ネヴァーセイダイ

和名:ネヴァーセイダイ

英名:Never Say Die

1951年生

栗毛

父:ナスルーラ

母:シンギンググラス

母父:ウォーアドミラル

激しい気性と闘争心を併せ持ち、関わった騎手や調教師に深い思い出を残した史上初のケンタッキー州産まれの英ダービー馬

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績12戦3勝2着1回3着3回

誕生からデビュー前まで

世界最大級のミシン製造会社であるシンガー・ミシン社の元社長で絵画収集家としても著名だった米国の事業家ロバート・スターリング・クラーク氏が、自身の所有する繁殖牝馬シンギンググラスを欧州に送り、当時まだ愛国で繋養されていたナスルーラを交配させた上で、ケンタッキー州に戻してジョナベルファームで誕生させた馬で、米国産馬である。

クラーク氏は本馬を自身の所有馬として米国ではなく英国で走らせる事にして、1歳になった本馬を英国に送り出した。クラーク氏は当初、ハリー・ピーコック調教師に本馬を預けようとしたが、ナスルーラ産駒に偏見を持っていたピーコック師はそれを拒否。そこでクラーク氏は、当時既に齢70歳を過ぎていた英国のベテラン調教師ジョーゼフ・ローソン師に本馬を託した。

ローソン師は、若い頃に騎手を目指していたが体重が増えたため断念し、「マントンの魔術師」ことアレック・テイラー・ジュニア調教師の元で長年調教助手として学び、1927年に師匠が引退するとマントンの厩舎を受け継いで調教師になった。そして1931・36年には英国平地首位調教師に輝くなど、20世紀中頃の英国において最も成功した調教師の1人と評されるまでになった。彼は師匠が果たした英国クラシック競走の完全制覇が夢だったが、英1000ギニーは3勝、英2000ギニーは4勝、英オークスは3勝したものの、英ダービーと英セントレジャーには勝てていなかった。64歳時の1945年には体調を崩して、医師から調教師引退を勧告された。しかし彼は引退を拒否してニューマーケットに拠点を移し、夢を叶えるべく調教師を続けていたのである。しかし、本馬は父ナスルーラに似て非常に気性が激しい馬であり、そのために走りは荒削りで安定感とは全く無縁であり、ローソン師も相当てこずったようである。

競走生活(3歳初期まで)

2歳4月にニューマーケット競馬場で行われた芝5ハロンの未勝利ステークスでデビューしたが、勝ったペンギンから9馬身差の6着に敗れた。6月にアスコット競馬場で出走したニューS(T5F)でも、勝ったハイドロジストから7馬身半差の6着と完敗。7月に同じアスコット競馬場で出走したロスリンS(T6F)を2馬身差で制して、3戦目で初勝利を挙げた。しかし同月にグッドウッド競馬場で出走したリッチモンドS(T5F)では、コヴェントリーSを勝ってきたザパイキングから4馬身差の3着に敗退。少し間隔を空けて、10月にサンダウンパーク競馬場でソラリオS(T7F)に出走したが、勝ったバートンストリートから4馬身1/4差の5着に敗退。続けて参戦したデューハーストS(T7F)では、ロイヤルロッジSの勝ち馬インファチュエイション、ボワ賞の勝ち馬で仏グランクリテリム2着のレッツフライの2頭に敗れて、勝ったインファチュエイションから4馬身半差の3着に終わった。

結局2歳時は6戦して1勝だけであり、2歳フリーハンデでは、コヴェントリーS・リッチモンドS・ジムクラックSを制したトップのザパイキングより18ポンドも低い115ポンドの評価に留まった。

本馬自身は成長しても体高15.3ハンド程度にしかならなかったというから、それほど大きい馬ではなかった。それでも2歳から3歳にかけての冬場における馬体の成長ぶりには見るべきものがあり、競走能力自体はこの休養中に大幅に向上したようである。ただしレース内容の不安定ぶりは相変わらずだった。

3歳初戦は3月にリヴァプール競馬場で行われたユニオンジャックS(T8F)となった。ここでは愛ナショナルSの勝ち馬テューダーハニーの1馬身差2着と好走したが、斤量は本馬よりテューダーハニーのほうが5ポンド重かった。そして次走のニューマーケットフリーH(T7F)では、サンフェスティヴァルの6着に沈み、英2000ギニーは回避となった。この段階では英ダービーも回避の公算が大きかったようである。

しかし5月のニューマーケットS(T10F)では、マニー・マーサー騎手を鞍上に、スタートで出遅れながらも直線鋭く追い込んで、勝ったイロープメントから半馬身差、2着ゴールデンゴッドから頭差の3着に入った。そしてこの末脚に期待した陣営は、英ダービーに急遽参戦することを決めた。

英ダービー

こうして迎えた英ダービー(T12F)では、英2000ギニー・英シャンペンS・ジュライSの勝ち馬でミドルパークS・コヴェントリーS2着のダリウス、リングフィールドダービートライアルSを勝ってきた英シャンペンS2着馬ローストンマナー、ロシェット賞・フォンテーヌブロー賞の勝ち馬で英2000ギニー2着のフェリオール、イロープメント、リングフィールドダービートライアルS2着馬ランダウ、コーンウォリスS2着馬ブルーセイル、ホーリスヒルSの勝ち馬コートスプレンダー、チェスターヴァーズを勝ってきたブルーロッド、ディーSを勝ってきたクルーンローガンなどが対戦相手となった。ローストンマナーとフェリオールが並んで単勝オッズ6倍の1番人気、ダリウスが単勝オッズ8倍の3番人気となる一方で、本馬は単勝オッズ34倍で22頭立ての10番人気という低評価だった。

本馬の鞍上には、当時18歳のレスター・ピゴット騎手の姿があった。12歳で初勝利を挙げて世間をあっと言わせたピゴット騎手だったが、この時点では一介の若手騎手に過ぎず、それも本馬の前評判の低さに一役買っていたようである。しかし後に英国競馬史上屈指の大騎手となる天才ピゴット騎手は完璧なレース運びを見せた。スタートからしばらくは中団を進み、タッテナムコーナーで先行集団に取り付いた。そして残り2ハロン地点で先行馬勢をかわすと、2着に追い込んできたアラビアンナイトに2馬身差をつけて見事優勝した。アラビアンナイトも本馬と同じ10番人気の評価であり、人気馬は、先行して粘ったダリウスがアラビアンナイトから首差の3着、1番人気の2頭は共に着外という大波乱となった。なお、単勝オッズ34倍での勝利は、英ダービー史上4番目の高配当(1898年のジェダー、1908年のシニョリネッタ、1913年のアボワユールの単勝オッズ101倍が最高)となった。

史上最年少の英ダービージョッキーとなったピゴット騎手は、最終的に英ダービーを9勝することになるが、その最初の英ダービー制覇が本馬によるものだった。また、ローソン師にとっても調教師生活27年目にして念願の英ダービー初制覇となった。ひとつ残念なのは、米国人馬主としては1914年の勝ち馬ダーバーの所有者ハーマン・B・デュリエ氏以来40年ぶりとなる英ダービー制覇を達成したクラーク氏が体調を崩してニューヨークの病院に入院中(2年後の1956年に79歳で死去)であり、本馬の勝利を生観戦できなかった事だった。

なお、米国産馬の英ダービー制覇は、1881年のイロコイ以来73年ぶり史上2頭目(ダーバーは仏国産馬)だったが、イロコイはペンシルヴァニア州産まれであり、ケンタッキー州産馬が英ダービーを勝ったのは史上初である。そのために本馬の英ダービー制覇こそが、ケンタッキー州が米国のみならず世界の馬産の中心地となる契機となったのだとする専門家も多く、米国の競馬作家ジェームズ・C・ニコルソン氏は「ネヴァーセイダイ:ケンタッキー州産まれのダービー馬、そして近代サラブレッド産業の隆盛」という本を出している。一方、エプソム競馬場に詰め掛けていた大観衆(その中には英国エリザベスⅡ世女王陛下やウィンストン・チャーチル英国首相もいた)は、格下だと思っていた米国産馬(本馬が人気薄だった理由の一端はここにもありそうである)が伝統ある英ダービーを勝った事に大きな衝撃を受けたという。

競走生活(3歳後半)

こうして数々のエポックメーキング的な勝利を挙げた本馬だったが、次走のキングエドワードⅦ世S(T12F)では、とんでもない事件を引き起こす。レースで本馬は前を走る馬に接触した影響なのか、ラッシュレイの2馬身1/4差4着に敗れたのだが、本馬は接触した馬の尻に噛み付いたのである。鞍上のピゴット騎手は本馬の制御を怠ったという事にされて、半年間の騎乗停止という重い処分を蒙った。ピゴット騎手は2度と本馬に乗ることは無く、彼にとって本馬は良くも悪くも思い出深い馬となった。

キングエドワードⅦ世Sで敗れた本馬は、夏場は全休して、秋は英セントレジャー(T14F132Y)に直行した。ここでは単勝オッズ4.33倍の1番人気に支持された。そしてレースではピゴット騎手から乗り代わったチャーリー・スマーク騎手を鞍上に圧倒的な走りを披露した。道中は馬群の中団好位につけて、6~7番手辺りで直線を向いた。そして前を行く馬達の間を巧みにすり抜けて残り3ハロン地点で先頭に立つと、後は完全な独走態勢に入った。残り1ハロン地点で後方を見やったスマーク騎手は、その後に少し本馬を追い、再び後方を振り返って他馬が遥か彼方にいるのを確認すると、本馬を減速させながらゴールイン。2着に入った英ダービー4着馬イロープメントに12馬身差という同競走史上最大となる記録的大差をつけて圧勝した。「スマークほど楽に英国クラシック競走を勝った騎手はいない」と言われたほどの楽勝だった。

英ダービーを生観戦できなかったクラーク氏はこの時はドンカスター競馬場におり、愛馬の圧勝劇を自分の目で見ることが出来た。そしてここにローソン師は師匠のテイラー師と同じく英国クラシック競走完全制覇を達成した。時にローソン師73歳であった。彼はこの3年後に調教師を引退し、1964年に83歳で死去するまでニューマーケットで余生を過ごす事になる。

本馬の方はこのレースを最後に3歳時6戦2勝の成績で競走馬を引退した。馬名の“Never Say Die”は同名のバーボンウィスキーの名前をそのまま付けたものである。しかしそれを直訳すると「決してあきらめない」という意味であり、その名のとおり非常に旺盛な闘争心と激しい気性を併せ持つ馬だった。そしてそれは本馬を育てたローソン師の生き様とも重なっているような気がする。

血統

Nasrullah Nearco Pharos Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Nogara Havresac Rabelais
Hors Concours
Catnip Spearmint
Sibola
Mumtaz Begum Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Mumtaz Mahal The Tetrarch Roi Herode
Vahren
Lady Josephine Sundridge
Americus Girl
Singing Grass War Admiral Man o'War Fair Play Hastings
Fairy Gold
Mahubah Rock Sand
Merry Token
Brushup Sweep Ben Brush
Pink Domino
Annette K. Harry of Hereford
Bathing Girl
Boreale Vatout Prince Chimay Chaucer
Gallorette
Vashti Sans Souci
Vaya
Galaday Sir Gallahad Teddy
Plucky Liege
Sunstep Sunstar
Ascenseur

ナスルーラは当馬の項を参照。本馬はナスルーラが欧州から米国に輸出される前に出した最終世代の産駒で、父の産駒唯一の英ダービー馬である。

母シンギンググラスは米国産馬だが本馬と同じく競走馬としては英国で走った。18戦7勝の成績を挙げたが、勝ったレースは下級競走のみだった。本馬以外に活躍馬を出してはいないが、本馬の半妹メドウソング(父ニルガル)の牝系子孫がそれなりに発展しており、メドウソングの孫にトリプルファースト【ナッソーS(英GⅡ)・サンチャリオットS(英GⅡ)】、さらにその子孫にレンドアハンド【伊グランクリテリウム(伊GⅠ)】、ダンカン【愛セントレジャー(愛GⅠ)】など多くのグループ競走勝ち馬が出ている。また、本馬の半姉バンボックス(父コンバット)の娘バンカが日本に繁殖牝馬として輸入され、末裔からマルチマックス【スプリングS(GⅡ)】が出ている。シンギンググラスの半姉アルテナ(父クエスショネア)の子にはポーターズヴィル【カーターH・ブルックリンH】がいる。

シンギンググラスの母ボレアルは仏国産馬で、1939年の英1000ギニー・英オークスを勝ったガラテアの半妹に当たる。ガラテアの曾孫にはプロタゴニスト【シャンペンS(米GⅠ)・ローレルフューチュリティ(米GⅠ)】、トランスワールド【愛セントレジャー(愛GⅠ)】、玄孫世代以降にはゼディテーヴ【ブルーダイヤモンドS(豪GⅠ)・チャンネルナインS(豪GⅠ)・ウィリアムレイドS(豪GⅠ)・ライトニングS(豪GⅠ)・豪フューチュリティS(豪GⅠ)】、グレイズイン【ダーバンジュライ(南GⅠ)・SAクラシック(南GⅠ)・SAダービー(南GⅠ)】などがいる。また、ボレアルの半妹イースターデイの曾孫にはジャバヘッド【グレイヴィルチャンピオンS・ターフフォンテンチャンピオンS・ダーバンジュライ】、牝系子孫には、日本で走ったフラワーパーク【高松宮記念(GⅠ)・スプリンターズS(GⅠ)】などがいる。また、ボレアルの半妹コンフェティの子にはフェアリーフラックス【キングズスタンドS】、孫にはガーデンステート【愛オークス】などがいる。→牝系:F1号族⑤

母父ウォーアドミラルは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、体調を崩していたクラーク氏の意思により英国ナショナルスタッドに寄贈され、英国で種牡馬入りした。種牡馬としても英1000ギニー・英オークスの勝ち馬ネヴァートゥレイトや英ダービー馬ラークスパーなどを出して活躍。種牡馬成績は競走成績同様に好不調の波が激しかったが、ラークスパーが英ダービーを勝った1962年には英愛首位種牡馬に輝いている。1975年に24歳で他界し、英国ナショナルスタッドに埋葬された。

1960年代には本馬を父に持つ種牡馬が大々的に日本に輸入された。ダイハード、シプリアニ、ネヴァービート、コントライト、ラークスパー、マンオブヴィジョン、ダツパー、フイニツクスバード、アングロアメリカン、ネヴアードウエルなど計18頭である。ネヴァービートは皐月賞馬マーチスや牝馬二冠馬インターグロリアを出して4度の全日本首位種牡馬に輝き、コントライトは悲運の名馬テンポイントを、シプリアニは女傑トウメイや二冠馬ヒカルイマイを出すなど、本馬の系統は一時期日本で大いに繁栄した。しかし本馬の産駒があまりにもたくさん日本に輸出されたため、欧州では後継種牡馬が登場せず、サイアーラインを伸ばすという事に無頓着な日本でも直系は伸びなかったため、現在は本馬の直系は世界中で途絶えてしまっている。ただし、母系にネヴァービートの血を持つ馬は現在も数多く、本馬の血筋は日本にまだまだ大きな影響力を有しているとは言える。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1956

Rose of Medina

プリンセスロイヤルS

1957

Die Hard

エボアH

1957

La Fuerza

セリマS

1957

Never Too Late

英1000ギニー・英オークス・サラマンドル賞

1958

Never Say

パークヒルS

1958

Sostenuto

エボアH

1959

King Gorm

加プリンスオブウェールズS

1959

Larkspur

英ダービー

1959

Romantica

プリンセスロイヤルS

1959

Saidam

グレイラグH

1960

Never Beat

1961

Casabianca

ロイヤルロッジS・ロイヤルハントC

1961

Endless Honey

ジュライS

1963

General Gordon

チェスターヴァーズ

1966

Sea Lavender

フレッドダーリンS

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