バードキャッチャー

和名:バードキャッチャー

英名:Birdcatcher

1833年生

栗毛

父:サーヘラクレス

母:グィッチオリ

母父:ボブブーティ

愛国産の種牡馬として史上初めて英国クラシック競走の優勝馬を輩出し後世にも多大な影響を与えた愛国競馬界の誇り

競走成績:2~4歳時に愛で走り通算成績15戦7勝2着2回3着2回(異説あり)

愛国産の種牡馬として史上初めて英国クラシック競走の優勝馬を輩出し、2度の英愛首位種牡馬に輝いた愛国競馬史上初の歴史的大種牡馬で、その影響力は後に愛国や英国のみならず世界中に広まった。そのために愛国の人々は誇りと敬意を込めて本馬を“Irish Birdcatcher”と呼んでいる。

誕生からデビュー前まで

愛国の馬産家ジョージ・ノックス氏が所有する愛国カラーのブラウンスタウンスタッドにおいて、母グィッチオリの5番子として誕生した。当歳時にウイルス性肺炎に罹り、獣医も匙を投げるほどの重い呼吸困難に陥って一時は安楽死も検討されたが、そこから奇跡的な生命力で回復した。体格こそ15.3ハンドと小柄だったが、均整のとれた優れた馬体を有していた。背中は短いものの首や肩の形は整っており、大きくて力強い前脚と、非常に筋肉質の下半身を持っており、弾力性があるストライドで走ったという。また、額の流星と左後肢の長いソックスが特徴の、見栄えが良い馬でもあった。また、青毛の真っ黒な馬だった父サーヘラクレスと異なり栗毛馬であったが、尾の付け根に白い毛があったサーヘラクレスの特徴を受け継いだのか、身体の側面や尾の付け根に白斑があった。これは“Birdcatcher ticks(バードキャッチャー印)”と呼ばれたが、後に本馬の血を引くストックウェルベンドアザテトラークなどにも受け継がれ、“Birdcatcher spots(バードキャッチャー斑)”又はベンドア斑と呼ばれるようになった(ただし本当に“Birdcatcher ticks”が“Birdcatcher spots”の由来なのかに関しては議論があり、この2つは別物であるとする意見も根強いようである)。

ブラウンスタウンスタッドの隣にあったラークロッジの所有者ウィリアム・ディズニー氏という人物によって購入され、引退するまでの全競走を、御当地の愛国カラー競馬場で走った。

競走生活

2歳時にページェットSでデビューしたが着外に終わり、2歳時は1戦未勝利だった。

3歳初戦のマドリッドSでは、マリアやラングフォードといった同父の馬2頭を含む8頭を蹴散らして初勝利を挙げた。次走のミルタウンSも勝利した。このミルタウンSで本馬に敗れたカスニッシェという馬の所有者が、本馬の所有者ディズニー氏にマッチレースを挑んできたので、2頭のマッチレースがカラー競馬場で行われた。結果は本馬の勝利だった。その後はウェリントンS(T10F)に出走したが、マリアの頭差2着に敗れた。しかしピールC(T14F)では驚愕のパフォーマンスを見せた。スタートから騎手の制止を振り切って暴走した本馬は、そのまま圧勝したが、ゴール後も走るのを止めようとせず、さらに1マイル走り続けたという伝説が残っている。その翌日にはマルグレーブHに出走したが、さすがに着外に敗れた。3歳最後のレースでは2着に終わり、3歳時の成績は7戦4勝2着2回となった。

4歳時はキルデアSから始動して、他の出走馬5頭を蹴散らして勝利。さらにウェリントンSでは単走で勝利した。次走のロイヤルプレートも勝利した。続くノーザンバーランドHでは、後にグッドウッドCを2連覇することになるハーカウェイとの対戦となったが、同父のジプシーにも後れを取り、ハーカウェイの3着に敗れた。セプテンバーチャレンジSでは、マーキュリーの3着に敗退。ウェリントンS(T10F)では、ハーカウェイの着外。ドリスSでマリアの着外に敗れたのを最後に現役生活を終えた。4歳時の成績は7戦3勝3着2回だった。

しかし本馬の競走成績に関しては不明瞭な部分も多く、本項は“Thoroughbred Heritage”を参照にして記載したが、“Bloodlines.net”及びその内容を転載している英語版ウィキペディアに載っている成績表は大きく異なる。2歳時1戦着外という点は同じなのだが、3歳時は6戦2勝2着2回3着1回で、カスニッシェとのマッチレースに関しては全く記載無しであるし、4歳時は9戦3勝2着2回3着2回となっており、通算成績は16戦5勝2着4回3着3回ということになる(それなのに英語版ウィキペディアには“Thoroughbred Heritage”の記述を引用して15戦7勝と記載されており、自己矛盾に陥っている)。3・4歳時とも出走したレース名も一部違っている(3歳時のマルグレーブHには9月と10月の2回出走した事になっているし、4歳時のノーザンバーランドHはキングズプレートとなっている)。現在の愛国は、英国と一体化していると言ってもよいほどの競馬先進国であるが、事実上英国の植民地状態だった当時の愛国は英国と比べると遥かに競馬後進国であり、愛ダービーなどのクラシック競走も未創設だったから、確実な記録が無いというのが実際のところなのだろう。それでも“Thoroughbred Heritage”には「彼の全盛期には比類なき評判を得た」と、“Bloodlines.net”には「カラー競馬場で見られた過去最速の馬」と記載されているから、当時の愛国では最強クラスの馬であった事は間違いないようである。

血統

Sir Hercules Whalebone Waxy Pot-8-o's Eclipse
Sportsmistress
Maria Herod
Lisette
Penelope Trumpator Conductor
Brunette
Prunella Highflyer
Promise
Peri Wanderer Gohanna Mercury
Dundas Herod Mare
Catherine Woodpecker
Camilla
Thalestris Alexander Eclipse
Grecian Princess
Rival Sir Peter Teazle
Hornet
Guiccioli Bob Booty Chantcleer Woodpecker Herod
Miss Ramsden
Eclipse Mare Eclipse
Rosebud
Ierne Bagot Herod
Marotte
Gamahoe Mare Gamahoe
Patty
Flight Escape Commodore Tom Tug
Smallhopes
Moll in the Wad Highflyer
Shift
Young Heroine Bagot Herod
Marotte
Old Heroine  Hero 
Snap Mare 

サーヘラクレスは当馬の項を参照。

母グィッチオリは、両親の母父が共にヘロド産駒のバゴットであり、バゴットの3×3だけでなく、ヘロドの4×4×5×5×4という多重クロスを有していた。それでも競走馬としては頑健で、2歳から6歳まで走って10勝を挙げた。しかも5歳時に交配されて受胎し、翌6歳時に初子を産んだ後、再度交配されて受胎した状態で6戦走って2勝を挙げた女丈夫だった。繁殖牝馬としては、本馬の全弟フォーアバラーと全妹グラマクリーも産んでいる。

フォーアバラーは1844年の英セントレジャー優勝馬で、その産駒リーミントンは種牡馬として英国から米国に輸出され、北米首位種牡馬に4度輝き、米国産馬として史上初の英クラシック競走優勝馬となったイロコイを出すなど大活躍している。

また、グラマクリーは双子で産まれて1頭だけ生き残った馬で、第1回愛ダービー馬セリムの祖母となっている。グラマクリーの牝系子孫はかなり発展しており、ナスラム【キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS】、カットアバヴ【英セントレジャー(英GⅠ)】、ルグロリュー【ジャパンC(日GⅠ)・ベルリン大賞(独GⅠ)・ワシントンDC国際S(米GⅠ)】、サンダーガルチ【ケンタッキーダービー(米GⅠ)・ベルモントS(米GⅠ)・フロリダダービー(米GⅠ)・トラヴァーズS(米GⅠ)】、サガミックス【凱旋門賞(仏GⅠ)】、テイクオーバーターゲット【スプリンターズS(日GⅠ)・ライトニングS(豪GⅠ)・ニューマーケットH(豪GⅠ)・ドゥーンベン10000(豪GⅠ)・TJスミスS(豪GⅠ)・グッドウッドH(豪GⅠ)】、ロペデヴェガ【仏2000ギニー(仏GⅠ)・仏ダービー(仏GⅠ)】、日本で走ったフェノーメノ【天皇賞春(GⅠ)2回】などが出ている。→牝系:F11号族②

母父ボブブーティは競走馬としても種牡馬としてもあまり特筆するべき実績は無い。ボブブーティの父シャンティクリアーはウッドペッカー産駒で、ウッドペッカーの父はヘロドである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は愛国ブラウンスタウンスタッド(父サーヘラクレスも繋養されていた)で種牡馬入りした。産駒のザバロンが1845年の英セントレジャーを優勝した翌年1846年に本馬は愛国から英国ニューマーケットのバロウズパドックに移り、その地で2年間種牡馬供用された。その後英国ヨークシャー州のリッチモンド近郊のイースビーアベイスタッドに移動し、さらに2年間この地で種牡馬生活を送った(“Bloodlines.net”には、その前にいったん愛国に戻っていたとされている)。

1850年に愛国ブラウンスタウンスタッドに戻ったが、1852年には英ダービー馬ダニエルオロークや英オークス馬ソングストレス、パークヒルSを勝ち英オークスで2着したバードオンザウィング等の活躍で英首位種牡馬を獲得した。そのために本馬はこの1852年に再度英国に移動した。また、愛国に一時帰国していた際に輩出したナイトオブセントジョージが1854年の英セントレジャーを優勝。同じくハベナも1855年の英1000ギニーを勝利した。1856年には、英1000ギニー馬マンガネス、英セントレジャー馬ウォーロックの活躍により、2度目の英首位種牡馬を獲得した。この1856年には英国競馬史上に名を残す名調教師ジョン・スコット師が所有するカウストンスタッドにおいて、メルボルンなどと一緒に繋養されていたという。

その後も活躍馬を送り出したが、1859年に愛国に帰国した。そして翌1860年3月に本馬は27歳で他界した。本馬の死の経緯に関しては、パトリック・コノリー氏という人物が詳細に書き残しているので、以下に掲載する。この年に、本馬にはクイーンビーという美しい1頭の繁殖牝馬が交配させられようとしたが、既に老齢になっていた本馬はクイーンビーに興味を示さなかった。所有者のディズニー氏は、本馬が生殖能力を失ったと判断して、警察に連絡して本馬を処分するよう依頼した。そして穴の横に立たされた本馬は、やって来たプレストンという名前の警察官によって事務的に銃殺されて遺体は穴の中に崩れ落ちた。そして遺体の頭部はダブリンの国立大学に研究用に寄贈された。この件について当然のように英国内では非難の声がわき起こった。確かに当時の愛国では馬を銃で処分するのは一般的(英国さえも20世紀までは普通に行われていた)であり、畜産に携わる人にとっては用済みとなった家畜を処分するのは当然の事なのかもしれないが、それでも競走馬としても種牡馬としても活躍した本馬を、ディズニー氏は生き物ではなく「単なる物」としてしか見ていなかったらしい。本馬が後世に絶大な影響を残した事で、愛国の誇り“Irish Birdcatcher”を殺害したディズニー氏の悪名は延々と残っており、本人の死後も、本馬を紹介した世界中の文献で叩かれた事であろう。そう考えるとむしろ哀れにも思えてこない事もないが、自業自得であり、擁護する気にもならない。本馬も愛国産馬ではなく、英国産馬であれば、最初から英国の大牧場で供用され、さらに好成績を挙げたはずである(これは筆者の私見ではなく、実際にそういう意見は強い)。

非業の最期を遂げた本馬だが、直子のザバロンが大種牡馬ストックウェルの父となり、また同じく直子のオックスフォードの直系子孫からはブランドフォードが登場している。特にストックウェルの直系子孫は絶大な繁栄を見せ、現在世界中で走っているサラブレッドの多くは本馬の直系子孫であり、また、本馬の血を持たないサラブレッドは一切存在していない。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1842

The Baron

英セントレジャー・ドンカスターC・シザレウィッチH

1843

Caurouch

シザレウィッチH

1843

Chanticleer

ドンカスターC

1849

Augur

英シャンペンS

1849

Bird on the Wing

パークヒルS

1849

Daniel O'Rourke

英ダービー・セントジェームズパレスS

1849

Songstress

英オークス

1850

Exact

ジムクラックS

1851

Ariadne

レイルウェイS

1851

Knight of St. George

英セントレジャー

1851

The Early Bird

トライアルS

1852

Habena

英1000ギニー

1853

Fly-by-Night

アスコットダービー

1853

Manganese

英1000ギニー

1853

Warlock

英セントレジャー・エボアH2回

1854

Saunterer

グッドウッドC

1856

Red Eagle

ケンブリッジシャーH

1857

Lady Trespass

パークヒルS

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