ミスワキ

和名:ミスワキ

英名:Miswaki

1978年生

栗毛

父:ミスタープロスペクター

母:ホープスプリングセターナル

母父:バックパサー

競走馬としては2歳戦で活躍したのだがミスタープロスペクターの後継種牡馬としては異端の晩成中長距離型種牡馬として活躍する

競走成績:2・3歳時に仏英米で走り通算成績13戦6勝2着4回3着1回

誕生からデビュー前まで

米国フロリダ州においてキャンベル&アーリーバードスタッドにより生産された。父ミスタープロスペクターの3年目産駒で、父がまだフロリダ州で繋養されていた時期の産駒である。米国全体から見れば当初こそフロリダ州のローカル種牡馬扱いだったミスタープロスペクター(もっとも地元フロリダ州においてはかなり質が良い繁殖牝馬が集まっていた)だが、本馬が1979年のキーンランドセールに出品された時には、既に初年度産駒の1頭イッツインジエアが活躍して注目を集めていた。

成長しても体高15.3ハンドという小柄な馬体だった本馬も15万ドルという当時としては比較的高額な価格で、オーストリア人のエティ・プレシュ夫人により購入された。プレシュ夫人は、本名をマリア・アナ・ポーラ・フェーディナンディーネ・フォン・ヴルムブランド・シュトゥパッハといい、1914年にオーストリア貴族の娘として産まれた。彼女は恋多き女性であり、20歳時から40歳時まで実に6度も結婚している。そんな彼女の最後の夫となったのは、ハンガリー出身の実業家兼弁護士だったアルパ・プレシュ氏だった。プレシュ夫人の母方の祖父は英ダービー馬キシュベルの所有者アレクサンダー・バルタッチ氏であり、その影響なのか彼女も競馬に興味を持っていた。そしてプレシュ氏と結婚してすぐに夫婦揃って馬主となった。そして1959年のコロネーションCの勝ち馬ナガミ、同年の愛オークス馬ディスコレア、1961年の英ダービー馬プシディウム、1968年の仏ダービー馬タパルクなどを所有した。プレシュ夫妻の所有馬として一番活躍したのは1970年の3歳馬世代であり、ロベールパパン賞・モルニ賞・キングズスタンドSを勝ったアンバーラマ、そしてニジンスキーに生涯初の黒星を付けた凱旋門賞・仏ダービー・ロワイヤルオーク賞の勝ち馬ササフラが活躍した。

プレシュ夫人は夫が1974年に死去した後も独りで馬主を続けており、本馬がデビューした1980年にもヘンビットで2度目の英ダービー制覇を成し遂げていた。英ダービーを2回以上勝利した女性馬主は彼女以外に、ガリレオキャメロットルーラーオブザワールドオーストラリアなどで勝利したジョン・マグナー夫人がいるが、クールモアグループの代表者ジョン・マグナー氏の妻であるマグナー夫人は名義上の馬主に過ぎないから、自分の力で見つけてきた馬で英ダービーを2回勝利した女性馬主は歴史上プレシュ夫人だけである。その意味では彼女の馬を見る目はなかなかのものだった。本馬は仏国フランソワ・ブータン調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳8月にドーヴィル競馬場で行われたヤコウレフ賞(T1000m)でデビューして勝利した。さらに3週間後のモルニ賞(仏GⅠ・T1200m)に出走した。ロベールパパン賞2着馬アンシャンレジームやカブール賞の勝ち馬プリンスマブなどを抑えて1番人気に支持されたが、アンシャンレジームの3/4馬身差2着に惜敗した。しかしアンシャンレジームや前走で本馬から2馬身差の3着だったプリンスマブとの再戦となった次走のサラマンドル賞(仏GⅠ・T1400m)では、2着プリンスマブに頭差、3着シルヴァーエクスプレスにはさらに5馬身差をつけて勝利を収めた。

普通に考えれば次走は仏グランクリテリウムなのだが、当時のブータン厩舎にはクリテリウムドメゾンラフィットを勝っていたクレスタライダーというもう1頭の有力馬(馬主は本馬と異なる)がいた。ブータン師は本馬とクレスタライダーの2頭を英国と仏国で使い分けるという考えを抱き、当時マイル戦だった仏グランクリテリウムは本馬にとって距離が長いという理由をつけて、英国のデューハーストS(英GⅠ・T7F)に本馬を向かわせた。ここには、アングルシーS・愛ナショナルSなど4戦無敗で臨んできた後の名種牡馬ストームバード、翌年の英2000ギニー・セントジェームズパレスS・クリスタルマイル・クイーンエリザベスⅡ世Sに勝利するトゥアゴリムー、チェシャムSの勝ち馬で後にイタリア大賞などに勝つカートリングといった実力馬達が待ち構えていた。レースは先行したストームバードとトゥアゴリムーがそのまま後続を引き離して一騎打ちを演じた末に、ストームバードが2着トゥアゴリムーを半馬身抑えて勝利。ニューマーケット競馬場の柔らかい馬場状態に適応できなかったのか前2頭に付いていけなかった本馬は、トゥアゴリムーからさらに8馬身差の3着に敗れた。なお、仏グランクリテリウムに1番人気で出走したクレスタライダーも、トゥアゴリムーの同厩馬レシテイション(コヴェントリーSの勝ち馬で、翌年の仏2000ギニーも勝っている)の4着に完敗してしまい、ブータン師の使い分けは不発に終わった。

本馬の2歳時の成績は4戦2勝だった。デューハーストSの結果が影響して、国際クラシフィケーションではトップのストームバードから9ポンド下の119ポンドで同世代13位、英タイムフォーム社のレーティングではトップのストームバードから10ポンド下の124ポンドで同世代9位タイという低評価に留まった。

競走生活(3歳時)

3歳時は、理由は不明だが米国ウッドフォード・スティーヴンズ厩舎に転厩し、米国で競走生活を送る事になった。米国における初戦は5月にベルモントパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走となった。しかし結果はキングズウィッシュの6着。翌6月にはベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走して、ここでは2着。続いてベルモントパーク競馬場で行われた芝8ハロンの一般競走に出走。2着ウィキッドウィルに2馬身差をつけて勝利を収め、ここでようやく米国における初勝利を挙げた。

続いてランプライターH(米GⅢ・T8.5F)に出走したが、マッキャン、サラナクS2着馬ステージドアキーなどに屈して、勝ったマッキャンから7馬身半差の7着に敗れた。そのため再度ダート戦に戻った。

7月にベルモントパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に出走すると、2着ハルツームに5馬身半差をつけて圧勝し、ダート戦初勝利を挙げた。次走は、8月にサラトガ競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走となり、2着となったキャリーバックSの勝ち馬フェイスザモーメントに5馬身差をつけてここでも圧勝した。しかし続いて出走したサラトガ競馬場ダート7ハロンのハンデ競走では、フェイスザモーメントに借りを返されて、頭差2着に惜敗。

その後は再度芝に向かい、チャールズハットンS(T6F)に出走。ペガサスS・ポーモノクH・コールタウンS・スポーティングプレートS・トボガンHを勝っていたドクターブラムを2馬身差の2着に破って勝利した。しかし次走は再度ダート戦のフォールハイウェイトH(D6F)となり、勝ったピードモントピートから首差の2着に惜敗。これが現役最後のレースとなった。3歳時は9戦4勝の成績だった。

血統

Mr. Prospector Raise a Native Native Dancer Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Raise You Case Ace Teddy
Sweetheart
Lady Glory American Flag
Beloved 
Gold Digger Nashua Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Segula Johnstown
Sekhmet
Sequence Count Fleet Reigh Count
Quickly
Miss Dogwood Bull Dog
Myrtlewood
Hopespringseternal Buckpasser Tom Fool Menow Pharamond
Alcibiades
Gaga Bull Dog
Alpoise
Busanda War Admiral Man o'War
Brushup
Businesslike Blue Larkspur
La Troienne
Rose Bower Princequillo Prince Rose Rose Prince
Indolence
Cosquilla Papyrus
Quick Thought
Lea Lane Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Lea Lark Bull Lea
Colosseum

ミスタープロスペクターは当馬の項を参照。

母ホープスプリングセターナルは脚がやや不自由だったために不出走のままフロリダ州で繁殖入りした。本馬の活躍を受けてケンタッキー州オーバーブルックファームに移動し、1986年に15歳で他界している。脚が悪かったホープスプリングセターナルは特製の添え木を脚に装着して暮らしていた。ホープスプリングセターナルの死後もこの添え木は保管されており、翌1987年にケンタッキー州ウォルマック国際ファーム(競走馬を引退した本馬が種牡馬生活を送っていた牧場でもある)で種牡馬生活を送っていた大種牡馬ヌレイエフが致命的な脚の骨折を負った際に、その治療のために活用され、ヌレイエフが一命を取り留めるのに一役買うことになった。

ホープスプリングセターナルがフロリダ州繋養時代に産んだ本馬の半姉ホープフォーオール(父セクレタリアト)の子にはラコヴィア【仏オークス(仏GⅠ)・サンタラリ賞(仏GⅠ)】、孫には2000年のカルティエ賞最優秀2歳牡馬トゥブーグ【サラマンドル賞(仏GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)】、曾孫には日本で走ったメイショウオウドウ【大阪杯(GⅡ)・鳴尾記念(GⅢ)】がいる。ケンタッキー州繋養時代に産んだ本馬の半妹ノーザンエタニティ(父ノーザンダンサー)の子にはエタニティスター【ハリウッドダービー(米GⅠ)・デルマー招待ダービー(米GⅡ)】、エターナルレーヴ【愛メイトロンS(愛GⅢ)】がいる。また、やはりケンタッキー州繋養時代に産んだ本馬の全妹ホープスプリングスフォーエヴァーの孫にはジャンプスタート【サラトガスペシャルS(米GⅡ)】がいる。

ホープスプリングセターナルの母ローズバウアーは米国で走り22戦6勝、メイトロンSの勝ち馬。ホープスプリングセターナルの半弟にトゥルーカラーズ(父ホイストザフラッグ)【ラウンドテーブルH(米GⅢ)・レナードリチャーズS(米GⅢ)】がいる他、ホープスプリングセターナルの半姉スプレー(父フォルリ)の子にはハイブライト【トゥルーノースH(米GⅡ)・パロスヴェルデスH(米GⅢ)・ローズベンH(米GⅢ)・スポートページH(米GⅢ)・グレーヴセンドH(米GⅢ)】、玄孫にはフェオドラ【独オークス(独GⅠ)】がいる。母系は無敗の英国三冠馬オーモンドの母リリーアグネスの全妹リジーアグネスからの流れである。→牝系:F16号族②

母父バックパサーは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は米国ケンタッキー州ウォルマック国際ファームで種牡馬入りした。本馬の競走成績はそれほど卓越したものではなかったが、本馬が引退した1981年に2000万ドルという当時史上最高級の種牡馬シンジケートが組まれてケンタッキー州に栄転となっていたミスタープロスペクターの直子という事で注目されていたようである。

そして本馬は種牡馬として97頭以上(資料によっては100頭以上となっている)のステークスウイナーを出して成功し、父の後継種牡馬の1頭として大活躍した。1991年には北米種牡馬ランキングで2位、1993年には仏種牡馬ランキングで2位に入った。

ミスタープロスペクター産駒は早熟の快速馬という傾向が強く、本馬も競走成績はまさにそのとおりだった(もっとも、殆ど短距離戦ばかり走って3歳で引退しているから、4歳以降に長い距離で活躍できない馬だったという決定的な証拠は無い)が、種牡馬としては何故か一転。自身と同様仕上がり早い短距離馬も出してはいるが、上級馬は晩成の中長距離傾向が強い。血統論的には、祖母の父プリンスキロの血を強く伝えているという事になるのだろう。本格化前は詰めが甘く惜敗を繰り返していた馬が、ある日突然チャンピオン級に変身する意外性のある種牡馬である。

また、繁殖牝馬の父としても非常に優秀で、110頭以上(今はもっと増えているだろう)のステークスウイナーを送り出している。1999年と2001年には英愛母父首位種牡馬、2003年には仏母父首位種牡馬になっている。

2004年8月に高齢による受精率低下で種牡馬を引退。同年12月にウォルマック国際ファームにおいて老衰のため26歳で他界し、同牧場内に埋葬された。現役時代の所有者プレシュ夫人が89歳で死去した翌年の事だった。本馬の死に際してウォルマック国際ファームの代表者ジョン・T・L・ジョーンズ・ジュニア氏は「彼はウォルマック国際ファームにいた種牡馬のうち、アレッジド(2000年に他界)、ヌレイエフ(2001年に他界)と並ぶビッグ3の最後の1頭でした。彼のような種牡馬を将来再び手に入れる幸運に恵まれれば良いのですが」とコメントした。

繁殖牝馬の父としては、アーバンシーの息子であるガリレオとシーザスターズ兄弟の他に、デイラミダラカニ兄弟、エルナンド、サイレンススズカ、ザッツザプレンティ、タイキフォーチュンなどを出している。後継種牡馬にはあまり恵まれず、直系は繁栄しなかった。しかしガリレオが種牡馬として大成功しており、本馬の血自体は後世まで残りそうである。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1983

Le Belvedere

イングルウッドH(米GⅡ)・ベイメドウズダービー(米GⅢ)

1983

Papal Power

ホープフルS(米GⅠ)・ハッチソンS(米GⅢ)

1983

Playlist

加オークス

1984

Midyan

ジャージーS(英GⅢ)

1984

Whakilyric

カルヴァドス賞(仏GⅢ)

1985

Balawaki

ロベールパパン賞(仏GⅠ)

1985

Miswaki Tern

リボー賞(伊GⅡ)

1985

Waki River

クリテリウムドサンクルー(仏GⅠ)

1986

Aliocha

セーネワーズ賞(仏GⅢ)

1986

Black Tie Affair

BCクラシック(米GⅠ)・フィリップHアイズリンH(米GⅠ)・ホーソーン金杯(米GⅡ)・ミシガンマイルH(米GⅡ)・ワシントンパークH(米GⅡ)・シェリダンS(米GⅢ)・コモンウェルスBCS(米GⅢ)2回・エクワポイズマイル(米GⅢ)・スティーヴンフォスターH(米GⅢ)・コーンハスカーH(米GⅢ)

1986

Exploding Prospect

アファームドH(米GⅢ)

1986

Mistaurian

フェアグラウンズオークス(米GⅢ)・ヴェイグランシーH(米GⅢ)

1987

Now Listen

トリプルベンドBCH(米GⅡ)・ダリルズジョイH(米GⅢ)

1988

Misil

伊2000ギニー(伊GⅠ)・ローマ賞(伊GⅠ)・伊ジョッキークラブ大賞(伊GⅠ)・エミリオトゥラティ賞(伊GⅡ)2回・リボー賞(伊GⅡ)・ガルフストリームパークBCターフS(米GⅡ)・フェデリコテシオ賞(伊GⅢ)

1989

Urban Sea

凱旋門賞(仏GⅠ)・アルクール賞(仏GⅡ)・エクスビュリ賞(仏GⅢ)・ゴントービロン賞(仏GⅢ)

1990

マーベラスクラウン

ジャパンC(GⅠ)・京都大賞典(GⅡ)・金鯱賞(GⅢ)

1991

Grafin

ノネット賞(仏GⅢ)

1991

Porto Varas

ボワ賞(仏GⅢ)

1993

Allied Forces

ペガサスH(米GⅡ)・ジャマイカH(米GⅡ)・クイーンアンS(英GⅡ)・ランプライターH(米GⅢ)

1993

Diligence

トムフールH(米GⅡ)・チャーチルダウンズH(米GⅢ)

1993

Kistena

アベイドロンシャン賞(仏GⅠ)・モートリー賞(仏GⅢ)・セーネワーズ賞(仏GⅢ)

1994

Abou Zouz

ジムクラックS(英GⅡ)

1994

Hurricane State

エクリプス賞(仏GⅢ)

1994

Magellano

フォルス賞(仏GⅢ)

1995

Inexplicable

ニューハンプシャースウィープH(米GⅢ)・カナディアンターフH(米GⅢ)

1995

Tertullian

キウスーラ賞(伊GⅢ)2回・ポルトマイヨ賞(仏GⅢ)

1996

タイキトレジャー

函館スプリントS(GⅢ)

1997

Rossini

ロベールパパン賞(仏GⅡ)・アングルシーS(愛GⅢ)

1997

Tough Speed

キヴトンパークS(英GⅢ)

1997

ガッサンヒカリ

金杯(水沢)

1998

Panis

コンデ賞(仏GⅢ)・メシドール賞(仏GⅢ)

1999

Perfect Touch

ブラウンズタウンS(愛GⅢ)

2000

Etoile Montante

フォレ賞(仏GⅠ)・パロマーBCH(米GⅡ)・ラスシエネガスH(米GⅢ)

2001

Bachelor Duke

愛2000ギニー(愛GⅠ)

2001

Sir Shackleton

リヒタースケイルBCスプリントCS(米GⅡ)・ダービートライアルS(米GⅢ)・ウエストヴァージニアダービー(米GⅢ)

2002

Operation Red Dawn

ニッカボッカーS(米GⅢ)

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