和名:アークル |
英名:Arkle |
1957年生 |
騙 |
鹿毛 |
父:アーカイヴ |
母:ブライトチェリー |
母父:ナイトオブザガーター |
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チェルトナム金杯を3連覇するなど圧倒的な実力を示し障害競走の本場である英愛両国において人気と実力共に最高と言われる世界競馬史上最高の障害競走馬 |
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競走成績:4~9歳時に愛英で走り通算成績35戦27勝2着2回3着3回(うち障害32戦26勝2着2回3着2回) |
障害競走の本場である英愛両国において史上最高の障害競走馬として讃えられる名馬中の名馬。
誕生からデビュー前まで
愛国ダブリン郊外のバリーマコルスタッドにおいてメアリー・アリソン・ベイカー夫人により生産された。成長すると体高は17ハンドに達したというから、体格は優れていたはずだが、幼少期の本馬は非常に頭が良く温和な性格のために人が乗り易いという以外はこれといって特徴がない馬だったという。3歳8月にセリに出品され、第2代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿の4番目にして最後の妻だったアン公爵夫人により1150ギニーという安価で購入されたが、それでもセリに出したベイカー夫人は高く売れたと言って喜んだという。
アン公爵夫人は自身がスコットランドに所有していた土地の近くにある山の名前にちなみ、本馬をアークルと命名した。愛国のトム・ドリーパー調教師に預けられ、障害競走における主戦はパット・ターフェ騎手が務めた。
競走生活(61/62シーズン)
4歳12月に愛国のマリンガー競馬場で行われた芝17ハロンの平地未勝利戦でデビューしたが、勝ち馬から8馬身差の3着に敗退。年末にはレパーズタウン競馬場で行われた芝16ハロンの平地競走に出たが、これも勝ち馬から8馬身半差の4着に敗れ、4歳時の成績は2戦未勝利となった。
5歳時は1月にナヴァン競馬場で行われた距離24ハロンのノービスハードル競走で障害競走に初出走した。ターフェ騎手鞍上の同厩馬ケルフォロ(後の愛グランドナショナル勝ち馬)が圧倒的な人気を集め、リーアム・マクローリン騎手鞍上の本馬は単勝オッズ21倍に過ぎなかったが、本馬が勝利を収めた。3月のラスコネルHハードル(16F)ではターフェ騎手と初コンビを組んで、2着ソルテストに4馬身差で快勝。しかし翌月に出走したバルブリゲンHハードル(16F)では生涯唯一の落馬競走中止となった。次走のニューHハードル(16F)も4着に敗れ、61/62シーズンの成績は4戦2勝(平地を除く)となった。
競走生活(62/63シーズン)
62/63シーズンは10月のウィーカントリーHハードル(17F)から始動して、2着キリーキーンに6馬身差で圧勝。その8日後に出走したプレジデンツHハードル(16F)も5馬身差で制したが、このレースを最後にハードル競走からスティープルチェイス競走に活躍の場を移すことになった。
翌11月にチェルトナム競馬場で行われたハニーボーンチェイス(20F)に出走すると、20馬身差で圧勝して鮮烈なチェイスデビューを飾った。その後は3か月間レースに出ず、翌年2月のミルタウンチェイス(16F)で復帰。182ポンドという酷量を背負わされたが、2着ルボルに8馬身差で圧勝した。
続いて出走したのは英国障害競走の祭典チェルトナムフェスティバルで行われるブロードウェイノービスチェイス(24F:現ロイヤル&サンアライアンスノービスハードル)だった。このレースで2着馬を20馬身ちぎった本馬は、翌年のチェルトナム金杯の有力候補として評価された。もっとも、ブロードウェイノービスチェイスの2日後に行われたこの年のチェルトナム金杯において、本馬と同厩の愛グランドナショナル勝ち馬フォートリアが、当時英国チェイス界最強の名をほしいままにしていたミルハウス(本馬とは同世代だが、本馬に先んじてチェイスに参戦していた)の前に12馬身差をつけられて2着に敗れてしまっていた。そのため、翌年のチェルトナム金杯の最有力候補はミルハウスであり、本馬はあくまで対抗馬という評価だった。ミルハウスは本馬の生涯最大の敵として、この後何度か顔を合わせる事になる。
本馬はその後もパワーズ金杯(20F)・ジョンジェームソン金杯(20F)を勝利し、62/63シーズンを7戦全勝で締めくくった。
競走生活(63/64シーズン)
63/64シーズンは10月の平地競走ドノモアプレート(T14F)から始動して5馬身差で勝利した(これが本馬の最初で最後の平地勝利)。次走のキャリーズコテージチェイス(20F)では後続を10馬身ちぎって勝利した。
続いてヘネシー金杯(26F82Y)に出走。このレースで本馬はミルハウスと初めて対戦する事になった。チェイス転向後は全戦1番人気だった本馬だが、このレースでは斤量が5ポンド重いミルハウスに1番人気の座を譲る事になった。そして結果も勝ったミルハウスから8馬身離された3着に終わり、チェイス初黒星を喫した。最後から3番目の障害において本馬が飛越に失敗して落馬寸前の状態になったのだとターフェ騎手はレース後に弁解したが、このレースは濃霧のため走っている馬の様子が観客から分かりづらかったために、「証拠が無い」「仮にそうだったとしても飛越に成功するのも障害競走馬の実力のうちだ」と批判されてしまったという。筆者が映像を見ると(濃霧には違いないが映像ではある程度明瞭に状況が映し出されている)、最後から3番目の障害直前では先頭のミルハウスと2番手の本馬の差は小さかったが、最後から3番目の障害を飛越した時に本馬がバランスを崩しているように見受けられ、その後瞬く間にミルハウスとの差を広げられた本馬は後ろの馬にも差されて3着に終わっていた。本馬の地元愛国の競馬ファンは、本馬の実力を知っていただけにこの結果に驚き、ミルハウスとは一体どれだけ強いのかと噂し合ったという。
次走のクリスマスチェイス(24F)では、2着ラヴィングレコードに2馬身差で勝利。年明け初戦のテュエステスチェイス(24F)もラヴィングレコード以下に勝ち、続くレパーズタウンチェイス(24F)では2着グレートレークスに12馬身差をつけて大勝した。
次走のチェルトナム金杯(26F130Y)ではミルハウスとの再戦となった。本馬とミルハウスの2頭を恐れた他馬陣営の多くが回避したため、レースは4頭立てで行われた。他2頭のうちの1頭パスールは4年前の同競走覇者であったが、明らかに全盛期を過ぎていたため、本馬とミルハウスの一騎打ちとなるであろう事は衆目の一致するところだった。1番人気はミルハウスで、本馬が2番人気だった。レースではミルハウスが鮮やかな飛越で先行し、本馬が時々障害で躓きながらも離されずにそれを追う展開となった。残る障害が3つとなった時点で本馬が差を詰めにかかり、ミルハウス鞍上のウィリー・ロビンソン騎手も鞭を使い始めた。しかし最終障害飛越直前には本馬が外側からミルハウスをかわして先頭に立っていた。そして最終障害を無事に越えた本馬が一気にミルハウスを置き去りにすると、最後は5馬身差をつけて圧勝。勝ちタイム6分45秒6はコースレコードを4秒も更新するものだった。以降の本馬は出走する全戦で1番人気に支持される事になる。
続く愛グランドナショナル(26F)では、本馬と他馬の実力差が大きすぎ、それまでの斤量システムでは適正なハンデ差を設定できなかったため、監督官庁が制度を変更して、強すぎる馬に関しては他馬とは異なる専用の斤量システムを適用することになった。この専用の斤量システムは、その後の愛国における本馬の出走レース全戦に適用されたのだが、本馬以外の馬に対して適用された事例は2歳年下のフライングボルトの1頭しかないそうである。この結果、本馬は他馬より35ポンドも重い168ポンドの斤量を背負う羽目になったが、それでも先頭で最終障害を飛越すると、2着ハイトオーファッションの追撃を1馬身差抑えて勝利した。その後は休養入りし、63/64シーズンの成績は8戦7勝(平地を含む)となった。
競走生活(64/65シーズン)
64/65シーズンは10月のキャリーコテージチェイス(20F)から始動して勝利。次走のヘネシー金杯(26F)ではミルハウスと3度目の対戦となった。このレースでは本馬が175ポンドのトップハンデを背負い、ミルハウスはそれより3ポンド軽い172ポンドだった。しかし結果は呆気なかった。本馬が2着フェリーボートに10馬身差をつけて圧勝し、ミルハウスはフェリーボートから18馬身差の4着に敗退したのである。
しかしそれから1週間後に出走したマッセイファーガソン金杯(21F)では、他馬より26~32ポンドも重い178ポンドという過酷な斤量も堪えたのか、フライングワイルド、ブォナノッテに敗れて3着に終わり、連勝は7で止まった。しかし、一度は完全にフライングワイルドとブォナノッテの2頭に後れを取りながら、ゴール前で競り合う2頭に1馬身差まで肉薄したレース内容はさすがと思わせるものであり、本馬の評価は下がるどころか寧ろ上がったという。その後は2か月半レースに出ず、翌年2月のレパーズタウンチェイス(24F)で復帰して勝利。
そしてミルハウスと4度目の対戦となったチェルトナム金杯(26F87Y)では、単勝オッズ1.3倍の断然人気に支持された。最後から2番目の障害を飛越した時点では本馬とミルハウスが併走していたが、ここから瞬く間に本馬がミルハウスを引き離していき、最後は2着ミルハウスを20馬身置き去りにして2連覇を達成した。レースの距離が前年より少し短かったため単純比較は出来ないが、勝ちタイム6分41秒2は前年のそれより4秒4も速かった。
次走のウィットブレッド金杯(29F18Y)では175ポンドを課せられながらも、単勝オッズ1.44倍の断然人気に支持された。スタートからしばらくは単騎先頭を走っていたが、そのうち後方からブラッシャーという馬が追い上げてきて、2頭が抜きつ抜かれつの戦いを演じ始めた。しかし最終障害を先頭で跳んだ本馬が、例によってゴール前のスパートでブラッシャーを引き離し、最後は5馬身差をつけて圧勝。64/65シーズンの成績は6戦5勝となった。
競走生活(65/66シーズン)
65/66シーズンは11月のギャラハー金杯(24F)から始動。このレースはミルハウスと5度目にして最後の対決となった。本馬の負担重量175ポンドに対して、ミルハウスは159ポンドと、16ポンドものハンデ差があったが、結果はミルハウスが保持していたコースレコードをなんと17秒も短縮した本馬が2着ロンデットに20馬身差、ミルハウスにはさらに4馬身差をつけて圧勝した。本馬とミルハウスの対戦成績は本馬の4勝1敗だった。ミルハウスの名誉のために書くと、ミルハウス自身も英国障害競馬史上指折りの強豪馬であり、本馬が英愛競馬史上最高の障害競走馬と言われるのはミルハウスとの対戦があったからこそでもある。
次走のヘネシー金杯(26F)では175ポンドを背負いながら、32ポンドのハンデを与えた2着フレディに15馬身差で勝利。続くキングジョージⅥ世チェイス(24F)にも勝利した。その後は2か月間レースに出ず、翌年3月のレパーズタウンチェイス(24F)で復帰して、2着ハイトオーファッションに1馬身半差で勝利した。
そして単勝オッズ1.1倍という同レース史上最高の単勝支持率となった次走チェルトナム金杯(26F87Y)では、レース序盤に柵に前脚をぶつけて大きく体勢を崩す場面があったが、その後は何事も無かったかのように走り続け、後続に10馬身ほどの差をつけて最終コーナーを回ると、あとは直線独走で2着ドーマントに30馬身差という記録的大差をつけて圧勝し、ゴールデンミラー、コテージレークに次ぐ史上3頭目のチェルトナム金杯3連覇を達成した(3着馬が3年後の同競走勝ち馬ワットアミス)。65/66シーズンの成績は5戦全勝だった。
競走生活(66/67シーズン)
66/67シーズンは11月のヘネシー金杯(26F)から始動。3年連続で175ポンドを背負わされた本馬は、スタートから先頭を維持し続けたが、最終障害飛越直後に、本馬より35ポンドも軽い140ポンドの軽量の恩恵により温存したスタミナを活かして一気にスパートした単勝オッズ26倍の伏兵スタルブリッジコロニストとの叩き合いに敗れて半馬身差の2着に終わり、連勝は8で止まった。スタルブリッジコロニスト鞍上のスタン・メラー騎手が自ら会心の結果と語る作戦勝ちだった。
次走のSGBチェイス(24F)では、第1障害から常に先頭を走り続け、35ポンドのハンデを与えた2着馬に15馬身差をつけて圧勝した。続いてキングジョージⅥ世チェイス(24F)に出走。他馬とは21ポンドの斤量差があったが、本馬の実力からして問題なく勝てると思われていた。しかし第2障害を飛越した際に、柵に右前脚をぶつけてしまった。その後は患部が痛かったのか、通常は飛越時に右斜めに跳ぶ本馬が、左斜めに跳びながら走り続けた。レース序盤は先頭を維持していたが、障害を飛越するごとに遅れていき、最終障害飛越時には先頭のドーマントから6馬身差をつけられていた。ここからふらつきながらも驚異的な追い上げを見せたが、ドーマントに1馬身届かず2着に敗退した。
ゴールした直後に本馬は急ブレーキをかけたかのように減速して停止した。苦悶を浮かべた表情からして、かなりの激痛が本馬を襲っている事は明らかだった。その後の検査で、蹄骨に亀裂骨折を発症している事が判明した。患部にギプスを装着して治療を受けることになり、ゴールデンミラー以来史上2頭目のチェルトナム金杯4連覇の夢は絶たれた(ちなみにゴールデンミラーはチェルトナム金杯を5連覇しているが、チェルトナム金杯が英グランドナショナルの前哨戦に過ぎなかった第二次世界大戦前の話である)。
競走馬に復帰することなく13歳で他界する
本馬の名前は既に競馬ファン以外の英国民の間にも轟いており、本馬の病状はマスコミで逐一報道され、見舞いの葉書や手紙が郵便受けに入りきらないほど殺到した。「アークル、アイルランド」と書かれただけで住所記載が無い葉書や手紙でもちゃんと本馬のところに届いた(証拠映像を筆者確認済み。日本でもハイセイコーに同様の逸話があるのは有名である)。
半年間の治療を経て骨折がとりあえず治癒したため、チェルトナム金杯4勝目を目指して調教が再開された。調教場においては本馬が躓かないように、どんな小さな石も除去された。しかし本馬の状態は上向かず、遂にレースに復帰する事は出来なかった。キングジョージⅥ世チェイスから1年10か月が経った1968年10月、アン公爵夫人は本馬の現役引退を発表した。
その後はアン公爵夫人が愛国ブライアンズタウンに所有していた牧場で、好物のりんごと西洋梨を食べながら余生を過ごし、大衆の前に姿を現す事は滅多に無かった。英国競馬の年度表彰のパレードに姿を見せたときは、観衆から割れんばかりの拍手が送られたという。アン公爵夫人は本馬が出走したレースを全て観戦したが、競馬自体は実はあまり好きではなかったようで、競走馬としてよりむしろ普通の馬として本馬を慈しんでおり、本馬も彼女の声がした時は勿論、彼女の乗る自動車の音が聞こえるだけで近寄ってくるほど懐いていたという。
しかし引退のきっかけとなった負傷が原因で、やがて本馬は脚関節の炎症(ブルセラ症という人獣共通の細菌感染症)を患い、そのうち動くことも困難になってしまった。そして1970年5月31日の午後、13歳の若さで安楽死の措置が執られた。遺体はブライアンズタウンの牧場に埋葬されたが、後にアン公爵夫人の許可を得て掘り出され、愛ナショナルスタッドに現在も本馬の骨格が展示されている。
競走馬としての評価、特徴及び人気
英国においては平地競走よりも障害競走の方が人気は高く、馬券の売り上げも英ダービーより英グランドナショナルの方が多い。そんな英国障害競走史上の最高の名馬と言われるのが本馬アークルである。日本で一番知られている英国の障害競走馬と言えばレッドラムだが、本馬は人気・実力ともにレッドラムと互角以上であった。2003年に英レーシングポスト紙が行った企画“Favourite 100 Horses”では、デザートオーキッド、レッドラム、イスタブラク、ブリガディアジェラードなどを抑えて堂々の第1位に選出された。また、英タイムフォーム社によるレーティングでは、スティープルチェイサー史上最高となる212ポンド(2位は本馬と同じくドリーパー師の管理馬で本馬の2歳年下であるフライングボルトの210、3位は2015年現在も現役競走馬であるスプリンターサクレの192、4位がミルハウスとコートスターの191)が与えられている(レッドラムのレーティングは不明。レッドラムの名を高めた英グランドナショナルはハンデ競走のためレーティングの対象外だからだと思われる。レッドラムは定量戦であるチェルトナム金杯に出走した事は無い)。
もっとも、本馬は障害を飛越する際に前脚を交差させる不思議な癖を持っており、そのために飛越に失敗する事が時々あった(ただし落馬競走中止は殆ど無かった)。最後のレースとなったキングジョージⅥ世チェイスで柵に脚をぶつけたのも、それが原因だという。本馬は飛越力よりもスピード(特に最終障害飛越後の持続力ある末脚)で勝負するタイプの馬だったようであり、スピードよりも豊富なスタミナに裏付けされた正確な飛越力で勝負するタイプだったレッドラムとは競走馬のタイプが全く異なっており、2頭を比較してどちらが実力上位だったのかを議論するのは困難である(2頭が英グランドナショナルで戦えばレッドラムが勝ったと思われ、チェルトナム金杯で戦えば本馬が勝ったと思われる)。
いずれにしても、能力・賢さ・勇敢さを全て兼ね備えた本馬は、今後二度と見ることが出来ない馬という意味で“a freak of nature(変種の生物)”と言われた。英国内にテレビが普及した後に活躍した本馬は、競馬ファンのみならず一般の英国民からも、かつてないほどの絶大な人気を得た。本馬の人気を物語る逸話は数多く、前述の「住所記載が無い手紙や葉書もきちんと配達された」他にも、「人々の間では単に“Himself”と言うだけで本馬を指す事になっていた」「飼っていた犬を亡くした少年が本馬を売ってほしいとアン公爵夫人に手紙を書いた」「本馬はギネスビールが好物で毎日2~3回は呑んでいたという冗談が流行った」「大統領のスローガンとして本馬の名前が使われた」などがある。もっとも、ギネスビールが好物だったのはどうやら事実だったようで、本馬の飼い葉桶にギネスビールを注いでいる映像が残っている。
本項の最初に記載したとおり、気性は温和で大人しく、アン公爵夫人以外の人にもよく懐き、少女であっても本馬の背中に安全に乗ることが出来た(本馬が女の子を乗せている映像が残っている)。この気性も本馬の人気を支える要因だったかもしれない。
1969年、チェルトナム競馬場において行われていたコッツウォルドチェイスが、本馬の名を冠したアークルチャレンジトロフィーに名称変更され、現在GⅠ競走として施行されている。
血統
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Darkie | ||||
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Cherry Branch | Cerasus | Cherry Ripe | ||
Felicity | ||||
Lady Peace | General Peace | |||
Clonee |
父アーカイヴはネアルコの直子だが、現役時代は未勝利に終わった。しかし母のブックローが英セントレジャー・コロネーションS・ナッソーS・ジョッキークラブS・クイーンメアリーSを勝った名牝、半兄にセントジェームズパレスS勝ち馬キャノンロー(東京優駿勝ち馬2頭の母となったイサベリーンの父)と、エクリプスS・セントジェームズパレスSを勝ったローズスカラー(名馬ブラックターキンの父)がいるという血統が評価されて種牡馬入りしていた。非常にマイナーな種牡馬だったが、本馬を生産したベイカー夫人の一家は、安い種付け料やその血統を好み、所有する繁殖牝馬にしばしばアーカイヴを交配させていたという。
母ブライトチェリーは優れた競走馬だったと資料にあるが、具体的な戦績は良く分からない。本馬の半姉チェリーバド(父マスタング)の子にコールブリッジ【愛グランドナショナル】がいるが、近親には殆ど活躍馬がおらず、特に平地競走の活躍馬は18世紀まで遡ってもほぼ皆無という牝系である。→牝系:F41号族
母父ナイトオブザガーターはサンインロー産駒で、現役成績は7戦3勝。2歳時にコヴェントリーSを圧勝したが、脚部不安に悩まされ3歳時は英2000ギニー7着の1戦のみで種牡馬となった。産駒には愛1000ギニー馬ミレディローズがいるが、むしろ障害用種牡馬として成功したようである。