ポマーン

和名:ポマーン

英名:Pommern

1912年生

鹿毛

父:ポリメラス

母:メリーアグネス

母父:セントヒライア

第一次世界大戦勃発年にデビューし、代替開催ながらも英国牡馬クラシック競走を全勝して史上11頭目の英国三冠馬に輝く

競走成績:2~4歳時に英で走り通算成績10戦7勝2着1回

誕生からデビュー前まで

史上11頭目の英国三冠馬。本馬の父でもある大種牡馬ポリメラスを現役時代途中に購入した事で知られる南アフリカのダイヤモンド王ソロモン・バーナート・ジョエル氏により、ポリメラスが種牡馬生活を送っていた英国メイデンアールスタッドにおいて生産・所有され、ジョエル氏の専属調教師だった英国チャールズ・ペック師に預けられた。

競走生活(2歳時)

優雅で見栄えが良い馬体の持ち主であり、将来を嘱望されていたが、6月にアスコット競馬場で出走したデビュー戦のベスボローSでは、その実力を十分に発揮できずに着外に敗れた。7月にニューマーケット競馬場で行われたプリンセスSが2戦目となったが、ここでも着外に敗れた。初勝利を挙げたのは、7月下旬にグッドウッド競馬場において出走した3戦目のリッチモンドS(T6F)で、9頭の対戦相手を蹴散らして2馬身差で楽勝した。2歳4戦目は10月にケンプトンパーク競馬場で出走したインペリアルプロデュースS(T6F)となった。このレースには、この時点において同世代の2歳馬最強と言われていたキングプライアムも出走していた。キングプライアムから8ポンド(3ポンドとする資料もある)のハンデを貰った本馬は、スタートから快調に先頭を走り続け、残り1ハロン地点からは流して、2着キングプライアムに4馬身差をつけて圧勝した。このレースで本馬に騎乗したスティーヴ・ドノヒュー騎手が主戦を務める事になる。斤量差こそあったが内容的には完勝であり、この1914年から10年連続で英国平地首位騎手に輝く事になる名手ドノヒュー騎手が主戦を請け負った事も手伝って、本馬は一躍英国クラシック競走の有力候補に躍り出た。

ところが本馬がデビューした1914年6月に発生したサラエボ事件を引き金として、8月に第一次世界大戦が勃発。英国もこれに参戦したため、戦時中の競馬開催は中止されるのではないかという憶測が競馬関係者の間で飛び交った。結局、多くの競馬関係者の生活保障のために競馬自体は続行されることになったが、開催はニューマーケット競馬場に限られた。そのため、もともとニューマーケット競馬場で開催されている英2000ギニーのみならず、英ダービー・英セントレジャーの2競走もニューマーケット競馬場で代替開催されることになった。インペリアルプロデュースSを最後に、2歳戦を4戦2勝で終えた本馬も、この代替クラシック三冠競走を目標に調整を進めることになった。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月のクレイヴンS(T7F)から始動して、勝ったローゼンデールから3/4差の2着に敗退(資料によっては3馬身1/4差となっている。いずれかが書き誤りであろう)。しかし本馬の斤量132ポンドはローゼンデールより15ポンドも重く、いずれにしても本馬の評価が下がる事は無かった。そのため、10日後に迎えた本番の英2000ギニー(T8F)において、本馬は単勝オッズ3倍で16頭立て1番人気の支持を受けることになった。レースでも期待どおりの強さを発揮し、ゴール前であっさり抜け出すと、2着トーナメントに3馬身差、3着ザヴィジールにはさらに頭差をつける完勝を収め、鞍上のドノヒュー騎手に初の英国クラシックタイトルをプレゼントした。このレースで本馬から5馬身差の5着に敗れたローゼンデールは後にプリンセスオブウェールズSを勝っている。

次走は英ダービーの代替競走ニューダービー(T12F)となった。賞金は本来の6500ポンドから2400ポンドに削減されていた上に、当初の予定よりも2週間遅い開催となったが、それでも本馬を含めて17頭がダービー馬の栄誉を目指して参戦してきた。ここでも本馬は単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持された。2番人気のデンジャーロック(12年前の英国三冠馬ロックサンドの息子で、米国産馬だった)が単勝オッズ11倍だったため、断然人気だった。

スタート直後はデンジャーロックやローゼンデールに続いて先行態勢をとった本馬だが、残り1マイル時点では一度最後方まで位置取りを下げてしまった。しかしこれはドノヒュー騎手の戦法だったようで、最終コーナー手前でスパートすると残り4ハロン地点で早くも先頭。そのまま先頭を走り続けて、2着となったデューハーストS・ニューS・グリーナムSの勝ち馬で後に英チャンピオンSも勝つレットフライに2馬身差、3着ローゼンデールにはさらに3馬身差をつけて勝利を収めた。この時の勝ち方は素晴らしく、グラスゴー・ヘラルド紙は「本当に偉大な馬の走りでした」と評した。勝ちタイムの2分32秒8は、エプソム競馬場で行われてきた英ダービーのレースレコード2分35秒2(1910年にレンベルグが計時)より2秒4も速いものだった(ただし、2度の世界大戦の影響によりニューマーケット競馬場ではこの年を含めて合計10回の英ダービーが施行される事になるが、本馬の勝ちタイムは遅いほうから4番目である)。

夏場は休養に充て、秋は英セントレジャーの代替競走セプテンバーS(T14F)に直行した。何故「ニューセントレジャー」という名称ではないのかと言うと、ドンカスター競馬場の運営当局が、別の競馬場で行われるレースに「セントレジャー」の名前が冠される事を拒否したためであり、他に適当な名称も無いために実施月である9月の名前をそのままレース名にしたものである。ちなみに第一次世界大戦中はずっとセプテンバーSの名称で施行されたが、第二次世界大戦中にはニューセントレジャーの名称で施行されており、頭が固いドンカスター競馬場の経営陣も後には少し態度を軟化させたようである。レースの距離は本来の英セントレジャー(14ハロン132ヤード)よりも132ヤード短い14ハロンに設定された。そして賞金は前年の5分の1である1250ポンドに減額されていた。

英2000ギニーやニューダービーと異なり、このセプテンバーSに向かってきた馬は少なく、本馬を含めて7頭だけだった。それでも、英オークスの代替競走ニューオークスを4馬身差で勝っていたスノーマーテン、ディーSの勝ち馬で愛ダービー2着のアクトイ(ニューダービーでは本馬の4着だった)などの姿もあり、決して楽な対戦相手ではなかった。しかし単勝オッズ1.33倍という圧倒的な1番人気に支持された本馬は、2着にスノーマーテンに2馬身差、3着アクトイにはさらに6馬身差をつけて完勝。1903年のロックサンド以来12年ぶり史上11頭目の英国三冠馬の栄誉を手にした。

翌10月のライムキルンS(T10F)でも、134ポンドを背負いながら、2着レットフライに7馬身差をつけて圧勝。3歳時の成績は5戦4勝となった。

競走生活(4歳時)

当初は3歳限りで引退して種牡馬入りする予定だったが、本馬が4歳時の1月になってジョエル氏が突如本馬の現役続行を発表した。まずは6月にコロネーションCの代替競走ジューンS(T12F)に出走した。ニューダービーと同じニューマーケット競馬場12ハロンで行われたレースであり、単勝オッズ1.44倍の1番人気に支持された。しかし今回は少々苦戦を強いられ、2着ラスリーと3着シルヴァータグに首差で何とか勝利した。この頃、ジョエル氏に対して、本馬を3万ポンドで売って欲しいという申し出があったらしいが、ジョエル氏は5万ポンドでも譲れないとして断った(ちなみに本馬の獲得賞金総額は1万5616ポンドである)。

夏場はレースに出ず、その後は秋の英チャンピオンSを目標とした。この時期には、1歳年下の英2000ギニー馬クラリッシマスや、同じく1歳年下のセプテンバーS勝ち馬ハリーオンが頭角を現しており、本馬との対戦が熱望されていた。しかしジョエル氏は、ハリーオン陣営からのマッチレースの申し出を拒否した上に、クラリッシマスと顔を合わせるはずだった英チャンピオンSをも回避させてしまった(本馬不在の英チャンピオンSはクラリッシマスが勝っている)。正確な理由は不明だが、一般的には本馬が敗北して種牡馬としての評判を落とすリスクをジョエル氏が避けたためであるとされている。結局はそのままレースに出る事なく引退となり、4歳時の出走はジューンSの1戦のみとなった。

競走馬としての評価と馬名に関して

本馬が達成した英国三冠のうち英2000ギニー以外の2戦は、オリジナルのコースと大きく異なるレースだった。この点では、2歳年下の英国三冠馬ゲイクルセイダーや3歳年下の英国三冠馬ゲインズボローと同じである。しかし、後者2頭については英国三冠馬と認めるべきではないという意見が戦後に噴出した(ゲインズボローが父としてハイペリオンを輩出したことでこのような陰口は概ね消滅した)のに対して、本馬についてはそうした意見があまり出ず、“It is usual to rank Pommern as a Triple Crown winner(ポマーンは普通に英国三冠馬として位置付けられます)と言われた。

その理由は以下のとおりである。後者2頭が現役だった時期は、大戦激化の影響で馬の数が限られており、競馬は関係者の生活保障というだけでなく、軍馬の能力検定レースという意味合いも強くなっていたのに対して、本馬の現役時代はまだ馬の数も多かった。また、本馬の三冠競走の走りはどれを取っても完勝と言える内容であり、三冠競走がオリジナルのコースで行われていたとしても、やはり本馬は英国三冠馬になっていただろうという意見が大勢を占めたことによるという。

馬名はジョエル氏の友人だった独国人ポンメルン氏(英語読みではポマーン)の名前に由来する(本馬がニューダービーを勝った17日後に発行された1915年7月2日付けのイヴニングポスト紙に明記されている)。しかし本馬が4歳時の1916年6月に、独国海軍が所有していた有名な戦艦ポンメルン号が、ユトランド沖海戦(デンマークにあるユトランド半島の沖で発生した第一次世界大戦における最大の海戦)において、英国駆逐艦のオンスロート号により撃沈されているため、本馬の名前はポンメルン号や、ポンメルン号の名前の由来となったポンメルン州(当時は独国領土だったが現在はポーランド領であり、ポメラニアという名前で呼ばれるのが一般的である)に由来するという説が流布する結果となった(“A Century of Champions”においてもポンメルン州に由来するという説が採用されている)。もっとも、本馬の現役当時に英国と独国は戦争をしていたのだから、本当は独国の軍艦や地名が由来であっても、それを公にするのを憚ったジョエル氏が友人の名前という事にしてしまった可能性もなきにしもあらずである。

血統

Polymelus Cyllene Bona Vista Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Vista Macaroni
Verdure
Arcadia Isonomy Sterling
Isola Bella
Distant Shore Hermit
Land's End
Maid Marian Hampton Lord Clifden Newminster
The Slave
Lady Langden Kettledrum
Haricot
Quiver Toxophilite Longbow
Legerdemain
Young Melbourne Mare Young Melbourne
Brown Bess
Merry Agnes St. Hilaire St. Simon Galopin Vedette
Flying Duchess
St. Angela King Tom
Adeline
Distant Shore Hermit Newminster
Seclusion
Land's End Trumpeter
Faraway
Agnes Court Hampton Lord Clifden Newminster
The Slave
Lady Langden Kettledrum
Haricot
Orphan Agnes Speculum Vedette
Doralice
Polly Agnes The Cure
Miss Agnes

ポリメラスは当馬の項を参照。

母メリーアグネスの競走馬としての経歴は不明。繁殖入り後にジョエル氏によって500ギニーで購入されており、その時点で母の胎内には既に本馬がいた。そのため、ポリメラスとメリーアグネスを交配させて本馬を誕生せしめたのは、実際にはジョエル氏ではなく、メリーアグネスの前の所有者だったアラン・ジョンストン卿という人物である。

本馬の半姉アガセラ(父サイリーン)の子にはドンナブランカ【コロネーションS】が、全妹メリーポリーの子にはメリーガール【ヴェルメイユ賞】がいる。メリーポリーの牝系子孫には、デュシュカ【仏オークス・バーデン大賞】、ナイトオフ【英1000ギニー・チェヴァリーパークS】、パーシャンハイツ【セントジェームズパレスS(英GⅠ)】、フライングコンチネンタル【チャールズHストラブS(米GⅠ)・ジョッキークラブ金杯(米GⅠ)】、ブッシュレンジャー【モルニ賞(仏GⅠ)・ミドルパークS(英GⅠ)】、日本で走ったゼンノエルシド【マイルCS(GⅠ)】などがいる。

また、本馬の全妹ポリガラの娘ステップシスターは日本に繁殖牝馬として輸入され、その子にヤマイワイ【中山四歳牝馬特別(現桜花賞)】、牝系子孫にオペックホース【東京優駿】、障害競走では無敵を誇った1995年の中央競馬最優秀障害競走馬リターンエースなどがいる。

メリーアグネスの祖母オーファンアグネスは、19世紀における大繁殖牝馬の1頭として知られるリリーアグネス(無敗の英国三冠馬オーモンドの母)の半妹であるから、メリーアグネスはオーモンドの従姉妹の子という事になる。→牝系:F16号族②

母父セントヒライアはセントサイモン直子だが、競走馬としての経歴は不明。血統的には本馬の父方の祖父サイリーンの母アルカディアの半弟であり、サイリーンの叔父という事になる。サイリーンの項にも書いたが、セントヒライアやサイリーンが属する牝系は豪州の競馬研究家ブルース・ロウ氏によって「名競走馬も名種牡馬もあまり登場しない」という誤ったレッテルを貼られてしまっていた。この説が発表された1895年はセントヒライアが4歳の時であり、そのためもあってか、セントヒライアはろくな種牡馬成績を収められずに終わってしまった。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のメイデンアールスタッドで種牡馬入りした。種付け料は300ギニー(当時まだ現役種牡馬だった父ポリメラスの最終的な種付け料と同額)という高額に設定されており、かなりの期待を受けての種牡馬入りだったが、その期待に見合うだけの成功を収めることは出来なかった。それでも何頭かの活躍馬を出し、1935年6月に23歳で他界した。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1919

Fodder

リッチモンドS・チェスターヴァーズ

1919

Pondoland

コヴェントリーS

1920

Shrove

チャイルドS

1921

Battleship

ディーS

1921

Dinkie

ロイヤルハントC

1922

Glommen

グッドウッドC・リブルスデールS

1922

The Monk

サセックスS

1923

Apple Sammy

ジュライS

1923

Harpagon

クレイヴンS

1923

Pantera

リッチモンドS

1924

Adam's Apple

英2000ギニー

1924

Royal Pom

ヨークシャーC・ディーS

1925

Potocki

プリンスオブウェールズS

1927

Glorious Devon

ヨークシャーオークス・パークヒルS

1928

Shell Transport

プリンセスオブウェールズS・ジョッキークラブS

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