ゴールデンミラー

和名:ゴールデンミラー

英名:Golden Miller

1927年生

鹿毛

父:ゴールドコート

母:ミラーズプライド

母父:ウェーブレッツプライド

チェルトナム金杯5連覇・史上唯一のチェルトナム金杯と英グランドナショナル同一年制覇などの記録を有する20世紀前半における英国最高の障害競走馬

競走成績:3~11歳時に英で走り通算成績52戦29勝2着7回3着6回(全て障害競走)

20世紀前半の英国障害競走界において最も活躍した歴史的名障害競走馬で、全時代を通じて最も優れた障害競走馬の1頭であると断言できる存在である。チェルトナム競馬場で毎年3月に行われる英国障害競走の祭典チェルトナムフェスティバルは、本馬の存在あってこそ成立しえたと言っても過言ではなく、平地競走より障害競走のほうが人気上位である英国においては伝説的存在として現在も根強い人気を有している。

誕生からデビュー前まで

ローレンス・ジェラティ氏という人物により生産された愛国産馬である。ジェラティ氏の孫は、2002年から2015年まで14年連続でチェルトナムフェスティバルの勝ち星を挙げている愛国障害競走界のトップ騎手バリー・ジェラティ騎手であり、チェルトナム競馬場には何かと縁がある一族である。本馬は英国ノーサンプトンシャー州在住のディック・ファーマー大佐により500ギニーで購入された。ファーマー大佐は競走馬として本馬を買ったのではなく、荷馬車を引くための馬として購入したという。しかし英国に到着した本馬を見たファーマー大佐は、荷馬車を引かせるよりも競走馬にしたほうが良いだろうと判断し、馬の仲買人をしていたフィリップ・W・カー氏に本馬を委ねた。カー氏の所有馬となった本馬は、英国ニューマーケットに厩舎を構えていた障害専門調教師アーサー・バジル・ブリスコー師に預けられた。本馬にはまだ名前が無かったため、ブリスコー師は本馬の両親の名前を足して2で割っただけの単純な名前を本馬に与えた。英愛の障害競走ナショナルハントは、置障害ハードルと固定障害スティープルチェイスに大別されるが、本馬がまず向かった先はハードルだった。

競走生活(29/30・30/31シーズン)

3歳当初に英国ノッティンガムシャー州サウスウェル競馬場で行われたハードル未勝利戦でデビューした。ブリスコー師はこの段階で本馬をあまり評価しておらず、未勝利を脱出できないまま狩猟用馬に転向させることになるだろうと考えていた。そしてレースでも飛越の失敗を続けて惨敗を喫した。その後は脚の健を負傷した事に加えて、障害シーズンが終了したために半年間の休養に入った。

3歳暮れに復帰すると、本馬は何故か以前とは別馬のように飛越が上手になっていた。未勝利を容易に脱出すると、次走のハードル競走も勝利。この2戦で本馬に騎乗したボブ・ライアル騎手はブリスコー師に向かって「私が今まで騎乗した中で最高の3歳馬です」と賞賛した。ブリスコー師もその意見を素直に受け入れた。

本馬が4歳になった1931年にカー氏は病気になりそのまま死去した。死の直前にカー氏は自身が所有する馬達を売却する事をブリスコー師に依頼した。ブリスコー師は本馬を、英国の資産家で馬主だったドロシー・ウィンダム・パジェット女史に薦めた。パジェット女史の母は米国の名馬産家として知られるホイットニー一族の出身だったため、パジェット女史も自然と競馬に興味を抱くようになった。彼女は障害競走馬だけでなく平地競走馬も所有しており、後の1943年にはストレートディールで英ダービーを制覇して、同年の英愛平地首位馬主になっている。ただ、どちらかと言えば障害競走に重きを置いていたようで、英愛障害首位馬主には1933・34・40・41・51・52年と6度もなっている。ブリスコー師はパジェット女史に「この馬を買えば、世界で最高の障害競走馬を所有する事になるでしょう」と口を極めて本馬を讃えた。その薦めを受け入れたパジェット女史は、1万2千ギニー(現在の貨幣価値で44万1000ポンド。日本円で約8千万円)という、この段階の本馬には不釣り合いなほどの高額で購入した。パジェット女史は相当な変わり者だったらしく、海外の資料にはその奇人ぶりを長々と語っているものもある。彼女は筆者自身と少し似ている部分があるため、ここではそれにあまり触れることはしないが、人間(特に異性)と接するのが不得手だったために、その分だけ馬に熱中するようになった一面があるらしいという事だけ記しておく。

競走生活(31/32シーズン)

パジェット女史の所有馬となった本馬は、ハードルからスティープルチェイスに転向する事になった。チェイスデビューは12月にニューベリー競馬場で行われた未勝利戦だった。ここでは1位入線したが、負担重量違反のため失格となった。5歳になった年明け1月にセフトン競馬場で行われた未勝利戦で改めてチェイス初勝利を挙げた。しかしこの段階では、本馬が後に歴史的名障害競走馬になるだろう兆候は客観的には見られなかったという。

その後2戦していずれも勝利した本馬は、同年3月のチェルトナム金杯(27F)に参戦した。前年の同競走は吹雪のため開催中止となっており、これは2年ぶりのチェルトナム金杯だった。このレースには前年の英グランドナショナルの勝ち馬グレイクルも参戦しており、当然のように1番人気に支持されていた。テッド・リーダー騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ7.5倍で3番人気の評価だった。しかしグレイクルは飛越に失敗して落馬競走中止。本馬が2着インバースに4馬身差、3着アルンチウスにはさらに推計不能の大差をつけて勝利した。

この時期のチェルトナム金杯は1924年の創設からあまり経っていなかったために現在より格が低く、この後に控えている英国最大の障害競走・英グランドナショナルの前哨戦的な意味合いもあった(賞金にして10倍程度の差があったという)。チェルトナム金杯の格が上がったのは本馬の存在が大きいのである。しかし本馬はこの年の英グランドナショナルには参戦しなかった。その理由は資料に明記されておらず分からない。また、本馬はこの後にチェルトナム金杯や英グランドナショナルに何度も参戦する事になるが、別にこの2競走しか出走しなかったわけではなく、他にも多くの競走に出走している。しかしチェルトナム金杯や英グランドナショナル以外の出走歴を載せている基礎資料を見つけられなかったため、この2競走以外の出走歴に関しては省略せざるを得ない事をあらかじめ断っておく。

競走生活(32/33シーズン)

6歳になった本馬は、2度目のチェルトナム金杯(27F)に参戦した。今回はビリー・スコット騎手とコンビを組んだ本馬は、単勝オッズ1.57倍の1番人気に支持された。そして単勝オッズ3.75倍の2番人気に推されていたソモンドを10馬身差の2着に葬り去り、1929・30年に連覇したイースターヒーロー以来4年ぶり史上2頭目の同競走2連覇を飾った。

そしてこの年は英グランドナショナル(36F)に参戦した。出走馬は本馬を含めて34頭で、その中には前年の同競走2着馬エグレモント、3年前の同競走の勝ち馬で前年3着のショーンゴリンなども含まれていた。テッド・リーダー騎手が騎乗する本馬は単勝オッズ10倍の評価だったが、これでも単独で1番人気だった。レースは第1障害から落伍馬が出たが、それでも例年に比べると飛越失敗による競走中止は序盤から少なかった。踏み切り地点より着地点のほうが低いために体勢を崩しやすく最難関として悪名高き第6障害ビーチャーズブルックこそ3頭が落馬したが、カーブの途中にあるために馬群が密集しやすく難関とされる第7障害フォイネイボン、飛越直後に急なカーブがあるために馬群が密集しやすいために難関とされる第8障害キャナルターンでは落伍馬は出なかった。そのためにレース終盤まで多くの馬が競走を続けることになった。本馬も順調に障害を飛越していったが、前述のとおり馬群が密集しやすい2度目のキャナルターンとなる第24障害で落馬して競走中止。レースは単勝オッズ26倍の11番人気馬ケルスボロジャックが勝利を収めた。

競走生活(33/34シーズン)

7歳になった本馬は、3度目のチェルトナム金杯(27F)に参戦した。今回はジェリー・ウィルソン騎手とコンビを組んだ本馬は、前年の英グランドナショナルの勝ち馬ケルスボロジャックを抑えて、単勝オッズ2.2倍の1番人気に支持された。そして2着となった牝馬アヴェンジャーに6馬身差、3着ケルスボロジャックにもさらに6馬身差をつけて勝ち、同競走史上初の3連覇を達成した。

そして前年に完走できなかった英グランドナショナル(36F)に再挑戦した。引き続きウィルソン騎手とコンビを組んだ本馬は、170ポンドのトップハンデが嫌われたのか、単勝オッズ9倍で30頭立ての2番人気。単勝オッズ8倍の1番人気に支持されたのは前年の同競走2着馬リアリートゥルーだった。他にも、一昨年の同競走優勝馬フォーブラ、前年の同競走3着馬スレーター、前年の同競走では入着出来なかったエグレモントとショーンゴリン、前年のチェルトナム金杯で本馬の2着だったソモンドなどの姿もあった。今回は第1障害でいきなり5頭が競走中止。しかしそれで頭数が減って馬群がばらけた影響もあったのか、ビーチャーズブルック、フォイネイボン、キャナルターンなどでは落伍馬は出なかった。レース中盤で何頭か落伍馬が出たが、全体的に競走中止は少なかった。本馬は2度のビーチャーズブルックで少し飛越に失敗する場面があったが、それ以外は順調に走り、次々に現れる難関障害を無事に飛越していった。そして最終の第30障害を先頭で飛越すると、後はゴールまで走り切るだけだった。10ポンドのハンデを与えた2着デラネージュに5馬身差、3着ソモンドにはさらに5馬身差をつけて、9分20秒4のコースレコードで優勝し、これで名実ともに英国障害界の頂点に立った。

チェルトナム金杯と英グランドナショナルを同一年に両方勝った馬は本馬が史上初であり、2015年現在になっても本馬以外には1頭も達成していない。なお、同一年に限らなければ、チェルトナム金杯と英グランドナショナルを両方勝った馬は本馬以外にもいるが、それも1頭だけである。その1頭とは、1970・71年のチェルトナム金杯を勝ち、1975年の英グランドナショナルでレッドラムを2着に破って勝利した米国顕彰馬レスカルゴである。

競走生活(34/35シーズン)

8歳になった本馬は、4度目のチェルトナム金杯(27F)に参戦した。前年と同じくウィルソン騎手とコンビを組んだ本馬は、単勝オッズ1.5倍の1番人気に支持された。今回は単勝オッズ3.5倍の2番人気に推されていたソモンドとゴール前で大激闘となった。まるでボクシングの試合を見ているかのようだと評された一騎打ちは本馬に軍配が上がり、2着ソモンドに3/4馬身差、3着ケルスボロジャックにはさらに5馬身差をつけて勝利を収め、同競走4連覇を達成した。勝ちタイム6分30秒0は、1929年にイースターヒーローが計時した6分57秒0をなんと27秒も更新する驚異的なコースレコードだった。負けたソモンドに騎乗していたビリー・スペックス騎手も「私の人生の中で最も大きな一日でした」と、負けて悔いなしのコメントを発したが、スペックス騎手はこの1か月後の落馬事故で命を落としてしまい、本当にこの激闘が彼の人生のハイライトになってしまった。

一方、この時期になると本馬の人気は絶大なものになっており、“God on four legs(四足の神様)”として崇め奉る人々が現れ始めた。その一方で、悪徳ブックメーカーを始めとして本馬の活躍を妨害しようとする人間も現れ始めた。弁護士からその危険性の指摘を受けたブリスコー師は、本馬の周囲に気を配る事にした。

そして2連覇を目指して、英グランドナショナル(36F)に出走した。対戦相手は、ソモンド、前年の同競走では入着出来なかったリアリートゥルーとスレーターなど計26頭だった。本馬の鞍上は前年と同じくウィルソン騎手だったが、彼はレース数週間前に負傷した肩がまだ完治していなかった。レース当日朝の調教にも騎乗できないほどだったが、本番には痛み止めの注射を打って臨んできた。さらに本馬の斤量は前年の170ポンドから175ポンドまで増えていた。こうした悪条件にも関わらず、本馬は単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。これは同競走史上最も低いオッズだった。レースでは、ビーチャーズブルック、フォイネイボン、キャナルターンといった難関障害を次々に飛越していった本馬だったが、第10障害でウィルソン騎手が意図したのと逆方向に飛越したために、体勢を崩したウィルソン騎手が落馬して競走中止。レースは単勝オッズ23倍の伏兵レイノルズタウンが2着ブループリンスに3馬身差、3着ソモンドにはさらに8馬身差をつけて勝利した。

このレース後に、落馬原因を巡って本馬陣営の中に不協和音が生じた。パジェット女史は、調教師の酷使が原因で疲労が溜まっていたのだとして、ブリスコー師を非難した。ブリスコー師は、下手な飛越をした騎手が悪いとして、ウィルソン騎手を非難した。ウィルソン騎手は特に誰を非難する事も無く、ソモンドと激闘を演じた前走のチェルトナム金杯でもカメラのフラッシュや逆光により騎乗に支障が生じていた事を明かし、このレースでもそれで自身や本馬の視界が遮られたのだと語った。また、ウィルソン騎手は、どうも本馬は脚を痛めていたのではないかと感じた旨も語った。

パジェット女史は納得がいかなかったらしく、ブリスコー師には無断で本馬をチャンピオンチェイスというレースにエントリーすると、レース直前になってウィルソン騎手に騎乗を命じた。何も聞かされていなかったウィルソン騎手だったが、英国有数の大馬主パジェット女史の命令に逆らうことは出来ず、そのまま本馬に騎乗してチャンピオンチェイスに出走した。ところが最初の障害で飛越に失敗して落馬競走中止という無残な結果に終わった。こうした経緯によりパジェット女史とブリスコー師の間には決定的な亀裂が生じ、本馬はオーエン・アンソニー厩舎に転厩することになった。

競走生活(35/36シーズン)

9歳になった本馬は5度目のチェルトナム金杯(26F)に参戦した。今までは距離3マイル3ハロンだったが、この年は1ハロン短縮されて距離3マイル2ハロンになっていた。今回の鞍上はエヴァン・ウィリアムズ騎手で、彼は後に調教師として第1回キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSをシュプリームコートで勝つ人物だった。単勝オッズ2.05倍の1番人気に支持された本馬は、単勝オッズ6倍の2番人気に推されていたロイヤルメールを12馬身差の2着に葬り去り、同競走5連覇を達成した。

そして前年の雪辱を期して、4度目の英グランドナショナル(36F)に出走した。一昨年のチェルトナム金杯で2着だった牝馬アヴェンジャーが単勝オッズ4.33倍で35頭立ての1番人気、ウィリアムズ騎手が騎乗する本馬が単勝オッズ6倍の2番人気で、前年の覇者レイノルズタウンは単勝オッズ11倍の4番人気だった。しかし相変わらず175ポンドのトップハンデを課されていた本馬は、第8障害キャナルターンで落馬競走中止。1番人気のアヴェンジャーも第17障害で落馬して予後不良となり、英グランドナショナルの犠牲馬リストに名を連ねることになってしまった(本馬が出走した英グランドナショナルで命を落とした馬はアヴェンジャーのみ)。レースはレイノルズタウンが2着エゴに10馬身差をつけて2連覇を達成した。

競走生活(36/37シーズン)

10歳になった本馬は6度目のチェルトナム金杯に参戦しようとしたが、出来なかった。それは大雨(大雪とする資料もある)に伴う洪水によりレース自体が中止されてしまったためで、大自然の猛威の前に本馬の同競走6連覇はかき消されてしまった。

その後は5度目の英グランドナショナル(36F)に出走した。対戦相手は、前年の同競走には不参戦だった前年のチェルトナム金杯2着馬ロイヤルメール、前年の同競走2着馬エゴなどだった。ウィリアムズ騎手がロイヤルメールに騎乗したため、本馬はダニー・モーガン騎手とコンビを組んだ。単勝オッズ9倍の1番人気に支持された本馬だったが、例によって175ポンドのトップハンデを課されていた。そして一昨年と同じく第10障害で飛越に失敗して競走を中止。レースは斤量2位の167ポンドを課されていたロイヤルメールが勝利を収めた。

競走生活(37/38シーズン)

11歳になった本馬は、この年は開催されたチェルトナム金杯(26F)に6度目の参戦を果たした。前年はレース自体が無かったわけだから、本馬がこれを勝てば同競走6連覇とも言えた。H・ニコルソン騎手が騎乗した本馬は単勝オッズ2.75倍の1番人気に支持された。しかしモーガン騎手が騎乗するモールスコードという馬に2馬身差をつけられて2着に敗退。6度目の出走で初めてチェルトナム金杯を落としてしまった。本馬が敗れた瞬間に、チェルトナム競馬場に詰めかけた観衆の多くは落胆し、涙を流す人もいたという。

この年の英グランドナショナルには参戦しなかった(米国から遠征してきた米グランドナショナルの勝ち馬バトルシップが勝っている)。そして本馬はそれからしばらくして競走馬を引退した。

血統

Goldcourt Goldminer Gallinule Isonomy Sterling
Isola Bella
Moorhen Hermit
Skirmisher mare
Seek And Find Goldseeker The Miser
Swallow
Bide-A-Wee First Flight
Clarissima
Powerscourt Atheling Sterling Oxford
Whisper
King Tom mare King Tom
Bay Middleton mare
Waterfall Arbitrator Solon
True Heart
Millwheel York
Clyda
Miller's Pride Wavelet's Pride Fernandez Sterling Oxford
Whisper
Isola Bella Stockwell
Isoline
Wavelet Paul Jones Buccaneer
Queen of the Gypsies
Wanda Parmesan
The Grand Duchess
Miller's Daughter Queen's Birthday Hagioscope Speculum
Sophia
Matilda Beauclerc
Simony
Allan Water Barcaldine Solon
Ballyroe
Thirlmere Doncaster
Windermere

父ゴールドコートは不出走馬で、種付け料5ギニーの無名種牡馬だった。しかし障害用種牡馬としては実績を挙げており、愛グランドナショナルの勝ち馬も2頭輩出している。ゴールドコートの父ゴールドマイナーは、超名牝プリティポリーの父として知られるガリニュールの息子だが、競走馬としての経歴はよく分からない。

母ミラーズプライドは狩猟用馬と障害競走馬を掛け持ちしていたらしいが、詳細な競走成績は不明である。ミラーズプライドの曾祖母サールメアは、1897年の英首位種牡馬ケンダルの2歳年上の半姉で、無敗の英国三冠馬オーモンドの母リリーアグネスの従姉妹に当たる。→牝系:F16号族③

母父ウェーブレッツプライドはドンカスターC・グレートメトロポリタンHの勝ち馬で、障害競走でも勝ち星を挙げている。種牡馬としても優れた障害競走馬を多く出した。ウェーブレッツプライドの父フェルナンデスはクレイヴンSの勝ち馬で、セントジェームズパレスS・ケンブリッジシャーHで2着している。フェルナンデスの父スターリングは、ガリニュールの父アイソノミーの父。つまり本馬は父系も母父系もスターリングからの流れということになる。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、ウエストエセックス州エルセンハムスタッドで余生を送った。そして1957年に30歳という高齢で他界した。この1957年は奇しくも、本馬と並ぶチェルトナム競馬場の伝説的存在アークルが、パジェット女史が愛国ダブリン郊外に所有していたバリーマコルスタッドで誕生した年でもあった(パジェット女史は心不全のため1960年に54歳で死去したため、彼女がアークルの走りを見ることは無かった)。後の1989年にチェルトナム競馬場には、彫刻家ジュディ・ボイト氏により作成された本馬の銅像が建てられた。

本馬が走っていた頃の英国では、馬券に競走馬の絵を描いて、当該馬が勝った場合には、その馬を描いた馬券の中から優秀賞を選んで、描いた人に賞金が与えられるというイベントがあったそうである。あるとき、レンガ職人のフレッド・バーニー氏は、買った3千ポンド分の馬券に本馬の絵を描いた。その絵の出来が良かったため、とあるブックメーカーがバーニー氏と交渉し、当該馬券の権利の半分を1500ポンドで購入した。レースは本馬が勝ち、バーニー氏の絵は最優秀賞を受賞した。ブックメーカーに権利の半分を売っていたために、バーニー氏は賞金3万ポンドの半分しか手に入れられなかったが、残った賞金を元手に、バス会社を設立した。そしてその会社に「ゴールデンミラー・バス」と命名した。後にこの会社は「テリングス・ゴールデンミラー」と改名され、ロンドン各地やマンチェスター空港・スタンステッド空港などを結ぶ有力バス会社として現在も活動している。この会社が保有するバスの多くには馬の絵が描かれているが、それは本馬の存在なくては成立しなかった会社だからである。

競走馬としての評価

本馬の性格に関して、本馬の主戦として最もふさわしいと思われるウィルソン騎手は「あの正直で真面目な馬は、決して寛容さを欠いたことはありません」と語っており、穏やかな馬だったようである。

本馬が走っていた時代はまだ英タイムフォーム社が存在せず、レーティングなるものも無かった。そのためにアークルのようにレーティング対象となっている名障害競走馬達とそれで比較する事は出来ない。チェルトナム金杯の連覇記録で見ると本馬は5連覇、アークルは3連覇で、一見して本馬が上位のようだが、本馬が走っていた時代とアークルが走っていた時代ではチェルトナム金杯の格が異なるため、単純に比較する事は出来ない。しかしアークルは英グランドナショナルに勝つ以前に出走したことすらも無いから、その点では本馬が上位である。2003年に英レーシングポスト紙が行った企画“Favourite 100 Horses”では、アークルが第1位だったのに対して、本馬は第71位だった。筆者がこの事実を持ち出したのは、これをもって本馬よりアークルが上だとする意図ではなく、むしろ本馬を賞賛するためである。そもそもこれは人気投票であり、アンケート実施時点で現役競走馬だった、又は現役を引退して日が浅い馬が上位に来る傾向が強いものである。実際にこの“Favourite 100 Horses”にランクインしている100頭のうち99頭が第二次世界大戦終戦後に走った馬である。つまり、第二次世界大戦より前に走った馬の中でランクインしたのは本馬しかいないわけである。本馬が競走馬を引退してから65年ほど経過した後の企画であり、おそらく回答者の大半は本馬の走りを直に見た経験が無かったはずである。それでもランクインしたというのは、第1位になるより凄い事かも知れないのである。

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