和名:デインドリーム |
英名:Danedream |
2008年生 |
牝 |
鹿毛 |
父:ロミタス |
母:デインドロップ |
母父:デインヒル |
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当初は目立たなかったが3歳夏に開花して牝馬として史上初の凱旋門賞・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSのダブル制覇を達成した独国の世界的名牝 |
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競走成績:2~4歳時に仏独伊日英で走り通算成績17戦8勝3着4回 |
あまり期待されていなかった馬がある時期を境に突然目覚めて頂点に立つと言う事例は、サラブレッド歴史上において皆無というわけではなく、この名馬列伝集でも複数の事例を挙げる事が可能であるが、しかしそれでも滅多に起こる事ではない。
独国調教馬である本馬は、欧州競馬の中でも英国や仏国に比べると格下とされている独国においてさえも、それほど注目される存在では無かった。しかし3歳夏に突然開花して仏国の最高峰競走を圧勝し、翌年には英国の最高峰競走も制して欧州競馬の頂点に立ち、現在は独国が産んだ史上最高のサラブレッドとまで言われている。そんなところから、地元の独国でついた渾名は「ドイツ版シービスケット」である。
誕生からデビュー前まで
独国ブリュンマーホフ牧場の生産馬である。幼少期はポニーのようだと言われたほど小柄な馬であり、成長してもやはり小柄なままだった(後にジャパンCに出走した時の馬体重は426kg)。当初はブリュンマーホフ牧場が自身で所有する腹積もりだったらしいが、この小柄な馬体のため見切りをつけられてしまい、2歳6月のバーデンバーデントレーニングセールに出品された。当時は2年前のリーマンショックに端を発する世界金融危機の影響が独国内に色濃く残っており、本馬の取引価格も僅か9千ユーロという安値だった。本馬を購入したのは、元々は家具の小売業者をしていたヘイコ・フォルツ氏だった。
競走馬売買エージェント会社BBAジャーマニーの代表者ディルク・アイゼレ氏の薦めを受けて本馬を購入したフォルツ氏は後に「それは私にとって人生最良の取引だっただけでなく、競馬界においても史上最も優れた取引の1つだったのではないでしょうか」と、嬉しそうにCNNのインタビューに応じている。
フォルツ氏家族の馬主名義ゲルス・ブルグ・エバスタインの所有馬となった本馬は、独国ペーター・シールゲン調教師に預けられた。シールゲン師は騎手時代に欧州における年間平地最多勝利記録273勝(資料によっては271勝となっている)を樹立し、5度の独首位騎手にも輝いた名手(ジャパンC勝ち馬ランドや、本馬の父ロミタスの主戦を務めた事もあった)であるだけでなく、調教師としても実績を挙げていた。国外遠征にも積極的であり、かつてバーデン大賞勝ち馬タイガーヒルを凱旋門賞に参戦させて3着と好走させ、独ダービー優勝馬ボリアルも何度か国外に遠征させてコロネーションCを勝たせていた。小柄な馬体だった本馬だが、初めて見たシールゲン師は「みんな一緒に大騒ぎしましょう」と言ったほどその素質に惚れ込んだという。
競走生活(2歳時)
2歳6月に仏国アルザス地方(アルフォンス・ドーデの短編小説「最後の授業」で描かれている通り、仏国と独国の狭間で翻弄された地域であり、地理的には独国との境に当たる)にある小規模競馬場ヴィサンブール競馬場で行われたレネヘマール賞(T1200m)で、ステファン・ブリュー騎手を鞍上にデビューした。スタートしてすぐに先行体勢を取ると、残り300m地点から内側を鋭く伸びて、2着キロルスに2馬身半差をつけて快勝した。
次走は7月に独国ケルン競馬場で行われたリステッド競走オッペンハイムレネン(T1400m)となった。ここでは後の独2000ギニーでエクセレブレーションの3着するアカディウスが単勝オッズ2倍の1番人気で、フィリップ・ミナリック騎手騎乗の本馬は単勝オッズ4.2倍の2番人気だった。前走と異なり本馬は最後方から競馬を進め、残り200m地点ではアカディウスに次ぐ2番手まで上がってきたが、ここから失速してしまい、次走でGⅢ競走ツークンフツレネンを勝つサロナに差し返されて、勝ったアカディウスの5馬身3/4差3着に敗れた。
この段階でまだそれほどの実績を挙げていなかった本馬だが、遠征に積極的なシールゲン師は早くも本馬を国外に向かわせた。
まずは8月に隣国仏国のドーヴィル競馬場で行われたリステッド競走クリテリウムドフォンユーロピーンドレルヴァージュ(T1600m)に出走した。独国からやって来た無名馬の参戦では評価されるはずもなく、単勝オッズ22倍で7頭立ての最低人気だった。マキシム・ギュイヨン騎手が手綱を取る本馬は好位を進み、後方に居たクラマーが上がっていくとそれを追う様に上がっていった。そしてゴール前におけるクラマー、タンオゥタンとの接戦を3/4馬身制してトップゴール。しかしゴール前の攻防でタンオゥタンに対する進路妨害を取られて3着に降着となり、2位入線のクラマーが繰り上がって勝利馬となった。
ちなみにクラマーは次走のロイヤルロッジSで2着し、その次のホーリスヒルSを勝利する事になるが、そのロイヤルロッジSでクラマーより10馬身も前でゴールしたのは「あの」フランケルだった。単純計算ではこの段階における本馬とフランケルの実力差は9馬身1/4差だった事になるわけだが、距離適性が異なる本馬とフランケルは後に進む路線が全く異なり、競走馬時代には顔を合わせる機会も無かった(繁殖入り後は2頭の間に子が産まれている)から、自分で書いておいて何だが、こんな比較は全く無意味である。
さて、降着になったと言ってもトップでゴールしたわけであり、期待したシールゲン師は本馬の次走をマルセルブサック賞(仏GⅠ・T1600m)とした。しかしオマール賞など3戦無敗のヘレボリン、モイグレアスタッドSを勝ってきたミスティフォーミー、翌月のBCマイルで前人未到の3連覇を達成するゴルディコヴァの半妹という期待馬ガリコヴァ、カルヴァドス賞など4連勝中のマムビア、前走のフランクホイットルパートナーシップ条件Sでフランケルの2着(ただし着差は13馬身)してきたレインボースプリングスなどが出走しており、後に主戦となる独平地首位騎手5回のアンドレアシュ・シュタルケ騎手と初コンビを組んだ本馬は単勝オッズ34倍で8頭立て6番人気だった。レースでは後方を進み、残り400m地点で仕掛けたが末脚不発。勝ったミスティフォーミー(この年のカルティエ賞最優秀2歳牝馬に選出。翌年も愛1000ギニー・プリティポリーSを勝っている)から5馬身3/4差の6着に敗れた。3着レインボースプリングスとは1馬身3/4差であり、単純計算ではフランケルと本馬の実力差は14馬身3/4差という事になるが、くどいのでこの辺で止めておく。
独国に戻ってきた本馬は、前走から3週間後のヴィンターケーニヒン賞(独GⅢ・T1600m)に出走。単勝オッズ6倍の3番人気(11頭立て)と、一定の評価を受けた。シュタルケ騎手が1番人気のエグレットガルゼット(後の独オークスで英オークス馬ダンシングレインの3着している)に騎乗したためにミナリック騎手が騎乗した本馬は、逃げるエグレットガルゼットとジュママの2頭を早い段階から追いかけたが、前2頭の争いには最後まで追いつけず、勝ったジュママから1馬身3/4差の3着に敗れた。2歳時の成績は5戦1勝だった。
競走生活(3歳時)
3歳時は地元独国ではなく、伊国から始動した。まずは4月にサンシーロ競馬場で行われたリステッド競走セレーニョ賞(T1600m)に出走。A・ゴリツ騎手が騎乗する本馬は好スタートから下げて馬群の中団を追走。しかし馬群に包まれて抜け出せなくなってしまい、ようやく外側に持ち出して追い上げるも時既に遅く、勝ったベジークから僅か1馬身差の4着に敗れた。
次走は伊ダービー(伊GⅡ・T2200m)となった。マルセルブサック賞以降の3戦は牝馬限定競走だったのに、ここでいきなり牡馬混合競走に出た意図は資料に記載が無く不明であるが、シールゲン師には伊ダービーに出てくる牡馬相手なら勝負になるという目算があったのだろう。3戦無敗のクラッカージャックキングが単勝オッズ2.5倍の1番人気で、シュタルケ騎手騎乗の本馬は単勝オッズ8.5倍の4番人気だった。本馬以外の出走11頭は全て牡馬だったから、その中で4番人気というのは評価されたようにも思えるが、他国の二線級馬の草刈り場と化していた当時の伊国競馬のレベルを鑑みると、あまり高評価とは言えない。現にこの伊ダービーも1971年のグループ制度導入からずっとGⅠ競走だったのに、2009年にGⅡ競走に降格となっていた。
本馬は馬群の中団につけると、直線に入って残り600m地点でスパート。しかし先に抜け出したクラッカージャックキングとウィリーカザルスの2頭に屈して、クラッカージャックキングの4馬身半差3着に敗れた。勝ったクラッカージャックキングは1か月後の仏ダービーに向かったが、リライアブルマンの15着と惨敗しており、この年の伊ダービーのレベルもそんなものだった。
一方の本馬は伊国に留まり、3週間後の伊オークス(伊GⅡ・T2200m)に出走した。シュタルケ騎手騎乗の本馬が単勝オッズ1.67倍の1番人気に支持され、伊国のGⅢ競走ドルメロ賞の勝ち馬アダマンティナが単勝オッズ4.05倍の2番人気となった。今回も馬群の中団を進み、直線に入って残り600m地点からスパートを開始。逃げ粘るグッドカルマに残り400m地点で並ぶと、残り300m地点で突き抜けて、2着グッドカルマに6馬身半差をつけて圧勝。さすがにここでは実力が違った。
続いて仏国に向かい、サンクルー競馬場でマルレ賞(仏GⅡ・T2400m)に出走。ロワイヨモン賞を勝ってきたテストステロンが単勝オッズ3倍の1番人気、前走クレオパトル賞でガリコヴァの2着してきたアドベンチャーシーカーが単勝オッズ4.33倍の2番人気、3着降着となったクリテリウムドフォンユーロピーンドレルヴァージュにおいて本馬に乗っていたギュイヨン騎手が騎乗する本馬が単勝オッズ7.5倍の3番人気となった。レースでは後方待機策を採り、最終コーナーで外側を大きく回って直線に入ってきた。そして残り300m地点から鋭く追い上げてきたが、コースロスが響いて、勝ったテストステロンから僅か1馬身半差の5着に敗れた。
独国に戻ってきた本馬は、前走から4週間後の7月下旬にベルリン大賞(独GⅠ・T2400m)に出走した。オイロパ賞・ギョームドルナノ賞・ゲルリング賞などの勝ち馬で前走ミラノ大賞2着のスカーロ、独オークス・バーデン大賞・ハウプトシュタットレジオン大賞などの勝ち馬で前走バーデン企業大賞を勝ってきたナイトマジック、ハンザ賞を勝ってきたルーカスクラナッハ、ジョッキークラブSの勝ち馬ダンディノ、GⅢ競走ヘルツォークフォンラティボアレネンの勝ち馬で、独2000ギニーではエクセレブレーションの2着だったゲレオン、パリ大賞・ニエル賞の勝ち馬カヴァルリーマンなどが出走してきて、対戦相手のレベルは伊ダービーや伊オークスやマルレ賞と比べて格段に上だった(スカーロは前年の独年度代表馬で、ナイトマジックは一昨年の独年度代表馬だった)。シュタルケ騎手が着乗する本馬は単勝オッズ10.9倍だったが、人気順は10頭立てで上から7番目であり、あくまでも伏兵という扱いだった。
スタートが切られるとダンディノやカヴァルリーマンが先頭に立ち、ナイトマジックが先行、本馬が馬群の中団やや後方の7番手、単勝オッズ2.6倍の1番人気馬スカーロや単勝オッズ4.9倍の2番人気馬ルーカスクラナッハはさらに後方からレースを進めた。残り1000m地点でナイトマジックが先頭に立つと後方馬勢も動き出し、本馬も残り600m地点で本格的にスパートした。直線入り口の残り500m地点ではまだ6番手だったが、残り300m地点で外側から一気に突き抜けて先頭に立ち、2着スカーロに5馬身差をつけて圧勝。内容的には伊オークスに近かったが、対戦相手のレベルを考えるとその価値は遥かに上だった。
次走となった9月上旬のバーデン大賞(独GⅠ・T2400m)では、前走4着のナイトマジックに加えて、この年の独ダービー馬ヴァルドパルク、前年の加国際S勝ち馬ジョシュアツリー、ロワイヤリュー賞勝ち馬マリアロイヤル、ラインランドポカル3着馬でヴィンターファヴォリテン賞など独国のGⅢ競走2勝のシルヴァーナーが参戦してきて、本馬を含めた合計6頭による戦いとなった。前走ギョームドルナノ賞でガリコヴァの6着に敗れていたヴァルドパルクが単勝オッズ2.6倍の1番人気、完全に主戦として固定される事になったシュタルケ騎手騎乗の本馬が単勝オッズ2.9倍の2番人気、ナイトマジックが単勝オッズ5.4倍の3番人気、ジョシュアツリーが単勝オッズ5.6倍の4番人気と、人気は割れていた。しかしそんな割れた人気を本馬は一刀両断。スタートから快調に先頭を飛ばすナイトマジックから2~3馬身ほど後方の2番手を追走すると、直線入り口の残り400m地点で先頭に立った後は独走。2着ナイトマジックに6馬身差をつけて圧勝した。
凱旋門賞
このバーデン大賞からしばらく経った頃、本馬の所有権の半分を日本の社台ファーム代表の吉田照哉氏が購入した(正式に共同名義となったのはバーデン大賞から25日後の9月29日)。そのため次走については日本の秋華賞という案もあったが、憧れの大舞台で本馬を走らせてみたいというフォルツ氏やシールゲン師達の主張を吉田氏が汲んだため、10万ユーロの追加登録料を支払って、10月2日の凱旋門賞(仏GⅠ・T2400m)に参戦する事になった。
仏国のみならず欧州競馬の頂点と言える競走だけに、当然対戦相手のレベルの高さはベルリン大賞やバーデン大賞より遥かに上だった。前年の英ダービー・凱旋門賞優勝馬で、エクリプスS・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS2着のワークフォース、コックスプレート2連覇・アンダーウッドS・ヤルンバS・マッキノンSと豪州でGⅠ競走を5勝した後に愛国に移籍して、タタソールズ金杯・エクリプスS・愛チャンピオンSを勝って欧州10ハロン路線の最強馬となっていたソーユーシンク、前年のサンタラリ賞・仏オークスとこの年のサンクルー大賞・コリーダ賞・フォワ賞を勝っていた前年の凱旋門賞3着馬サラフィナ、本馬が出走したマルセルブサック賞では5着だったが、その後にヴェルメイユ賞・ギョームドルナノ賞・クレオパトル賞を勝ち仏オークス2着と活躍していたガリコヴァ、前年の英オークス・愛オークス・エリザベス女王杯・香港Cの勝ち馬で、特にエリザベス女王杯では日本人の度肝を抜いたスノーフェアリー、仏ダービー・ニエル賞を勝ってきたリライアブルマン、愛ダービー・セクレタリアトS勝ち馬で英ダービー2着のトレジャービーチ、コロネーションC・レーシングポストトロフィー・ベレスフォードSの勝ち馬でカルティエ賞最優秀2歳牡馬にも選ばれていたセントニコラスアビー、パリ大賞を勝ちニエル賞で2着してきたメオンドル、英セントレジャーを勝ってきたマスクドマーヴェル、マルレ賞で本馬を破った後にヴェルメイユ賞で2着してきたテストステロン、オカール賞・シャンティ大賞勝ち馬でサンクルー大賞3着のシルヴァーポンド、ヴェルメイユ賞で3着してきたミネルヴ賞勝ち馬シャレータ、そして日本からも天皇賞春・産経大阪杯の勝ち馬で皐月賞2着、前哨戦フォワ賞でも2着してきたヒルノダムール、宝塚記念・セントライト記念・東京スポーツ杯2歳Sの勝ち馬で前年の凱旋門賞2着のナカヤマフェスタが参戦してきて、本馬を含む上記16頭の戦いとなった。
サラフィナが単勝オッズ5倍の1番人気で、以下、単勝オッズ5.5倍のソーユーシンク、単勝オッズ8倍のガリコヴァ、単勝オッズ11倍のヒルノダムールとワークフォース、単勝オッズ13倍のリライアブルマンとメオンドル、単勝オッズ15倍のスノーフェアリーとマスクドマーヴェルと続き、本馬は単勝オッズ21倍の10番人気(地元仏国で販売された馬券では単勝オッズ28倍の11番人気)だった。
スタートが切られると、トレジャービーチが先頭に立ち、セントニコラスアビー、シャレータ、ヒルノダムールが先行、サラフィナ、ソーユーシンク、ガリコヴァ、ワークフォース、リライアブルマン、スノーフェアリー、ナカヤマフェスタといった主だった馬達が固まって中団馬群を形成。その中に本馬も混じっており、位置取りとしては先頭と最後方のちょうど中間辺りだった。直線に入る手前でセントニコラスアビーが先頭に立ち、そこに先行していたシャレータが並びかけて叩き合いとなった。しかし残り400m地点でシャレータの後方にいた馬群の中から1頭の馬が飛び出し、「まるで鳥かグレイハウンドのような」と評されたほどの勢いで、セントニコラスアビーやシャレータを残り200m地点で一気に抜き去って先頭に踊り出た。7番手で直線に入ってきたシュタルケ騎手鞍上の本馬だった。ゴール前では完全に独走状態となり、2着シャレータに5馬身差をつけて圧勝。勝ちタイム2分24秒49は、1997年にパントレセレブルが計時した2分24秒6を更新するコースレコードだった。
牝馬が凱旋門賞を勝ったのは2008年のザルカヴァ以来3年ぶり、独国調教馬が凱旋門賞を勝ったのは1975年のスターアピール以来36年ぶり史上2頭目だった。また、シュタルケ騎手は独国出身騎手として史上初の凱旋門賞制覇を果たした(スターアピールが勝ったときに乗っていたのは英国人のグレヴィル・スターキー騎手)。なお、3着スノーフェアリーまで牝馬が独占したが、これはオールアロングが勝った1983年(このときは4着まで牝馬独占)以来であり、牡馬勢はソーユーシンクの4着が最高で、ヒルノダムールは10着、ナカヤマフェスタは11着と振るわなかった。
ジャパンC
欧州競馬の頂点に立った本馬の次走はジャパンC(日GⅠ・T2400m)だった。スノーフェアリーの項でも触れたように、2008年から海外の有力馬及び有力騎手の来日を促すために国際競走シリーズのジャパン・オータムインターナショナルが創設され、予め指定された特定の競走を勝った馬がジャパンCに出走して入着した場合には報奨金が加算されるようになっていた。凱旋門賞は当然報奨金の対象となる指定競走であり、本馬が参戦した理由の1つとなっていた(海外の資料には、「おそらく吉田氏の圧力による出走」と身も蓋もない理由が書かれている)。
対戦相手は、阪神ジュベナイルフィリーズ・桜花賞・優駿牝馬・ヴィクトリアマイル・天皇賞秋の勝ち馬で前年のジャパンCでも1位入線したが進路妨害で2着に降着となっていたブエナビスタ、8か月前のドバイワールドCで日本馬初優勝を果たしていた前年の皐月賞・有馬記念勝ち馬ヴィクトワールピサ、前年の東京優駿勝ち馬エイシンフラッシュ、前走の天皇賞秋をレコード勝ちしてきたトーセンジョーダン、この年の東京優駿と菊花賞で三冠馬オルフェーヴルの2着だった青葉賞勝ち馬ウインバリアシオン、天皇賞秋で3着してきた青葉賞勝ち馬ペルーサ、繰り上がりながら前年のジャパンCを勝利したローズキングダム、3年前の菊花賞馬で一昨年のジャパンC2着馬オウケンブルースリ、前年の天皇賞春勝ち馬ジャガーメイルなどの日本馬勢、それに前走凱旋門賞2着のシャレータ、加国際S・ポモーヌ賞を勝ってきたサラリンクス、マンハッタンHの勝ち馬ミッションアプルーヴドといった海外馬勢だった。
2週間前のエリザベス女王杯で、凱旋門賞で本馬から5馬身1/4差3着だったスノーフェアリーが2連覇を達成していた事も後押しして、本馬が単勝オッズ3.3倍の1番人気に支持され、前年の忘れ物を取りに来たブエナビスタが単勝オッズ3.4倍の2番人気、前走の天皇賞秋で上がり600m33秒9の豪脚を繰り出したペルーサが単勝オッズ7.5倍の3番人気、ドバイワールドC以来の実戦となるヴィクトワールピサが単勝オッズ10.9倍の4番人気となった。
スタートが切られるとミッションアプルーヴドが先頭に立ち、トーセンジョーダンが2番手を追走。ブエナビスタは馬群の中団好位につけ、本馬は馬群の後方、ヴィクトワールピサは最後方からレースを進めた。そして直線入り口13番手から大外を追い込んできた本馬だったが、最初の1000m通過が61秒8というスローペースの罠に嵌って末脚不発に終わり、トーセンジョーダンとの競り合いを制して勝ったブエナビスタから3馬身半差の6着に敗れた。
3歳時の成績は8戦4勝で、この年のカルティエ賞最優秀3歳牝馬を受賞した(年度代表馬にもノミネートされていたが、これはフランケルが受賞した)。独国調教馬が欧州の年度表彰カルティエ賞でタイトルを受賞したのは史上初だった(2002年のカルティエ賞最優秀3歳牝馬カッツィアは独国産馬だが、3歳時にはゴドルフィンに移籍しており独国調教馬ではなくなっていた)。また、1957年のタイトル創設以降における史上最高得票率となる90%の支持を集めて独年度代表馬にも選出されている。
競走生活(4歳時)
4歳時は5月に地元独国のバーデンバーデン競馬場で行われたバーデン企業大賞(独GⅡ・T2200m)から始動して、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。ここではスタートから馬なりのまま好位につけ、残り200m地点で仕掛けてすぐに先頭に立ち、後は馬なりのまま走り続けるという内容で、2着オヴァンボクイーンに3/4馬身差で勝利した。
次走はサンクルー大賞(仏GⅠ・T2400m)となった。本馬と対戦するのを嫌がった他馬陣営の回避が多く、対戦相手は、前年のジャパンCで本馬から1馬身1/4差の7着だったシャレータ、前年の凱旋門賞で6着だったメオンドル、同9着だったガリコヴァの3頭だけとなった。本馬が単勝オッズ1.8倍の1番人気、凱旋門賞から直行してきたガリコヴァが単勝オッズ4.33倍の2番人気、前走コリーダ賞でソレミアの鼻差2着してきたシャレータが単勝オッズ6倍の3番人気、前走ラクープで2着してきたメオンドルが単勝オッズ9倍の最低人気となった。スタートが切られるとシャレータが先頭に立ち、本馬が2番手、メオンドルが3番手、ガリコヴァが最後方からレースを進めた。残り500m地点で本馬が先頭に立ったが、残り300m地点でシャレータに差し返されると失速。他の2頭にも一気にかわされ、勝ったメオンドルから3馬身1/4差の4着最下位に敗れた。
その後は初めて英国に向かい、キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(英GⅠ・T12F)に挑戦した。前年のジャパンCに出走する前から本馬をこのレースに出してみたかったのですと吉田氏はレース後に語っている。前年の同競走優勝馬で前走エクリプスSも勝ってきたナサニエル、前年の凱旋門賞では5着だったが、その後にBCターフを勝ちコロネーションC2連覇も果たしてきたセントニコラスアビー、当初は独国調教馬だったが仏国に転厩して開花し、前年のメルボルンCと香港ヴァーズという珍しいGⅠ競走2連勝を果たしていたドゥーナデン、前年の凱旋門賞で15着と惨敗したリライアブルマン、やはり前年の凱旋門賞で16着と惨敗したマスクドマーヴェル、グレートヴォルティジュールS・ハードウィックS勝ち馬でBCターフ2着・英セントレジャー3着のシームーン、英セントレジャー2着馬ブラウンパンサー(後に愛セントレジャーなどに勝利)、それに2か月前の東京優駿を勝って遠征してきたディープブリランテ(ブエナビスタと同馬主)など9頭が対戦相手となった。
デビューから8戦して着外無しのシームーンが単勝オッズ3倍の1番人気に押し出され、2連覇を目指すナサニエルが単勝オッズ3.5倍の2番人気、セントニコラスアビーが単勝オッズ6倍の3番人気、ドゥーナデンが単勝オッズ9倍の4番人気で、前走最下位の上に独国調教馬が同競走で入着した事例は皆無(1959年の同競走で独2000ギニー・独ダービー馬オルシニがアルサイドの5着に入ったのが最高成績)という事実も嫌われた本馬は単勝オッズ10倍の5番人気だった。
スタートが切られるとセントニコラスアビーのペースメーカー役ロビンフッドを差し置いてドゥーナデンが先頭に立ち、それを追いかけたロビンフッドがしばらくして先頭を奪取した。そして本馬が4番手につけ、ナサニエルやディープブリランテがその直後、シームーンやセントニコラスアビーはさらに後方からレースを進めた。残り3ハロン地点でナサニエルが内を突いて仕掛けると本馬も外側から併走するように加速。直線に入ってすぐにナサニエルをかわして前に出ると、残り1ハロン半地点で先頭に立った。そこへ内側から外側に持ち出したナサニエルが後方から襲い掛かってきて、残り半ハロン地点で並びかけてきた。しかし本馬が凌ぎきって鼻差で勝利。牝馬として史上初の凱旋門賞・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSダブル制覇を達成すると同時に、独国調教馬による史上初のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS制覇も達成した(8着に終わったディープブリランテはその後に屈腱炎を発症したためこれが現役最後のレースとなった)。
その後は凱旋門賞2連覇、そしてジャパンC再挑戦を目指していったん本国に戻り、9月のバーデン大賞(独GⅠ・T2400m)を前哨戦として選んだ。独ダービー・ダルマイヤー大賞を連勝してきたパストリアス、独ダービーで2着してきたウニオンレネン勝ち馬ノヴェリスト、独ダービー3着馬ジローラモ(次走のオイロパ賞を勝利)、バーデン企業大賞2着後にハンザ賞を勝っていたオヴァンボクイーン、ブラジルのGⅠ競走リネアヂパウラマシャド大賞の勝ち馬エネルジアダヴォスなどが対戦相手となった。本馬が単勝オッズ1.7倍の1番人気、ノヴェリストが単勝オッズ3.8倍の2番人気、パストリアスが単勝オッズ5.1倍の3番人気となった。
スタートが切られるとネクストヴィジョンが先頭に立ち、本馬を含む有力馬勢は好位集団を形成して追走した。レースはスローペースで推移し、最後の瞬発力勝負となった。残り300m地点で馬群の中から本馬が抜け出して押し切りを図った。後続馬勢も必死で食い下がってきたが、本馬がそれを抑えて2着オヴァンボクイーンに半馬身差で勝利。バーデン大賞の2連覇は史上10頭目だったが、牝馬が連覇したのはハンガリーの伝説的名牝キンチェム以来史上2頭目だった。
また、ここで本馬から3馬身半差の4着に敗れたノヴェリストは翌年にバーデン企業大賞・サンクルー大賞・キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・バーデン大賞・凱旋門賞と、この年の本馬と全く同じ出走スケジュールを組み、バーデン大賞までの4戦全てを勝利する事になる(凱旋門賞は直前の熱発で回避)。本馬とノヴェリストは所有者も管理調教師も違うのだが、ノヴェリスト陣営は本馬を参考にしたのだろうか。
さて、本馬の次走は凱旋門賞の予定だったが、予想外の事態がそれを阻んだ。本馬が調教を積まれていたケルントレーニングセンターで、馬伝染性貧血に陽性反応を示す馬が発見されたのである。日本でも種牡馬として大活躍した東京優駿勝ち馬クモハタの命を奪い、テンポイントの祖母クモワカを誤診により殺処分寸前まで追い込んだ事で悪名高きこの病に本馬は罹患しなかったが、ケルントレーニングセンターにいた約300頭の馬全てに3か月間の移動禁止命令が出たため、本馬はその直後の凱旋門賞に参戦することが不可能となってしまった(ジャパンCも同じく参戦不可となった)。
この年の凱旋門賞にはオルフェーヴルが参戦予定であり、日本の競馬ファンの中には強敵が1頭消えたとして喜ぶ者もいた(筆者もそうした発想が一瞬たりとも脳裏をよぎらなかったと言ったら嘘になる)。オルフェーヴルがゴール直前でソレミアに差されたのは、そんな悪しき日本の競馬ファンに対する天罰だったのかも知れない。
そして凱旋門賞2連覇の夢を絶たれた本馬は、そのまま4歳時4戦3勝で現役を引退した。シールゲン師は翌年のドバイシーマクラシックに本馬を出したかったらしいが、吉田氏が反対したために引退となったのだと、2012年12月21日付けレーシングポスト紙の記事に載っている。この年はカルティエ賞には縁が無かったが、79%の得票率で2年連続の独年度代表馬に選出されている。
シールゲン師は「彼女は非常に容易であり、誰でも彼女に乗ることができました」と語っており、後述するようにゲート入りが悪いという問題があった父ロミタスと異なり、気性面の問題は無かった。シールゲン師はそれに付け加えて「スターティングゲートが開いた後だけは別馬でした」とも語っており、実戦のときだけ闘争心を顕わにするタイプの競走馬だったようである。
血統
Lomitas | Niniski | Nijinsky | Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | ||||
Flaming Page | Bull Page | |||
Flaring Top | ||||
Virginia Hills | Tom Rolfe | Ribot | ||
Pocahontas | ||||
Ridin' Easy | Ridan | |||
Easy Eight | ||||
La Colorada | Surumu | Literat | Birkhahn | |
Lis | ||||
Surama | Reliance | |||
Suncourt | ||||
La Dorada | Kronzeuge | Neckar | ||
Kaiserkrone | ||||
Love In | Crepello | |||
Tudor Love | ||||
Danedrop | デインヒル | Danzig | Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | ||||
Pas de Nom | Admiral's Voyage | |||
Petitioner | ||||
Razyana | His Majesty | Ribot | ||
Flower Bowl | ||||
Spring Adieu | Buckpasser | |||
Natalma | ||||
Rose Bonbon | High Top | Derring-Do | Darius | |
Sipsey Bridge | ||||
Camenae | ヴィミー | |||
Madrilene | ||||
Lady Berry | Violon d'Ingres | Tourment | ||
Flute Enchantee | ||||
Moss Rose | Mossborough | |||
Damasi |
父ロミタスはシルヴァノの項を参照、と書いても良いのだが、改めて紹介しておく。ロミタスは現役成績19戦10勝。デビューから4戦無敗で迎えた独ダービー(独GⅠ)では2着だったが、その後にベルリン銀行大賞(独GⅠ)・バーデン大賞(独GⅠ)・オイロパ賞(独GⅠ)と3連勝して、1991年の独年度代表馬に選ばれた。古馬になっても走り、ゲルリング賞(独GⅡ)・ハンザ賞(独GⅡ)を勝利。その後に米国に移籍したが好結果は残せなかった。非常にゲート入りが悪い馬だったため、「馬の言葉が分かる男」として日本でも知られるピンフッカーのモンティ・ロバーツ氏(凱旋門賞2連覇のアレッジドを育成した人物)によって手懐けられて克服したという逸話や、3歳時に身代金を要求する殺害予告が送られてきたため24時間体制で警備されていたが、やはり心配に思った陣営にロバーツ氏が進言したため、英国のレスター・ピゴット騎手に匿われた後に米国に移籍したという逸話がある。競走馬引退後は独国フェアホフ牧場で種牡馬入りして、1998年の独新種牡馬ランキングで1位になった。2002年から2006年までは英国ダルハムホールスタッドで種牡馬生活を送り、2007年にフェアホフ牧場に戻った。そして本馬がデビューした直後の2010年8月に疝痛に伴う合併症のため他界した。2011年には本馬の活躍などにより仏首位種牡馬を獲得している。
ロミタスの父ニニスキはニジンスキー産駒で、現役成績14戦6勝、愛セントレジャー(愛GⅠ)・ロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)・ジェフリーフリアS(英GⅡ)・ジョンポーターS(英GⅡ)・オーモンドS(英GⅢ)を勝ち、コロネーションC(英GⅠ)で2着、英セントレジャー(英GⅠ)で3着した長距離馬で、種牡馬としてもどちらかと言えば長距離向きの活躍馬を多く出して成功した。
母デインドロップはクールモアグループと、ロバート・サングスター氏のスウェッテンハムスタッドによって共同生産された愛国産馬だが、競走馬としては不出走に終わった。繁殖入り後に幾度かの転売を経て、2005年9月にブリュンマーホフ牧場にやって来た。しかし本馬を産んで間もない2008年10月に再度セリに出されて仏国に転出。本馬が凱旋門賞を勝つ直前の2011年9月にクールモアグループに戻って繁殖生活を続けている。
幾度も転売されている点から誤解されやすいが、デインドロップの牝系は比較的優秀である。確かにデインドロップの母ローズボンボンも6戦1勝と凡庸な競走馬だったが、ローズボンボンの母レイディベリーはロワイヤルオーク賞(仏GⅠ)を勝った名牝であるし、ローズボンボンの半兄にはルネンジョーン【パリ大賞(仏GⅠ)】、半妹にはインディアンローズ【ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、半弟にはヴェールタマンド【ガネー賞(仏GⅠ)】がいる。レイディベリーの牝系子孫にはグルームダンサー【リュパン賞(仏GⅠ)】、ファルコ【仏2000ギニー(仏GⅠ)】、プルマニア【サンクルー大賞(仏GⅠ)】、日本で走ったキンシャサノキセキ【高松宮記念(GⅠ)2回】がいる。近親と言うには少し遠いが、サクラローレルやタイムパラドックスも同じ牝系に属する。これまた近親とは言えないが、凱旋門賞を勝った名牝コロネーションは本馬の7代母ゼラニウムの半姉エスメラルダの子であり、やはり同じ牝系である。元々この牝系はマルセル・ブサック氏が育てた仏国の土着牝系であり、本馬は独国産馬と言っても独国土着の血はそれほど濃くは無い。→牝系:F14号族②
母父デインヒルは当馬の項を参照。
競走馬引退後
競走馬を引退した本馬は日本の社台スタリオンステーションで繁殖入りするだろうという大方の予想に反して、英国ニューセルズパークスタッドで繁殖入りした(シールゲン師は、本馬が日本でディープインパクトなど優れた種牡馬との間に素敵な馬を産む事を願いますとまでコメントしていたのだが)。初年度の交配相手に指名されたのは同い年のフランケルであり、当面はフランケルを付け続ける目的で欧州に留まっているのではないかと推察される。翌2014年に初子となる牝駒が誕生。その後もやはりフランケルと交配されている。