シケーダ

和名:シケーダ

英名:Cicada

1959年生

鹿毛

父:ブリアンジー

母:サツマ

母父:ボスエット

小柄な馬体で華麗な走りを披露し、2歳から4歳まで3年連続で最優秀牝馬のタイトルを受賞した米国競馬史上唯一の馬となる

競走成績:2~5歳時に米で走り通算成績42戦23勝2着8回3着6回

誕生からデビュー前まで

米国ヴァージニア州メドウステーブルの生産・所有馬である(誕生したのはケンタッキー州)。母サツマは凡庸な競走馬だったが、サツマの母ヒルデネは、メドウステーブルの所有者クリストファー・チェナリー氏(後にリヴァリッジセクレタリアトの生産者となる)にとって最初に所有した馬であり、しかも非常に優れた繁殖成績を残していたため、思い入れが深かったようである。本馬は、父ブリアンジー、伯父ヒルプリンス、叔父ファーストランディングも手掛けたJ・ホーマー・“ケーシー”・ヘイズ調教師に預けられた。同世代同厩には後の名種牡馬サーゲイロードがいた。

競走生活(2歳時)

かなり早い段階で管理馬を使い始めるヘイズ師の方針に沿って、本馬のデビューもかなり早く、2歳2月にフロリダ州ハイアリアパーク競馬場で行われたダート3ハロンの未勝利戦がデビュー戦だった。このレースは他馬に馬体をぶつけられながらも4馬身1/4差で勝利した。しかし翌月に出たガルフストリームパーク競馬場ダート3ハロンの一般競走は、3/4馬身差の3着に惜敗。同月に出た前走と同コースの一般競走は、2着プリヤンに鼻差で勝利した。5月は初のステークス競走となるファッションS(D5F)に出走したが、道中で不利を受けて、勝ったローレルマエ(BCクラシック馬アルファベットスープの祖母)から3馬身3/4差の3着に敗れた。しかし翌週に出走したアケダクト競馬場ダート5ハロンの一般競走では、2着フィンガリングに3馬身差で勝利。さらに翌週にデラウェアパーク競馬場で出走したブルーヘンS(D5F)は、2着ドッジミーに5馬身半差をつけて圧勝した。

引き続きデラウェアパーク競馬場で出たポリードルモンドS(D5F)は、ブロードウェイ(ラフィアンの父レヴュワーの母)の1馬身3/4差2着に敗れた。ベルモントパーク競馬場に場所を移して出たナショナルスタリオンS(D5.5F)では、名牝ブッシャーの姪という良血馬バターアップを1馬身半差の2着に破って勝利した。翌週のコリーンS(D5.5F)では、バターアップに雪辱を許し、1馬身差の2着に敗退。7月に出たアストリアS(D5.5F)も、勝ったポリレディに4馬身半差をつけられ、バターアップにも遅れて3着に完敗した。

しかし8月に入ると本馬の勢いは増し、スカイラヴィルS(D6F)では、バターアップを1馬身半差の2着に、後の好敵手の1頭ブラマリー(英ダービー馬ロベルトの母)を3着に破って勝利。スピナウェイS(D6F)では、コリーンSで3着だったポンティヴィとの叩き合いをゴール前の一完歩で制して首差で勝利した。9月のメイトロンS(D6F)は、スピナウェイSで3着だったジャズクイーンを3馬身半差の2着に、ポンティヴィを3着に破って快勝。同月末のアスタリタS(D7F)では、後の好敵手ファームポリシーとの叩き合いを頭差で制して勝利した。10月のフリゼットS(D8F)でも2着ファームポリシーを半馬身差で退けて勝利。この年最後の出走となったガーデニアS(D8.5F)では、不良馬場に喘ぐ他馬を尻目に後続をどんどん引き離し、2着ナローラに10馬身差をつけて圧勝。

2歳時は16戦11勝の成績で、米最優秀2歳牝馬に選出された。本馬が2歳時に獲得した賞金38万4576ドルは、2歳牝馬の北米記録だった。

競走生活(3歳前半)

3歳時は2月にハイアリアパーク競馬場で行われたダート6ハロンの一般競走から始動した。古馬牡馬相手のレースだったが、2着セブンサーティに2馬身3/4差で快勝した。翌週に出走したコロンビアナH(D7F)では、フォールハイウェイトHを勝っていた4歳牝馬スマッシングゲイルの3馬身差2着に敗れたが、この年のブラックヘレンH・ベッドオローゼズHなどを勝つことになるセブンサーティには先着した。3月のガルフストリームパーク競馬場ダート6ハロンの一般競走では、5歳牝馬クーデターを3馬身半差の2着に破って勝利。

続いて牡馬相手のフロリダダービー(D9F)に参戦。アーリントンワシントンフューチュリティなどを勝っていた前年の米最優秀2歳牡馬ライダン、後にウッドメモリアルS・カーターHなどを勝つアドミラルズヴォヤージなどが対戦相手となった。レースは直線で内側の本馬と外側のライダンが後続を大きく引き離す大激闘を演じた末に、2頭が殆ど並んでゴールインした(3着アドミラルズヴォヤージは6馬身後方だった)。結果は写真判定に持ち越されたが、非常に小柄な馬だった本馬は写真でライダンの陰になって見えないため、判定できずに本馬が鼻差で負けということにされてしまった。ちなみにフロリダダービーで牝馬が入着したのは、1952年の第1回競走でサンドトップが3着して以来10年ぶり史上2例目で、本馬以降には1例も存在しない。

その後はチャーチルダウンズ競馬場に向かい、オークスプレップS(D7F)に出走して、2着ディナーパートナーに4馬身差で難なく勝利した。次走は当然ケンタッキーオークスになるのが一般的だが、本馬の実力を評価していた陣営はケンタッキーダービーにも登録をしていた。しかし同厩のサーゲイロードがケンタッキーダービーで本命視されていたため、結局はケンタッキーオークス(D8.5F)に出走することになった。そしてデイリーレーシングフォーム紙が「楽勝でした」と単純かつ明快に評した強さを発揮し、2着フレーミングページ(英国三冠馬ニジンスキーの母)に3馬身差をつけて完勝した。

なお、肝心のサーゲイロードはケンタッキーダービー前日(ケンタッキーオークスの当日)の朝に種子骨を骨折して引退に追い込まれてしまい、かつて本馬の伯父ヒルプリンスや叔父ファーストランディングでケンタッキーダービーを取り損なったチェナリー氏は、またも涙を飲むことになった。なお、サーゲイロードの故障を受けて、陣営は本馬を急遽2日連続出走でケンタッキーダービーに参戦させることも検討したようだが、さすがに見送っている。チェナリー氏が自身の生産馬でケンタッキーダービーを遂に制覇するのは、これから10年後のリヴァリッジまで待たねばならなかったが、仮にケンタッキーオークスではなくケンタッキーダービーに本馬が出走していればどうだったろうかと議論されるほどケンタッキーオークスの勝ち方は強かった。なお、サーゲイロードに代わってケンタッキーダービーの本命に押し出されたライダンは2馬身半差3着で、ディサイデッドリーが優勝している。

競走生活(3歳後半)

その後の本馬はニューヨーク牝馬三冠路線に向かった。まずはエイコーンS(D8F)に出走して、2着タマロナに1馬身半差で勝利。次走のマザーグースS(D9F)も、2着ファームポリシーに1馬身差で勝利した。しかしCCAオークス(D10F)では、ブラマリーの半馬身差2着に敗れ、惜しくも史上初のニューヨーク牝馬三冠馬の栄誉は逃した。この頃から2歳時からの連戦の疲れが出始めたのか、以後は不調に陥ってしまう。

翌7月のデラウェアオークス(D9F)では、ノースサウスギャルとブラマリーの2頭に後れを取り、勝ったノースサウスギャルから4馬身差の3着に敗退。2週間後のデラウェアH(D10F)では、ブラマリーや、この年の米最優秀ハンデ牝馬に選ばれる前年のアラバマSの勝ち馬プリモネッタには先着したものの、本馬が2着したコロンビアナHで3着だったセブンサーティの頭差2着に敗れた。アラバマS(D10F)では、ファームポリシーの5馬身1/4差3着に敗退。翌週に出走したトラヴァーズS(D10F)では、ベルモントS・ホープフルS・カウディンS・ウィザーズSの勝ち馬ジャイプール、ライダンといった強豪牡馬との対戦となった。レースはジャイプールがライダンとの壮絶な一騎打ちを鼻差制して勝ち、本馬は6馬身3/4差をつけられて7着最下位に沈んだ。

しかし、1か月の間隔を空けて出走した9月のベルデイムS(D9F)では、ファームポリシー、ブラマリー、セブンサーティ、プリモネッタなどを全て撃破し、2着となったテストS・モリーピッチャーH・アーリントンメイトロンH・マスケットHの勝ち馬シャーリージョーンズに1馬身半差をつけて勝利。勝ちタイム1分48秒2は、2年前のディスカヴァリーHでケルソが計時したコースレコード1分48秒4を更新するもので、全米レコードにも迫る好タイムだった。10月のジャージーベルS(D8.5F)では、2着リンカーンセンターを5馬身半引き離す圧勝だった。しかし翌週に出走したヴァインランドH(D9F)では、セリマSの勝ち馬タマロナ、シャーリージョーンズ、リンカーンセンターの3頭に屈して、テマロナの4馬身3/4差4着に敗退。2週間後に出走したレディーズH(D10.5F)も、ロイヤルパトリスの4馬身3/4差5着に終わり、2連敗で3歳シーズンを終えた。しかし3歳時17戦8勝の成績で、米最優秀3歳牝馬に選ばれた。

競走生活(4・5歳時)

4歳時も現役を続け、3年連続で2月のハイアリアパーク競馬場から始動。前年に2着だったコロンビアナH(D7F)では、ロイヤルパトレスを1馬身3/4差の2着に破って勝ち、レディーズHの借りを返した。しかしブラックヘレンH(D9F)ではレース中に脚を痛めて、勝ったポコサバから8馬身半差をつけられた5着に完敗。1か月後に出走したスワニーリヴァーH(D7F)では、コロンビアナH3着・ブラックヘレンH2着だった後の米最優秀ハンデ牝馬オールドハットの1馬身1/4差2着に敗れた。しかし124ポンドのトップハンデで出走した4月のディスタフH(D7F)では、ブラマリーを4馬身差の2着に、ロイヤルパトレスを3着に破って勝利した。5月のトップフライトH(D9F)では小柄な本馬には酷な128ポンドの斤量が影響したのか、勝ったファームポリシーから7馬身差をつけられた3着に終わった。6月のヴェイグランシーH(D7F)では、7ポンドのハンデを与えたブラマリーを3馬身半差の2着に、1歳年上のケンタッキーオークス馬マイポートレイトを3着に破って快勝した。

次走のシープスヘッドベイH(T8.5F)は、本馬にとって最初で最後の芝のレースとなり、しかも128ポンドの斤量だったが、2着ニュバイルを首差抑えて逃げ切った。次走のデラウェアH(D10F)でも128ポンドを背負い、しかも鞍ずれを起こしながらも、ワルツソングの半馬身差2着と好走した。しかしこの後の調教中に脚を痛めてしまい、シーズン後半は棒に振った。それでも4歳時8戦4勝の成績で、米最優秀ハンデ牝馬に選ばれた。

翌5歳時にいったん繁殖入りしたが、受胎しなかったため5歳10月に現役に復帰した。しかし復帰戦となったガーデンステート競馬場ダート6ハロンの一般競走でリレイティヴの3馬身1/4差4着に敗れ、このレースを最後に今度こそ現役を引退した。

競走馬としての評価

本馬は、フロリダダービーの逸話から分かるように非常に小柄な馬で、その走り方は、優美で気品あふれるものだったという。馬名は「蝉」という意味だが、地上で生きられる期間が極めて短い蝉と異なり、本馬は消長の激しい米国競馬で長年に渡り頂点に君臨し続けた。

米最優秀2歳牝馬・米最優秀3歳牝馬・米最優秀ハンデ牝馬(3歳時を除く)を全て受賞したのは、リグレット以来史上2頭目だが、リグレットの米最優秀ハンデ牝馬受賞は5歳時であるため、2~4歳まで3年連続で最優秀牝馬のタイトルを受賞したのは本馬が史上初である。そして同じ快挙を達成した馬は、米国競馬の年度表彰がエクリプス賞として施行されるようになり、米最優秀ハンデ牝馬のタイトルが米最優秀古馬牝馬に変更された1971年以降を含めても、本馬以外には米国競馬史上1頭も存在しない(3歳以降に3年連続でタイトルを受賞した馬はいる)。これは賞賛に値するだろう。獲得賞金総額は78万3674ドルで、当時の北米牝馬賞金女王になっている。

血統

Bryan G. Blenheim Blandford Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Blanche White Eagle
Black Cherry
Malva Charles O'Malley Desmond
Goody Two-Shoes
Wild Arum Robert le Diable
Marliacea
Anthemion Pompey Sun Briar Sundridge
Sweet Briar
Cleopatra Corcyra
Gallice
Sicklefeather Sickle Phalaris
Selene
Fairness Hourless
Fair Priscilla
Satsuma Bossuet Boswell Bosworth Son-in-Law
Serenissima
Flying Gal Sir Gallahad
Filante
Vibration Sir Cosmo The Boss
Ayn Hali
Ciliata Cicero
Carbide
Hildene Bubbling Over North Star Sunstar
Angelic
Beaming Beauty Sweep
Bellisario
Fancy Racket Wrack Robert le Diable
Samphire
Ultimate Fancy Ultimus
Idle Fancy

父ブリアンジーはブレニムの直子で、本馬と同じくチェナリー氏の生産・所有馬。現役時代は米国で走り62戦14勝。主な勝ち鞍はピムリコスペシャル・アケダクトH2回・ウエストチェスターH・パウマノックH・エクセルシオールH。種牡馬としては本馬が唯一無二の活躍馬だった。

母サツマは8戦1勝という平凡な競走馬だったが、血統的にはかなりの良血馬。サツマの半兄には1950年の米年度代表馬ヒルプリンス(父プリンスキロ)【プリークネスS・ジョッキークラブ金杯・カウディンS・ウッドメモリアルS・ウィザーズS・アメリカンダービー・ジェロームH・サンセットH・ニューヨークH・サンマルコスH】、半弟にはサードブラザー(父プリンスキロ)【ロングアイランドH・ローマーH】、1958年の米最優秀2歳牡馬ファーストランディング(父ターントゥ)【サラトガスペシャルS・ホープフルS・シャンペンS・エヴァーグレイズS・サンタアニタマチュリティS・モンマスH】がいる。本馬の全姉サバナの曾孫には日本で種牡馬として活躍したヤマニンスキー、玄孫にはアストラ【ゲイムリーS(米GⅠ)2回・ビヴァリーヒルズH(米GⅠ)2回】がいる。→牝系:F9号族③

母父ボスエットは米国で走り現役成績33戦9勝。1944年のカーターHでは、ブローニー、ウェイトアビットと一緒に世にも珍しい3頭同着勝利を経験している。それ以外の主な勝ち鞍はフリートウイングH・バレーフォージH。ボスエットの父ボスウェルは英国で走り23戦して3勝しかしていないが、うち2勝が英セントレジャー・エクリプスSだった。ボスウェルの父ボスワースはサンインロー産駒で、アスコット金杯を勝利し、英セントレジャーで2着している。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はメドウステーブルで繁殖入りした。受胎率があまり良くなかったが、それでも6頭の子を産んだ。産駒成績は全般的に振るわなかったが、初子の牡駒シケーダズプライド(父サーゲイロード)がジュヴェナイルSを勝つなど77戦8勝の成績を残し、母に劣らない頑健な走りを見せている。3番子の牡駒ボールドフリップ(父ボールドルーラー)は6戦未勝利ながら、血統を評価されて豪州で種牡馬入りして一定の成功を収めた。4番子の牡駒サードワールド(父レストレスネイティヴ)は34戦7勝の成績を残した後に加国で種牡馬入りしたが、あまり成功できなかった。また、1戦未勝利に終わった6番子の牝駒グレーティストギフト(父ベイルジャンパー)の娘ハローヘレンが日本に繁殖牝馬として輸入され、現在も牝系を維持しているが、これといった活躍馬は出ていない。1967年に米国競馬の殿堂入りを果たし、1981年に22歳で他界した。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第62位。

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