和名:ラウンドテーブル |
英名:Round Table |
1954年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:プリンスキロ |
母:ナイツドーター |
母父:サーコスモ |
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芝とダートを問わず頑健に走り4年間で66戦43勝、レコード勝ちを16回マークし米年度代表馬及び全米賞金王に輝き種牡馬としても活躍する |
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競走成績:2~5歳時に米墨で走り通算成績66戦43勝2着8回3着5回 |
成長しても体高15.2~15.3ハンドと小柄な体ながらも、とにかく頑健に走り続けて16度のレコードタイムを記録するなど超一流の成績を残し、世界賞金王にも輝いた米国競馬史上有数の名馬。現在においても米国競馬史上最も偉大な芝馬であると言われている。
誕生からデビュー前まで
1954年4月6日の夜、米国ケンタッキー州クレイボーンファームにおいて、ナイツドーターとミスディスコという2頭の繁殖牝馬が産気付いた。最初にナイツドーターが鹿毛の牡駒を産み、その30分後にミスディスコも鹿毛の牡駒を産んだ。2頭の牡駒は、前者が母の名前「騎士の娘」から連想した“Knights of the Round Table(アーサー王の円卓の騎士)”からラウンドテーブルと命名され、後者はボールドルーラーと命名された。2頭揃って米国競馬史上に偉大な足跡を残す名競走馬・名種牡馬となるのだが、この時点でそんな事を予想していた人はいなかっただろう。ボールドルーラーは身体が細身だった上に怪我が絶えない手が掛かる馬であり、本馬は小柄でそれほど見栄えがする馬体ではなかったからである。気性面では2頭とも大人しかった。
同じクレイボーンファーム産馬であっても、本馬とボールドルーラーの立場は違っており、ボールドルーラーはクレイボーンファームに馬産を委託していたホイートリーステーブルの所有馬だったのに対して、本馬は正真正銘クレイボーンファームの自家生産馬であり、その所有権はクレイボーンファームにあった。クレイボーンファームの代表者ブル・ハンコック氏は本馬を自身の所有馬として走らせることにして、ムーディー・ジョリー調教師に預けた。
競走生活(2歳時)
本馬のデビューはかなり早く、2歳2月にフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で行われたダート3ハロンの未勝利戦だった。主戦となるS・ブルックス騎手を鞍上に出走したものの、ここでは牝馬ミラの2馬身差4着に敗れた。次走は4月にケンタッキー州キーンランド競馬場で行われたダート4ハロンの未勝利戦だった。ここでは2着パンディーンに2馬身半差をつけて初勝利を挙げた。続けてラファイエットS(D4F)に出走して、2着ジェットコロネルに半馬身差で勝利した。
その後はしばらく間隔を空け、6月のアーリントンパーク競馬場開催に向かった。まずはダート5ハロンの一般競走に出て、2着ジェットコロネルに2馬身差で快勝した。次走のハイドパークS(D5.5F)では、ジェットコロネル(3着)には先着したものの、グリークゲームという馬に5馬身差をつけられて2着に敗退。そしてアーリントンフューチュリティ(D6F)では、グリークゲームだけでなくジェットコロネル(2着)にも後れを取り、勝ったグリークゲームから6馬身半差の4着に敗れた。続いてワシントンパーク競馬場でジョージウルフ記念S(D6F)に出走したが、落馬競走中止となってしまった(レースはスマートフィルという馬がジェットコロネルやフェデラルヒルを蹴散らして勝利している)。その後は10月にキーンランド競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走に向かい、2着ディクシーダッドリーに1馬身半差で勝利した。次走のブリーダーズフューチュリティ(D7F)では、2着ミサイルに半馬身差で勝利した。しかし次走のチャーチルダウンズ競馬場ダート7ハロンの一般競走は、チャーリーズソングの7馬身1/4差8着と惨敗し、2歳時を10戦5勝の成績で終えた。
競走生活(3歳前半)
この時期、オクラホマ州出身の石油業者トラヴィス・M・カー氏が本馬の購入をハンコック氏に打診してきた。ハンコック氏はいったんカー氏の申し出を断り、3歳時もクレイボーンファームの名義で本馬を走らせた。
まずは1月にハイアリアパーク競馬場で行われたハイビスカスS(D6F)から始動した。しかし結果は勝ち馬から10馬身差の10着と惨敗。2着ミサイルや3着キングハイラン(サプリングSやホープフルSの勝ち馬)を蹴散らして勝ったのは、後に本馬と何度か対戦することになるギャラントマンだった。
それから日が経たない2月9日に、ハンコック氏はカー氏の申し出を承諾して売買契約が成立した。契約内容は、本馬の所有権の80%をカー氏が14万5千ドル(チャールズ・ハットン氏の「アメリカン・レーシング・マニュアル」1959年版には17万5千ドルとなっている。これは所有権の100%を意味しているのだろうか。5千ドルほど金額が合わないが、概ね合致すると言える)で購入する事、本馬が競走馬を引退した後にはクレイボーンファームで種牡馬入りする事、そして本馬の種牡馬活動で得た収入の20%はクレイボーンファームのものとなる事だった。最初にカー氏の申し出を断っていたハンコック氏がここで了承に転じた理由は、別にハイビスカスSの惨敗で見切りをつけたからではなく(見切りをつけたのなら種牡馬入り後の権利まで気を回さないはずである)、ハンコック氏の父であるクレイボーンファームの創設者アーサー・ボイド・ハンコック氏が12年間に渡って悩まされていた心臓病がいよいよ悪化して余命幾許も無くなってしまい、その死後に莫大な相続税の支払いに迫られることが予想されたからであるらしい(ボイド・ハンコック氏はこの年の4月に81歳で死去した)。
契約が成立したまさにその当日に本馬はハイアリアパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走に出走した。しかしここでも勝ち馬から11馬身差の6着と惨敗。勝ったのはこれまた後に本馬と何度か戦うことになるアイアンリージで、2着に入ったのはゲンデュークだった。アイアンリージとゲンデュークの2頭は共にカルメットファームの所有馬で、ここではアイアンリージが勝ったが、カルメットファームが期待していたのはゲンデュークのほうだった。
さて、カーステーブルの名義となってウィリアム・モルター厩舎に転厩した本馬の最初のレースは、前走からちょうど1週間後にハイアリアパーク競馬場で行われたダート7ハロンの一般競走だった。ここでは2着となった仏国産馬ラッキーディップに6馬身差をつけて圧勝した。テキサス州出身のモルター師はカリフォルニア州を中心に活動しており、本馬もまたこの後に米国西海岸を本拠地とする事になる。モルター師はこの時期の本馬に関して「身体の各パーツは短いのですが、それにも関わらず平均より長いストライドで走ります。脚の力が強いからでしょう。利発そうな顔も好印象です」と評価している。
西海岸に来た本馬は、まずはサンタアニタダービー(D9F)に追加登録料を支払って出走した。ジョニー・ロングデン騎手を鞍上に、勝ったサーウィリアム、頭差2着となったデルマーフューチュリティの勝ち馬スワーリングアビーと接戦を演じて、スワーリングアビーから鼻差の3着に入った。次走のサンバーナーディノH(D8.5F)では、ライトニングジャック、後のデルマーダービー馬ミスティックアイなどに屈して、勝ったライトニングジャックから8馬身半差の5着に完敗。しかしベイメドウズダービー(D8.5F)では、スワーリングアビーを4馬身半差の2着に破って完勝。
その後はケンタッキーダービーを目指して東上し、ブルーグラスS(D9F)に出走した。後にドンH2回・ディキシーH・ロングアイランドH・アーリントンHなどステークス競走を9勝するワンアイドキングや後のオハイオダービー勝ち馬マンテルを一蹴し、2着ワンアイドキングに6馬身差をつけて、1分47秒4のコースレコードで勝利した。
そしてケンタッキーダービー(D10F)に挑んだ。レース直前まで本命視されていたエヴァーグレイズS・ファウンテンオブユースS・フロリダダービーの勝ち馬ゲンデュークが故障のため回避したが、カルメットファームがゲンデュークの代打として送り込んできたアイアンリージ、ウッドメモリアルSで2着してきたギャラントマン、ケンタッキージョッキークラブS・ユースフルS・ルイジアナダービー・ダービートライアルSの勝ち馬フェデラルヒル、そして本馬より30分遅れでこの世に生を受けたあのボールドルーラーもベルモントフューチュリティS・バハマズS・フラミンゴS・ウッドメモリアルSなどを勝って出走してきた。ボールドルーラーが単勝オッズ2.2倍の1番人気、本馬が単勝オッズ4.6倍の2番人気、ギャラントマンが単勝オッズ4.7倍の3番人気となった。レースではフェデラルヒル、ボールドルーラー、アイアンリージが先行して、本馬は馬群の中団につけた。そして直線に入ると内側を突いて上がってきたが、2着ギャラントマンを鼻差抑えて勝ったアイアンリージから2馬身3/4差の3着に敗れた(直線で失速したボールドルーラーは本馬から3馬身差の4着だった)。
競走生活(3歳後半)
プリークネスSやベルモントSには出走せず、そのまま西海岸に戻ってきた本馬は、ボールドルーラーが勝ったプリークネスSの1週間後に地元ハリウッドパーク競馬場でカリフォルニアンS(D8.5F)に出走した。このレースは古馬混合戦であり、サンヴィンセントS・サンタアニタダービー・ウィルロジャーズS・サンアントニオHを勝っていたテラング、グレイラグH・オハイオダービー・サンカルロスH・エクセルシオールH2回・クイーンズカウンティH・ニューオーリンズHを勝っていたファインド、サンフェリペS・シネマHの勝ち馬ソシアルクライマーといった西海岸を代表する有力古馬勢が出走していた。結果はソシアルクライマーが勝ち、本馬は1馬身半差の2着だった。それから僅か5日後にはウィルロジャーズS(D8F)に出走。サンフェリペSの勝ち馬ジョープライスを3馬身半差の2着に下して完勝した。ギャラントマンが勝利したベルモントSと同日に行われた次走のエルドラドH(D8.5F)では、ジョープライスを今度は7馬身差の2着に下して圧勝した。次走のシネマH(D9F)では3歳馬の身でありながら130ポンドが課せられたが、主戦となるウィリアム・シューメーカー騎手と初コンビを組んだ本馬が、ジョープライスを4馬身差の2着に、後に何度か本馬と戦う事になるシーニーンを3着に破って勝利した。
続くハリウッド金杯(D10F)では、カリフォルニアンS3着後にイングルウッドH・アメリカンH・サンセットHなどの勝利を上乗せしていたファインド、ベルモントフューチュリティS・サンカルロスH2回・パロスヴェルデスH・サンタバーバラH・カリフォルニアンS・ロサンゼルスHなどを勝っていたポーターハウスなどが対戦相手となった。特にポーターハウスは前年のカリフォルニアンSでスワップスに黒星を付けた(3~4歳時のスワップスにダート競走で先着したのはポーターハウスとナシュアの2頭のみ)馬であり、かなりの強敵だった。しかし本馬の斤量は109ポンドで、前走のシネマHに比べると遥かに楽だった。結果は先行して直線で抜け出した本馬が2着ポーターハウスに3馬身1/4差をつけて、前年の同競走でスワップスが計時したコースレコード1分58秒6と同タイムで優勝。1938年の同競走創設以来、3歳馬が勝ったのは史上初のことだった。
次走のウェスターナーS(D10F・現ハリウッドダービー)では、129ポンドの斤量をものともせずに、2着アイリッシャーに2馬身差で軽く勝利。その後は再び東上し、ワシントンパーク競馬場で行われたアメリカンダービープレップ(T8.5F)に出走。初の芝競走だったが、馬なりのまま走り、2着エカバに1馬身1/4差をつけて勝利した。次走のアメリカンダービー(T9.5F)では、エカバに加えて、ケンタッキーダービー勝利後にプリークネスS・アーリントンクラシックSで2着してジャージーS・シェリダンHを勝っていたアイアンリージも参戦してきた。しかし本馬がアイアンリージを4馬身差の2着に下して圧勝し、ケンタッキーダービーの雪辱を果たした。
夏が終わって9月になっても米国東海岸で本馬の快進撃は続いた。まずはユナイテッドネーションズH(T8.5F)に出走。ここではスタートで躓いて出遅れてしまったが、テューダーエラとの激戦を鼻差で制して勝利した(3着はファインドだった)。続いてホーソーン競馬場ダート8.5ハロンの一般競走に出て、2着ハンドレッドグランドに7馬身差で圧勝。次走のホーソーン金杯(D10F)では、バッシュフォードマナーS・アーリントンフューチュリティ・ジョージウルフ記念S・ワシントンパークフューチュリティ・ウォーレンライト記念S・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・クラークHなどを勝っていた後の米国顕彰馬スウォーンズサンや、ファインドなどが対戦相手となった。しかし本馬が2着スウォーンズサンに3馬身差をつけて、2分フラットのコースレコードで完勝した。次走のガーデンステート競馬場ダート8ハロン70ヤードの一般競走では、本馬にとって苦手な超不良馬場となったが、全くの馬なりのまま8馬身差で圧勝。
そしてトレントンH(D10F)に出走した。対戦相手は僅か2頭だったが、その2頭とは、プリークネスS勝利後にジェロームH・ヴォスバーグH・クイーンズカウンティH・ベンジャミンフランクリンHなどを勝っていたボールドルーラー、ピーターパンHを勝って臨んだベルモントS勝利後にトラヴァーズS・ナッソーカウンティH・ジョッキークラブ金杯を勝っていたギャラントマンであり、このレースを勝った馬がこの年の3歳最強馬になる状況だった。本馬とギャラントマンは124ポンドで、距離適性で不利と思われていたボールドルーラーは122ポンドだった。主戦のシューメーカー騎手がゴール板の誤認という自身の大失敗でケンタッキーダービー馬の栄誉を逃させてしまったギャラントマンに騎乗したため、本馬には初コンビとなるW・ハーマッツ騎手が騎乗した。しかもこのレースは本馬が不得手な重馬場で行われており、実力を発揮できなかった本馬は、勝ったボールドルーラーから11馬身差をつけられた3着最下位に敗れ、米国競馬の一線級においてサイテーション以来最も長く続いていた連勝は11で止まった。
その後は西海岸に戻り、12月のマリブS(T7F)に出走。130ポンドを背負いながらも2着シーニーンに頭差で勝利を収め、3歳シーズンを22戦15勝の成績で終えた。米年度代表馬及び米最優秀3歳牡馬の座はいずれもボールドルーラーに譲ったが、芝競走で4戦全勝の成績が評価され、米最優秀芝馬に選ばれた。また、この年の獲得賞金総額は60万383ドルで、ボールドルーラーの41万5160ドルや、ギャラントマンの29万8280ドルを大きく上回るものだった。
競走生活(4歳前半)
4歳時は1月のサンフェルナンドS(D8.5F)から早くも始動。ここでもシーニーンが対戦相手となったが、130ポンドを課せられた本馬が2着ザサーチャーに4馬身1/4差をつけて完勝した。次走のサンタアニタマチュリティS(D10F)では、シーニーンに加えて、ピムリコスペシャル・ローレンスリアライゼーションS・ローマーHなどを勝っていたプロミストランドも参戦してきた。しかし本馬が2着シーニーンに4馬身半差で圧勝した。マリブS・サンフェルナンドS・サンタアニタマチュリティS(現ストラブS)の3競走を総称して「ストラブシリーズ」と呼び、サンタアニタパーク競馬場における重要なイベントとして現在も続いているが、この3競走を全て制覇したのは本馬が史上初である。
次走のサンアントニオH(D9F)では130ポンドを課せられたが、前走3着のプロミストランドやデルマーダービーの勝ち馬ミスティックアイを一蹴。2着ミスティックアイに3馬身半差をつけて、世界レコードに並ぶ1分46秒8というコースレコードを計時して勝利した。次走は西海岸最大の競走サンタアニタH(D10F)となった。本馬に課せられた斤量は相変わらず130ポンドだった。対戦相手は、前年のカリフォルニアンS4着後にアーゴノートHやサンパスカルHの勝利を上乗せしていたテラング、ポーターハウスなどだったが、やはり本馬には敵わず、2番手を追走した本馬が、直線で逃げるテラングに並びかけると残り半ハロン地点で競り落とし、2着テラングに2馬身半差をつけて、1分59秒8のコースレコードを樹立して快勝した。
その後はガルフストリームパーク競馬場に向かい、ダート8.5ハロンの一般競走に出走。1分41秒6というコースレコードで駆け抜けて、ハイアリアターフカップHを勝ってきたミーティングを3馬身半差の2着に退けて圧勝した。次走のガルフストリームパークH(D10F)でも130ポンドを背負いながら、2着ミーティングに4馬身差をつけて、1分59秒8のコースレコードタイで圧勝した。
その後は西海岸に戻り、5月に隣国メキシコのアグアカリエンテ競馬場に向かい、アグアカリエンテH(D8.5F)に出走。1分41秒2という素晴らしいコースレコードを樹立して、2着ウォーマーシャルに9馬身1/4差をつける圧勝を飾った。そしてこのレースで獲得賞金総額100万ドルを突破し、サイテーション、ナシュアに続く史上3頭目の100万ドルホースとなった。
地元に戻ってカリフォルニアンS(D8.5F)に出走。ここでも130ポンドが課せられた。対戦相手は毎度御馴染みのテラング、シーニーンなどだった。しかしここでは過去に本馬に何度も敗れていたシーニーンが意地を見せて勝利し、本馬は4馬身1/4差の2着に敗れた(ただしシーニーンの斤量は109ポンドで、本馬とは21ポンドもの差があった)。次走のアーゴノートH(D8F)でもシーニーンとの対戦となった。本馬の斤量は前走からさらに増えて132ポンドとなっていたが、3番手の好位追走から、直線で逃げるハウナウ(ビングクロスビーH・デルマーH・ロサンゼルスHの勝ち馬)に並びかけて競り勝ち、鼻差で勝利を収めた。
競走生活(4歳後半)
その後はワシントンパーク競馬場に移動し、芝8.5ハロンの一般競走に出て、2着バーンバーグーに2馬身差で勝利。次走のアーチウォード記念S(T9.5F)では、チリでエルエンサーヨ賞・ラスオークスといった大競走を勝って米国に移籍してきた牝馬アイシャが挑んできたが、本馬が2着トールチーフに2馬身半差で勝利した。そして今度はアーリントンパーク競馬場に向かい、ウォーレンライト記念S(D9F)に出走した。ここでも130ポンドを課せられた本馬は、ゴール直前で捕まってバーンバーグーの頭差2着と惜敗した。次走のローレンスアーマー記念S(T9F)では、ウィザーズS・アーリントンクラシックSなどを勝ちサバーバンHでボールドルーラーの2着してきたクレムとの顔合わせとなった。本馬にはやはり130ポンドが課せられたが、直線入り口3番手から、20ポンドのハンデを与えたクレムを着実に追い詰め、ゴール前で計ったように鼻差かわして勝利。勝ちタイム1分48秒4はコースレコードだった。
次走のエクワポイズマイルH(D8F)では131ポンドを課せられた。対戦相手は、前年のホーソーン金杯2着後にクラングH・マートルウッドH・デトロイトSを勝っていた前年の同競走の勝ち馬スウォーンズサン、トレントンH・ワイドナーH・ガルフストリームパークHの勝ち馬バーズタウンなどだった。しかしスウォーンズサン相手にこの斤量では厳しかったのか、勝ったスウォーンズサンから4馬身差をつけられた5着と、3歳3月のサンバーナーディノH以来久々に着外に敗れた。しかし次走のアーリントンH(T9.5F)では130ポンドを背負いながらも、クレム、ワシントンバースデイH2回・サンフアンカピストラーノ招待H・ディキシーH・サンガブリエルHを勝っていた前年の同競走3着馬セントヴィンセントを一蹴し、2着クレムに2馬身1/4差をつけて勝利した。131ポンドを背負って出たワシントンパークH(D8F)では、アメリカンダービー・ガーデンステートSの勝ち馬ナディアには先着したものの、21ポンドのハンデを与えたクレムに3馬身1/4差をつけられて2着に敗れた。
アーリントンパーク競馬場を後にした本馬はそのまま米国東海岸に向かい、まずはアトランティックシティ競馬場芝8.5ハロンの一般競走に出走。セントヴィンセントを2馬身差の2着に退けて勝利した。130ポンドを背負って出た次走のユナイテッドネーションズH(T9.5F)では、前年の本馬の勝ち時計より1秒6も速い1分54秒6のコースレコードで駆け抜けたクレムの半馬身差2着に惜敗した。次走のウッドワードS(D10F)では、クレム、ナディア、ディスカヴァリーH・ジェロームH・マンハッタンHなどの勝ち馬リニーグドなどが対戦相手となったが、定量戦だったので本馬の勝利は揺るがないはずだった。ところが結果はクレムが勝ち、本馬は17馬身差をつけられた5着に敗退。
しかし次走のホーソーン金杯(D10F)では、前年自身が出したコースレコードを0秒4更新する1分59秒8のタイムで走破して、2着スウォーンズサンに2馬身1/4差をつけて快勝。この年7回目のレコード樹立を果たし、2連覇を達成した。このレースで本馬の獲得賞金総額は133万6489ドル(原田俊治氏の「新・世界の名馬」には133万6364ドルとあるが誤り)に達し、1956年にナシュアが樹立した128万8565ドルを更新して、北米歴代賞金王の座に就いた。4歳時の成績は20戦14勝で、米最優秀芝馬だけでなく、米年度代表馬と米最優秀ハンデ牡馬のタイトルも獲得した。
競走生活(5歳前半)
5歳時も現役を続行し、まずは1月に地元サンタアニタパーク競馬場でサンカルロスH(D7F)に出走。しかしここでは132ポンドを課されてしまい、17ポンドのハンデを与えたウィルロジャーズS・マリブSの勝ち馬ヒルズデールに頭差屈して2着に敗れた。ヒルズデールは、次走のサンタアニタマチュリティSも勝ち、前年の本馬に続く史上2頭目のストラブシリーズ完全制覇を達成したばかりか、その後もサンアントニオH(世界レコード)・ロサンゼルスH・アーゴノートH・カリフォルニアンS・アメリカンH・ハリウッド金杯などを勝ちまくってこの年13戦10勝2着3回という素晴らしい成績を残す事になる。20ポンドのハンデを与えたサンディエゴH・ギャラントフォックスH・ナッソーカウンティH・イングルウッドHの勝ち馬エディーシュミットには先着しているから、本馬の走り自体は決して悪くなかった。
次走のサンマルコスH(T10F)では、そのエディーシュミットを全く相手にしなかった。132ポンドを背負いながらも2着エディーシュミットに5馬身差をつけて逃げ切り圧勝。勝ちタイム1分58秒4は全米レコードだった。比較的速いタイムが出やすいとされるサンタアニタパーク競馬場の芝コースではあるが、132ポンドを背負って距離10ハロンをこのタイムで走れる馬は今日でもなかなかいないはずである。
次走のワシントンバースデイH(T12F)では、過去最高となる134ポンドの斤量が課せられた。このレースはかなり国際色豊かであり、亜国出身馬であるアニサド(後のサンマルコスH勝ち馬)、仏国出身馬で主に英国で走りオータムブリーダーズSに勝っていたアオランギ、そして日本から長期遠征に来ていた東京優駿・天皇賞秋・有馬記念・カブトヤマ記念・目黒記念春・東京杯・日本経済賞・毎日王冠・目黒記念秋の勝ち馬ハクチカラなどが出走していた。スタートが切られると出走馬中最軽量の109ポンドだったハクチカラが先行して向こう正面で先頭に立った。好位を追走した本馬は三角手前でハクチカラに迫ったのだが、ここで大きく失速。レースは単勝オッズ45.7倍の伏兵扱いだったハクチカラが2着アニサドを首差抑えて逃げ切り、本馬はハクチカラから何と30馬身差もつけられた16着最下位に敗れた。敗因は斤量差だけでなく、本馬にとって不得手な重馬場になっていた事、レース中に後突を起こして裂蹄を発症していた事も挙げられている。あと、本馬にとっては生涯初めて10ハロンを越える距離のレースであった事も影響しているかもしれない(もっとも、チャールズ・ハットン氏は「ラウンドテーブルの体型からすればスタミナ不足の指摘は誤りだと思います」と述べている)。理由はどうあれ、これでハクチカラは米国のステークス競走を勝った史上初の日本産馬(筆者注:ハクチカラを日本で手掛けていた尾形藤吉調教師は遠征に同行しておらず、ハクチカラは米国のロバート・L・ウィーラー調教師に委ねられていたから日本調教馬とは言い難い)となるという栄誉を手にした。この旨は海外の資料でも特記されており、46年後の2005年にシーザリオがアメリカンオークスを勝ったのが、日本で産まれて日本を本拠地とした馬による米国のステークス競走制覇の2例目であると書かれている。
競走生活(5歳後半)
本馬は裂蹄の治療のためにしばらく休養し、次走は6月にワシントンパーク競馬場で行われたサイテーションH(D8F)となった。130ポンドを背負っての出走だったが、2着エトニアンに首差ながらも1分33秒4のコースレコードを樹立して勝利した。次走はワシントンパーク競馬場芝8.5ハロンの一般競走だった。このレースは馬券が発売されないエキシビションであり、馬券的妙味のために本馬に重い斤量を課す必要も無かった。その結果、本馬が馬なりのまま2着オンザジョブに10馬身差をつけて圧勝した。なお、このレースと前走のサイテーションHに限り、3歳当初まで本馬の主戦だったブルックス騎手が騎乗している。
続いて出たスターズ&ストライプスH(T9F)では、132ポンドを背負いながらも、この年のマンノウォーSを勝つテューダーエラやケンタッキーダービー3着馬ヌーレディンなどを一蹴。2着ヌーレディンに3馬身1/4差をつけて1分47秒2の全米レコードで快勝した。次走のエクワポイズマイルH(D8F)でも132ポンドが課せられた。しかし生憎とこのレースは重馬場になってしまい、ベタービーの5馬身差3着に敗れた。しかし翌週に出走したクレムマッカーシーH(T9F)では、前走と同じ132ポンドで重馬場でのレースとなったにも関わらず、2着テューダーエラに首差で勝利した。さらに翌週に出たアーリントンH(T9.5F)では馬場は乾いてくれたが、斤量は相変わらずの132ポンドだった。しかし四角途中で先頭に立つと、追い上げてきた2着マナサスを頭差抑えて、1分53秒4の全米レコードを樹立して2連覇を達成した。次走のワシントンパークH(D9F)では、アーリントンクラシックS・アメリカンダービーを勝ちプリークネスSで3着していた3歳馬ダンスが本馬に挑んできた。しかし132ポンドを背負っていた本馬がダンスを6馬身半差の2着に切り捨て、1分47秒2のコースレコードを計時して完勝した。
東海岸に出てきて参戦したユナイテッドネーションズH(T9.5F)では、過去最高となる136ポンドを課せられた。それでも2着ヌーレディンに1馬身1/4差で勝利を収め、同競走2年ぶりの勝利を挙げた。そして前年惨敗の雪辱を期してウッドワードS(D10F)に出走した。このレースには、この年初めのサンカルロスHで本馬を破った後に快進撃を続けていたヒルズデールに加えて、ベルモントS・メトロポリタンH・モンマスH・トラヴァーズSを勝ってきた3歳最強馬ソードダンサーも出走していた。前年と異なり良馬場であり、本馬にとってはその実力を存分に発揮できる状況のはずだった。しかし4頭立てにも関わらずハイペースとなってしまい、それに巻き込まれた本馬は、ソードダンサーとヒルズデールの2頭に差されて、勝ったソードダンサーから1馬身3/4差の3着に敗れた。
次走のマンハッタンH(D13F)では、英国から米国に移籍してきてサバーバンH・サラトガHを勝つなど頭角を現し始めていたボールドイーグルとの顔合わせとなった。本馬とボールドイーグルの2頭に共通しているのは、芝もダートも問わずに走れる事だったが、2頭の最初で最後の対戦はダート競走だった。斤量は本馬が毎度御馴染みの132ポンドで、ボールドイーグルは122ポンドと、10ポンドの差があったのだが、本馬がボールドイーグルを1馬身差の2着に抑えて勝利した。勝ちタイム2分42秒6はコースレコードだった。次走のジョッキークラブ金杯(D16F)では、ソードダンサー、マンノウォーSを勝ってきたテューダーエラなどとの対戦となった。しかしここではソードダンサーが圧倒的な走りを披露して直線独走で圧勝。本馬は7馬身差の2着に敗れてしまい、このレースを最後に5歳時14戦9勝の成績で引退した。この年の米年度代表馬の座はソードダンサーに譲ったが、3年連続の米最優秀芝馬と2年連続の米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた。獲得賞金総額174万9869ドルは、2位のナシュアに46万ドル以上の差をつけ、米国競馬史上断然の1位になった。
競走馬としての評価と特徴
最初に述べたように、本馬は米国競馬史上最も偉大な芝馬であると米国の各種資料に書かれている。確かに芝競走では17戦15勝と卓越した成績を残している(敗れたのは、クレムの半馬身差2着に敗れたユナイテッドネーションズHと、ハクチカラが勝ったワシントンバースデイHのみ)。しかし本馬の現役時代における芝競走ははっきり言ってレベルが低かった。現在でもダート競馬が主流である米国において芝競走の格はダート競走より下であるが、本馬の現役当時の格差はもっと顕著だった。米最優秀芝馬なるタイトルが創設されたのは1953年で、本馬が産まれる前年のことだった。そんな芝路線で勝ち続けたからと言って、果たして米国競馬史上最も偉大な芝馬と言えるのかとも思える。
ただ、ここで留意すべきなのは、本馬の評価は米国競馬史上「最強の」芝馬ではなく、あくまでも米国競馬史上「最も偉大な」芝馬である事である。かつて名牝リグレットがケンタッキーダービーに出走したために同競走の価値が大幅に向上したのと同じように、ダート競走でも大活躍した本馬が芝競走にも頻繁に出て大活躍したために、米国競馬界における芝競走の地位は上昇に転じることになった。
本馬の競走馬引退後しばらくは、どちらかと言えばダート競走で行き詰った馬や欧州で行き詰った馬が走る競走、又はダート路線の一流馬や欧州(特に仏国)の一流馬の草刈場としての地位に甘んじていた米国芝路線だが、そんな状況下で登場したジョンヘンリーが芝競走をメインに活躍し、ジョンヘンリーの競走生活晩年に創設されたブリーダーズカップにおいてBCターフやBCマイルといった芝競走が整備された。そして2012・13年と2年連続でエクリプス賞年度代表馬に選ばれたワイズダンの出現により、押しも押されもしない米国最強馬の座に芝馬が君臨するに至ったのである。
そのため、米国芝路線は、本馬が基礎を築き、ジョンヘンリーがそれを固め、そしてワイズダンの代で頂点を極めたという形になっており、その点においては米国芝路線の繁栄のきっかけを作った本馬が米国競馬史上「最も偉大な」芝馬であるという評価は的を射ている事になる。
本馬が勝つときは、レース序盤は馬群の好位につけて直線で抜け出すという優等生的なものが多かった。気性面ではかなりメリハリが効いており、平素は人間に従順で落ち着いた馬だったが、いざレースに出ると凄まじいまでの闘争心を発揮したという。モルター師は「ラウンドテーブルは勇敢で頑丈な馬でしたし、非常に扱いやすい馬でした。彼こそが私が今まで見てきた中で最も偉大な馬でした」と評している。チャールズ・ハットン氏も「レース前のパドックでは常に冷静沈着でしたが、レースが始まると一変しました」と評している。レースではあまりにも闘争心を剥き出しにするために、それを抑えるためにブリンカーを装着している事が多かった。なお「新・世界の名馬」には、「人に反抗する傾向はあまりなかったが、現役当時からかなり気性が激しかったのは事実で、種牡馬になってからはなぜか自分の脇腹に噛みついて傷つける、いわゆる身食いがだんだんひどくなり、金網で作った口籠を着けられている事が多かった」と書かれているのだが、本馬の気性が激しかったとしている海外の資料は皆無であり、種牡馬時代の本馬を捉えた映像でも口籠を着けられている場面は1度も無かったから、おそらく「新・世界の名馬」の説は誤りである。
血統
Princequillo | Prince Rose | Rose Prince | Prince Palatine | Persimmon |
Lady Lightfoot | ||||
Eglantine | Perth | |||
Rose de Mai | ||||
Indolence | Gay Crusader | Bayardo | ||
Gay Laura | ||||
Barrier | Grey Leg | |||
Bar the Way | ||||
Cosquilla | Papyrus | Tracery | Rock Sand | |
Topiary | ||||
Miss Matty | Marcovil | |||
Simonath | ||||
Quick Thought | White Eagle | Gallinule | ||
Merry Gal | ||||
Mindful | Minoru | |||
Noble Martha | ||||
Knight's Daughter | Sir Cosmo | The Boss | Orby | Orme |
Rhoda B. | ||||
Southern Cross | Meteor | |||
Resplendent | ||||
Ayn Hali | Desmond | St. Simon | ||
L'Abbesse de Jouarre | ||||
Lalla Rookh | Hackler | |||
Lady Gough | ||||
Feola | Friar Marcus | Cicero | Cyllene | |
Gas | ||||
Prim Nun | Persimmon | |||
Nunsuch | ||||
Aloe | Son-in-Law | Dark Ronald | ||
Mother in Law | ||||
Alope | Gallinule | |||
Altoviscar |
父プリンスキロは当馬の項を参照。
母ナイツドーターは英国王ジョージⅥ世の生産・所有馬。競走馬としては英国で走り4戦3勝だった。競走馬引退後は英国で繁殖入りしていた。ナイツドーターが8歳のとき、クレイボーンファームの創設者アーサー・ボイド・ハンコック氏は繁殖牝馬を入手するために英国ニューマーケットを訪れていた。彼の目的はハイペリオン牝駒のハイドレンジアを買うことにあり、他の馬を買う予定は無かったらしい。しかしナイツドーターを見かけたハンコック氏は一目惚れしてしまい、1万800ドルでナイツドーターを購入してクレイボーンファームに連れてきたのだった。繁殖牝馬としては優秀で、本馬の半姉ラヴゲーム(父ビッグゲーム)【キングスクレアS】、全妹モナーキー【アーリントンラッシーS】なども産み、1959年にはケンタッキー州最優秀繁殖牝馬に選ばれている。息子の本馬も33歳まで生きた長寿馬だったが、ナイツドーターもやはり33歳まで生きた長寿馬だった。
ナイツドーターの牝系子孫はかなり発展している。本馬の半姉カブハント(父フォックスハンター)の孫にはカドマス【フォルス賞・アルクール賞】、日本で走ったドロッポロード【クモハタ記念・中山金杯・東京新聞杯】、玄孫にはジョンズコール【ソードダンサー招待H(米GⅠ)・ターフクラシック招待S(米GⅠ)】がいる。また、前述の本馬の半姉ラヴゲームの娘ナスマハールは素晴らしい繁殖牝馬で、テル【ウィルロジャーズS・アーゴノートS・ハリウッドダービー・ヴォランテH】、ベーハ【デルマーオークス・リンダヴィスタH】、ターキッシュトルーザース【サンタイネスS・サンタスサナS・レイルバードS・ハネムーンH・プリンセスS・デルマーオークス・ハリウッドオークス・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H】、クラーリアス【サンセットH(米GⅠ)】、エピドーラス【サンパスカルH(米GⅡ)・サンカルロスH(米GⅡ)・ネイティヴダイヴァーH(米GⅢ)】を産んだ。ナスマハールの孫にはバルザック【オークツリー招待H(米GⅠ)・ノーフォークS(米GⅡ)】、曾孫には日本で走ったヒカリサーメット【京都金杯(GⅢ)】がいる。本馬の半姉ヤーマス(父ワトリングストリート)の子にはソルトレイク【プライオレスS】がおり、ソルトレイクの曾孫にはビーミスト【セリマS(米GⅠ)】、玄孫世代以降にはビーミストの子であるジェットスキーレディ【英オークス(英GⅠ)】などがいる。さらに前述の本馬の全妹モナーキーの子にはファブルドモナーク【レキシントンH(米GⅡ)】、孫にはナレイト【フォールズシティH(米GⅢ)】、ダブルフェイント【ヒルプリンスS(米GⅢ)】、レギオン【デルマーバドワイザーBCH(米GⅡ)・ベルエアH(米GⅡ)】、アナウンス【エクワポイズマイル(米GⅢ)】、曾孫にはプリーチ【フリゼットS(米GⅠ)】、玄孫世代以降には、ミナルディ【愛フェニックスS(愛GⅠ)・ミドルパークS(英GⅠ)】、ヨハネスブルグ【BCジュヴェナイル(米GⅠ)・モルニ賞(仏GⅠ)・愛フェニックスS(愛GⅠ)・ミドルパークS(英GⅠ)】、リーディングライト【英セントレジャー(英GⅠ)・アスコット金杯(英GⅠ)】など活躍馬が多く出ている。
ナイツドーターの母フェオラは英1000ギニーで2着、英オークスで3着している。フェオラも非常に優秀な繁殖牝馬で、ナイツドーターの半弟キングストーン(父キングサーモン)【ヨークシャーC】、半妹ハイペリカム(父ハイペリオン)【英1000ギニー・デューハーストS】、半妹アンジェロラ(父ドナテロ)【ヨークシャーオークス・プリンセスロイヤルS】、半妹アバヴボード(父ストレートディール)【ヨークシャーオークス】と多くの活躍馬を産んだ。そしてフェオラの牝系子孫は、欧州、米国、日本、香港、豪州、南米などで活躍馬のオンパレード状態となっている。主だったところを挙げると、ナイツドーターの半姉フォレテイスト(父ウミッドウォー)の孫にラッサール【カドラン賞(仏GⅠ)・アスコット金杯(英GⅠ)】が、ナイツドーターの半姉スターリング(父ノーブルスター)の子に亜首位種牡馬シデラル、牝系子孫にソルトチャンプ【ミルギネアス大賞(亜GⅠ)・ポージャデポトランカス大賞(亜GⅠ)・ヒルベルトレレーナ大賞(亜GⅠ)・サンタモニカH(米GⅠ)】などが、ハイペリカムの孫にベンマーシャル【伊共和国大統領賞】、ハイクレア【英1000ギニー(英GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)】、曾孫にラストオブザライン【ハリウッドオークス・サンタマリアH】、ハイトオブファッション【プリンセスオブウェールズS(英GⅡ)】、玄孫世代以降に、アンフワイン【プリンセスオブウェールズS(英GⅡ)・ジョッキークラブS(英GⅡ)】、ナシュワン【英2000ギニー(英GⅠ)・英ダービー(英GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ)】、ネイエフ【英チャンピオンS(英GⅠ)・ドバイシーマクラシック(首GⅠ)・英国際S(英GⅠ)・プリンスオブウェールズS(英GⅠ)】、ウインドインハーヘア【アラルポカル(独GⅠ)】、アスク【コロネーションC(英GⅠ)・ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)】、ラフドゥード【BCフィリー&メアターフ(米GⅠ)・フラワーボウル招待S(米GⅠ)】、ココアビーチ【ベルデイムS(米GⅠ)・メイトリアークS(米GⅠ)】、ガナーティ【英1000ギニー(英GⅠ)・コロネーションS(英GⅠ)】、日本で走ったウインクリューガー【NHKマイルC(GⅠ)】、ディープインパクト【皐月賞(GⅠ)・東京優駿(GⅠ)・菊花賞(GⅠ)・天皇賞春(GⅠ)・宝塚記念(GⅠ)・ジャパンC(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】、ゴルトブリッツ【帝王賞(GⅠ)】などが、アンジェロラの子にオリオール【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・コロネーションC】が、アバヴボードの牝系子孫にペブルス【英1000ギニー(英GⅠ)・エクリプスS(英GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)・BCターフ(米GⅠ)】などがいる。→牝系:F2号族②
母父サーコスモはオービーの後継種牡馬ザボスの直子で、ジュライC・リブルデイルS勝ちなど11戦5勝の短距離馬。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は当初の予定どおりにクレイボーンファームで種牡馬入りした。種牡馬としても83頭のステークスウイナーを出して成功し、1972年に北米首位種牡馬に輝いた。また、同年には米国競馬の殿堂入りも果たしている。米国競馬名誉の殿堂ウェブサイトや各種資料によると、本馬の産駒数は401頭で、そのステークスウイナー率は20.6%となっている。これは本馬より先にクレイボーンファームで種牡馬入りしていたボールドルーラー(22.4%)より少し低いが、同じクレイボーンファームで後年に種牡馬入りしたミスタープロスペクター(16%)より上という素晴らしい数字である。繁殖牝馬の父としても124頭のステークスウイナーを送り出した。サートリストラムやカーリアンといった大種牡馬の母父ともなっている。
1982年に28歳で種牡馬を引退。その後の1984年にケンタッキー州を訪れた英国エリザベスⅡ世女王陛下は、本馬が30歳になってもなおクレイボーンファームで存命していることを知ると、予定を変更して本馬に会いに来た。父であるジョージⅥ世が生産したナイツドーターの息子であるという点ももちろん影響していただろうが、英国女王がわざわざ面会に訪れたというのは、稀な名誉であるとされている。1987年6月に本馬は33歳で大往生し、クレイボーンファームに埋葬された。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第17位。
日本にはデュールが種牡馬として輸入されて皐月賞馬ビンゴガルーや有馬記念馬ヒカリデュールを出した。ターゴワイスは凱旋門賞馬オールアロングや天皇賞馬レッツゴーターキンの父である。また、ポーカーはシアトルスルーやシルバーチャームの母父として著名である。ボールドルーラーと本馬は揃ってシアトルスルーの曽祖父となっているわけである。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1961 |
Baldric |
英2000ギニー・英チャンピオンS・パース賞 |
1961 |
Duel |
サラトガスペシャルS・ブリーダーズフューチュリティS・チャールズHストラブS |
1961 |
Knightly Manner |
ランプライターH・ディキシーH |
1962 |
In Zeal |
ロングフェローH |
1962 |
Respected |
サンタイネスS |
1963 |
Advocator |
カウディンS・セミノールH・トボガンH・ウエストチェスターH |
1963 |
Cabildo |
ニューオーリンズH |
1963 |
He's a Smoothie |
加プリンスオブウェールズS・加国際CSS・ハイアリアターフCH |
1963 |
Poker |
ボーリンググリーンH |
1964 |
Excalibur |
ラクープ |
1964 |
Monitor |
アーカンソーダービー |
1964 |
Tiltable |
サンバーナーディノH |
1965 |
Dignitas |
サンヴィンセントS・チャールズHストラブS |
1965 |
Morgaise |
ハリウッドラッシーS・レイルバードS・モンロヴィアH |
1966 |
Advance Guard |
イングルウッドH・サンディエゴH |
1966 |
Beau Brummel |
ガーデンステートS |
1966 |
Drumtop |
加国際CSS・ニューヨークH・エッジミアH2回・パームビーチS・ハイアリアターフCH・ボーリンググリーンH |
1966 |
Tell |
ハリウッドダービー・ウィルロジャーズS・アーゴノートS・ヴォランテH |
1967 |
Knight in Armor |
スターズ&ストライプスH・アーケイディアH |
1968 |
Crusading |
サンカルロスH(米GⅡ)・パロスヴェルデスH |
1968 |
Mr. Pow Wow |
ラウンドテーブルH |
1969 |
Bicker |
デルマーダービー・マリブS(米GⅡ)・サンフェルナンドS(米GⅡ)・ヴォランテH |
1969 |
King's Bishop |
カーターH(米GⅡ)・グランプリS・ミシガンマイル&ワンエイスH・ラウンドテーブルH・フォールハイウェイトH(米GⅢ) |
1969 |
Upper Case |
フロリダダービー・ウッドメモリアルS |
1970 |
Ponte Vecchio |
マスケットH(米GⅡ) |
1970 |
Royal Glint |
サンタアニタH(米GⅠ)・ユナイテッドネーションズH(米GⅠ)・エイモリーLハスケルH(米GⅠ)・サンバーナーディノH(米GⅡ)・アーリントンH(米GⅡ)・ホーソーン金杯(米GⅡ)・グレイラグH(米GⅡ)・トレントンH(米GⅡ)・パトリオットS(米GⅢ)・ケリーオリンピックH(米GⅢ)・サルヴェイターマイルH(米GⅢ) |
1970 |
Targowice |
エクリプス賞(仏GⅢ)・トーマブリョン賞(仏GⅢ) |
1971 |
Apalachee |
オブザーヴァー金杯(英GⅠ)・グラッドネスS(愛GⅢ) |
1971 |
Cellini |
デューハーストS(英GⅠ)・愛ナショナルS(愛GⅡ) |
1971 |
Dancealot |
セリマS(米GⅠ) |
1971 |
Flirting Around |
キングズスタンドS(英GⅠ)・グロシェーヌ賞(仏GⅢ)・モートリー賞(仏GⅢ)・サンジョルジュ賞(仏GⅢ) |
1971 |
Friendly Circle |
レアトリートS(米GⅢ) |
1971 |
Prod |
ローレンスリアライゼーションS(米GⅡ) |
1972 |
Corby |
ホーリスヒルS(英GⅢ)・リス賞(仏GⅢ) |
1972 |
Free Round |
ユジェーヌアダム賞(仏GⅡ) |
1972 |
King Pellinore |
オークツリー招待H(米GⅠ)・ガリニュールS(愛GⅡ)・ブランドフォードS(愛GⅡ)・アメリカンH(米GⅡ)・カールトンFバークH(米GⅡ) |
1973 |
Modred |
レキシントンS(米GⅡ)・ランプライターH(米GⅢ) |
1973 |
Take Your Place |
オブザーヴァー金杯(英GⅠ) |
1974 |
Artaius |
エクリプスS(英GⅠ)・サセックスS(英GⅠ)・サンダウンクラシックトライアルS(英GⅢ) |
1974 |
Banquet Table |
ホープフルS(米GⅠ)・サラトガスペシャルS(米GⅡ) |
1974 |
Brahms |
レイルウェイS(愛GⅢ) |
1974 |
Star Spangled |
サンバーナーディノH(米GⅡ) |
1976 |
Borzoi |
サンバーナーディノH(米GⅡ) |
1977 |
Refinish |
ボイリングスプリングスH(米GⅢ) |
1978 |
Last Light |
ロイヤルホイップS(愛GⅢ) |
1978 |
Lawmaker |
レイルウェイS(愛GⅢ) |
1979 |
Lamerok |
ブーゲンヴィリアH(米GⅡ)・ヴォランテH(米GⅢ) |