メッセンジャー

和名:メッセンジャー

英名:Messenger

1780年生

芦毛

父:マンブリノ

母:ターフメア

母父:ターフ

サラブレッドとしてではなくスタンダードブレッドとして直系を繁栄させた18世紀末に英国から米国に輸入された名種牡馬

競走成績:3~5歳時に英で走り通算成績14戦8勝(入着回数は不明。異説あり)

18世紀後半に英国から米国に輸入された重要な根幹種牡馬である。サラブレッドに対する影響力は実はそれほどでもないのだが、全力競走ではなく繋駕速歩競走を得意とするスタンダードブレッド(アメリカントロッター)に関しては現在でも圧倒的な影響力を誇っている。

誕生からデビュー前まで

初代グローヴナー伯爵リチャード・グローヴナー卿(ベンドアオーモンドフライングフォックスセプターなどを生産した初代ウエストミンスター公爵ヒュー・グローヴナー卿の曽祖父にあたる)により英国ケンブリッジシャー州オックスクラフトスタッドで生産されたようである。グローヴナー卿の主要馬産は後にイートンホールで行われるようになるが、この当時はオックスクラフトスタッドが中心地だった。なお、本馬はジョン・プラット氏によってノースヨークシャー州アスクリグスタッドで生産されたとする異説もあるのだが、その確たる証拠はないようである。本馬の両親はいずれもグローヴナー卿の所有馬だったから、普通にグローヴナー卿によって生産されたと考えるのが常識的なようである。

体高は15.3ハンドと当時の標準からするとやや低めだったが、非常に頭が大きくて耳も大きく、首は短くて、下半身の力が強く、四肢の骨は頑丈で太く、極めて力強そうな印象を与える馬だったという。

英国で走った後に米国に輸入される

本馬はトマス・ブロック氏の所有馬として走り、3歳から5歳まで14戦して8勝を挙げている(16戦10勝とする説もある)。当時の競馬は距離4マイルの長距離戦が主流だったが、本馬はニューマーケットを本拠地として2マイル半の当時としては短い距離のレースを主に走っていたようである。また、出走したレースの多くは2頭立てのマッチレースだったようである。

その後に米国の馬産家トマス・ベンガー卿により購入された本馬は米国に輸入され、8歳5月に米国ペンシルヴァニア州フィラデルフィアの港に降り立つ事になるが、本馬がどのような経緯を辿って米国に輸入されたのかは記録が無いため不明である。港に着いた本馬は長い船旅の影響なのか非常に気性が不安定になっており、不愉快そうにタラップを降りてきたとされている。なお、この気性は結局改善されなかったようである。

血統

Mambrino Engineer Sampson Blaze Flying Childers
Confederate Filly
Hip Mare Hip
Spark Mare
Young Greyhound Mare Young Greyhound Greyhound
Croft's Pet Mare
Curwen Barb Mare Curwen Bay Barb 
?
Cade Mare Cade Godolphin Arabian ?
?
Roxana Bald Galloway
Sister to Chaunter 
Little John Mare  Bolton Little John  Croft's Partner
Bay Bolton Mare 
Durhams Favorite  Son of Bald Galloway 
Daffodils Dam
Turf Mare Turf Matchem Cade Godolphin Arabian
Roxana
Partner Mare Croft's Partner
Brown Farewell
Starling Mare  Ancaster Starling Bolton Starling
Ringbone
Miss Romp  Orford Turk 
Merlin Mare 
Regulus Mare Regulus Godolphin Arabian ?
?
Grey Robinson Bald Galloway
Snake Mare
Starling Mare Ancaster Starling Bolton Starling
Ringbone
Sister to Slipby Fox
Gipsy

父マンブリノはグローヴナー卿の所有馬で、本馬が誕生したと思われるオックスクラフトスタッドで種牡馬供用されていた。体高は当時としては非常に大柄な16ハンドで、競走馬と言うよりも馬車馬のような頑丈な馬だった。競走馬としても優秀だったようで、7歳時にキングズプレートとホックークラブプレートを勝利するなど11勝を挙げており、フロリゼルやトレンザムといった当時の強豪馬を破った記録が残っている。血統を遡ると、エンジニア、サンプソン、ブレイズを経てフライングチルダースに行きつくが、フライングチルダースの直系子孫は本馬が誕生した頃にはサラブレッドとしては既に零細血統であった。

母ターフメアもグローヴナー卿の所有馬だったが、「ターフの牝駒」という意味が示すとおり無名馬で、競走馬としてのキャリア等は不明である。ターフメアの祖母スターリングメアの半兄には英首位種牡馬に4度輝いたスナップが、スターリングメアの半姉クラブメアの玄孫には、セントサイモンの直系先祖であるキングファーガス産駒のハンブルトニアン【英セントレジャー・ドンカスターC2回】がいる。しかし他に目立つ近親の活躍馬はいない。スターリングメアの曾祖母ニューカッスルタークメアの姉妹であるバイアリータークメアは所謂ファミリーナンバー1号族のうち本馬の一族を除く全ての始祖である。→牝系:F1号族①

母父ターフはマッチェム産駒。

米国における種牡馬生活と後世に与えた影響

米国に到着した本馬は最初フィラデルフィアのブラックホースタバーン牧場で種牡馬入りした。当初の種付け料は15ギニーに設定された。その後は当時の米国のトップ種牡馬と同様に米国各地を回った。まずはニューヨーク州ロングアイランドにあったフィリップ・プラット氏所有の牧場に移動。引き続きニュージャージー州にあったノア・ハント氏所有の牧場に移動。その後はいったんペンシルヴァニア州に戻り、トマス・クレイトン氏所有の牧場で暮らした。13歳時にヘンリー・アスター氏に購入されて再びニューヨーク州に移動。16歳時には後にアメリカンエクリプスの所有者となるコーネリアス・ヴァンランスト氏に購入されて、同じニューヨーク州のダッチェス郡にあるパインプレインズファームに移動した。数年後には再びニュージャージー州に移動したが、21歳時にニューヨーク州ロングアイランドに戻り、その後は各地を移動する事なく種牡馬生活を続けた。そして1808年1月に28歳で他界した。この時期には本馬の種牡馬としての名声は確固たるものとなっており、本馬は大砲が撃たれる軍隊式の葬儀で見送られたという。本馬の墓地の傍に出来た農場はメッセンジャー・ヒル・ファームと命名されている。

本馬の種牡馬成績は優秀だったが、同時代に米国に来たメドレー、シャーク、ダイオメドといった面々に比べるとやや見劣りがしており、後世のサラブレッドに対する影響力は牝駒ミラーズダムセルがアメリカンエクリプスの母になった程度である。しかし本馬の牡駒マンブリノ(本馬の父であるマンブリノとは同名の別馬)の直系からはスタンダードブレッドのアブダラが出て、アブダラはハンブルトニアン(本馬の近親でもある先述のハンブルトニアンとは同名の別馬。そのために一般的には“Hambletonian10”と記載される)を出した。本馬の血を血統表内に複数有するこのハンブルトニアン10は競走馬としては殆ど期待されていなかったようで公式レースには出走していないが、種牡馬としては大成功した。ハンブルトニアン10はさらに数多くの後継種牡馬を残してスタンダードブレッド界を制圧し、現在米国で行われている繋駕速歩競走においては本馬の直系が圧倒的な勢力を有している。

TOP