和名:ヘロド |
英名:Herod |
1758年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ターター |
母:サイプロン |
母父:ブレイズ |
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バイアリータークの直系を大きく繁栄させ現代のサラブレッドに対する影響力は歴史上最高とされている18世紀の名競走馬にして大種牡馬 |
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競走成績:5~9歳時に英で走り通算成績10戦6勝2着3回 |
サラブレッド三代始祖の1頭バイアリータークの直系子孫で、バイアリータークの血を現在に残した最大の功労馬。事実上は、本馬、エクリプス、マッチェムの3頭によりサラブレッドという種が形成されたと言える。
誕生からデビュー前まで
本馬を生産したのは、カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスという人物である。彼は英国王ジョージⅡ世の三男で、幼少期から勇敢で身体能力に秀でていた。そのため王族でありながら軍人となり、オーストリア継承戦争の後期では指揮官に抜擢されたが、戦術面では見るべき点は無かった。その後、スコットランドで発生した反乱軍を鎮圧した1746年のカロデンの戦いにおいて、負傷して動けない敵兵を次々殺害し、捕虜にくじを引かせて当たりを引いた者は斬首し、外れを引いた者を奴隷にしたりした。このカロデンの戦いで、スコットランドのイングランドに対する反乱は歴史上終焉したが、彼が行った残虐な行為は、スコットランドの人々の遺恨の元となり、彼は「屠殺者カンバーランド」という不名誉な渾名を付けられた(2014年にスコットランド独立の是非を問う住民投票が実施されたために、スコットランドの人々が如何にイングランドに対して反感を抱いているかが全世界に知れ渡ったが、その根底の1つにカンバーランド公爵の残虐行為があるのは否定できない)。その後、1757年に勃発した七年戦争の緒戦で敗退し、父のジョージⅡ世からも毛嫌いされた彼は、趣味の競馬と馬産のみに熱中していった。英国史上に残る悪人として現在でも忌み嫌われている彼であるが、サラブレッド生産においては本馬だけでなくエクリプスも生産しており、彼がいなければ現在の血統界は全く違ったものになっていた事も事実である。
本馬が産まれたのはカンバーランド公爵が七年戦争で敗戦した翌年の1758年であり、誕生した場所はアンソニー・スミス氏という人物が英国ノースヨークシャー州のイージングウォルド近郊にあるオウルストンに所有していた牧場(本馬の父ターターがここで種牡馬生活を送っていた)だった。額に小さな星がある以外に白い部分は無く、全身茶色の毛で覆われていた。体高は15.3ハンドと、当時の標準と比べてもあまり大きい馬ではなかったが、優れたパワーとスピード、勇敢さを兼ね備えた馬であったという。
競走生活(5~8歳時)
5歳10月にニューマーケット競馬場で行われた距離4マイルの500ギニー競走で、同じ119ポンドを背負って出走したローマンという馬を破って勝ったのが、記録に残る最初のレースである。
翌6歳時にはニューマーケット競馬場で行われた300ギニー競走で、同じ140ポンドを背負って出走したターター(本馬の父ターターの産駒で、同名異馬である)という馬を破って勝利。6月にはアスコット競馬場で行われた距離4マイルの1000ギニーマッチレースで、6ポンドのハンデを与えたトムティンカーという馬を破って勝利。10月にはニューマーケット競馬場で行われた当時の強豪馬アンティノウスとの500ギニーマッチレースに出て、3ポンドのハンデを貰って、短首差で勝利した。
翌7歳時は5月に前年と同じコースで行われたアンティノウスとの1000ギニーマッチレースに臨んで、今回も若干のハンデを貰って勝利した。10月にはニューマーケット競馬場で行われた1000ギニーマッチレースで、1ポンドのハンデを与えたアスカムという馬と戦ったが敗れた。同月に馬主のカンバーランド公爵が持病の脳血管疾患の悪化により44歳で死去したため、彼が所有していた馬はセリに掛けられて売却され(この中には当歳のエクリプスも含まれていた)、本馬はジョン・ムーア卿の所有馬となった。
8歳時にはニューマーケット競馬場で行われた1000ギニーマッチレースで、マッチェム産駒のターフという馬と戦ったが敗退。8月にはヨーク競馬場でサブスクリプションパースに出たが、レース中に鼻出血を発症して最下位に終わった。
競走生活(9歳時以降)
翌9歳時に種牡馬活動を開始した(翌1768年に初年度産駒が誕生している)が、どうやら種牡馬と競走馬の二足の草鞋を履いていたようで、繁殖シーズンが一段落した後の4月にニューマーケット競馬場で行われた500ギニー競走に出走した。ここでは、ターフやアスカムには先着したがベイマルトンという馬に敗れて2着だった。その翌5月にニューマーケット競馬場で行われたアスカムとの1000ギニーマッチレースには勝利した。記録上はこれが最後のレースである。
競走馬としての正式な引退は1770年、13歳時であると書いてある海外の資料が存在しており、これらの10戦以外にもレースに出走していた可能性が高いと思われるが公式記録には無い。ただ、エクリプスと異なり複数回敗戦しているのは確実であり、競走馬としては絶対的な存在とは言えなかった。なお、本馬が現役時代に患っていた鼻出血の持病は、本馬の子孫(ひいては今日のサラブレッド)の多くに引き継がれたのだと海外の資料にある。鼻出血で引退に追い込まれたり、そのまま死んでしまったりした馬は古今東西珍しくないが、それは本馬の遺伝子が影響しているということなのだろうか。
馬名に関して
馬名はヘロデ大王(古代ローマ帝国初期にパレスチナ地方を統治した王。歴史上の有名人物だが、新しい王(後のイエス・キリスト)がベツレヘムで誕生するとの予言を受けて、ベツレヘムの2歳以下の男児を皆殺しにした人物とされており、カンバーランド公爵同様に極めて評判は悪い)に由来する。そのため本馬も“King Herod(キングヘロド)”と表記されることも多い。むしろ当初は「キングヘロド」が正式名称であった可能性が高く、後に簡略化されて「ヘロド」になったのだと言われている。
血統
Tartar | Croft's Partner | Jigg | Byerley Turk | ? |
? | ||||
Spanker Mare | Spanker | |||
Old Morocco Mare | ||||
Sister One to Mixbury | Curwen Bay Barb | ? | ||
? | ||||
Curwen Spot Mare | Curwens Old Spot | |||
Lowther Barb Mare | ||||
Meliora | Fox | Clumsey | Hautboy | |
Miss Darcys Pet Mare | ||||
Bay Peg | Leedes Arabian | |||
Young Bald Peg | ||||
Witty's Milkmaid | Snail | Whynot | ||
Wilkinsons Bay Arabian Mare | ||||
Shields Galloway | ? | |||
? | ||||
Cypron | Blaze | Flying Childers | Darley Arabian | ? |
? | ||||
Betty Leedes | Old Careless | |||
Cream Cheeks | ||||
Confederate Filly | Grey Grantham | Brownlow Turk | ||
Grey Grantham Dam | ||||
Rutland's Black Barb Mare | Rutland's Black Barb | |||
Bright's Roan | ||||
Salome | Bethell's Arabian | ? | ? | |
? | ||||
? | ? | |||
? | ||||
Champion mare | Graham's Champion | Harpham Arabian | ||
Hautboy Mare | ||||
Darley Arabian Mare | Darley Arabian | |||
Old Merlin Mare |
父ターターはカンバーランド公爵が購入した馬で、5歳から7歳まで走り多くのレースに勝った優秀な競走馬だったらしいが、詳細な競走成績及び種牡馬成績ははっきりしていない。ターターの父パートナーは5歳から8歳まで6戦全勝だったが、10歳時に一度だけ敗戦したと言われている。マッチェム、スペクテイターの母父としても知られる。パートナーの父ジグはバイアリータークの直子だが、競走馬及び種牡馬としてのキャリアは殆ど不明である。
母サイプロンは、英国の国会議員だった第4代男爵ウィリアム・セント・クウィンティン卿の生産馬で、カンバーランド公爵が後になって購入した馬。競走馬としてのキャリアは不明である。本馬の半妹レディボーリングブローク(父スクワーラル)の子に第2回英オークス馬テトタムがいる。レディボーリングブロークは所謂ファミリーナンバー26号族全ての始祖に当たる馬で、その牝系子孫には、史上初めて英ダービー・愛ダービーを両方勝ったオービー、豪州の歴史的名馬グローミング、英セントレジャー等を勝った名長距離馬ソラリオ、全日本首位種牡馬に5回輝いたセフト(トキノミノルの父)、20世紀英国屈指の名短距離馬パッパフォーウェイ、凱旋門賞馬トランポリノ、BCクラシックを2連覇したティズナウ、日本で走ったダービーグランプリの勝ち馬マンオブパーサーなどが登場している。しかし本馬やテトタムから200年以上の歴史がある事を考慮すると、それほど活躍馬が続々出てくる牝系というわけではなく、ファミリーナンバーの中では、やはりあまり発展していない部類に入るだろう。その理由に、本馬とその直系子孫達が種牡馬として猛威を振るいすぎた影響があるのかどうかは何とも言えない。→牝系:F26号族
母父ブレイズはフライングチルダースの直子で、5歳から7歳まで走り7勝ほどしたらしい。種牡馬としては1751年の英首位種牡馬になっている。直系はサラブレッドとしては残っていないが、現存するスタンダードブレッド全ての直系として残っている。
競走馬引退後
本馬は、ムーア卿がニューマーケット近郊のニーザーホールに所有していた牧場で種牡馬となった。初年度の種付け料は10ギニーと安価だったが、初年度産駒から23戦16勝のフロリゼルを出して、種牡馬としての名声を高めた。6年目産駒からは15勝を挙げたウッドペッカーを輩出。そして7年目産駒から最高傑作のハイフライヤーを出した。本馬はウッドペッカーが4歳時にデビューした1777年に初の英首位種牡馬となり、以後1784年まで8年連続で英首位種牡馬の地位を確保した。産駒の勝ち馬数497頭は当時史上最多記録であり、産駒が獲得した賞金の総額は20万1505ポンドに達する(当時の1ポンドの価値については諸説あるが、その中で一番計算が簡単である「1ポンド=約10万円」の説を採用すると、201億5050万円になる)。産駒の活躍を受けて種付け料はやがて25ギニーに値上がりしたが、それから上昇することは無かった。ウィリアム・ピック氏という人物は“The Racing Calendar”の中において「キングヘロドは驚くほど素晴らしい馬でした。非凡な競走能力を有していただけでなく種牡馬としても素晴らしく、かつて他のどんな馬も作れなかったような競走馬の王国を築き上げました。」と評している。1780年5月12日に本馬は22歳で他界したが、死の直前まで現役種牡馬だった。
後世に与えた影響
本馬が死後5年目に英首位種牡馬の地位を明け渡した相手は、息子のハイフライヤーだった。本馬の後を継いだハイフライヤーは合計13度の英首位種牡馬に輝いた。本馬とハイフライヤーの凄まじさは同時代のエクリプスが当時史上第3位の344頭の勝ち馬を送り出した(第1位は本馬の497頭、第2位はマッチェムの354頭)のにも関わらず、1度も英首位種牡馬になれなかったほどであった。その後もハイフライヤーの直子サーピーターティーズルが10回の英首位種牡馬を獲得した。米国でもフロリゼルの息子で第1回英ダービー優勝馬のダイオメドの直系から北米首位種牡馬16回のレキシントンが出て大きな繁栄を見せた。このように本馬の直系は18世紀後半から19世紀前半にかけて世界中のサラブレッド血統界を支配した。しかしあまりにも繁栄しすぎたために血の袋小路に陥り衰退。ハイフライヤーの直系もレキシントンの直系も滅亡してしまい、現在残っている直系はウッドペッカーからトウルビヨンを経由する系統のみと、ごく僅かになっている。しかし本馬の直系種牡馬達は母系に入っても素晴らしい成績を挙げており、現在世界中で走っているサラブレッドに対する本馬の影響力はエクリプスやセントサイモンを上回る歴代最高値(血量換算)を示しているらしい。本馬がいなければ恐らくサラブレッドという品種そのものが全く違うものになっていた事だろう。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1772 |
Tuberose |
ドンカスターC |
1773 |
Woodpecker |
クレイヴンS3回 |
1774 |
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1776 |
Bridget |
英オークス |
1778 |
Faith |
英オークス |
1780 |
Maid of the Oaks |
英オークス |
1780 |
Phoenomenon |
英セントレジャー・ドンカスターC |