ベイミドルトン

和名:ベイミドルトン

英名:Bay Middleton

1833年生

鹿毛

父:スルタン

母:コブウェブ

母父:ファントム

英2000ギニー・英ダービーなど6戦全勝の成績を残し、種牡馬としても後世に大きな影響を与えた19世紀英国最初の最良の馬

競走成績:3歳時に英で走り通算成績7戦7勝

誕生からデビュー前まで

後に米国の大種牡馬となる英2000ギニー馬グレンコーの生産・所有者で、後に英国ヴィクトリア女王から王室競馬の管理を任されることになる第5代ジャージー伯爵ジョージ・チャイルド・ヴィラーズ卿により生産・所有された。母コブウェブもヴィラーズ卿の生産・所有馬で、現役時代は英1000ギニー・英オークスなど無敗を誇り、“Queen of racing mares(競走馬の女王)”の二つ名で呼ばれたほどの名牝だったが、繁殖牝馬としては本馬を産む以前にそれほど活躍していなかった(ただし本馬以降には活躍馬を続出させる)。本馬は母の7番子であり、ヴィラーズ卿の専属調教師だったジェームズ・エドワーズ師に預けられた。

当時としては大柄な体高16.15ハンドの馬格を誇った本馬は、肩の筋肉が良く発達し、非常に後脚の力が強く、大きなストライドで走る馬だった。もっとも、批評家の中には、腰が弱い、背が短い、前脚の力が弱そうなどと酷評する者もいた(実際に前脚には不安を抱えていたようである)。また、若い頃の本馬は極めて気性が荒い馬で、エドワーズ厩舎の誰も本馬を乗りこなすことが出来なかった。そのためヴィラーズ卿は、自身の所有馬で何度も英国クラシック競走を勝っていた名手ジェームズ・ロビンソン騎手に、エドワーズ厩舎に行って本馬に乗ってみるように頼んだ。依頼を受けてエドワーズ厩舎に真夜中にやって来たロビンソン騎手は本馬を見て驚き、「神よ、あなたに感謝します」と言い、その場で本馬に乗ると朝までギャロップしていたという。しかし本馬を乗りこなす人間は見つかったものの、調教では真面目に走らない日々が続いた。それでもロビンソン騎手はエドワーズ厩舎の人々の助力を受けながら本馬に乗り続け、やがて本馬は真面目に走るようになった。そして、気性の悪さは抜群の闘争心へと転化されていったという。また、ロビンソン騎手は本馬の心臓の強さに気付いており、どんな距離でも息を切らすこと無く走ると本馬を評した。本馬は2歳時には公式競走に出なかったが、本馬の調教の様子を聞き知ったブックメーカーは、まだデビューしてもいない本馬の英ダービーの前売りオッズを9倍に設定したというから、かなりの評判馬だったようである。こうした経緯を経て本馬は3歳になってからデビューした。主戦は当然ロビンソン騎手で、本馬の全レースに騎乗した。

もっとも、デビュー当初の本馬には正式な名前が付けられていなかった(当時はそれほど珍しい話ではなかったとは言え、もしかしたらヴィラーズ卿は本馬にそれほど期待していなかったのかも知れない)。本馬の2歳年上の姉にネルグウィンという馬がおり、このネルグヴィンが1834年の英オークスで優勝馬プッシーのペースメーカーとして役立ったため、本馬はとりあえず“Brother to Nell Gwynne(ブラザートゥネルグウィン)”、つまり「ネルグウィンの弟」と呼ばれていた(ちなみに現在英1000ギニーの重要な前哨戦としてネルグヴィンSというレースがあるが、これは同名の女優にちなんで命名されたものであり、本馬の姉ネルグヴィンとは無関係である)。ただし、プッシーはヴィラーズ卿の所有馬でもエドワーズ師の管理馬でもロビンソン騎手の騎乗馬でもなかった。つまり本馬の兄や姉には当時活躍馬が余程いなかったという事になる。

競走生活(3歳前半)

デビュー戦はニューマーケット競馬場で行われたリドルズワースSというレースだったが、文字どおりの馬なりで走り、他の出走馬5頭を圧倒した。本馬に敗れた馬の中には後の英1000ギニー馬デスティニーも含まれていた。その数日後にも賞金150ポンド(50ポンドとする資料もある)のレースに出走したが、他馬が全て回避したため単走で勝利した。

それから2週間後には英2000ギニー(T8F)に出走。チェスターフィールドS・モールコームS・クリアウェルS・クリテリオンSを勝っていたエリスなど5頭が対戦相手となった。本馬が単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持され、エリスが単勝オッズ3.5倍の2番人気となった。レースでは本馬とエリスが大激闘を演じた末に、本馬が首差で勝利を収めた。レース終了後にタイムを計測していた人達は、複数の計測用時計を見て仰天した。殆どの時計が1分30秒フラットを示していたからである。このタイムはあまりに速すぎると言う事で、公式記録にはなっていない。筆者もさすがにこれは実際のタイムより速かったか、または、距離が1マイルより実は短かったか(当時の英国競馬の距離設定は結構いいかげんだった。1872年に現在のコースになった英ダービーの距離も1991年に計測し直したら本来の設定距離より10ヤード長かったというのは有名な話である)のいずれかとは思うが、本馬とエリスの2頭が驚くべきスピードを発揮したのは事実のようで、3着ジャックインザグリーン以下は大きく離されていた。ニュースポーティングマガジン紙は「これだけ速くて勇敢な馬が2頭も同時に出現することは滅多に無いでしょう」と書いた。このレースの後になって、ヴィラーズ卿はかつて自身が所有していた1825年の英ダービー馬ミドルトン(本馬の母コブウェブの叔父に当たる。本馬と同じエドワーズ厩舎所属で、優勝騎手も同じロビンソン騎手だったが、毛色は本馬と異なり栗毛だった)にちなんで、本馬を「ベイミドルトン(鹿毛のミドルトン)」と正式に命名した。

その後は英ダービー(T12F)に出走。エリスは英ダービーの登録が無かったため不参戦だったが、それでも21頭の馬が本馬に挑んできた。その中には、グラディエイター(後に名種牡馬になる。英国三冠馬グラディアトゥールの母父と言った方が分かりやすいかも)、ヴェニスン(この馬も後に名種牡馬になる)、スレイン(やはりこの馬も後に名種牡馬になる)といった、本馬がいなければ英ダービー馬になる資格十分だった馬達も含まれていた。何度かフライングスタートがあった後に始まったレースでは、ホックという馬が先頭を引っ張り、単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持された本馬は中団を進んだ。やがてホックが失速すると代わりに、英2000ギニーにも出走していた後のアスコットダービー勝ち馬ムアッジンが坂の上で先頭に立った。坂を下りながらグラディエイターやヴェニスンがスパート。本馬もこの段階では既に進出を開始しており、ムアッジン、グラディエイター、ヴェニスンに続く4番手でタッテナムコーナーを回った。前方ではムアッジンやヴェニスンとの争いを制したグラディエイターが先頭に立っていたが、ロビンソン騎手が満を持して仕掛けると、残り50ヤード地点で瞬く間にグラディエイターを抜き去り、最後はグラディエイターを2馬身差の2着に、ヴェニスンを3着に破って優勝した。この勝利に感謝したヴィラーズ卿は、ロビンソン騎手に200ポンドという当時としては相当な金額(この年の英ダービーの優勝賞金は3475ポンド)を報奨金として贈った。

競走生活(3歳後半)

続いて本馬はアスコット競馬場に向かい、バックハーストSというレースに出走。本馬は128ポンドを背負って出走したが、119ポンドのムアッジン相手に馬なりのまま勝利した。秋シーズンの本馬は英セントレジャーには参戦しなかった。理由としては当時まだ英国三冠路線が確立していなかった(ウエストオーストラリアンが史上初の英国三冠馬になったのは1853年)事が理由として挙げられる事が多いが、英セントレジャーは英国最古のクラシック競走で当時の権威は非常に高く、英国三冠路線が確立していようがいまいが出走するのが常識的であり、本馬が参戦しなかったのは別の理由があると筆者は考えている(筆者が考える理由としては、本馬にあまり期待していなかったヴィラーズ卿が登録をしていなかった、脚部不安を抱えていたために出走できなかった等が挙げられる。あと、後述するようにヴィラーズ卿は英セントレジャーを嫌っていたのではないかと思わせるふしもある)。

いずれにしても英セントレジャーを見送った本馬は、10月にニューマーケット競馬場で行われたグランドデュークマイケルSに出走した。このレースには、英セントレジャーを2馬身差で快勝していたエリスも出走していた(全くの余談だが、英セントレジャーに参戦するためにエリスは馬運車に乗ってドンカスター競馬場に向かっており、これは馬運車が使用された世界競馬史上最初の例の1つであると言われている)。当初は本馬とエリスの2頭以外にも計21頭が登録していたが、この2頭が参戦すると聞いた他馬陣営は全て回避してしまい、2頭立てとなった。レースは当初スローペースで進んだが、坂の登りで本馬が我慢しかねたようにスパートした。後方からエリスが騎手の鞭乱打に応えて必死に追ってきたが、ロビンソン騎手が本馬に対して最初で最後の鞭を1回だけ使うと、本馬は悠々とエリスの追撃を封じ、1馬身差で勝利した。英2000ギニー時点における2頭の評価にはそれほど差が無かったが、このレースにおいて本馬が披露した速度と力強さはエリスを大きく上回るものであり、この段階で2頭の優劣は決した。

次走はニューマーケット競馬場で行われた、ムアッジンとの300ギニーマッチレースとなった。本馬の斤量は124ポンド、ムアッジンの斤量は111ポンドだったが、筆者が参考にした資料の言葉をそのまま借りると「途方もない容易さ(with ridiculous ease)」で本馬が勝利した。このレースの後、本馬はエリスの所有者だった第4代ポートランド公爵ジョージ・ベンティンク卿により4000ギニーで購入された。ベンティンク卿は本馬でアスコット金杯を勝つ意思を持って購入したのだが、残念ながら本馬は前脚の不安(腱の炎症とも蹄の骨折とも伝えられている)を発症してしまい、ベンティンク卿の元では一度もレースに出ることなく現役を引退した。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第15位にランクインした。

血統

Sultan Selim Buzzard Woodpecker Herod
Miss Ramsden
Misfortune Dux
Curiosity
Alexander Mare Alexander Eclipse
Grecian Princess
Highflyer Mare Highflyer
Alfred Mare 
Bacchante Williamson's Ditto Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Arethusa Dungannon
Prophet Mare
Mercury Mare Mercury Eclipse
Tartar Mare
Herod Mare Herod
Folly
Cobweb Phantom Walton Sir Peter Teazle Highflyer
Papillon
Arethusa Dungannon
Prophet Mare
Julia Whiskey Saltram
Calash
Young Giantess Diomed
Giantess
Filagree Soothsayer Sorcerer Trumpator
Young Giantess
Golden Locks Delpini
Violet
Web Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella

父スルタンはグレンコーの項を参照。

母コブウェブは、前述のとおり本馬と同じヴィラーズ卿の生産・所有馬で、やはりエドワード厩舎の所属馬だった。競走馬としては3歳時のみ走り、英1000ギニー・英オークスなど4戦全勝の成績を残した(3歳時のみ走り英国クラシック競走2勝を含めて全勝という点で本馬とは類似点がある)。繁殖牝馬としては、前述のとおり当初こそ活躍馬を出せなかったが、最終的には超一流の繁殖牝馬となった。産駒には、仏ダービー馬3頭の父となった本馬の半兄ヤングエミリウス(父エミリウス)、全弟アクメット【英2000ギニー】、半妹クレメンティナ(父ヴェニスン)【英1000ギニー・ナッソーS】などがいる。クレメンティナの牝系子孫の発展度は凄まじいほどで、とてもここには挙げきれない。とりあえず代表例として、クレメンティナから最も近い大物である玄孫のパラドックス【英2000ギニー・デューハーストS・パリ大賞・サセックスS・英チャンピオンS】、それにクレメンティナから9代目に当たる米国最高の名牝系の祖ラトロワンヌの名前を挙げておく事にする。

コブウェブの半妹にはシャーロットウェスト(父トランプ)【英1000ギニー】、半弟にはリドルズワース(父エミリウス)【英2000ギニー】が、コブウェブの全姉ファントムメアの子にはザプリンセス【英オークス】とイブラヒム【英2000ギニー】、曾孫にはネメシス【英1000ギニー】と、これまたここに挙げきれないほどの活躍馬を輩出した名牝系(1頭だけ挙げるなら筆者はトウショウボーイを挙げたい)の祖となったクイーンバーサ【英オークス】が、コブウェブの半妹ジョアンナ(父スルタン)の孫にはザコサック【英ダービー】、コブウェブの母フィルアグリーの半弟には本馬の名の由来となったミドルトン【英ダービー】が、フィルアグリーの半妹トランポリンの子にはグレンコー【英2000ギニー・アスコット金杯】が、フィルアグリーの母ウェブの全兄にはホエールボーン【英ダービー】、全弟にはウィスカー【英ダービー】、半妹にはウィズギグ【英1000ギニー】などがおり、まさしく英国クラシック競走一家である。→牝系:F1号族②

これらの英国クラシック競走優勝馬の多くはヴィラーズ卿の生産・所有馬だが、不思議なことに英セントレジャーだけ縁が無い。ヴィラーズ卿は本馬を英セントレジャーに参戦させなかったが、彼は英セントレジャーという競走(又は同競走を施行するドンカスター競馬場)に対して何か悪印象を持っていたのではないだろうか。実際、ヴィラーズ卿の所有馬が英セントレジャーを勝った事は一度もないのである。

母父ファントムは1811年の英ダービー馬で、英首位種牡馬にも1820・24年の2回輝いた。ファントムの父はウォルトンである。なお、スルタンの母父ウィリアムソンズディットーとウォルトンは全兄弟なので、本馬の血統構成は結構な近親交配である(3×3の全兄弟クロスと書けばイメージが沸くだろう)。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ベンティンク卿がドンカスター競馬場の近郊に新設したベンティンクススタッドで1938年から種牡馬生活を開始した。初年度の種付け料は30ギニーに設定された。ベンティンク卿自身も優秀な繁殖牝馬を集めて本馬に交配させたが、健康面に問題を抱えていた産駒が多かった影響もあり、当初の産駒成績は上がらなかった。種付け料はしばらくして15ギニーに下げられ、さらに10ギニーまで下落した。しかしベンティンク卿の努力が実って、その後ようやく産駒成績が上昇し、1844年には英首位種牡馬に輝いた。胸を撫で下ろしたベンティンク卿だったが、彼は1848年に心臓発作のため46歳で急死してしまった。残された本馬は、ベンティンク卿の所有馬だった名牝クルシフィックス共々エドワード・モスティン氏に購買され、英国ハンプシャー州ストックブリッジ近郊のデインベリースタッドに移動した。翌1849年には代表産駒ザフライングダッチマンの大活躍で2度目の英首位種牡馬に輝いている。その後も本馬は活躍馬を次々に送り出した。最終的な種付け料は50ギニーまで上昇し、これは当時の英国では息子ザフライングダッチマンと並ぶ最高額だった。

しかし本馬の種牡馬成績に関しては、現役時代の強さや、交配相手の繁殖牝馬の質からすると、どちらかと言えば失敗だったと評されている(日本では失敗種牡馬だったと評されている馬でも海外では成功したと評されている事が多いから、海外における種牡馬の評価は比較的甘めであり、本馬の種牡馬成績からするとこれはかなり辛口の評価のように思える)。その原因として挙げられるのが産駒の健康問題であり、本馬の産駒には喘鳴症や脚の湾曲が発生する事がしばしばあったという。脚の湾曲は本馬の祖母の父である英セントレジャー馬スースセイヤーからの遺伝であると言われているが、喘鳴症がどこに由来するのかは不明である(本馬自身が喘鳴症を患っていたという記録は無い)。

本馬は晩年になって脚を患い、1年以上に渡る長い闘病生活を送った末、1857年11月に24歳で他界した。本馬の遺体は、長年過ごしたデインベリースタッドの馬屋の近くに埋葬された。同年に他界したクルシフィックス(本馬との間にカウルを産んでいる)も本馬の隣に埋葬された。今日も残る2頭の墓地は杭に囲まれ、周囲には花々や木々が多く植えられている。本馬は死後、19世紀に現れた最初の最良の馬にして、競走馬の壮大なる標本であると評された。

後世に与えた影響

本馬の後継種牡馬としては、ザフライングダッチマンが大成功、他にはカウルがそれなりに成功した程度で、他の後継種牡馬はことごとく失敗に終わった。しかしザフライングダッチマンの血は後世に大きな影響を与える事になる(詳細はザフライングダッチマンの項を参照)。また、本馬自身の牝駒にも名牝系を確立した馬がおり、ハリーオンノーザンダンサースペクタキュラービッドなどは本馬の牝駒から伸びた牝系から登場している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1841

All Round My Hat

ナッソーS

1843

Ennui

パークヒルS

1843

Joy

ニューS

1843

Princess Alice

英シャンペンS・ナッソーS

1844

Planet

モールコームS

1846

Ellen Middleton

ヨークシャーオークス

1846

The Flying Dutchman

英ダービー・英セントレジャー・アスコット金杯・ジュライS・英シャンペンS

1848

Aphrodite

英1000ギニー・英シャンペンS・パークヒルS

1850

Hybla

ニューS

1850

Mayfair

ヨークシャーオークス・ナッソーS・パークヒルS

1851

Andover

英ダービー・モールコームS

1851

Autocrat

ニューS

1851

The Hermit

英2000ギニー・ゴールドヴァーズ

1853

Milton

ニューS

1854

Anton

セントジェームズパレスS

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