ファーラップ

和名:ファーラップ

英名:Phar Lap

1926年生

栗毛

父:ナイトレイド

母:エントリーティ

母父:ウインキー

当初は全く振るわなかったが徐々に出世して豪州競馬史上最強馬となるも遠征先の米国で謎の死を遂げた豪州競馬史上最大の英雄と讃えられる赤毛の名馬

競走成績:2~5歳時に豪墨で走り通算成績51戦37勝2着3回3着2回

おそらく日本のみならず世界各国においても、最も有名な豪州調教馬であろう。豪州国内における卓越した競走実績のみならず、当初は全くの駄馬だったのが突如として大出世したというシンデレラストーリー、遠征先の北米で発揮した強さ、そしてその直後に謎の死を遂げた事など、本馬の生涯を彩る逸話は数多く、豪州競馬の伝説的存在となっている。

誕生からデビュー前まで

本馬が誕生したのは豪州ではなく新国であった。ニュージーランド南島にあるティマルー町近郊のシーダウンにある牧場において、アリック・ロバーツ氏により生産された。1歳時に新国の首都ウェリントンにあるトレンサム競馬場で行われたセリに上場された。豪州シドニー在住のハリー・テルフォード調教師は、サラブレッドの血統研究に熱心であり、カタログで目にした本馬の血統構成に惹かれて、知人だった豪州在住の米国人実業家デヴィッド・J・デーヴィス氏に本馬を購入するよう依頼した。デーヴィス氏の内諾を得たテルフォード師は、新国に住んでいた自身の弟ヒュー・テルフォード氏に電報を打ち、セリに参加して本馬を190ギニー以内の価格で購入してくるように依頼。本馬はテルフォード氏によって僅か160ギニー(当時の為替レートで約3万円)で落札され、豪州に送られてきた。

ところが豪州に到着した本馬は、痩せこけており、顔は疣(いぼ)で覆われており、脚はひょろ長くて歩き方はぎこちなかった。本馬の様子を見たデーヴィス氏は激怒して、テルフォード師に対する本馬の調教預託料の支払いを拒否した。テルフォード師は当時あまり顧客が多くない無名の調教師であり、デーヴィス氏は彼にとって数少ない顧客だった。テルフォード師はデーヴィス氏をなだめるために、調教預託料の不払いに同意した上で、3年間の期間限定でデーヴィス氏から自分に本馬をリースし、その3年間で本馬が稼いだ賞金の3分の2は自分が貰うが、残り3分の1はデーヴィス氏のものとする条件を提示した。この条件でリース契約が成立し、本馬はひとまずテルフォード師の単独所有馬となった。

血統構成に惹かれて本馬の導入を決めた、つまり将来的には種牡馬としての活躍も期待していたテルフォード師ではあったが、調教預託料が無い以上、とにかく本馬には早い段階で賞金を稼いでもらわないとならなくなったため、成長を促すために本馬を去勢して騙馬にし、スパルタ調教を開始した。テルフォード師が実施したのは基本的に併せ馬調教であり、本馬を他馬の後方から走らせることによって、その闘争心を目覚めさせようというものであった。本馬が後に追い込み馬になるのは、この調教方法も影響していると思われる。調教はかなり厳しかったが、本馬の担当厩務員トミー・ウッドコック氏は本馬に深い愛情を注ぎ、“Bobby(ボビー)”と呼んで可愛がったため、本馬とウッドコック氏の間には深い絆が出来上がったという。

競走生活(2歳時)

2歳シーズンの1929年2月に、ローズヒル競馬場で行われた芝5.5ハロンのハンデ競走でデビューした。斤量は95ポンドと軽量だったが、しかし結果は9着最下位と大敗。翌3月に出走したホークスベリー2歳H(T5F)でも8着に終わった。同月にはローズヒル競馬場で芝6ハロンのハンデ競走に出たが、15着と惨敗。このレースで背負った91ポンドという斤量が、本馬の競走馬経歴における最軽量だった。後に最大143ポンドを背負って勝つなど、この時点でいったい誰が考えただろうか。

ランドウィック競馬場に移動して出走した翌4月のAJCイースターS(T7F)でも、カラデールの11着に敗れ去った。同月末にローズヒル競馬場で出走した芝6ハロンの未勝利ハンデ競走では、当時17歳の若手だったジャック・ベイカー騎手を鞍上に勝利を収め、5戦目で未勝利を脱出した。このレースにおける斤量は107ポンドだったが、他馬との斤量差が資料に無いので、ハンデに恵まれたのかどうかは分からない。しかし結局、28/29シーズンは5戦1勝の成績で終わってしまった。

競走生活(3歳前半)

翌29/30シーズンになっても、振るわない状況にしばらく変化は無かった。まずは1929年8月にランドウィック競馬場でデンハムコートH(T6F)に出たが、キラーニーの21着に惨敗した。2週間後にはローズヒル3歳H(T7F)に出走したが8着。さらに1週間後にはローズヒル3&4歳H(T7F)に出たが15着。さらに1週間後には、8月4戦目となるウォーウィックS(T8F)に出たが、AJCプレート・チッピングノートンS・キングスC・オールエイジドS・ローソンS2回などを勝ちウォーウィックSも前年まで2連覇していた強豪ライムリックの前に手も足も出ず、10着と大敗した。

本馬のあまりの凡馬ぶりに、さすがのテルフォード師も業を煮やし、本馬を障害競走に転向させる事も検討したという。ところで、本馬の初勝利時にテルフォード師が「AJCダービーを勝てる」と言ったという説が原田俊治氏の「新・世界の名馬」に載っていたが、筆者が調べた範囲内における海外の資料には全く載っておらず、テルフォード師が障害競走への転向を検討した事からしても、おそらくこの説の信憑性は低い。

そんな本馬の状況に変化が訪れたのは、翌9月のチェルムスフォードS(T9F)だった。このレースでは、VRCサイアーズプロデュースS・豪シャンペンS・AJCサイアーズプロデュースS・アスコットヴェイルS・ローズヒルギニー・豪フューチュリティS・オールエイジドSと豪州の大競走を数多く勝っていた、本馬より1歳年上の名馬モリソンが勝利を収めたのだが、本馬はモリソンに次ぐ2着に入ったのである。そしてこれ以降の本馬は、それまでとは別馬のような大活躍を示すのである。筆者の考えでは、馬体が大きすぎて少々不器用な一面があった本馬はマイル以下の距離では実力を発揮できない長距離馬であり、デビュー当初はマイル以下のレースのみ使われていたのが、初めて出走したマイルを超える距離のレースだったチェルムスフォードSでようやく開花したのではないかと思われる。本馬はこの後に5回しか敗れていないのだが、うち2回はマイル戦であった。

競走生活(3歳後半)

チェルムスフォードSから1週間後に出走したローズヒルギニー(T9F)では、2着ロラソンに3馬身差で勝利した。ローズヒルギニーから2週間後に出走したAJCダービー(T12F)では、かつてイースターSで全く敵わなかったカラデールを3馬身半差の2着に、この年のAJCサイアーズプロデュースSを勝っていたオナーを3着に破り、2分31秒25の世界レコードで優勝。瞬く間に3歳馬の頂点に立ってしまった。なお、このレースで本馬に騎乗したジェームズ・パイク騎手が本馬の主戦となり、この後に最も多く本馬に騎乗する事になる。

それから4日後に出走したクレイヴンプレート(T10F)では、つい先日のチェルムスフォードSで負かされた相手であるモリソンを、今度は4馬身差の2着に破って圧勝した。翌11月のヴィクトリアダービー(T12F)では、2着カラデールに2馬身差をつけて、自身がAJCダービーで計時した世界レコード2分31秒25と同タイムのコースレコードで勝利した。

その3日後にはメルボルンC(T16F)に参戦した。104ポンドの軽量という点と勢いが評価されて1番人気に支持されたのだが、直前になってパイク騎手からボビー・ルイス騎手に鞍上が変更された(パイク騎手が104ポンドの斤量で乗ることが出来なかったため)影響もあったのか、珍しく早めに先頭に立つという積極的な走りを試みたものの、新2000ギニー・新ダービー・エプソムH・コックスプレートを勝ってきた同父馬ナイトマークとパキートの2頭に差されて、ナイトマークの3着に敗れてしまった(コックスプレートとメルボルンCと同一年に両方勝ったのはナイトマークが史上初の快挙)。

その後は少し休養を挟み、翌年2月のセントジョージS(T9F)でルイス騎手を鞍上に復帰した。しかしアマウニス、パーシーの2頭に後れを取り、アマウニスの3着に敗退。本格化した以降、マイル戦とメルボルンC以外で負けたのはこの1回のみである。勝ったアマウニスは、既にローズヒルギニー・エプソムH2回・カンタラS2回・チッピングノートンS・コックスプレートなど豪州の大競走を勝ちまくっており、この後も豪フューチュリティS・オールエイジドS・コーフィールドC・コーフィールドSなど、現在GⅠ競走となっているレースを通算16勝して、2006年に豪州競馬の殿堂入りを果たすほどの強豪馬であった。アマウニスと本馬の対戦は最終的に合計6回あり(実は前年のクレイヴンプレートでも顔を合わせており、アマウニスはここでは本馬、モリソンに次ぐ3着だった)、対戦成績は本馬の4勝2敗。豪州に敵無しの最強馬として君臨することになる本馬にとって、好敵手と言えるのはこのアマウニスとナイトマークくらいである。なお、本馬を2連敗させてしまったルイス騎手が本馬に乗る機会は2度と訪れなかった。

次走のVRCセントレジャー(T14F)ではパイク騎手とコンビを組み、2着サーリブルに5馬身差をつけて圧勝。さらに5日後のガヴァナーズプレート(T12F)も、2着となったクラウンオークス馬リネージュに4馬身差をつけて勝利した。さらに2日後に出たキングズプレート(T16F)では、2着になったWATCダービー馬セカンドウインドを20馬身もちぎって大勝した。

1か月の間隔を空けて出走したチッピングノートンS(T10F)では、アマウニスを2馬身差の2着に、前年のメルボルンCで本馬を破った後にローソンSを勝っていたナイトマークを3着に破って快勝。さらに1週間後のAJCセントレジャー(T14F)も2着サーリブルに3馬身半差で完勝した。さらにその4日後にカンバーランドS(T14F)に出走して、2着ドナルドに2馬身差で勝利した。それから3日後にはAJCプレート(T18F)に出走。スタートから大逃げを打った本馬は、2着ナイトマークに10馬身差をつけて、3分49秒5のコースレコードで圧勝した。さらに2週間後に出た5月のSAJCエルダーS(T9F)を2着フリューションに5馬身差で勝利。その翌週のSAJCキングズC(T12F)では、初めて130ポンド超えとなる131ポンドの斤量が課せられたが、2着となったオーストラリアンCの勝ち馬ナディーンに3馬身半差で勝利。これで9連勝を達成し、20戦13勝の成績で29/30シーズンを締めくくった。この9連勝に要した期間はわずか2か月半だった。

競走生活(4歳前半)

翌30/31シーズンは、8月のウォーウィックS(T8F)から始動したが、ここではアマウニスの短頭差2着に敗退した(ナイトマークが3着だった)。しかし2週間後のチェルムスフォードS(T9F)では、前年2着時より26ポンドも重い130ポンドを背負いながらも、2着ナイトマークに2馬身半差で勝利した。それから1週間後のRRCヒルS(T8F)はマイル戦の上に、やはり130ポンドが課せられたが、2着ナイトマークに1馬身半差で勝利した。さらに2週間後にはスプリングS(T12F)に出たが、ここではナイトマークにあわやの半馬身差まで迫られる辛勝だった。しかしそれから4日後のクレイヴンプレート(T10F)では、2着ナイトマークに6馬身差をつけて、2分03秒0のコースレコードで圧勝した。本馬に完膚なきまでにやられたナイトマークの陣営は、コックスプレートやメルボルンCの2連覇を断念して、ナイトマークを新国へ連れ帰ってしまった。

それから3日後のランドウィックプレート(T16F)は2着ドナルドに2馬身差で勝利。さらに2週間後のコックスプレート(T9.5F)では、この年のAJCダービー馬トレギラを4馬身差の2着に、モリソンを3着に下して完勝した。

さらに1週間後のメルボルンSに向かったが、レース当日朝に事件が起こった。レース前調教を終えて戻ってきた本馬を、何者かが走っている車の中から散弾銃で狙撃したのである。幸いにも弾丸は本馬には当たらず(一緒にいたポニーに乗っていた厩務員のウッドコック氏が即座に飛び降りて本馬をかばったとされる。ウッドコック氏やポニーにも怪我は無かった)、そのままメルボルンS(T10F)に出走した本馬は、トレギラを3馬身差の2着に、アマウニスを3着に破って快勝した。車で逃げ去った犯人は結局捕まらず、その真相は不明のままである。この3日後のメルボルンCの前売りで本馬に人気が集中していたため、損失を恐れた悪徳ブックメーカーが本馬を襲ったのではないかという説が有力だが、憶測の域を出ない。本馬陣営はこの事件を受けて、警備員を任用した。

そして本馬は、前年には勝てなかったメルボルンC(T16F)に参戦した。当日にフレミントン競馬場に向かう本馬を乗せた馬運車がエンジントラブルを起こしてしまい、危うくレースに遅刻しそうになったが、発走まで1時間を切ったところで競馬場に到着し、ぎりぎりで間に合った。本馬に課せられた斤量は138ポンドと過酷なものだったが、前述のとおり1番人気に支持されていた。前年と同様にスタートから先行しようとした本馬だったが、鞍上のパイク騎手は冷静に本馬を宥め、馬群の好位で追走させた。そして直線に入ると豪快に差し切り、2着セカンドウインドに3馬身差をつけて完勝した。コックスプレートとメルボルンCと同一年に両方勝ったのは前年のナイトマークに続いて史上2頭目だった。

メルボルンCの2日後には、リンリスゴーS(T8F)に出走。前走から距離が一気に半分になったが、全盛期の本馬には関係なかったようで、2着モリソンに4馬身差で圧勝した。さらにその2日後にはCBフィッシャープレート(T12F)に出走し、2着セカンドウインドに3馬身半差で勝利した。

このレース後に、当初にデーヴィス氏とテルフォード師の間でかわされていた3年間のリース契約期間が満了となった。デーヴィス氏は、これ以降の本馬の所有権を全て持つ事も出来たはずなのだが、本馬を見出したテルフォード師に感謝の念を抱いたのか、所有権の半分だけを4千ポンドで入手した。これにより、この後の本馬はデーヴィス氏とテルフォード師の共同所有馬となった。

競走生活(4歳後半)

その後は3か月間の休養を挟んで翌年2月に復帰した。初戦のセントジョージS(T9F)では、133ポンドを背負いながらも、2着となったサウスオーストラリアンダービー馬インデュナに2馬身半差で快勝した。

1週間後の豪フューチュリティS(T7F)では、本馬にとっては距離不足の上に、143ポンドという酷量を課せられてしまった。さらには大跳びの本馬にとっては不利な重馬場となってしまい、さすがの本馬も苦戦を強いられ、一時は先頭から30馬身差をつけられた。さらには道中で2度も進路が塞がる不利があった。それにも関わらず、最後はカンタラS・ウィリアムレイドSの勝ち馬ミスティックピークを首差でかわして勝利した。これはおそらく本馬の豪州におけるベストレースである。また、この勝利によって本馬は豪州歴代賞金王の座にも君臨した。

そのまた1週間後のエッセンドンS(T10F)は、119ポンドと今の本馬にとっては裸同然の斤量になり、2着ランプラに3馬身差で快勝。それから4日後のキングズプレート(T12F)では133ポンドが課せられたが、2着グレアに1馬身1/4差で勝利した。

しかしさらに3日後のCMロイドS(T8F)では、復帰後3週間で5戦目の過密日程、苦手なマイル戦、133ポンドの斤量という悪条件が重なり、アンダーウッドSの勝ち馬ウォーターラインの首差2着に敗れ、連勝は14で止まってしまった。このレース前に、担当厩務員のウッドコック氏が、本馬の体調が良くない(軽度の疝痛を起こしていたらしい)からレースに出すのは止めてくれとテルフォード師に進言していた。テルフォード師はその懇願を聞き入れずに出走させた事を悔やみ、本馬は半年近い休養に入る事になり、このシーズンの出走はこれが最後となった。このシーズンの成績は16戦14勝だった。

競走生活(5歳前半)

翌31/32シーズンでは序盤からマイル前後の距離を使われ続けたが、本馬は連勝を続けた。まず8月のアンダーウッドS(T8F)に出走すると、2着ロンダリナに1馬身3/4差で勝利した。それから11日後のメムジーS(T9F)も134ポンドを背負いながら、2着ロンダリナに3馬身半差で快勝。さらに2週間後のRRCヒルS(T8F)も、2着となったチッピングノートンSの勝ち馬チデに1馬身半差で勝利した。

4戦目からは本馬の得意な距離に戻り、手始めにスプリングS(T12F)に出走して、2着チデに1馬身1/4差で勝利。4日後のクレイヴンプレート(T10F)では、コーフィールドギニーの勝ち馬ペンテウスを4馬身差の2着に、チデを3着に破り、自身が前年樹立したレコードタイムを0秒5更新する2分02秒5のタイムで同競走3連覇を果たした。さらに3日後のランドウィックプレート(T16F)も2着チデに4馬身差で完勝。

さらに2週間後にはコックスプレート(T9.5F)に出走。そして2着チャタムに2馬身半差をつけ、ヴィクトリアダービー・シドニーCを勝利するジョニージェイソンも3着に破って2連覇を達成した。本項ではここで初めて名前が出たチャタムはこの時点ではそれほどの実力馬というわけでは無かったが、ここで本馬の2着に入った後に急成長して、翌年のコックスプレートとその2年後のコックスプレートを勝利し、他にもエプソムH2回・コーフィールドS・オールエイジドS・ドンカスターマイルなどを制して、2005年に豪州競馬の殿堂入りを果たす名馬にまで出世する。後に本馬が豪州を去った後に豪州競馬界の屋台骨を支え、2度の世界大戦間における豪州屈指の強豪馬と呼ばれるようになるのがチャタムなのである。

一方の本馬は、それから1週間後のメルボルンS(T10F)に出走。オークランドC・新セントレジャー・ウェリントンCの勝ち馬コンセントレートを半馬身差の2着に、後のAJCプレートの勝ち馬ヴェイルモンドを3着に破って勝利した。

そして3日後のメルボルンC(T16F)に向かったが、この時期に他馬を多く手掛けるようになっていたテルフォード師に代わって、専らウッドコック氏が調教をつけていた本馬は、あまり仕上がっていなかった(本馬と仲が良かったウッドコック氏では、厳しい調教を本馬に課すことは出来なかったのである)。さらには、前年を12ポンドも上回る150ポンドというとんでもない斤量を課されてしまった本馬は、1番人気に応えられず、伏兵ホワイトノーズの8着と惨敗。本格化以降では唯一の着外となってしまった。なお、メルボルンCにおいて3年連続で1番人気に支持されたのは本馬が歴史上唯一の例である(後にメルボルンCを3連覇したマカイビーディーヴァは、最初の勝利時は2番人気であった)。

競走生活(5歳後半):米国遠征

このメルボルンCの後、デーヴィス氏は本馬を北米に遠征させる事を表明した。デーヴィス氏は米国の人であるから、本馬の能力を自分の出身地で試してみたくなったのであろうし、豪州より北米のほうが賞金水準は高かった事も彼の食指を動かしたに相違ないだろう。しかしこの遠征計画に乗り気でなかったテルフォード師は、本馬が1931年の11月20日にシドニー港から旅立った際には同行せず、本馬と共に北米に向かったのはデーヴィス氏夫妻と、担当厩務員のウッドコック氏だけだった。

本馬は翌1932年の1月15日にサンフランシスコに到着した。本馬には快適さを提供する目的で特製の船内小屋が3つも用意されており、本馬が自由に動き回れるように運動場まで用意されていた。そして(当たり前だが)船内では調教が行われる事も無かったため、船から降りてきた本馬はとてもリラックスした雰囲気だったという。

そして本馬は隣国のメキシコに向かい、3月20日にティフアナにあるアグアカリエンテ競馬場で行われた、当時世界最高の賞金5万ドルを誇っていたアグアカリエンテH(D10F)に出走した。なぜメキシコのレースが世界最高賞金レースだったのかと言うと、20世紀初頭に米国内の各州で賭博禁止法が成立して馬券発売が禁止されてしまい、その結果として賭博禁止法の影響を受けない隣国のメキシコが競馬の中心的存在となっていた時期があり、そして高額賞金競走が誕生したのだった。なお、アグアカリエンテHの賞金はこの少し前まで10万ドルであり、世界恐慌の煽りを受けて半額になっていたが、それでも世界最高額の座は維持していた。

しかしレース出走時における本馬の状態は万全では無かった。まず、夏の南半球から冬の北半球に来た事でやや体調を崩し気味であり、身体には冬毛が生え始めていたという。さらに調教中に蹄を負傷してしまい、痛みを訴えている状況だった。また、本馬の鞍上は豪州でも何度か本馬に騎乗したことがあるビリー・エリオット騎手(本馬とのコンビでは過去6戦全勝だった)だったが、彼はダート競走に乗った経験が殆ど無く、その点においてはダート競走初出走だった本馬にとってプラス要因となり得なかった。本馬の斤量は129ポンドであり、豪州で130ポンド以上を背負って平気で勝っていた本馬だったが、こうした悪条件化で初のダート競走となると、やはり厳しいものがあった。こんな状況であったから、この9年前の1923年に実施された、ケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬ゼヴと英ダービー馬パパイラスのマッチレース(ゼヴが5馬身差で圧勝している)を思い起こし、本馬もパパイラスと同じ運命を辿るだろうと予測する米国民も多かったという。

しかし本馬の競走能力は、そうした米国民達の予想を遥かに上回るものであった。スタートがかなり悪かった本馬は、道中は11頭立ての最後方を追走していたが、中盤でスパートすると次々に他馬を抜き去り、2着となったアメリカンダービー馬リヴァリーボーイに2馬身差をつけて、2分02秒8のコースレコード勝ちを収めたのである。この衝撃的な勝ち方にはさすがの米国民も度肝を抜かれたという。ウッドコック氏によると、有名な本馬のニックネーム“The Red Terror(赤色の恐怖)”は、このときに米国民が本馬に対して使用したのだという。また、本馬が活躍したのは豪州だったが、生国は新国であるため、米国において本馬は当初、豪州最強馬ではなく新国最強馬であると認識されていたらしい。なお、この勝利によって本馬の獲得賞金総額は6万6738豪ポンドに達し、これは当時の為替レートでは、米国調教馬サンボウの37万6744ドル、仏国調教馬クサールの163万4775フランに次ぐ世界第3位だった。

謎の死

さて、北米初戦で勝利を収めた本馬は、カリフォルニア州メンローパーク(サンフランシスコの近郊)にあったアサートンランチスタッドに送られて、負傷した蹄を癒しながら、デーヴィス氏が本馬の次走について米国内の競馬場関係者と交渉しているのを待っていた。豪州から来た英雄の姿を一目見ようと、何千人もの米国競馬ファンがアサートンランチスタッドを訪れたという。

ところが、アグアカリエンテHから僅か16日後の4月5日の早朝、ウッドコック氏は、激しい痛みと高熱で苦しんでいる本馬を発見した。慌てたウッドコック氏はすぐさま獣医を呼んだ。本馬の胃は膨張し、吐き気を訴えていたために、疝痛であると診断した獣医は治療に取り掛かり、いったんは小康状態となった。しかし昼頃になって状態は急激に悪化。ウッドコック氏は本馬が倒れないように必死で支え続けていたが、午後3~4時頃に、鼻と口から大量に出血した本馬はそのまま他界してしまった。享年5歳という若さであった。

現在も続いている死因追及

獣医によって実施された解剖結果により、死因は疝痛であると公式には発表された。しかし本馬の胃腸には重度の炎症が見られており、さらに本馬の遺体からは砒素が検出されたという事実も後に公になった。そのために、何者かが何らかの目的で本馬を毒殺したのだという陰謀説が根強く残ることになった。

黒幕として最も有力視されたのは米国マフィアであり、違法賭博を行っていた米国マフィアが、豪州から来たチャンピオンホースの圧倒的な強さによって自分達の違法賭博が混乱をきたすことを恐れて、暗殺を実行したというのがその動機であるとされた(本馬が豪州時代に何者かに狙撃された事件があった事も、この説の信憑性に拍車をかけた)。米国マフィア以外には、反賭博活動団体も容疑者として挙げられた。他にも、牧場内の木に散布された砒素入りの農薬又は殺虫剤が牧草に付着しており、それを誤食したという説。砒素は直接関係無く、豪州から北米への長旅で体調を崩していた本馬は免疫力が低下しており、細菌性感染症を発症したという説なども出た。

2000年になって、保存されていた本馬の遺体の一部を検視した専門家が、やはり急性の細菌性胃腸炎が死因であると発表したため、ひとまずそれで決着がついたかに思われた。ところが、2006年になって、豪州のシンクロトロン(円形加速器の一種。加速器とは荷電粒子を加速する装置の事である。荷電粒子の速度が光速に近づくと、放射光という指向性が強い強力な電磁波を発する。それを測定することで対象物の成分を迅速かつ詳細に分析できる。日本では1998年に発生した和歌山毒入りカレー事件で砒素の分析に用いられた事で知られている)研究機関が、最新のシンクロトロンを使用した分析を実施してみたところ、本馬の毛から検出された砒素は致死量を遥かに上回る量が一度に投与された事が確認されたため、やはり毒殺であった公算が大きい事が判明したと発表した。当該研究機関は、米国マフィアが暗殺を実行したという説が事実であると確信した旨も述べているが、真犯人が誰なのかに関する確たる証拠が新たに発見されたわけではなかった。

2007年には、シドニーの獣医師パーシー・サイクス氏が、本馬の砒素中毒死は事故だったとする見解を発表した。サイクス氏によると、当時の豪州競馬界においては砒素の溶液を強壮剤(食欲増進剤)として使用することが一般的であり、実に90%の馬が砒素を投与されていたという。サイクス氏が本馬の鬣を調べると、過去に幾度も砒素を投与された形跡があったため、担当厩務員のウッドコック氏が投与量を誤ったためによる事故だったと結論付けている。

2008年には、メルボルン博物館のイヴァン・ケンプソン博士と、南オーストラリア大学のダーモット・ヘンリー教授が共同で、米国シカゴ近郊のアルゴンヌ国立研究所において本馬の鬣の分析を実施した。遺体を剥製にする際に砒素を使用する場合があり、本馬の遺体から検出されたのはその時の砒素ではないかという見解があったためである。しかし分析の結果、やはり本馬が死ぬ30~40時間ほど前に大量の砒素が投与されていた事が判明した。

2011年には、豪州最古の新聞シドニー・モーニング・ヘラルド紙が、本馬の最後を看取ったウッドコック氏の発言「ファーラップには強壮剤として砒素を使用していました。しかし彼の死因は砒素ではなく感染症です」を記事として掲載した(生前のウッドコック氏は表向きには毒殺説だった)。そして「ウッドコック氏を嘘つき扱いするのではなく、彼の言葉を受け入れるべきです。ファーラップの所有者兼調教師だったハリー・テルフォードは、砒素は競走馬にとっての素晴らしい強壮剤である旨を本に書いており、その本はメルボルンのビクトリア博物館に展示されています」という社説も合わせて掲載した。

こうした数々の調査結果から総合的に判断すると、本馬の死は毒殺ではなく砒素の投与量を誤ったことによる事故死である公算が大きそうである。ただ、100%確実というわけではなく、本馬の死に関する議論は今後も続いていくのだろう。

なお、本馬の北米遠征に反対していたテルフォード師は、当時本馬の大活躍で得た賞金により厩舎を拡大し、多くの他馬を手掛けるようになっていたのだが、本馬の死後は運に見放されたように活躍馬に恵まれず、1957年に調教師を引退し、その3年後の1960年に寂しく世を去った。本馬を北米に連れて行ったデーヴィス氏は、その当初こそ豪州国民から熱狂的に声援を送られていたが、本馬が剥製になって豪州に戻ってくると、逆に轟々たる非難にさらされる羽目になった。その後はどこかに雲隠れしたようで、テルフォード師と異なり没年も明らかではない。

競走馬としての特徴と評価

本馬は成長すると体高17.1ハンドに達したという、非常に背が高い馬だった。単に背が高いだけでなく、顔の大きさ、背の長さ、脚の長さと太さなど全てにバランスが取れており、全体的に非常に巨大な馬だった。跳びも非常に大きく、その分だけスタート直後の加速力には欠けていたのか、最後方からの追い込みが常套手段だった(稀に逃げて勝ったこともあるが)。

また、本馬はとても濃い赤色をした栗毛馬だった為、本馬を見た米国人は彼を“The Red Terror(赤色の恐怖)”と呼んだ。この“The Red Terror”は日本においては本馬の最も有名なニックネームとして知られているが、これは米国人が用いる事が多いものであり、豪州国内では他の愛称で呼ばれることが多い。筆者が海外の資料で見た中で最も多く使用されていたのは、ウッドコック氏が使用した呼び名“Bobby”である(本馬を主人公とする映画でもこの愛称が用いられている)。これ以外にも“Wonder Horse(驚異の馬)”又は“Australia's wonder horse(豪州の驚異の馬)”、“Big Red(ビッグレッド)”、“Old Boy(オールドボーイ)”、“Big Fellow(でかい奴)”など数多くの愛称が存在した。

馬名のファーラップは、チワン語(中国南部やベトナム北部に住むチワン族の言語。タイの公用語であるシャム語とは同系言語である)で“wink of the sky(空の閃光)”すなわち「稲妻(又は雷)」という意味である。なぜチワン語で命名されたのかと言うと、テルフォード師の知人で、当時シドニー大学の医学生だったオーブリー・ピング氏(彼の父は中国系移民であり、チワン語を使っていた)が、本馬の毛色と父ナイトレイドの馬名(「夜襲」の意味)から連想してテルフォード師に馬名を提案し、テルフォード師もそれを気に入ったからだという。なお、チワン語の「稲妻」をアルファベット綴りに直すと“farlap”になるらしいのだが、メルボルンCの勝ち馬の名前にはアルファベット7文字で、かつ、二つに分割されたものが多かった(もっとも、筆者が本馬以前のメルボルンC勝ち馬の名前をざっと見ても、それほど多いとは思わないのだが)ため、少し手直しして“Phar Lap”にしたのだとか。

本馬はとてもおとなしくて気の優しい馬であり、周囲の人間からはその性格も非常に愛されていたそうである。テルフォード師の幼い息子もいつも本馬と一緒に遊んでいたという(背中に子どもを乗せて遊ばせている本馬の写真が残っている)。本馬の死の数日後にテルフォード師は「彼は天使でした。人間でもあそこまで分別がある事はありませんでした。彼は人間のようでした」と本馬を偲んでいる。その一方で競走に出ると闘争心を剥き出しにして走ったため、彼は戦士であるとも言われたものだった。好物は林檎であったらしく、ウッドコック氏の手から林檎を受け取って頬張る本馬の写真が新聞に載った事もあったという。

本馬が活躍を始めた1929年は、10月の暗黒の木曜日に端を発する世界大恐慌が起きた年である。豪州にも大恐慌の波が押し寄せ、失業者の増加や食料不足の拡大などの問題が発生し、豪州国内は暗い雰囲気に包まれていた。そんな中における本馬の活躍は、豪州国民の心に灯りを点すものであり、その圧倒的な強さも相まって豪州の国民的英雄だった。本馬の登場以前から豪州において競馬は最もポピュラーなスポーツの1つであり、1927年頃にラジオで最初に生中継されたスポーツは競馬だったのである。そんな本馬が北米に遠征した時、豪州国民全体がその活躍を祈ったとされる。そして実際に勝利を挙げた際はお祭り騒ぎだったようである。それ故にその直後に本馬が急死した際には豪州国内は悲しみに包まれた。そしてその遺体から砒素が検出された事が判明した際には「その強さに嫉妬した米国人が毒を盛ったのだ」という説が流布し、豪州と米国の関係に大きな溝ができ、国際問題にまで発展した。もともと欧米の植民地・流刑地だった豪州は、欧米人から差別されることも多い。それゆえに北米に遠征して圧勝し、直後に急死した本馬は豪州競馬史上最大の英雄として今でも崇め立てられているのである。メキシコでわずか1戦しただけの本馬だが、米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国の名馬100選で第22位にランクされており(やや外交的な思惑も感じられるが)、その勝ち方がいかに物凄かったかが伺える。ただし、さすがに米国競馬の殿堂入りはしていない。

本馬の死後、その心臓は豪州の首都キャンベラにある国立博物館に寄贈され、現在は同博物館のストレージ別館で保管されている。重量は6.2~6.35kgと、通常の馬の平均値3~4kgの約1.5倍あると言われる心臓は、ホルマリン漬けされて現在でも一般公開されている。また、本馬の骨格は新国の首都ウェリントンにある国立博物館テ・パパ・トンガレワに寄贈された。皮膚は剥製となり、メルボルン博物館に展示されている。ちなみに本馬の心臓の巨大さは、その高い競走能力の源泉だったという説が一般的である。この巨大な心臓は米国三冠馬セクレタリアトと同様、心臓の重さが14ポンド(約6.36kg)あったという18世紀英国の歴史的名馬エクリプスからの遺伝であると言われている。豪州の血統研究家マリアンナ・ホーン氏の著書“X-Factor”によると、牝系経由で受け継がれるX染色体が関係しているのだという。もっとも本馬の牝系を遡っても、エクリプス牝駒の名前は出てこない。公式な血統表上においては、本馬の10代母アレクザンダーメア(この馬はセクレタリアトの18代母でもある)がエクリプス産駒アレクザンダーの娘であるというのが、本馬の牝系における最も近いエクリプスの血である。しかし最近の研究で実際には本馬やセクレタリアトの牝系はエクリプス牝駒に遡ることが出来るという結果が出ているらしい。

1983年には本馬の活躍を描いた映画「ファーラップ」が豪州で公開された。この映画は、テルフォード師が血統に惹かれて本馬を購入し、本馬の馬体を見たデーヴィス氏が激怒するところから始まり、後に本馬が大出世して稀代の名馬となり、“Bobby”の愛称で全ての豪州人から愛され、そして最後にカリフォルニア州においてウッドコック氏の腕の中で息絶えるまでを忠実に描いており、大ヒットした。同時に“Phar Lap-Farewell To You(さらばファーラップ)”という歌も作られている。

豪州と新国では、本馬を国鳥や国獣ならぬ国馬として扱っており、1978年には豪州郵政局が発行した切手の絵柄にもなった。1989年には豪州フレミントン競馬場に本馬の銅像が建てられており、2009年には本馬の出生地ティマルー町に50万ドルを費やして本馬の等身大銅像付き記念碑が建てられた。2000年に豪州競馬名誉の殿堂が創設された際、本馬は初年度で殿堂入りした。また、2006年に新国競馬名誉の殿堂が創設された際にも、やはり初年度で殿堂入りしている。英タイムフォーム社の記者だったトニー・モリス氏とジョン・ランドール氏が1999年に出した“A Century of Champions”の平地競走馬部門において本馬には138ポンドのレーティングが与えられており、これは欧米調教馬以外の馬では最高評価である。

血統

Night Raid Radium Bend Or Doncaster Stockwell
Marigold
Rouge Rose Thormanby
Ellen Horne
Taia Donovan Galopin
Mowerina
Eira Kisber HUN
Aeolia
Sentiment Spearmint Carbine Musket
Mersey
Maid of the Mint Minting
Warble
Flair St. Frusquin St. Simon
Isabel
Glare Ayrshire
Footlight
Entreaty Winkie William the Third St. Simon Galopin
St. Angela
Gravity Wisdom
Enigma
Conjure Juggler Touchet
Enchantress
Connie Pero Gomez
Hilarity
Prayer Wheel Pilgrim's Progress Isonomy Sterling
Isola Bella
Pilgrimage The Palmer
Lady Audley
Catherine Wheel Maxim Musket
Realisation
Miss Kate Adventurer
Sporting Life

父ナイトレイドは競走馬としては英国で走ったが、35戦2勝(うち1勝は1着同着)と平凡な馬だった。引退後は新国に輸出されて種牡馬入りした。新国では種牡馬ランキング上位に入った事が無いのだが、豪州では本馬やナイトマークなど12頭のステークスウイナーを送り出し、上記2頭が活躍した1929/30シーズン及び30/31シーズンの豪州首位種牡馬に輝いた。

ナイトレイドの父ラディウムはベンドア産駒で、現役成績24戦10勝。ドンカスターC・グッドウッドC・ジョッキークラブC2回・プリンスオブウェールズナーサリーS・バイエニアルS・ロウザーS・ラトランドH・ダリングハムS・ビューフォートSに勝っている。競走馬引退後は英国で種牡馬入りした。直系は残っていないが、ギャラントフォックス、ドナテロ、ファリスブラントームなど数多くの名馬の母系にその名を残している。

母エントリーティは新国で1戦して着外に終わった後に故障で引退した。母としては本馬を含めて8頭の子を産んだが、本馬の全妹ニーラップが5勝したのが目立つ程度で、本馬以外に活躍馬を出してはいない。しかし本馬の1歳年上の全姉フォーチュンズホイールから牝系が伸び、フォーチュンズホイールから7代目に豪州が世界に誇る名牝サンラインが登場している。なお、サンラインは本馬の全妹ニーラップの子孫だと書かれているのを何箇所かで目にしたが誤りである。ニーラップの子にはフォーフリーダムズ【ワイドナーH・ブルックリンH】がおり、その牝系子孫も伸びてはいるが、それほどの活躍馬には恵まれていない。一方、フォーチュンズホイールの牝系子孫からはサンラインの他にも、ペキュレイター【サウスオーストラリアンダービー】、スパイグラス【ラジオパシフィックサイアーズプロデュースS(新GⅠ)・オークランドC(新GⅠ)】、アイアンホース【エプソムH(豪GⅠ)】などが登場している。また、本馬の全妹ラフィスの子にはスウィングアロング【グレートノーザンオークス】、カウントシラノ【ザメトロポリタン】、孫にはモンテカルロ【AJCダービー・ヴィクトリアダービー・ザメトロポリタン・マッキノンS】、曾孫にはオーセンティックヘアー【エプソムH・ドンカスターマイル】、玄孫世代以降には、フェアリーウォーク【ゴールデンスリッパー】、シェインウォーク【スプリングチャンピオンS・ドゥーンベンC・クイーンズランドダービー】、ブレイジングサドルズ【ブルーダイヤモンドS】、ファウンテンコート【オークランドC(新GⅠ)・クイーンエリザベスS(豪GⅠ)】、コールディーゼル【コーフィールドC(豪GⅠ)・ジエルダーズマイル(豪GⅠ)】、ボードウォークエンジェル【グッドウッドH(豪GⅠ)】、クーギーウォーク【レイルウェイH(新GⅠ)】、クロール【ストラドブロークH(豪GⅠ)】、ディスティル【レヴィンクラシック(新GⅠ)】などが、本馬の半妹エンタイシング(父ナイトマーク)の牝系子孫には、ワイタンギルア【ドゥーンベンC・アンダーウッドS(豪GⅠ)】、エリコルサム【ロバートサングスターS(豪GⅠ)】などがいる。→牝系:F2号族④

母父ウインキーはウィリアムザサード産駒で、競走馬としてのキャリアは不明だが、英1000ギニー・コロネーションS・サセックスS・ナッソーS・ヨークシャーオークスに勝った名牝ウインキポップの全弟という血統が評価されて、豪州に輸出されて種牡馬入りした(英国で種牡馬入りしなかったのは当時の英国におけるセントサイモン系種牡馬の飽和状態も影響しているのだろう)。

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