ウィスカー

和名:ウィスカー

英名:Whisker

1812年生

鹿毛

父:ワクシー

母:ペネローペ

母父:トランペッター

英ダービー史上に残るゴール前の大激戦を制して兄ホエールボーンとの兄弟制覇を果たし種牡馬としても活躍

競走成績:3~6歳時に英で走り通算成績23戦12勝2着4回3着2回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英国ニューマーケットのユーストンホールスタッドにおいて誕生した。ユーストンホールスタッドの所有者として、父ワクシーと母ペネローペを共に繋養し、本馬の5歳年上の全兄である英ダービー馬ホエールボーンの所有者でもあった第3代グラフトン公爵アウグストゥス・ヘンリー・フィッツロイ卿は本馬が誕生する1年前に死去しており、本馬は彼の息子である第4代グラフトン公爵ジョージ・ヘンリー・フィッツロイ卿の生産・所有馬である。

父ワクシーは完璧と評されたほどバランスが取れた好馬体の持ち主だったが、本馬もまた父を髣髴とさせる馬体の持ち主で、「ほぼ完璧に近い。唯一の欠点は凹膝(側方からみた前脚の肢勢で、搾膝(さくしつ)とも呼ばれ、腕節の後面直下で屈腱部がくびれて細くなっている肢勢。屈筋腱の発育不足で、拘縮していることもあり、相馬的に重大な欠点とされている)がある事のみだ」と評された。兄のホエールボーンは背が低く、決して見栄えがする馬体の持ち主ではなかったため、兄との比較もあってか、本馬は父の特徴を最も良く受け継いでいると言われた。

本馬は父ワクシーや兄ホエールボーンなど数々の優駿を手掛け、「調教師の皇帝」の異名を取った名伯楽ロバート・ロブソン調教師に預けられた。ロブソン師は自身の管理馬を2歳戦から使う事を避ける人物であり、本馬もデビューは3歳になってからだった。

競走生活(3歳時)

3歳4月にニューマーケット競馬場で行われた100ギニースウィープSでデビューして勝利を収めた。次走は、オーヴィル産駒の無名馬(後にディンモントと命名される)との50ギニーマッチレースとなり、これもまた勝利した。引き続いて英2000ギニー(T8F1Y)に出走。しかしここではチグリスの着外に終わった。その翌日にはニューマーケットS(T8F)に出走したが、ブストーの2着に敗れた。

その後、本馬はエプソム競馬場に向かって、英ダービー(T12F)に参戦。13頭立てで行われたこの年の英ダービーは、良い意味で非常に激しかったレースとして知られている。ブストーが先手を奪って逃げ、タッテナムコーナーを過ぎて直線に入ってきてもしばらくは先頭を保っていた。そこにラファエルという馬が襲い掛かるとゴールまで残り数完歩の地点で先頭に立った。しかしここでやって来たのが、トム・グッディソン騎手が手綱を取る単勝オッズ9倍の本馬であった。本馬、ラファエル、ブストーの3頭によるゴール前の大激戦は本馬が制し、ラファエルが短頭差の2着、ブストーが3着で、他の出走馬はずっと後方だった。この勝利により本馬はホエールボーンとの兄弟英ダービー制覇を成し遂げた(ただし史上初の例ではなく5例目である)。この英ダービーの激戦はかなり印象深いものだったようで、レース後に「記憶に残る中では最良のダービーだった」「競馬場におけるあらゆる経験を積んできた人々にも充足を与えた」と評されたほどだった。

本馬の次走は10月のニューマーケットセントレジャー(T14F)だったが、ここではキノラの着外に終わった。その後もニューマーケット競馬場に留まってレースに出走。まずはイクエーターとの距離1マイルの200ギニーマッチレースを勝利した。その数日後にはオーツランドSに出走予定だったが、罰金を払って回避した。代わりにドンキーとの200ギニーマッチレースに出走して勝利。その数日後には、ニューマーケットセントレジャーで本馬に先着する2着だったサージョシュアとの300ギニーマッチレースに出走したが、今回も敗退。3歳時の成績は9戦5勝となった。

競走生活(4~6歳時)

4歳時は4月にニューマーケット競馬場で行われたポストSから始動して、イクエーターを破って勝利。その後もやはりニューマーケット競馬場でレースに出走を続けた。まずはポーラスとの距離1マイルの200ギニーマッチレースに出走して勝利。次走はサージョシュアとの300ギニーマッチレースとなり、今回は本馬が勝利した。その後は200ギニースウィープSに出走したが、ここでは1歳年上のブルボンの4着に敗れ、前年のニューマーケットセントレジャーで屈した相手であるキノラ(3着)にも先着されてしまった。その後はしばらくレースに出ず、10月に復帰。まずはポーラスとの再度のマッチレースに出走する予定だったが、ポーラスの所有者だった第3代ダーリントン公爵ウィリアム・ハリー・ヴェーン卿が罰金を払って回避した。この後、本馬はそのヴェーン卿に購入され、ヴェーン卿名義で出走を続けた。イクエーターとの200ギニーマッチレースでは、7ポンドのハンデを与えたのが影響したのか敗北。しかしその数日後に出走したスウィープSでは、この年の英1000ギニー・英オークスで共に2着していた牝馬デュエナ、ファンダンゴ、イクエーターなどを撃破して勝利した。4歳時の成績は6戦4勝となった。

5歳時は一度もレースに出なかったが、6歳時になって競馬場に再度姿を現した。まずはクレイヴンS(T8F)に出走したが、着外に終わった。次走の50ポンドサブスクリプション競走もスキムの3着に敗れた。その数日後にはニューマーケット競馬場で行われたリトルディックとの200ギニーマッチレースに出走して勝利。引き続き出走したキャノンボールとの200ギニーマッチレースにも勝利した。その翌日に出走したハンデ競走では、牡馬メリーメーカー、牝馬レオポルディーネの2頭に後れを取り、メリーメーカーの3着だった。その後はマンフレッドとの200ギニーマッチレースに出走して、相手に10ポンドのハンデを与えながらも勝利を収めた。ところで、この前年の英2000ギニーを勝った馬の名前もマンフレッドだが、本馬と戦ったのは同名異馬のようである。ちなみに前走で本馬に先着したレオポルディーネをこの一昨年の英ダービー馬プリンスレオポルドの全妹とする資料もあるが、実際にはこれまた同名異馬のようである。それはさておき、マンフレッドとのマッチレースに勝った本馬は、その数時間後に50ギニーマッチカップに出走。しかしここでは、ザフライヤーの5着に終わった。その後、10月にニューマーケット競馬場で出走したザスチューデントとのマッチレースで敗れたのを最後に競走馬を引退した。6歳時の成績は8戦3勝だった。

血統

Waxy Pot-8-o's Eclipse Marske Squirt
Hutton's Blacklegs Mare
Spilletta Regulus
Mother Western
Sportsmistress Sportsman Cade
Silvertail
Golden Locks Oroonoko
Crab Mare
Maria Herod Tartar Croft's Partner
Meliora
Cypron Blaze
Salome
Lisette Snap Snip
Sister to Slipby
Miss Windsor Godolphin Arabian
Young Belgrade Mare
Penelope Trumpator Conductor Matchem Cade
Partner Mare
Snap Mare Snap
Diana
Brunette Squirrel Traveller
Grey Bloody Buttocks
Dove Matchless
Starling Ancaster Mare
Prunella Highflyer Herod Tartar
Cypron
Rachel Blank
Regulus Mare
Promise Snap Snip
Sister to Slipby
Julia Blank
Partner Mare

ワクシーは当馬の項を参照。

母ペネローペはニューマーケットオートランズS2回・ジョッキークラブプレート・ニューマーケットキングズプレート・イプスウィッチキングズプレートなど18勝を挙げた。英ダービーと英オークスを制した名牝エレノアの同期で、エレノアにも数回勝利しており、かなりの名牝だった。繁殖牝馬としても非常に優秀で、種牡馬としても後世に大きな影響を与えた本馬の全兄ホエールボーン【英ダービー】、所謂ファミリーナンバー1号族の中核を担っている世界的名牝系の祖となった全姉ウェブ、ウェブには遠く及ばないが今世紀まで牝系を伸ばしている全姉ウィルフル、ウェブほどではないがやはり世界的名牝系の祖となった全姉ワイアー、半妹ウィズギグ(父ルーベンス)【英1000ギニー】、やはり世界的名牝系の祖となった半妹ワルツ(父エレクトン)など多くの優れた馬を産んだ。なお、ペネローペは26歳で他界するまでに13頭の産駒を残したが、ホエールボーン(Whalebone)、ウェブ(Web)、ウィルフル(Wilful)、ワイアー(Wire)、本馬ウィスカー(Whisker)、ウィズギグ(Whizgig)、ワルツ(Waltz)など、全てイニシャルがWで始まる名前が付けられている。ペネローペの母プルネラも非常に優秀な繁殖牝馬である上に、本馬の姉妹達と同様に多くの数の活躍馬を子孫から登場させているが、その辺りの詳細は既にホエールボーンの項に記載したため、本項では省略させていただく。→牝系:F1号族④

母父トランペッターはソーサラーの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は英国ヨークシャー州キャッタリック近郊の牧場で種牡馬入りしたが、すぐにヴェーン卿が所有していたラビーキャッスルスタッドという有名牧場に移動した。種付け料は15ギニーだった。本馬は英セントレジャー勝ち馬を2頭輩出するなど、スタミナ豊富な優良産駒を出して種牡馬としても活躍した。産駒の勝ち馬数は123頭に達した。1832年3月に数頭の繁殖牝馬と交配した後に20歳で他界した。

本馬の直系は、直子エコノミストから、グッドウッドC2連覇のハーカウェイ、そしてセントサイモンの母の父である名種牡馬キングトムへと続き、これらの馬を通じて後世に大きな影響を与えた。また、本馬は繁殖牝馬の父としても優秀で、本馬の牝駒及びその子孫からは多くの活躍馬が出ている。特に本馬がギブサイドフェアリーという牝馬の間にもうけたエマ、マリア、キャロライン、メイドオブルーン4姉妹は、所謂ファミリーナンバー7号族の中核となり、史上初の英国三冠馬ウエストオーストラリアンを筆頭に世界中で活躍馬を輩出した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1821

Reformer

ジュライS

1821

Swiss

英シャンペンS

1822

Memnon

英セントレジャー・アスコット金杯・英シャンペンS

1825

The Colonel

英セントレジャー・英シャンペンS

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