和名:ドクターファーガー |
英名:Dr.Fager |
1964年生 |
牡 |
鹿毛 |
父:ラフンタンブル |
母:アスピディストラ |
母父:ベターセルフ |
||
過酷な斤量などをものともせずに驚異的レコードタイムを連発した誰もが認める米国競馬史上最強の快速馬 |
||||
競走成績:2~4歳時に米で走り通算成績22戦18勝2着2回3着1回 |
斤量の重さなど関係無しに圧倒的なスピード能力を発揮し、スタートからゴールまで他馬に影をも踏ませぬ逃げ切り劇を披露して絶大な人気を誇った米国競馬史上最高の快速馬。
誕生からデビュー前まで
米国サラブレッド生産の中心地であるケンタッキー州から遠く離れたフロリダ州オカラにあるタータンファームにおいて、同牧場の所有者ウィリアム・L・マックナイト氏により生産された。マックナイト氏は世界的化学・電気素材メーカーであるミネソタ・マイニング&マニュファクチュアリング社(現在は頭文字を取ってスリーエム社に改名されている)の代表取締役だった人物である。タータンファームの所有馬として、タータンファームの競馬マネージャー兼調教師だったジョン・A・ネルド師に預けられた。
ネルド師が本馬の名前を決めるようにマックナイト氏から依頼されて考えている頃の1965年10月に、ある事件が勃発した。ベルモントパーク競馬場においてネルド師がポニーに乗っていたところ、そのポニーが突然暴れだしたために彼は落馬して頭を強打してしまったのである。最初はたいした怪我ではないと思われたのだが、しばらくして右半身が麻痺してしまった。検査の結果、脳出血(硬膜下出血)による血栓が脳を圧迫しており、生命の危機にあることが判明した。ネルド師の妻シャーロット夫人は自分の出身地であるボストンで脳外科医をしていたチャールズ・ファーガー博士に夫の手術を依頼した。そしてネルド師はファーガー博士の執刀により一命を取り留めた。病院のベッドの上でファーガー博士に感謝の言葉を述べたネルド師は、まだ名前を決めていなかった本馬にファーガー博士の名前を付けたいと考え、その旨を申し出た。ファーガー博士がそれを了承したため、本馬の名前はドクターファーガーとなった。ファーガー博士本人はその事実をしばらく忘れていたそうだが、後に本馬が大活躍して自分と同じ名前が紙面に踊るようになると運命的なものを感じ、ネルド師とは家族ぐるみの友人になり、後の2013年にネルド師が100歳の誕生日を迎えた際には、89歳の高齢ながらも駆けつけて祝福したという。
競走生活(2歳時)
さて、無事に仕事に復帰したネルド師の調教を受けた本馬は、2歳7月にアケダクト競馬場で行われたダート5.5ハロンの未勝利戦でデビューした。このレースでは馬なりのまま走り、7馬身差で圧勝して、鮮烈なデビューを飾った。翌月に出走したサラトガ競馬場ダート6ハロンの一般競走では、やはり馬なりのまま走り、2着バンデラロードに8馬身差をつけて圧勝した。翌9月に出走したワールズプレイグラウンドS(D7F)では、後のハッチソンSの勝ち馬グレンガリーを12馬身差の2着に破って圧勝した。このように勝つ度に着差を広げていき、スタートから他馬に影も踏ませない圧倒的なスピードは見る者に目を瞠らせた。
4戦目のカウディンS(D7F)では、トレモントSの勝ち馬でベルモントフューチュリティS2着・グレートアメリカンS3着のサクセッサー、サプリングSで2着してきたインリアリティという強敵2頭との対戦となった。ここで本馬に騎乗したのは初コンビとなる名手ウィリアム・シューメーカー騎手であり、彼は今まで逃げてばかりいた本馬に控える競馬を試みさせた。本馬はレース前から焦れ込んでいたこともあり、シューメーカー騎手は本馬をなかなか制御する事が出来なかったが、それでも直線で外側に持ち出すと鋭く伸び、2着インリアリティに3/4馬身差で勝利した。レース後にシューメーカー騎手は「彼は未熟な部分がありますが、しかしとても良い馬になると思います」と述べた。ここで抑えようとして苦戦したために、これ以降の本馬は逃げに徹する事になる。
続くシャンペンS(D8F)では、サクセッサーに加えて、フラッシュS・ホープフルS・ベルモントフューチュリティSの勝ち馬でトレモントS・サラトガスペシャルS2着のボールドアワーという強敵が対戦相手となった。ここではスタートから先頭を争う本馬とボールドアワーの2頭に、サクセッサー陣営が送り込んでいたラビット役のドーバーS勝ち馬グレートホワイトウエー(後に日本に種牡馬として輸入されている)が競りかけてきた。本馬はボールドアワーとグレートホワイトウエーの2頭を振り切ったものの、ゴール前で追い上げてきたサクセッサーに差されて、1馬身差の2着に敗退した(3着馬プロヴィソは本馬から4馬身後方だった)。これにより、サクセッサーは後に「ドクターファーガーに先着した僅か3頭の馬のうちの1頭」という名誉を手に入れる事になった。
その後に本馬は感染症に罹ってしまったために休養入りとなった(ネルド師自身は感染症よりも本馬の右膝の状態が悪い事を気にしていたようである)。2歳時は5戦4勝2着1回の成績で、2歳時フリーハンデ(エクスペリメンタルフリーハンデ)では、ガーデンステートSも勝って米最優秀2歳牡馬に選ばれたサクセッサーより1ポンド低い2位にランクされた。
競走生活(3歳前半)
3歳初戦となった4月のゴーサムS(D8F)では、タイロSの勝ち馬でハイビスカスS2着・ファウンテンオブユースS・フロリダダービー3着のリーズントゥヘイルに加えて、本馬の生涯最大の強敵となるレムセンS・ベイショアSの勝ち馬ダマスカスとの初顔合わせとなった。シューメーカー騎手がダマスカスを選択したため、ここではマヌエル・イカザ騎手とコンビを組んだ。ニューヨーク州の競馬関係者達がこの時期にストライキ運動を起こしており、このレースも実施されるかどうかが微妙なところだったが、何とか予定どおり実施されることになった。2頭の対決は早くもかなりの注目を集めており、アケダクト競馬場には5万522人の観衆が詰めかけた。このレースでは初騎乗だったイカザ騎手の意向なのか、珍しく本馬は先頭に立たずに、逃げ馬から離れた2番手をダマスカスと併走した。そして2頭揃って三角で仕掛けて四角で先頭に立ち、ここから外側の本馬と内側のダマスカスによる激しい叩き合いが展開された。そしてゴール直前で本馬が前に出て半馬身差で勝利した。
その後はケンタッキーダービーに向かうと思われたのだが、陣営は本馬をケンタッキーダービーに向かわせなかった。その理由に関してネルド師は「彼の右膝の状態は非常に悪く、ケンタッキーダービーという過酷なレースに耐えられるとは思えません」とコメントしている。本馬がケンタッキーダービーを回避した理由に関して、日本では距離不安があったためという説が一般的となっているようだが、筆者なりに調べた範囲における海外の資料には、本馬陣営が距離に不安を抱いていたとは明記されていない。ただし後述するようにスタミナ面を疑問視する専門家は多かったようであり、あながち間違いでもないだろう。
その代わりに裏街道に向かった本馬は、まずはウィザーズS(D8F)に出走。ここで本馬にはブラウリオ・バエザ騎手が初騎乗した。このレースには、カリフォルニアダービーを勝って臨んだ1週間前のケンタッキーダービーで3着ダマスカスに1馬身半差まで迫る4着だったリーズントゥヘイルに加えて、3歳馬としては17年ぶりにカーターHを勝利していたユースフルSの勝ち馬チュミガも出走してきた。しかし本馬が2着チュミガに6馬身差をつけて、1分33秒8という3歳馬としては米国競馬史上における当時の最速タイムで圧勝した。
その後はプリークネスS・ベルモントS出走が期待されていたが、やはり右膝の状態が思わしくないと考えたネルド師の判断により回避となった。しかし本馬が米国三冠競走で走る姿を見たかった競馬ファン達からは不満の声が漏れたという。これは筆者の憶測であるが、この年は全米で公民権運動が激化しており(暴力的な運動に反対していたキング牧師が暗殺されたのは翌1968年4月である)、大競走が行われる当日の競馬場においても様々なトラブルが発生していたから、騒動に巻き込まれる事を懸念した陣営が本馬を表舞台に出す事を避けた一面もあるのではないかと考えている。
続くジャージーダービー(D9F)では、カウディンS2着後にピムリコフューチュリティ・ハイビスカスS・ファウンテンオブユースS・フロリダダービーを勝ち10日前のプリークネスSでダマスカスの2馬身1/4差2着していたインリアリティとの再戦となった。ここでは再びイカザ騎手が本馬に騎乗した。そして2位入線のインリアリティに4馬身差をつけてトップゴールを果たした。ところが、レース中の最初のコーナーにおいて、本馬がインリアリティに噛み付いていたという事実が発覚。ガーデンステート競馬場側はそれを理由に本馬の失格を宣告。繰り上がってインリアリティが勝ち馬となった。これは本馬が扱い辛い気難しい馬であるという評判を裏付ける結果ではあったが、本馬を上手く御する事が出来なかった責任を取ったイカザ騎手は本馬の鞍上を去ることになった。そして改めてバエザ騎手が本馬の主戦として迎えられる事になった。
翌6月に出走したアーリントンクラシックS(D8F)は不良馬場のレースとなったが、全く関係なく、2着となったケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬ライトニングオーファンと、3着となったアーリントンワシントンフューチュリティ・ブルーグラスSの勝ち馬ディプロマットウェイの2頭を10馬身も突き放して鮮やかに逃げ切った。7月にはロッキンガム競馬場でロッキンガムスペシャルS(D9F)に出走。2着リーズントゥヘイルに4馬身1/4差をつけて、1分48秒2のコースレコードを計時して快勝した。
競走生活(3歳後半)
この時期、ケンタッキーダービーこそ3着に終わるもプリークネスS・ベルモントS・ドワイヤーH・アメリカンダービー・トラヴァーズSなどを勝っていたダマスカスと本馬の再戦を望む声がとても大きくなっていた。ダマスカスが次の目標に設定していたのは距離10ハロンのウッドワードSであり、以前の本馬であれば出走に踏み切るような距離ではなかった。しかし陣営は世論に押される形で、ウッドワードSのちょうど4週間前にロッキンガム競馬場で行われたニューハンプシャースウィープS(D10F)に本馬を出走させ、初の10ハロンを克服できるかどうかを試してみることにした。圧倒的なスピード能力を有する本馬だけに、10ハロンを走りきるスタミナ能力は持っていないのではないかとする専門家も多かった。しかもこのレースには、ジャージーダービー繰り上がり勝利後にラムソンH・チョイスSを勝ちアメリカンダービーでダマスカスの2着していたインリアリティ、ケンタッキースペシャルS・ダービートライアルS・アソールトHの勝ち馬でケンタッキーダービーではダマスカスに3馬身先着する2着だったバーブズディライトといった強敵が出走していた。レースはスタートから本馬が先頭を飛ばし、インリアリティが後方で様子を見る展開となった。そして残り3ハロン地点でインリアリティが仕掛けて直線入り口で本馬に並びかけてきた。そして2頭の一騎打ちが展開されたが、直線半ばで二の脚を使った本馬がインリアリティを突き放し、ゴール前ではバエザ騎手が手綱を抑える余裕ぶりで、2着インリアリティに1馬身1/4差、3着バーブズディライトにはさらに9馬身差をつけて勝利を収め、10ハロンでも好勝負できることを示した。
そこで陣営は本馬のウッドワードS(D10F)参戦を決めた。このレースには、サプリングS・ホープフルS・アーリントンワシントンフューチュリティ・シャンペンS・アーリントンクラシックS・ブルックリンH・アメリカンダービー・トラヴァーズS・ウッドワードS・ジョッキークラブ金杯・マリブS・サンフェルナンドS・メトロポリタンH・サバーバンHなどを勝っていた1歳年上の古馬最強馬バックパサーも出走しており、米国競馬史上屈指の名馬3頭が激突するという世紀の一戦となった。しかし本馬には不利な条件が重なっていた。前走で距離を克服したといっても10ハロンという距離は決してベストではなく、しかも対戦相手のレベルが今回は段違いだった事。バックパサーの主戦でもあったバエザ騎手が引退レースとなるバックパサーに騎乗したために本馬には乗り代わりが発生した事(ビル・ボランド騎手が騎乗した)。さらにバックパサーとダマスカスの両陣営は本馬の逃げを封じるためにラビット役をそれぞれ用意しており、しかもダマスカス陣営が用意したのは前年のエクワポイズマイルHにおいてダート1マイルにおける当時の世界レコード1分33秒2を樹立していたヘッドエヴァーという快速馬であるという念の入れようだった事などである。1番人気は単勝オッズ2.6倍のバックパサーで、単勝オッズ2.8倍の本馬とダマスカスが並んで2番人気となっていた。
そしてスタートが切られると先頭に立った本馬にヘッドエヴァーが猛然と競りかけてきて、最初の2ハロン通過が22秒4、半マイル通過は45秒2、6ハロン通過が1分09秒2という、非常なハイペースとなった。三角手前でようやくヘッドエヴァーが失速して本馬が単独で先頭に立ったのだが、さすがの本馬も既にガス欠のランプが点灯していた。そして最後方から上がってきたダマスカスに四角途中でかわされると、もはや抵抗する力は無く、直線ではダマスカスにどんどん引き離されていった。そして遅れて追い上げてきたバックパサーにもゴール直前で半馬身かわされてしまい、勝ったダマスカスから10馬身半差をつけられた3着に敗れた。しかし4着馬ハンサムボーイ(前走ブルックリンHでバックパサーを8馬身差の2着に破っていた)は本馬からさらに13馬身後方だった。このレースにおけるダマスカスの強さは確かに神懸かっていたが、本馬には先に書いたとおりに何重もの不利があり、このレースをもってダマスカスのほうが本馬より強いと確定されたわけではなかった。
世紀の一戦に敗れてしまった本馬だが、その後は何事も無かったかのようにホーソーン金杯(D10F)に出走して、2着ウィスパージェットに2馬身半差をつけて楽勝。そして128ポンドを課せられたヴォスバーグH(D7F)も2着ジムジェイに4馬身半差をつけて楽勝を収め、これで3歳シーズンを終えた。3歳時は9戦7勝の成績で、この年の米最優秀短距離馬に選ばれた。
競走生活(4歳前半)
翌4歳時は、米国競馬における最強馬の宿命で、過酷な斤量を課されることとなった。初戦は5月にアケダクト競馬場で行われたローズベンH(D7F)となった。前年のウィザーズS2着後にグレーヴセンドH・チェリーヒルHを勝っていたチュミガ、前年のアーリントンクラシックS3着後にローレンスアーマーH・シカゴH・ルイジアナH・ニューオーリンズH・オークローンHを勝っていたディプロマットウェイなどが対戦相手となった。本馬には130ポンドが課せられたが、2着チュミガに3馬身差をつけて楽勝した。
その後は米国西海岸に遠征して、前走から2週間後のカリフォルニアンS(D8.5F)に出走。ここでは、プリンセスS・テストS・アラバマS・サンタマリアH・サンタマルガリータ招待H・ウィルシャーHなどを勝ちハリウッドオークス・サンタバーバラHで2着していた同世代の名牝ゲイムリー(この年の米最優秀ハンデ牝馬)、サンフェリペS・サンアントニオH・ロサンゼルスHを勝っていたライジングマーケットなどとの対戦となった。ネルド師は本馬に課せられる斤量を当初124ポンドと予想していたために遠征に踏み切ったらしいのだが、本馬が出発した後にハリウッドパーク競馬場から通知された斤量は前走と同じ130ポンドだった。ゲイムリーは116ポンドであり、その差は14ポンドだったが、ネルド師は構わずにそのまま出走させた。そして呆気なく2着ゲイムリーに3馬身差をつけて快勝した。
東海岸に戻って出走したサバーバンH(D10F)では、前年のウッドワードS勝利後にジョッキークラブ金杯・マリブS・サンフェルナンドSを勝っていた前年の米年度代表馬ダマスカスと3度目の対決となった。また、一昨年のシャンペンSで着外に終わった後にサラナクH・ディスカヴァリーH・ベンジャミンフランクリンH・グレイラグHを勝っていたボールドアワー、前年のニューハンプシャースウィープS2着後にジョンBキャンベルH・カーターH・メトロポリタンHを勝っていたインリアリティ、ハリウッドオークス・サンタモニカH・トップフライトHなどを勝ちサンタバーバラHで2着していたアメリゴレディなども参戦していたが、ウッドワードSで本馬に競りかけてきたヘッドエヴァーは直前に回避したため不在だった。斤量は本馬が132ポンドで、ダマスカスが133ポンドとほぼ互角だった(インリアリティは125ポンド、ボールドアワーは116ポンド)。スタートが切られると本馬が先頭に立ったが、ヘッドエヴァー不在のために自分で本馬を潰す必要が生じていたダマスカスが積極的に先行して本馬に競りかけてきた。そして本馬とダマスカスの2頭が並んで直線に入ってきたのだが、自分のペースで走れなかったダマスカスはここで降参したかのように失速。一方の本馬は直線でも堂々と脚を伸ばし、最後に追い上げてきた2着ボールドアワーに2馬身差、3着ダマスカスにはさらに3馬身差をつけて快勝した。勝ちタイム1分59秒6は1964年のブルックリンHでガンボウが計時したコースレコードと同タイムだった。
次走のブルックリンH(D10F)では、ダマスカスと4度目の対戦となった。斤量は本馬が135ポンドで、ダマスカスが5ポンド軽い130ポンドだった。また、このレースに限り、本馬の鞍上にいたのはバエザ騎手ではなく、長らくダマスカスの主戦を務めていたシューメーカー騎手だった(本馬が2歳の時に2回騎乗していたが、3歳初戦のゴーサムSでダマスカスを選択して以降しばらく騎乗機会は無かった)。ダマスカス陣営は本馬を倒すにはラビット役を投入するしかないと確信していたようで、このレースにはヘッドエヴァーを参戦させてきた。そしてレースではヘッドエヴァーが本馬の前を猛然と飛ばしまくり、最初の6ハロン通過が1分09秒4という、ウッドワードSより0秒2遅いだけ(斤量を考慮すれば今回のほうが過酷である)という超ハイペースとなってしまった。向こう正面でヘッドエヴァーが早くも失速して本馬が先頭に立ったが、後方でじっくりと機を伺っていたダマスカスに直線入り口で並びかけられると、直線半ばで突き放されて2馬身半差の2着に敗れた(この年のサンタアニタHを筆頭にドワイヤーH・ローマーH・トレントンH・クイーンズカウンティHを勝っていたミスターライトには先着した)。これがダマスカスとの最後の対戦で、対戦成績は2勝2敗の五分だった。ヘッドエヴァーがいたレースではダマスカスが勝ち、ヘッドエヴァーが不在のレースでは本馬が勝つという、分かりやすい結果となっている。
競走生活(4歳後半)
しかしラビット役の助けを受けたとしてもダマスカス以外に本馬と好勝負できる馬はいなかったようで、次走のホイットニーH(D9F)では132ポンドを背負いながらも単勝オッズ1.05倍という究極の1番人気に支持された本馬が、フォートドラムという馬に競りかけられながらも猛然と先頭を飛ばしまくり、18ポンドのハンデを与えた2着スプーンバイトに8馬身差をつけて圧勝した。
そして本馬は次走ワシントンパークH(D8F)で驚愕のパフォーマンスを披露する。ここで本馬に課された斤量は134ポンドだった上に、ヘッドエヴァーも出走していたのだが、スタートから他馬勢と猛烈な先頭争いを演じた末に、直線に入ると瞬く間に後続を引き離し、18ポンドのハンデを与えた2着レーシングルーム(前月のハリウッド金杯で2着していた)に10馬身差をつけ、1分32秒2(1分32秒1/5)のタイムで圧勝したのである。このタイムは2年前のアーリントンクラシックHにおいて斤量125ポンドのバックパサーが計時した1分32秒6を更新する全米レコードであったばかりか、芝も含めた1マイルの世界レコードでもあった。このレコードは芝ではさすがに既に更新されているが、ダートでは今でも破られていない。2003年のウエストチェスターHにおいてナジランという馬が計時した1分32秒24が史上2位、1989年のゴーサムSにおいてイージーゴアが計時した1分32秒4が史上3位である。なお、本馬の勝ちタイムは1分32秒25であり、ナジランのほうが速いから本馬のレコードは更新されたとする日本の資料が存在するが、本馬の走破タイム1分32秒1/5を1分32秒1/4と勘違いしていると思われる。当時の映像を見ても、レース直後に実況が1分32秒1/5の世界レコードであると明言しており、各種海外の資料においても一つの例外もなく1分32秒1/5となっている。これはセクレタリアトがベルモントSで計時した2分24秒0と並んで米国競馬史上最も有名な勝ちタイムであると思われるから、1分32秒25という事はあり得ないのである。
次走は生涯最初で最後の芝レースとなったユナイテッドネーションズH(T9.5F)だった。134ポンドの斤量に加えて初芝と本馬には不利な条件が重なっていた上に、ロングブランチH・ナシュアH・タイダルH・バーナードバルークH・スターズ&ストライプスH・サンセットHの勝ち馬で前年のワシントンDC国際Sにおいてダマスカスを2着に破って米最優秀芝馬に選ばれていたフォートマーシー、コックスプレート2回・ヴィクトリアダービー・アンダーウッドS・マッキノンS・CFオーアS・オールエイジドS・ドンカスターマイル・コーフィールドC・トゥーラックHと豪州の大競走を勝ちまくった後に米国に移籍してきたトービンブロンズ、カウディンS・セミノールH・トボガンH・ウエストチェスターHの勝ち馬でケンタッキーダービー・メトロポリタンH2着の5歳馬アドヴォケーターなどが本馬の前に立ち塞がった。
ここでもスタートから先頭に立って逃げる本馬に、内側から22ポンドのハンデを与えたアドヴォケーター、外側から16ポンドのハンデを与えたトービンブロンズが猛然と競りかけてきた。また、やはり本馬から16ポンドのハンデを貰っていたフォートマーシーは前を行く3頭からかなり離れた4番手集団で漁夫の利を狙った。いつものダート競走であれば競りかけてきた馬達を向こう正面で潰して単騎で先頭に立つ本馬だが、今回は逆に向こう正面で内側のアドヴォケーターに先頭を奪われてしまった。さらに三角に入るとフォートマーシーを始めとする後続馬勢も押し寄せてきて、直線では逃げるアドヴォケーター、外側で粘る本馬、内側を突いて追い上げてきたフォートマーシーの三つ巴の死闘が展開された。しかし直線半ばで本馬の本領が発揮され、アドヴォケーターを見事に差し返して首差で勝利を収めた(後に米年度代表馬に選ばれるフォートマーシーはアドヴォケーターから1馬身1/4差の3着、トービンブロンズは4着に終わった)。豪州では136ポンドを背負いながらコーフィールドCを勝った経験があったトービンブロンズ(このレースにおける斤量は118ポンド)の管理調教師グラハム・ヘグニー師は「トービンブロンズにハンデを与えて勝てる馬などいるはずが無いと笑い飛ばしていましたが、ドクターファーガーは本当に偉大な馬でした」と脱帽した。
次走のヴォスバーグH(D7F)が引退レースとなった。ここで本馬に課された斤量は、他馬より最大34ポンドも重い139ポンド(約63.1kg)だった。しかし最初の2ハロンを43秒8で飛ばした本馬は、6ハロンを1分07秒8で通過。そして最後は2着キッシンジョージに6馬身差をつけ、1分20秒2の全米レコードを樹立して圧勝した。この全米レコードは31年後の1999年に行われたカーターHにおいて、その年のエクリプス賞最優秀短距離馬アータックスが1分20秒04を計時して更新したが、この時のアータックスの斤量が114ポンドだった事を思えば、如何に本馬の出したタイムが凄まじいかが理解できるだろう。
4歳時の本馬は8戦7勝の成績を残し、この年の米年度代表馬・米最優秀ハンデ牡馬・米最優秀芝馬・米最優秀短距離馬に選ばれた(米最優秀芝馬はフォートマーシーと同時受賞)。この4部門を同時に受賞したのは米国競馬史上において本馬が史上初であり、米国競馬の年度表彰がエクリプス賞として行われるようになった今日においても他に1頭たりとも登場していない。エクリプス賞創設以前には、1953年のトムフールが年度代表馬・最優秀ハンデ牡馬・最優秀短距離馬の3部門を、1958年のラウンドテーブルと1970年のフォートマーシーの2頭が年度代表馬・最優秀ハンデ牡馬・最優秀芝馬の3部門を同時受賞した例があり、エクリプス賞創設以降においては、1971年のアクアクと1974年のフォアゴーの2頭が年度代表馬・最優秀古馬牡馬騙馬・最優秀短距離馬の3部門を、1973年にセクレタリアトが年度代表馬・最優秀3歳牡馬・最優秀芝馬の3部門を、1981年のジョンヘンリーと2012・13年のワイズダンの2頭が年度代表馬・最優秀古馬牡馬騙馬・最優秀芝牡馬騙馬の3部門を同時受賞しているが、4部門を同時受賞した馬はいない(3歳時に年度代表馬・最優秀ハンデ馬・最優秀3歳馬を同時受賞した馬も複数存在するが、それでもやはり3部門制覇が上限である)。そもそも米国において最優秀芝馬と最優秀短距離馬をいずれも受賞した馬は(同時受賞でなくても)本馬以外に1頭も存在しないから、米国の芝短距離路線が整備されてその格が著しく上昇でもしない限り、4部門を同時制覇する馬が今後出現する事はないだろう。
競走馬としての評価と特徴
デイリーレーシングフォーム紙は「過去に出現した全てのチャンピオンホースや全てのパフォーマンスを含めても、この年のドクターファーガーは最も偉大でした」と最大級の賞賛を送ったし、競馬作家のデイビッド・アレキサンダー氏は「彼の思い出は風でした。彼の出現は、まるで暗い日に突然日の光が差したような印象でした」と書き残している。
本馬の敗戦4度のうち、失格になったジャージーダービーを除く3戦はラビット役の馬に猛然と競りかけられたものである。本馬の快速についていけるくらいの優秀な馬を鉄砲玉として使うのでなければ本馬を負かす事は出来なかったわけである。
本馬については幾つかの逸話が残されている。日本において最も有名なのは、おそらく次の話であろう。競走馬を引退した本馬が種牡馬となるべく、生まれ故郷のフロリダ州に向かう途中のこと。本馬が乗った馬運車はフロリダ州警察官に止められ、警察官は車の中に入ると、そこにいた本馬に「速すぎる」と言ってスピード違反の切符を切ったというものである。さすがに嘘くさいし、筆者なりに調べた海外の資料においても、この話はまったく見られなかったから、おそらく米国においては事実とは認識されていない作り話なのだろうとは思うが、こんな話が実しやかに伝えられる事自体が本馬の評価を如実に示しているとは言える。
本馬のキャラクターに関しては、主戦を務めたバエザ騎手が本馬の引退直後にインタビューに応じた際の一問一答が残っているから、それをここに掲載して紹介する事とする。
質問者(以下「Q」)「ドクターファーガーはどんな馬でしたか?」バエザ騎手(以下「B」)「現在生きている中で最も速い馬。過去の競馬史を含めても最も速い馬の1頭。彼は風に穴をあける事ができます。」
Q「彼は大きい馬でしたか?」B「はい、大きな馬でした。」
Q「彼の背中は広かったですか?」B「はい、彼は巨漢馬というわけではありませんでしたが、とても大きかったし、背も高かったです(筆者注:本馬の体高は16.3ハンドだった)。」
Q「力強い馬でしたか?」B「非常に強力でした。私は、彼をマイル戦で倒せる馬がいたとは思えません。距離10ハロンでも活躍しましたが、それは1マイル戦における強さの延長線上でした。大きくて力強い彼の背中に座れば、風を切り裂いて進む事が出来ました。ロッキンガムパーク競馬場(ニューハンプシャースウィープS)では、インリアリティに並びかけられましたが、そこから闘志を発揮して突き放しました。彼は自分の前を他馬が走るのが嫌だったようです。彼はほぼ全ての競馬場でコースレコードかそれに近いタイムで走破しました。彼は本当に自由に走りました。私は彼を制御しようと何度か厳しく指示を出しましたが、そのたびに彼は私の指示に逆らいました。」
Q「他に特に印象に残っているレースはありますか?」B「アーリントンパーク競馬場(ワシントンパークH)で世界レコードを計時して10馬身差で勝ったときです。私は残り2ハロン地点で彼を追うのを止めて後方を振り返りましたが、後ろには何もいませんでした。私が最後まで追っていれば、もっと凄いタイムが出たでしょう。あとは139ポンドを背負いながら1分20秒2で勝った最後のレース(ヴォスバーグH)です。もうこれ以上重い斤量を背負って走らせたくなかったので、これが現役最後のレースになるであろう事を私は知っていました。だから私は彼にリラックスして走ってもらう事だけを心掛け、残り2ハロン地点からは追うのを止めました。」
Q「彼は健康な馬でしたか?」B「かなり健康でした。米国三冠競走に不出走だったのは、他にいくつかの理由があったためです。」
Q「彼は厩舎でも他馬に対して乱暴でしたか、それともレースのときだけでしたか?」B「レースのときだけでした。」
Q「ダマスカスとの対戦について何かありますか?」B「彼は眠りながら走ってもダマスカスを倒せました。ダマスカスが彼を負かす方法はラビット役を使う事だけでした。彼は自分の前にどんな馬がいるのも我慢できなかったので。」
Q「あなたは彼と一緒に今年の最優秀芝馬を獲得しましたね?」B「はい、アトランティックシティ競馬場(ユナイテッドネーションズH)で、王者フォートマーシーを破って獲得しました。」
Q「芝ではどのような走りでしたか?」B「芝における走りは非常に悪かったです。まるでローラースケートのように芝生で脚を滑らせるので、かなり苦労しました。それでも彼は勝ちました。そして最優秀短距離馬、最優秀芝馬、最優秀ハンデ牡馬、そして年度代表馬の4タイトルを独占できました。」
Q「彼に対して何か言いたいことはありますか?」B「彼は私が最も乗りたい馬の1頭でした。」Q「本日はありがとうございました。」
また、このインタビュー時ではないが、後にバエザ騎手はやはり自身が主戦を務めたバックパサーと本馬を比較して「バックパサーは強い意思を持って後方から追い上げる馬であるのに対して、ドクターファーガーはスピードに任せて自由奔放に走り回る馬」と言っている。
血統
Rough'n Tumble | Free for All | Questionnaire | Sting | Spur |
Gnat | ||||
Miss Puzzle | Disguise | |||
Ruby Nethersole | ||||
Panay | Chicle | Spearmint | ||
Lady Hamburg | ||||
Panasette | Whisk Broom | |||
Panasine | ||||
Roused | Bull Dog | Teddy | Ajax | |
Rondeau | ||||
Plucky Liege | Spearmint | |||
Concertina | ||||
Rude Awakening | Upset | Whisk Broom | ||
Pankhurst | ||||
Cushion | Nonpareil | |||
Hassock | ||||
Aspidistra | Better Self | Bimelech | Black Toney | Peter Pan |
Belgravia | ||||
La Troienne | Teddy | |||
Helene de Troie | ||||
Bee Mac | War Admiral | Man o'War | ||
Brushup | ||||
Baba Kenny | Black Servant | |||
Betty Beall | ||||
Tilly Rose | Bull Brier | Bull Dog | Teddy | |
Plucky Liege | ||||
Rose Eternal | Eternal | |||
Rose of Roses | ||||
Tilly Kate | Draymont | Wildair | ||
Oreen | ||||
Teak | Tea Caddy | |||
Fricassee |
父ラフンタンブルは現役成績16戦4勝で、主な勝ち鞍はサンタアニタダービー。本馬の他にも1959年の米最優秀2歳牝馬マイディアガール【フリゼットS】を出している。ラフンタンブルはヒムヤーの直系だが、ヒムヤー系で主流となったドミノを経由する系統ではない。ラフンタンブルの父フリーフォーオールは、2歳時にアーリントンフューチュリティ・ワシントンパークフューチュリティなど5戦全勝の成績を残し、エクスペリメンタルフリーハンデではこの1944年の米最優秀2歳牡馬パボットと並ぶ最高評価を得たが、ダービートライアルSで故障を起こして4着に敗れ、7戦6勝の成績で引退した。フリーフォーオールの父クエスショネアはメトロポリタンH・ブルックリンH勝ちなど45戦19勝。クエスショネアの父スティングはサバーバンH・メトロポリタンH勝ちなど18戦9勝。スティングの父スパーはウィザーズS・トラヴァーズS・ジェロームHなどの勝ち馬。スパーの父キングジェームズはブルックリンH・メトロポリタンHなどを勝ち、1909年の米最優秀ハンデ牡馬に選出。キングジェームズの父プローディットは、ケンタッキーダービー・シャンペンS・クラークS勝ちなど20戦8勝。そしてその父がヒムヤーである。
母アスピディストラは、テキサス州キングランチ牧場の生産馬である。3歳時の1957年に、70歳を迎えたマックナイト氏の誕生日プレゼントとして、会社の従業員達により6500ドルで購入された馬だった。もっとも、競走馬としてはそれほど活躍できず、クレーミング競走に出走したが買い手がつかなかったりもしている。結局は14戦2勝の競走成績に終わり、マックナイト氏の元で繁殖入りした。
しかしアスピディストラは繁殖牝馬としては非常に優秀で、本馬の半兄チャイナタウナー(父ニードルズ)【カナディアンターフH】、本馬と同様に米最優秀短距離馬に2度輝いた半妹タウィー(父インテンショナリー)【ヴォスバーグS・フォールハイウェイトH2回・プライオレスS・カムリーS・テストS・ヘンプステッドH】を産んでいる。タウィーの子にはエクリプス賞年度代表馬ホーリーブルの父となったグレイトアバヴ【ポーモノクH(米GⅢ)】が、牝系子孫にはリアムズマップ【ウッドワードS(米GⅠ)】がいる。また、本馬の半妹マジック(父バックパサー)の牝系子孫はかなり発展しており、マジックの娘マズルカの孫にはカヴォニエ【サンタアニタダービー(米GⅠ)】が、同じくマジックの娘シャレディの孫にはアンブライドルド【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・BCクラシック(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)】とケイヒルロード【ウッドメモリアル招待S(米GⅠ)】の兄弟が、同じくマジックの娘で日本に繁殖牝馬として輸入されたマガロの子にはタヤスツヨシ【東京優駿(GⅠ)・ラジオたんぱ杯三歳S(GⅢ)】、曾孫にはロールオブザダイス【平安S(GⅢ)】がいる。また、本馬の半妹クイットミーノット(父ボールドリーズン)の曾孫にはピュリム【シャドウェルターフマイルS(米GⅠ)】がいる。→牝系:F1号族④
母父ベターセルフはバイムレックの直子で、故障知らずの走りを見せて、カーターH・サラトガスペシャル・ギャラントフォックスH・オールアメリカンH・サラトガH・ディスカヴァリーH・ウエストチェスターH勝ちなど50戦16勝の成績を残した。こちらは同じヒムヤーの直系でも、ラフンタンブルと異なりドミノからの流れである。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のタータンファームで種牡馬になった。米国における馬産の中心地ケンタッキー州からは遠く離れたフロリダ州における種牡馬入りではあったが、320万ドルの種牡馬シンジケートが組まれており(好敵手ダマスカスは256万ドル)、シンジケート加入者も、オグデン・フィップス氏、アーサー・“ブル”・ハンコック氏、リチャード・アルーレ・デュポン夫人、ポール・メロン氏、アルフレッド・グウィン・ヴァンダービルトⅡ世氏、ホイットニー一族と米国競馬界の重鎮ばかりであった。種牡馬としても好成績を残し、1975年のエクリプス賞最優秀2歳牝馬ディアリープレシャスや1978年のエクリプス賞最優秀短距離馬ドクターパッチスなど35頭のステークスウイナーを出し、1977年には北米首位種牡馬に輝く活躍を見せた。しかし本馬はその前年1976年8月に12歳の若さで腸捻転のため他界してしまっていた。遺体はタータンファームに埋葬され、後の1980年にやはり14歳の若さで他界した妹のタウィーと並んで墓碑が作られている。産駒のステークスウイナー率は実に14%に達しており、もっと余命があれば米国競馬史に名を残す大種牡馬になっていた可能性もあるだろう。生前の1971年に米国競馬の殿堂入りを果たしている。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選ではダマスカス(16位)やバックパサー(14位)を上回る第6位。母父としては名種牡馬ファピアノを出している。
まったく余談だが、早世した本馬と異なり、本馬に縁がある人々は長生きする傾向が強く、本項執筆時点の2014年6月において101歳で存命中のネルド師(後記:2015年8月に102歳で死去)を筆頭に、この2か月前の2014年4月に90歳で死去したファーガー博士、1978年3月に90歳で死去したマックナイト氏、本項執筆時点において74歳で存命中のバエザ騎手など長寿の人が多い。
主な産駒一覧
生年 |
産駒名 |
勝ち鞍 |
1970 |
Lady Love |
トップフライトH(米GⅠ)・モリーピッチャーH(米GⅡ) |
1970 |
Tree of Knowledge |
ハリウッド金杯(米GⅠ) |
1971 |
Heloise |
ダイアナH(米GⅡ) |
1971 |
Lie Low |
フィレンツェH(米GⅡ)2回・オープンファイアS(米GⅢ)・ロングアイランドH(米GⅢ) |
1971 |
Sports Editor |
ロイヤルパームH(米GⅢ) |
1972 |
Yu Wipi |
ロングエイカーズマイルH(米GⅢ) |
1973 |
Dearly Precious |
ソロリティS(米GⅠ)・スピナウェイS(米GⅠ)・エイコーンS(米GⅠ)・アーリントンワシントンラッシーS(米GⅢ) |
1973 |
Practitioner |
WLマックナイトH(米GⅢ)・カナディアンターフH(米GⅢ) |
1974 |
Court Open |
カナディアンターフH(米GⅢ) |
1974 |
Dr. Patches |
ヴォスバーグS(米GⅡ) |
1975 |
L'Alezane |
アルキビアデスS(米GⅡ)・スカイラヴィルS(米GⅢ)・アディロンダックS(米GⅢ) |
1977 |
Movin' Money |
デルマーオークス(米GⅡ) |