バイアリーターク

和名:バイアリーターク

英名:Byerley Turk

1680年生

黒鹿

父:?

母:?

母父:?

オスマン・トルコ帝国から英国に渡り軍馬として活躍した後に種牡馬入りしたサラブレッド三大始祖の1頭

競走成績:10歳時に英で走り通算成績1戦1勝

英国に渡るまで

サラブレッド三大始祖の1頭。サラブレッド三大始祖の中では最も早い時期に英国に渡った馬であり、(正確な年は不明だが)生年も最も早い。

元々はオスマン・トルコ帝国の軍馬であったと言われている。1688年に当時のオランダ総督ウィレムⅢ世(この直後に勃発した名誉革命において、叔父である英国王ジェームズⅡ世を追放して、ジェームズⅡ世の娘である妻のメアリーⅡ世と共に即位して、英国王ウィリアムⅢ世になっている)が、オスマン・トルコ帝国と戦ったブダペスト包囲戦において、義勇軍として参戦していた英国第6近衛竜騎兵隊所属のロバート・バイアリー大尉が、敗走するオスマン軍からこの馬を奪取したと言われている。1660年産まれのバイアリー大尉は、「バイアリーのブルドッグ隊」と呼ばれる勇猛果敢な私兵を率いて英国王チャールズⅠ世の下で活躍したアンソニー・バイアリー大佐の息子であり、父同様に勇敢な武人として知られていた。

本馬の正確な生年は不明であるが、捕獲時に8歳前後であったために1680年生まれであると推察する説もあれば、1679年生まれ、1684年生まれであるとする説もある。もっともブダペスト包囲戦捕獲説には異論もあり、スウェーデンの研究者C・G・ウランゲリ氏は、1683年から始まった第二次ウィーン包囲戦で捕獲されたとする説を唱えている。第二次ウィーン包囲戦に参加していたジョン・イヴリン氏が1684年12月17日付けの日記において、3頭の馬が捕獲されてそのうち1頭はとても素晴らしい馬だったと書いているのだが、この素晴らしい馬こそが本馬であるとしている。しかし英国血統書(ジェネラルスタッドブック)においては、ブダペスト包囲戦において捕獲された説が掲載されているため、ウランゲリ氏の説は一般的にはあまり受け入れられていない。本馬は、優雅さ、勇敢さ、速さの三拍子を備えた馬だったようで、それに魅せられたバイアリー大尉は本馬をそのまま自分の所有馬とした。

バイアリー大佐と共に活躍

ブタペスト包囲戦の後、バイアリー大尉は大佐に昇進し、本馬も大佐の元で軍馬として活躍することになる。この頃、名誉革命で仏国に亡命していた前英国王ジェームズⅡ世は、時の仏国王ルイ14世の援助を受けてアイルランドに出兵し、この地を占領した。そのために、バイアリー大佐は1689年にウィリアムⅢ世の命を受けてアイルランドに派遣され、反乱軍鎮圧に当たった。

翌1690年に、北アイルランドのダウンロイヤルにおいてキングズプレートなる競馬の競走が催され、バイアリー大佐は本馬と組んで、最優秀賞に当たる銀鈴賞を獲得したという公式記録が残っている。これによると、スタートしてしばらくはヘイフォード大佐が騎乗するバルブ種の馬と、ハミルトンという人物が騎乗するウェルシュ・コブ種の馬の後方を走っていた本馬だったが、レース最終盤になって“It was as if Byerley's Turk took wing(翼を手に入れたかのような)”走りを見せると、先頭でゴールインした。決着を知らせるピストルの音が響くと、様子を見ていた第6近衛竜騎兵隊の隊員達が、本馬から下馬したバイアリー大佐の周囲を取り囲んで喜びを爆発させたとある。

その後の1690年7月に自らもアイルランドに来たウィリアムⅢ世軍とジェームズⅡ世軍が激突したボイン川の戦いにおいても、本馬は“Captain Byerly's charger(バイアリー大佐の軍馬)”としてバイアリー大佐と共に武勲を挙げ、ウィリアムⅢ世軍の勝利に貢献した。当時の記録には、偵察に出たバイアリー大佐は敵に包囲されたが、本馬の優れたスピードにより辛うじて脱出できたとある。

種牡馬入りから他界まで

英国に戻ったバイアリー大佐は、軍を退役した後の1696年に従姉妹のメアリー・ウォートン嬢と結婚して、ヨークシャー州ナレスボロー近郊のゴールズボローホールに居を構えた。バイアリー大佐が軍を退役すると本馬もまた軍馬を辞めて種牡馬となった。最初はダルハム郡ミドリッジグランジというところで種牡馬入りし、1697年からバイアリー大佐が住むゴールズボローホールに移動した。正確な没年は不明であるが、1702年生まれの産駒がいるため、1701年以降に他界したのは確実である。一般的には1706年頃が没年であるとされている。遺体はゴールズボローホールのどこかに埋葬されたという。本馬の相棒バイアリー大佐は1714年5月に54歳で死去している。

特徴と後世に与えた影響

名前は「バイアリーが所有するトルコ馬」という意味であるが、ジョン・ウットン氏という人物が描いた現存する本馬の肖像画を見ると、全身が黒茶色の毛色で覆われた立派な馬体で、その特徴はアラブ種によく似ており、本馬はトルコ馬ではなく実はアラブ馬だったという説も根強い。いずれにしても本馬の黒鹿毛は子孫に伝わり、現在のサラブレッドの多くが鹿毛又は黒鹿毛になる一因となったとされている。

本馬が種牡馬生活を送った期間は僅か数年であり、交配される繁殖牝馬の数はかなり少なく、産駒数も少ない。その数少ない産駒の中で、最も後世に影響力を残したのがジッグである。ジッグ自身は英国血統書において「まあまあの馬」と表記されている程度の馬(その詳細な競走成績等は不明)であり、交配相手を求めて英国の田舎を転々とする流浪の種牡馬だった。しかしその中から出現した息子パートナーは「とても優れた馬」と表記される馬だった。パートナーは5歳から8歳まで走り6戦全勝だった(10歳時に1度だけ敗れたとする説もある)。パートナーの息子ターターがヘロドの父に、同じくパートナーの娘である無名馬(パートナーメア)がマッチェムの母に、マッチェムの母とは別のパートナー牝駒である無名馬(パートナーメア)がスペクテイターの母となり、後世に大きな影響を与えた。特にヘロド、その子のハイフライヤー、その子のサーピーターティーズルが種牡馬として猛威を振るい、一時期本馬の直系は大繁栄したが、血の行き詰まりによって衰退した。20世紀前半にトウルビヨンが登場し、一時は復活したものの、現在は再び衰退しており、パーソロンの活躍で一時的に繁栄した日本においては風前の灯であり、アホヌーラを経由する系統が欧州で辛うじて命脈を保っている状態である。また、19世紀米国の大種牡馬レキシントンや稀代の快速馬ザテトラークも本馬の直系子孫である。

ジッグ以外の本馬の産駒には、バスト、グラスホッパー、ブラックハーティ、スプライト、アーチャー、バイアリーゲルディング、ナイトレイズメア、タフォレットバルブメアという牝馬との間に産まれた無名の牝馬、“ダム・オブ・ザ・トゥー・トゥルーブルース(Dam of the Two True Blues)”と通称される無名の牝馬、バストラーメアという牝馬との間に産まれた無名の牝馬などがいる。バストは本馬の産駒の中で最も競走馬として活躍した1頭で、複数のヒート競走で勝ち星を挙げている。英首位種牡馬クラブとスニップ(フライングチルダースの後継種牡馬の1頭)兄弟の母の父でもある。タフォレットバルブメアという牝馬との間に産まれた無名の牝馬は、ダーレーアラビアンとの間に無名の牝馬(ダーレーアラビアンメア)を産んだ。このダーレーアラビアンメアは所謂ファミリーナンバー1号族の実質的始祖であり、1号族から登場している著名馬(多すぎるのでここには掲載しない)は全てこの馬に遡る事ができる。“ダム・オブ・ザ・トゥー・トゥルーブルース”と通称される無名の牝馬も、所謂ファミリーナンバー3号族の始祖であり、3号族から登場している著名馬(これも多すぎるのでここには掲載しない)は全てこの馬に遡る事ができる。バストラーメアという牝馬との間に産まれた無名の牝馬も、所謂ファミリーナンバー8号族の始祖であり、8号族から登場している著名馬(これまた多すぎるのでここには掲載しない)は全てこの馬に遡る事ができる。

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