メアジードーツ

和名:メアジードーツ

英名:Mairzy Doates

1976年生

鹿毛

父:ノーダブル

母:アヴァランチリリー

母父:ティーヴィーラーク

米国GⅡ競走クラスの馬ながら記念すべき第1回ジャパンCを日本レコードで優勝し、日本の競馬界に激震を走らせる

競走成績:2~5歳時に米日で走り通算成績33戦12勝2着5回3着4回

誕生からデビュー前まで

プレストン・W・マッデン氏とパトリック・マッデン氏の兄弟により米国ケンタッキー州において生産され、当歳時のキーンランド11月セールにおいてニューヨーク在住の美術品業者アルノ・D・シェフラー氏により8千ドルで購入された。馬名は、米国でミルトン・ドレイク氏、アル・ホフマン氏、ジェリー・リヴィングストン氏の3名の作曲家が1943年に発表したノベルティソング(日本風に言えばコミックソング)の“Mairzy Doats”にちなんでいる。米国ミッチェル・C・プレガー調教師に預けられた。

競走生活(2・3歳時)

2歳12月にアケダクト競馬場で行われたダート6ハロンの未勝利戦でデビューしたが、勝ったシックスクラウンズ(名馬チーフズクラウンの母)から9馬身1/4差をつけられた6着に敗退し、2歳時の成績は1戦未勝利となった。

3歳時は1月に前走と同コースで行われた未勝利戦に出走して、テーブルトークの1馬身3/4差2着。1週間後に出た同コースの未勝利戦では、シャーリーザクイーンの5馬身半差2着。2月にはアケダクト競馬場ダート8ハロン70ヤードの未勝利戦に出走して、2着ベルオブザバーに3/4馬身差で勝ち上がった。

それから僅か2週間後には同じアケダクト競馬場でルースレスS(米GⅢ・D9F)に出走したが、競走中止(勝ち馬アドヴァンスリーズン)。その後は少しだけ間隔を空けており、この時期にホレイショ・A・ルロ厩舎(かつてノーザンダンサーを手掛けた事で世界的に知られる)に転厩しているようである。

4月のアケダクト競馬場ダート7ハロンの一般競走で復帰したが、勝ったチェロキーフェニックスから9馬身3/4差の5着に敗退。しかし5月に出走したアケダクト競馬場ダート9ハロンの一般競走では、後のモンマスオークス3着馬ドミナントドリームを8馬身差の2着に葬り去って圧勝した。次走は6月のベルモントパーク競馬場芝8.5ハロンの一般競走となった。芝競走を走るのは初めてだったが、2着タイターに3馬身1/4差で快勝して、芝適性の一端を垣間見せた。しかし次走はダート競走のウィストフルS(D9F)となった。ここではブラックアイドスーザンS2着馬フィービィーズドンキーの4馬身差3着に敗れた。続いてガーデンシティH(D10F)に出走したが、後のフラワーボウルH2着馬ヘイベイブの6馬身半差6着と完敗した。

それでも次走はGⅠ競走初出走となる8月のアラバマS(米GⅠ・D10F)となった。ここでは勝ち馬から5馬身1/4差、2着馬から3馬身3/4差の3着に敗れたが、勝ち馬はアーリントンワシントンラッシーS・オークリーフS・ヴァニティHを勝ちフリゼットS・ハリウッドオークスで2着していた前年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬イッツインジエアで、2着馬はファンタジーS・ケンタッキーオークス・ブラックアイドスーザンS・エイコーンS・マザーグースS・CCAオークスなど8連勝中だったニューヨーク牝馬三冠馬にして後の米国顕彰馬ダヴォナデイルだったから、よく走ったほうであろう。

その後は一間隔を空けて、11月のアケダクト競馬場ダート9ハロンの一般競走に出走して、イングリッシュトライフルの頭差2着。次走のアケダクト競馬場芝8.5ハロンの一般競走は2着インビジョンに2馬身差で勝利した。12月のブッシャーH(D8F)では、ガゼルH2着・CCAオークス3着馬クロッキーの前に9馬身1/4差の7着(レディーズHで3着してきたシックスクラウンズが3着)と惨敗し、3歳時を13戦4勝の成績で終えた。

競走生活(4歳時)

4歳になった本馬は、今度はマイケル・C・ウィッティンガム調教師(サンデーサイレンスなどを手掛けたチャールズ・ウィッティンガム調教師の息子)の元に転厩して、米国西海岸を本拠地とすることになった。まずは2月にサンタアニタパーク競馬場で行われたダート8.5ハロンの一般競走から始動して、2着ライトチリーに5馬身半差で圧勝。そして3度目の芝競走となるサンタアナH(T9F)に出走した。ここでは、ディキシーH・クリサンセマムHを勝っていたザベリワン、ゲイムリーHを勝っていたシスターフッドという実績上位の2頭が出走しており、結果もこの2頭に屈して、ザベリワンの3馬身半差3着に敗れた。

次走のサンタバーバラH(米GⅠ・T10F)では、ザベリワン、シスターフッドに加えて、一般競走を3連勝してきたリラクシング(後にデラウェアH・ラフィアンHのGⅠ競走2勝を含むグレード競走5勝を挙げて翌年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬に選出。もっとも、イージーゴアの母と言ってしまった方が理解は早いかもしれない)も出走してきた。結果は上記に挙げた馬達全てに屈して、勝ったシスターフッドから2馬身3/4差の5着に敗退した。

次走はダート競走に戻ってサンタルチアH(D8.5F)となった。前走3着のリラクシングに加えて、後にミレイディHを勝つイメージオブリアリティ(名競走馬にして名繁殖牝馬のトゥソードの母)も出走してきた。結果はイメージオブリアリティが勝ち、本馬は8馬身差の4着に敗れた(リラクシングは3着だった)。

次走は再びの芝競走となるゲイムリーH(米GⅡ・T9F)となった。シスターフッド、イメージオブリアリティ、イエローリボンS・ラモナH・ハネムーンH・デルマーオークス・ウィルシャーHを勝っていたカントリークイーン、そして本馬と同じく一般競走やステークス競走で地道に走っていたウィッシングウェル(サンデーサイレンスの母)などが出走してきた。結果はウィッシングウェルが勝ち、本馬は3馬身半差の5着に敗れた。

イージーゴアの母とサンデーサイレンスの母に続けて敗れてしまった本馬の次走は、ゴールデンゲートフィールズ競馬場で行われたイエルバブエナH(米GⅢ・T11F)となった。前走4着のシスターフッドとの対戦となったが、今回は本馬がシスターフッドを6馬身差の2着に下して圧勝した。

このレース後に本馬はフロリダ州を拠点としていたジョン・W・フルトン調教師の元に転厩。しばらくはレースに出る事は無く、復帰したのはイエルバブエナHから7か月が経過した12月の事だった。復帰戦はフロリダ州コールダー競馬場で行われた芝8.5ハロンの一般競走だった。ただの一般競走ではあったが、ここには1頭の実力馬の姿があった。それは、米国の名馬主オグデン・ミルズ・フィップス氏の所有馬として欧州で走り、英1000ギニー・フィリーズマイルを勝っていたクイックアズライトニングだった。クイックアズライトニングは英1000ギニー勝利後に、英オークスで4着、コロネーションSで2着、愛オークスで5着と勝ち星に恵まれず、秋シーズンに生国の米国に戻ってきており、これが移籍初戦だった。実績では本馬よりクイックアズライトニングのほうが上位だったが、ここでは本馬がクイックアズライトニングを3馬身差の2着に退けて勝利した。4歳時の成績は7戦3勝だった。

競走生活(5歳時)

5歳時は1月のラプレヴォヤンテH(T9F)から始動した。このレースにもクイックアズライトニングが登録していたが、同競走は例年出走馬が多くて分割競走になる事が多く、この年もそうであった。そして本馬とクイックアズライトニングは別競走に出る事になった。クイックアズライトニングは第2戦で3着に敗れたが、第1戦に出た本馬のほうは2着となったボイリングスプリングスHの勝ち馬シャンペンジンに頭差で勝利した。クイックアズライトニングは同月中に1戦したが、その後間もなく早世してしまい、本馬と再び顔を合わせる機会は無かった。

一方の本馬は2月のオーキッドH(米GⅡ・T8.5F)に向かった。ここには、前年のサンタバーバラH4着後に、シープスヘッドベイH・クイーンシャーロットS・ロングアイランドH・クリサンセマムHなどを勝ち、ワシントンDC国際Sでアーギュメントの2着、サンフアンカピストラーノ招待Hでジョンヘンリーの3着など活躍していたザベリワンの姿もあった。特にロングアイランドHでは2着リラクシングを9馬身ちぎり捨てており、北米芝牝馬路線ではトップクラスの地位に立っていた。しかし結果はこの時点では無名だったハニーフォックス(後にブラックヘレンHやラモナHなどを勝っている)が勝ち、ザベリワンが1馬身半差の2着、そして本馬はハニーフォックスから8馬身3/4差の11着と惨敗した。

次走は久々のダート競走となるガルフストリームパークH(米GⅠ・D10F)となった。しかしいくら110ポンドの軽量に恵まれたといっても、牡馬相手のダート競走では分が悪く、アメリカンダービー・ドンH・フェイエットHの勝ち馬ハリーアップブルーの5馬身3/4差7着と完敗した。本馬がダート競走を走ったのはこれが最後だった。

その後は再び西海岸に移動して、3月のサンタバーバラH(米GⅠ・T10F)に出走。ここには一足先に西海岸に来ていたザベリワンの姿もあった。斤量はザベリワンの122ポンドに対して、本馬は117ポンドだった。この時点では2頭の実力差はこのくらいあったようで、結果はザベリワンが勝ち、本馬は鼻差の2着に敗れた。それでも、ラスパルマスHの勝ち馬でイエローリボン招待S2着・サンタマルガリータ招待H3着のアクズシークレット(翌年にサンタマルガリータ招待H・サンタバーバラHとGⅠ競走2勝を挙げている)、欧州で愛オークス・ヴェルメイユ賞2着などの成績を挙げた後に米国に移籍して前走パンアメリカンSを勝ってきたリトルボニー達には先着した。

次走は4月のサンフアンカピストラーノ招待H(米GⅠ・T14F)となった。いったんフロリダ州へ行ってしまったザベリワンの姿は無かったが、欧州でハードウィックS・セントサイモンS・ジョッキークラブSを勝ちベルリン大賞2着などの成績を挙げて米国に移籍してきたオブラツォヴィ、デルマーダービーの勝ち馬でチャールズHストラブS2着・サンタアニタH3着のエクスプローデッドといった強豪牡馬勢の姿があった。そして結果はオブラツォヴィが勝ち、本馬は4馬身差の5着に敗れた。

次走は前年に勝利した5月のイエルバブエナH(米GⅢ・T11F)となった。このレースにおける強敵は、ハリウッドオークス・サンタマルガリータ招待H・エルエンシノSの勝ち馬プリンセスカレンダだった。しかし本馬がプリンセスカレンダを5馬身差の2着に下して2連覇を果たした。

その後は米国東海岸に飛び、6月のニューヨークH(米GⅢ・T10F)に出走した。牝馬限定競走ではあったが、オーキッドHで本馬やザベリワンを破って勝ったハニーフォックスに加えて、ベルデイムS・アラバマS・テストS・ガゼルH・アシーニアHを勝ちスピンスターSで2着していたラヴサインといった強豪馬の姿があった。しかし本馬がラヴサインを半馬身差の2着に抑えて勝利した。

次走のマッチメイカーH(米GⅡ・T9.5F)では、ラヴサイン、サンタバーバラH4着後に出走したサンフアンカピストラーノ招待Hでは本馬より下の7着だったリトルボニー、前走5着のハニーフォックスなどが対戦相手となった。このレースから本馬の主戦はキャッシュ・アスムッセン騎手が務めることになった。当時19歳のアスムッセン騎手はまだデビューして3年目だったが、デビュー1年目の1979年には同年のエクリプス賞最優秀古馬牝馬ワヤでベルデイムSに勝つなどしてエクリプス賞最優秀見習い騎手に選ばれ、その後も1980年のエクリプス賞最優秀短距離馬プラグドニックルでヴォスバーグSを、1981年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬ウェイワードラスでマザーグースS・CCAオークスを勝つなど活躍していた将来有望な若手騎手だった。翌年に仏国に移籍して5度の首位騎手に輝く名手アスムッセン騎手の手腕は既に卓越しており、その手綱捌きで本馬が2着ハニーフォックスに1馬身1/4差で勝利した。

次走のシープスヘッドベイH(米GⅡ・T11F)では、マッチメイカーHで5着に終わっていたラヴサイン、翌々月のフラワーボウルHを勝つロケビーローズ(米国顕彰馬シルヴァービュレットデイの母)などが対戦相手となった。ここではラヴサインが勝利を収め、本馬は4馬身差の3着に敗れた。なお、勝ったラヴサインは後にベルデイムSの2連覇を果たすことになる。

本馬はその後しばらく休養し、10月にアケダクト競馬場で行われた芝8.5ハロンのハンデ競走で復帰した。しかしここではアドリバーの12馬身差7着と大敗した。次走のロングアイランドH(米GⅡ・T12F)では、ニューヨークH・シープスヘッドベイHでいずれも本馬より下の4着だったユーフラスニーの首差2着に敗れたが、前走よりは内容が良化しており、無難な結果だった。

第1回ジャパンC

さて、ここで米国から遠く離れた日本競馬の状況に関して触れなければならない。当時の日本競馬は海外競馬と比べるとレベルがかなり劣っていると思われていた。東京優駿・天皇賞秋・有馬記念などを勝利した名馬ハクチカラが1958年に米国遠征を決行したが、17戦してワシントンバースデイHの1勝を挙げるに留まった(このレースは名馬ラウンドテーブルを破ってのものだったが、斤量差を考慮すると実力による結果とは言えない)。その後は1952年に創設されていたワシントンDC国際Sに、数多くの日本馬が参戦した。天皇賞秋の勝ち馬タカマガハラ、天皇賞秋・有馬記念の勝ち馬リユウフオーレル、天皇賞春の勝ち馬スピードシンボリ、怪物タケシバオー、天皇賞春の勝ち馬メジロムサシ、天皇賞秋の勝ち馬フジノパーシアといった国内トップホースが勇躍出向いていったのだが、スピードシンボリの5着が最高と、全く勝負にならなかった。

そのため1970年代後半には、日本馬のレベルを上げなければならないという考え方が広まっていた。それには強い海外馬を日本に招待して日本馬と戦わせる必要があると思われた事から、日本初の国際招待競走としてジャパンCが創設された。そして記念すべき第1回ジャパンCが行われたのは、本馬が5歳時の、この1981年だった。

この第1回では様子見という事で欧州調教馬の招待は無かったが、米国・加国・豪州といった環太平洋地域で活躍していたトップホースの多くが予備登録していた。しかし優勝賞金6500万円と当時世界最高額(天皇賞や有馬記念と同額だが、国際競走では単独最高だった)の触れ込みだったにも関わらず、それらの馬達の大半は出走を辞退した。来日した海外馬は合計8頭。米国からは、アスムッセン騎手と共に参戦してきた本馬、本馬とは5度目の対戦となるザベリワン、仏国のGⅡ競走ドラール賞を勝って米国に移籍していたペティテートの3頭。加国からは、カップ&ソーサーS・クイーンズプレートトライアル・カナディアンダービー・マクローリンS・バンティロウレスSなどの勝ち馬でブリーダーズS2着・クイーンズプレート3着のフロストキング、ブリーダーズS・ウッドバイン招待H・コノーツC・ナイアガラHなどの勝ち馬ブライドルパース、キングエドワード金杯の勝ち馬ミスターマチョの3頭。そしてインドから来たオウンオピニオンと、トルコから来たデルシムという内訳だった(ただし、デルシムは来日後の調教中に故障を発生して本番は不出走)。

対する日本馬勢は、有馬記念・天皇賞秋・日経賞・アメリカジョッキークラブCを勝っていた前年の優駿賞年度代表馬ホウヨウボーイ、そのホウヨウボーイと前走の天皇賞秋で大激闘を演じるも2着に敗れ東京優駿と菊花賞でも2着だったため無冠の帝王と呼ばれたNHK杯・セントライト記念の勝ち馬モンテプリンス、川崎記念2連覇・浦和ゴールドカップ・日本テレビ盃・浦和記念勝ちなどの実績を引っさげて中央競馬に移籍して天皇賞秋で3着していたゴールドスペンサー、スピードシンボリが出走したワシントンDC国際Sで勝ち馬フォートマーシーから鼻差の2着だった米国の歴史的名馬ダマスカス産駒の外国産馬タクラマカン、天皇賞秋2回・有馬記念と3度の八大競走2着があった東京新聞杯の勝ち馬メジロファントム、阪神三歳S・デイリー杯三歳Sなどデビュー5連勝して一昨年の優駿賞最優秀三歳牝馬に選ばれた後は不振に陥るもこの年に北九州記念・小倉記念・朝日チャレンジCと重賞3連勝して復活していたラフオンテース、毎日王冠・牝馬東京タイムズ杯・新潟大賞典の勝ち馬ジュウジアロー、函館三歳S・京王杯オータムH2回・スプリンターズSの勝ち馬サクラシンゲキの計8頭だった。

1番人気にはザベリワンが支持された。これは海外馬勢で唯一の国際GⅠ競走勝ち馬(と言っても本馬に鼻差で勝ったサンタバーバラHの1勝のみ)であるだけでなく、前年のワシントンDC国際Sで1馬身差2着と、過去に日本馬が何度も参戦してことごとく惨敗していた同競走の好走が評価されたものだった(そのときも日本から大阪杯の勝ち馬ハシクランツが出走していたが8着に惨敗している)。しかしこの年の海外馬の面子であれば、トップクラスの日本馬なら好勝負になるのではと思われ、2~4番人気はモンテプリンス、ホウヨウボーイ、ゴールドスペンサーと日本馬が占めた。そして5番人気が本馬だったが、過去にザベリワンとの対戦成績4戦全敗の本馬は、当時の日本の常識と比べると直前調教が非常に軽かった上に、冬毛が生えて見栄えが悪かったため体調不良が囁かれており、単勝オッズは11.2倍だった。

なお、本馬の馬主シェフラー氏は日本中央競馬会に対して、馬場が堅過ぎるため水を撒くよう要求した。要求が受け入れられない場合は出走を取り消すと脅迫してきたため、これ以上招待馬の層を薄くしたくなかった日本中央競馬会は断り切れず、要求どおり馬場に水が撒かれ、良馬場発表ながら若干湿った馬場でレースは施行された。

事前予想ではブライドルパースが逃げると予想されていたが、スタートが切られると凄まじい勢いで先頭に立ったのはサクラシンゲキだった。ブライドルパースは2馬身ほど離れた2番手を進み、さらに2~4馬身ほど離れた3番手に最内枠発走のフロストキングがつけた。4番手以降はフロストキングから4~6馬身以上離れており、ホウヨウボーイが中団好位、ザベリワンがその後方で、本馬、モンテプリンス、ゴールドスペンサーなどは後方待機策を採った。ここでは明らかに距離が長いと思われていたサクラシンゲキの逃げは意外と快調で、三角でフロストキングに並びかけられながらも先頭で直線に入ると粘りこみを図った。ホウヨウボーイは反応が悪く直線入り口で後方に置かれており、直線入り口で4番手に上がったモンテプリンスも伸びを欠いていたから、日本のファン達はサクラシンゲキを応援した。しかしサクラシンゲキの頑張りは直線半ばまでで、残り300m地点で脱落。ここでフロストキングが単独先頭に立った。そこへ後方から本馬がザベリワンを上回る勢いで伸びてきた。そしてゴール前でフロルトキングを一気にかわして、1馬身差で優勝。2着フロルトキングから1馬身半差の3着にザベリワン、さらに首差の4着にペティテートが入り、日本馬はペティテートから半馬身差の5着に入ったゴールドスペンサーが最先着で、6着にホウヨウボーイ、7着にモンテプリンスという結果になった。そして本馬の勝ちタイム2分25秒3は、1976年の京都記念秋でエリモジョージが計時した2分25秒8を0秒5更新する日本レコードとなった。

日本トップクラスの馬達が、海外の一流半レベルの馬達の前に完敗を喫したこの結果に、フジテレビの盛山毅アナウンサーは「完全に外国の馬が勝ちました!日本は完全に敗れました!」と実況した。そして、日本馬は今世紀中には海外馬に勝てないという悲観論が広まる事になった(結果的にはこの僅か3年後にカツラギエースがジャパンCを優勝している)。また、本馬に乗っていたアスムッセン騎手がまだ20歳にもなっていない若者だったという点も話題になった。本馬はこのジャパンCを最後に5歳時12戦5勝の成績で引退した。

血統

Nodouble Noholme Star Kingdom Stardust Hyperion
Sister Stella
Impromptu Concerto
Thoughtless
Oceana Colombo Manna
Lady Nairne
Orama Diophon
Cantelupe
Abla-Jay Double Jay Balladier Black Toney
Blue Warbler
Broomshot Whisk Broom
Centre Shot
Ablamucha Don Bingo Serio
Lirica
Sweet Betty Challenger
Betty Dalme
Avalanche Lily T. V. Lark Indian Hemp Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Sabzy Stardust
Sarita
Miss Larksfly Heelfly Royal Ford
Canfli
Larksnest Bull Dog
Light Lark
Tumbling War Admiral Man o'War Fair Play
Mahubah
Brushup Sweep
Annette K.
Up the Hill Jacopo Sansovino
Black Ray
Gentle Tryst Sir Gallahad
Cinq a Sept

父ノーダブルは現役成績42戦13勝。サンタアニタH・ブルックリンH・メトロポリタンH・カリフォルニアンS・アーカンソーダービー・ミシガンマイル&ワンエイスH・ホーソーン金杯H2回・サンパスカルHを勝ち、アメリカンダービー・チャールズHストラブS・ガルフストリームパークH・メトロポリタンH・ハリウッド金杯・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯で2着して、1969・70年と2年連続で米最優秀ハンデ牡馬に選ばれている。種牡馬としても一定の成功を収めている。1981年には北米首位種牡馬に輝いているが、これは本馬がジャパンCで稼いだ賞金によるところが大きい。

ノーダブルの父ノホームは豪州の大種牡馬スターキングダム産駒で、豪州の名馬トドマンの全弟に当たる。豪州で豪シャンペンS・エプソムH・コックスプレート・オールエイジドSを勝った後に米国に移籍したが米国では結果を出せなかった。通算成績は41戦12勝。引退後はそのまま米国で種牡馬入りして、一定の成功を収めた。

母アヴァランチリリーは現役成績7戦未勝利。本馬の半姉ブルーブラッド(父ラウンドテーブル)の孫にミスターブルーバード【レッドスミスH(米GⅡ)】、半妹アイヴァーランチ(父サーアイヴァー)の孫にミスキン【ホベルト&ネウソングリマウジセアブラ大賞(伯GⅠ)】、ミスキンの子にパラパティバム【ピラシカーバ男爵大賞(伯GⅠ)】がいる。アヴァランチリリーの半姉ディターミンドレディ(父ディターミン)の子にはプリンセスパウト【シープスヘッドベイH2回・ニューヨークH】、プリンセスパウトの子にはアレッジド【凱旋門賞(仏GⅠ)2回】、曾孫にはテイキングリスクス【フィリップHアイズリンH(米GⅠ)】が、アヴァランチリリーの半妹フォーリングエビデンス(父プルーヴイット)の孫にはキッツィカ【フェルディナンデュフォーレ賞】いる。

アヴァランチリリーの母タンブリングの半姉ジェットガールの牝系子孫にはキップデヴィル【BCマイル(米GⅠ)・フランクEキルローマイルH(米GⅠ)・メイカーズマークマイルS(米GⅠ)・ガルフストリームパークターフH(米GⅠ)】が、タンブリングの半妹ビリーヴミーの孫にはエロキューショニスト【プリークネスS(米GⅠ)】がいる。→牝系:F2号族④

母父ティーヴィーラークはクリスエヴァートの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は米国に戻って繁殖入りした。特に活躍馬を産む事は無かったが、1戦未勝利に終わった初子の牡駒メアジーダンサー(父リファール)、不出走に終わった2番子の牡駒ハイブリッジスルー(父シアトルスルー)はいずれも血統が評価されて日本で種牡馬入りした。メアジーダンサーは成功しなかったが、ハイブリッジスルーは地方競馬の活躍馬を複数輩出している。本馬の没年は不明であるが、1998年産まれの子(ナハティガル)がいるため、この年までは生きていたはずである。

本馬の牝系子孫は現在も残っており、4番子の牝駒ハンギングヴァレー(父コックスリッジ)の孫には、コンパリート【ドスミルギネアス賞(智GⅠ)】、ディヴィナプレシオサ【タンテオデポトランカス賞(智GⅠ)・ミルギネアス賞(智GⅠ)】、アラートベイ【マシスブラザーズマイルS(米GⅡ)・シティオブホープマイルS(米GⅡ)・ブリティッシュコロンビアダービー(加GⅢ)・ブリティッシュコロンビアプレミアズH(加GⅢ)】が、9番子の牝駒ナハティガル(父ナイトシフト)の子にはエトワールノクテュルヌ【ロットハンブルグトロフィー(独GⅢ)】がいる。

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