン師が非公式の競走で1度だけ本馬とダイアデムを戦わせてみた際には、ダイアデムが鼻差で勝利したという。しかしダイアデムは本馬以上にラムトン師がお気に入りだった馬であり、贔屓目で見ていた可能性もあるから、本当にダイアデムが先着したかどうかは疑ってかかるべきだとされているようである。

馬名は古代シチリアの暴君ファラリス(「ファラリスの雄牛」という、真鍮で鋳造された内部が空洞の雄牛を製造させ、まずはそれを製造したアテナの真鍮鋳物師ペリロスを騙してその中に入れて焼き殺した。その後も数々の囚人や殉教者をそれで焼き殺し、彼等の断末魔を雄牛の雄叫びのように楽しんだが、最後は自身がその中に入れられて最後の犠牲者となった)に由来するが、本馬は馬名の由来となった人物とは正反対の温厚で優しい気性の持ち主だった。

血統

Polymelus Cyllene Bona Vista Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Vista Macaroni
Verdure
Arcadia Isonomy Sterling
Isola Bella
Distant Shore Hermit
Land's End
Maid Marian Hampton Lord Clifden Newminster
The Slave
Lady Langden Kettledrum
Haricot
Quiver Toxophilite Longbow
Legerdemain
Young Melbourne Mare Young Melbourne
Brown Bess
Bromus Sainfoin Springfield St. Albans Stockwell
Bribery
Viridis Marsyas
Maid of Palmyra
Sanda Wenlock Lord Clifden
Mineral
Sandal Stockwell
Lady Evelyn
Cheery St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Sunrise Springfield St. Albans
Viridis
Sunray King of the Forest
Sunshine

ポリメラスは当馬の項を参照。

母ブロマスは競走馬としては、2歳時にシートンデラヴァルプレートなる競走を勝ったのみの10戦1勝。ブロマスの母チアリーも未勝利馬だった上に、チアリーの産駒で勝ち上がった馬はブロマスのみという有様で、これだけ見ればブロマスは目立つ馬ではなかった。しかしブロマスは元々、スタンリー卿の所有馬ではなかったのを、ブロマスの前の所有者ジョセフ・H・ホールズワース氏が1910年に死去した際に、ラムトン師と、スタンリー卿のサラブレッド生産におけるアドバイザーだったウォルター・オールストン氏が2人してスタンリー卿に購入を薦めた経緯があり、2人の興味を引く何かがあった事は間違いない(それが馬体なのか血統なのか直感的なものなのかはよく分からない。一般的には19世紀英国最高の快速馬スプリングフィールドの2×3という強い近親交配を有していた事が理由とされている)。

本馬以外のブロマスの産駒には、膝の負傷に悩みながらも、ボティシャムプレート・ゼトランドプレート・ファイナルプレート・オックスフォードプレート・ニューマーケットトリエニアルS・ニューマーケットスプリングSに勝利した半弟ヘイノート(父スウィンフォード)がいる。

ヘイノートも名種牡馬であり、愛ダービー馬ハイネ、愛オークス馬ハイントネッテ、愛オークス馬アメシスティンなど活躍馬を複数出したが、12歳で早世したため産駒数は少ない。しかし英2000ギニー・英ダービーの勝ち馬ニンバスと名種牡馬グレイソヴリン兄弟の祖母の父として血統界に名を残している。

また、本馬の半姉ミルフルール(父アンドーヴァー)の子にはサーダグラス【ハードウィックS・ゴードンS】がいる他、本馬の半妹エウラリア(父ステッドファスト)の牝系子孫には南米の活躍馬が複数おり、今世紀も残っている。

ブロマスの半姉ブッシュ(父ブッシーパーク)の牝系子孫には、カニナ【ケンタッキーオークス・ラモナH・サンタマルガリータ招待H】、イロコイ【伊共和国大統領賞・イタリア大賞】、ソーズエコー【BCスプリント(米GⅠ)・フランクJドフランシス記念ダッシュS(米GⅠ)】などが、半姉オルテッレ(父オーヴィエット)の子にはデュークフート【ザメトロポリタン・マッキノンS】、孫にはリッチモンドメイン【AJCダービー・ヴィクトリアダービー・ローソンS】、プリンスコックス【オーストラリアンC】、曾孫にはオルテレズスター【マッキノンS】などが、半姉ライブリー(父オルヴィエート)の玄孫にはロシア【メルボルンC・AJCプレート2回】がいる。

また、チアリーの全兄にはデヌアー【コヴェントリーS】、半弟にはエナジェティック【サセックスS】が、チアリーの半姉グリーバの子にはイーガー【ジュライC・クイーンズスタンドプレート】、チアリーの半妹サンディアルの子にはサンライク【レイルウェイS】がいる。→牝系:F1号族⑥

母父セインフォインはロックサンドの項を参照。

競走馬引退後

本馬は圧倒的なスピードを持った馬だったが、明らかにスタミナ面での限界があり、英国クラシック競走など大レースの勝利はなかった。そのため、長距離馬を好んだスタンリー卿の本馬に対する種牡馬としての評価は低く、5千ポンドという安値で他の牧場に売却しようとした(ラムトン師もそれを止めなかったという)。しかし、第一次世界大戦末期ということもあって買い手がつかず、結局そのままスタンリー卿所有のチェヴァリーパークスタッドで種牡馬入りした。種牡馬入り初年度である1919年の種付け料は200ギニーという安価に設定された。

しかし当のスタンリー卿と異なり、当時の英国の馬産家達は本馬の卓越したスピード能力を評価しており、安い種付け料にも惹かれて、種付けの予約はすぐに満杯になってしまった。そして翌年に誕生した初年度産駒も、父に似て見栄えが良い馬が多く、高値で売れるケースが相次いだ。そんなわけで1921年にスタンリー卿所有のサイドヒルスタッドに移動した際に、種付け料は300ギニーに値上がりした。1922年にデビューした初年度産駒が父譲りの快速を存分に発揮して活躍すると、翌年からは400ギニーに値上がりしたが、生涯これより高くなる事はなかった。

この安い種付け料とは裏腹に、本馬の種牡馬としての活躍は目覚ましく、数々の一流馬を送り出し、1925・28年の英愛首位種牡馬(1926年は2位、1927年は3位、1930年は4位)、1925・26・27年の英愛2歳首位種牡馬に輝いた。また、死後の1937・41・42年には英愛母父首位種牡馬になっている。本馬は1931年2月28日、プリンセスサブライムという牝馬との種付け中に心臓発作を起こして18歳で他界した。なお、海外の資料には各方面で本馬は1931年に16歳で他界したと書かれているのだが、本馬の生年は1913年であるから、これはおそらく単なる記載誤りが広まってしまったものであろう。また、仏国で1934年に産まれたとされる馬で、本馬を公式な父とするフェブルアという名前の牝馬がいるのだが、この馬の父はおそらく本馬を英2000ギニーで破ったクラリッシマスであり、生年もどうやら1926年であるらしい。

後継種牡馬として活躍したファロスフェアウェイシックルファラモンドなどを通じて本馬の直系子孫は大きく繁栄し、現代の主流血脈全ての源となっている。現在世界中で走っているサラブレッドの8割以上は本馬の直系子孫に当たるとされる。なお、スタンリー卿はやはり自身の生産・所有馬であったチョーサーを父に持つ繁殖牝馬に本馬を多く掛け合わせた事で知られ、前出の後継種牡馬4頭全てがこれに該当する。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1920

Pharos

英チャンピオンS

1921

Halcyon

リッチモンドS

1922

Manna

英2000ギニー・英ダービー・リッチモンドS

1922

Phalaros

ジュライC

1922

Warden of the Marches

英チャンピオンS

1923

Colorado

英2000ギニー・エクリプスS・コヴェントリーS・プリンセスオブウェールズS

1924

Bold Archer

ジムクラックS

1924

Rosalia

サセックスS

1924

Sickle

1925

Fairway

英セントレジャー・エクリプスS・英チャンピオンS2回・コヴェントリーS・ジュライS・英シャンペンS・プリンセスオブウェールズS・ジョッキークラブC

1925

Pharamond

ミドルパークS

1925

Plantago

コロネーションC

1926

Le Phare

サセックスS・スチュワーズC

1927

Caerleon

エクリプスS

1927

Christopher Robin

セントジェームズパレスS

1927

Fair Isle

英1000ギニー

1929

Bracken

ドラール賞

1930

Chatelaine

英オークス・英チャンピオンS

1930

Myosotis

リングフィールドダービートライアルS

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