ヌーア

和名:ヌーア

英名:Noor

1945年生

黒鹿

父:ナスルーラ

母:クイーンオブバグダッド

母父:バーラム

米国三冠馬サイテーションと激戦を展開し、5歳時に世界レコード3度を含む6度のコースレコードを樹立したナスルーラの初年度産駒

競走成績:2~5歳時に英米で走り通算成績31戦12勝2着6回3着6回

誕生からデビュー前まで

ナスルーラの生産・所有者だったアガ・カーンⅢ世殿下により生産・所有された愛国産馬で、当時はまだ欧州で繋養されていた父の初年度産駒だった。父も管理した英国フランク・バターズ調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳5月にバーミンガム競馬場で行われたウィナイアテスプレート(T5F)でデビューしたが、勝ったミンスターロヴェルから3馬身差の2着に敗れた。翌月にエプソム競馬場で出走したウッドコートS(T6F)では、ニューSを勝ってきたマイバブー、フェアフライアーの2頭に屈して、勝ったマイバブーから5馬身差の3着に敗れた。7月にグッドウッド競馬場で出走したニューハムフォールS(T6F)では、後にデューハーストSを勝利するプライドオブインディアの4馬身1/4差の4着に敗退。8月にニューマーケット競馬場で出走したエルヴェデンS(T6F)では、オットマンの3馬身3/4差の4着に敗れた。

結局ステークス競走で勝ち上がる事は諦めたようで、9月にドンカスター競馬場で行われたハンデ競走のブラッドゲートパークNH(T6F)に出走して、後にマンチェスターCを勝利するレイクプラシッドを3馬身差の2着に破って初勝利を挙げた。翌10月にはニューマーケット競馬場でやはりハンデ競走であるブレットバイNH(T6F)に出走して、なんとか首差で勝利した。しかし翌11月にウインザー競馬場で出走した芝5ハロンのハンデ競走では、レッドブラエの7着に大敗し、2歳時の成績は7戦2勝に終わった。

競走生活(3歳時)

3歳時は、それでも本馬の素質を評価していた陣営の判断により英2000ギニー(T8F)から始動した。しかし結果はウッドコードS勝利後に英シャンペンS・クレイヴンSも勝っていたマイバブーが1番人気に応えて、ミドルパークS・コヴェントリーS・ナショナルブリーダーズプロデュースSの勝ち馬ザコブラーや、プライドオブインディア以下に勝利を収め、何の見せ場も無かった本馬は9着に惨敗した。

しかし次走の英ダービー(T12F)では、勝ったオカール賞の勝ち馬マイラヴから5馬身半差、2着となったレゼルヴォア賞・ギシュ賞の勝ち馬ロイヤルドレイクから4馬身差をつけられながらも3着に入り、1番人気に支持されていたマイバブー、クリテリウムドメゾンラフィットの勝ち馬ジェダー、ジムクラックS・ロイヤルロッジS・リングフィールドダービートライアルSの勝ち馬ブラックターキンといった29頭もの馬に先着して、その実力の一端を垣間見せた。

続くエクリプスS(T10F)では1番人気の評価を受けたが、ゴール前3頭横一線の大接戦を首差で落として3着。しかし勝ち馬が4歳馬ペティション(3歳時こそ故障で不本意な結果に終わったが、2歳時はニューS・リッチモンドS・ジムクラックS・英シャンペンSに勝利して、テューダーミンストレルに次ぐ評価を受けていた素質馬)で、2着馬が4歳馬サヤジラオ(愛ダービー・英セントレジャー・ハードウィックS・リングフィールドダービートライアルSの勝ち馬で、英2000ギニー・英ダービーではいずれも3着だった)と、2頭の強豪古馬との激戦だった事を考えると、本馬も十分に実力を示したと言える。

2週間後にエプソム競馬場で出走したダイオメドS(T12F)では、コーンウォリスSの勝ち馬ストレートプレイとの2頭立てとなった。そして本馬が6馬身差で圧勝してステークス競走初勝利を挙げた。

秋には英セントレジャー(T14F)に参戦。英ダービーを勝った後にパリ大賞も勝っていたマイラヴ、時の英国王ジョージⅥ世の所有馬であるヨークシャーオークスの勝ち馬で英オークス2着のアンジェロラ、ジョッキークラブC・キングエドワードⅦ世Sの勝ち馬ヴィックデイ、英ダービー8着後にセントジェームズパレスSを勝ちクイーンエリザベスS(キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスSの前身)で2着していたブラックターキンなどが対戦相手となった。しかしここでは本馬はその実力を発揮できず、ブラックターキンの8着に沈んだ。同月にニューマーケット競馬場で出走したグレートフォールS(T10F)では134ポンドの酷量を克服して、2着プレテキストに1馬身半差で勝利した。

競走生活(4歳時):英国を去って米国に移籍

しかし結局アガ・カーンⅢ世殿下は本馬を売却する事を決めた。アガ・カーンⅢ世殿下から本馬を購入したのは、サンフランシスコの大富豪で、名馬シービスケットの所有者としても知られるチャールズ・スチュワート・ハワード氏だった。ネアルコの直系馬を導入しようと考えていたチャールズ・ハワード氏は、まずナスルーラ産駒の愛ダービー馬ナッソーに目をつけ、ナッソーの所有者だったアガ・カーンⅢ世殿下に交渉を持ちかけた。アガ・カーンⅢ世殿下はナッソーと一緒に本馬も買ってほしいと要求し、2頭合わせて17万5千ドルで契約が成立した。そしてチャールズ・ハワード氏のリッジウッドランチ牧場名義となった本馬は、3歳時6戦2勝の成績を残して大西洋を渡った。要するにチャールズ・ハワード氏のお目当てはナッソーであって、本馬はおまけに過ぎなかったのだが、おまけの本馬のほうが余程活躍する事になるのだから競馬は分からないものである。

しかし米国に到着した頃の本馬は、球節の関節炎と骨瘤を患っていた。しかも父ナスルーラに似たのか非常に短気で神経質な性格であり、アガ・カーンⅢ世殿下が手放したのも頷ける馬だった。しかしチャールズ・ハワード氏の専属調教師バーレイ・パルケ師は、本馬が有していた米国競馬向きのスピード能力を評価して、辛抱強く本馬を育成し、4歳秋までに本馬をまともに走れるまでに仕上げることに成功した。

4歳10月に行われたベイメドウズ競馬場ダート6ハロンの一般競走で米国初戦を迎えた。1年ぶりの実戦となったのだが、デルマーダービー・デルマーHを勝っていたフランクリー(後に日本に種牡馬として輸入されて菊花賞馬ラプソデーを出している)を鼻差の2着に抑えて勝利した。翌月に出走したタンフォラン競馬場ダート6ハロンの一般競走は2馬身3/4差の4着に敗退。それから20日後にタンフォラン競馬場で出走したマーチバンクH(D8.5F)では、オレーションの半馬身差3着だった。翌12月に出走したタンフォランH(D10F)では、コースレコードで走破した後のサンタアニタHの勝ち馬ミッシュ、ホーソーンジュヴェナイルH・ケンタッキージョッキークラブSの勝ち馬ジョンズジョイの2頭に屈して、勝ったミッシュから4馬身半差の3着に敗れた。さらにサンフランシスコH(D9F)に参戦したが、フオンキッドの頭差2着に惜敗。大晦日のサンカルロスH(D7F)では、ウィルソンSの勝ち馬メニヤンク、クラークH・エクワポイズマイルHの勝ち馬スターリワード、ミッシュなどに後れを取り、勝ったメニヤンクから1馬身3/4差の5着に終わった。結局4歳時は2か月半の間に6戦して1勝を挙げたのみに留まった。

競走生活(5歳前半):サイテーションとの死闘

本馬は翌5歳時も休む間も無く1月最初の週から始動。サンフランシスコHに次いで2度目のコンビとなるジョニー・ロングデン騎手を鞍上に、サンパスカルH(D8.5F)に出走した。前年のケンタッキーダービー・ピーターパンS・アーリントンクラシックS・アメリカンダービー・ローレンスリアライゼーションS・ジョッキークラブ金杯を勝ちベルモントSで2着していたポンダー、前年のハリウッド金杯・ゴールデンゲートHを勝っていたソリダリティといった強敵の姿があった。結果はソリダリティが勝利を収め、本馬は1馬身差の2着に敗れたが、3着ポンダーには先着した。これ以降、レースに出る本馬の鞍上には常にロングデン騎手の姿があった。

その後は1か月の間隔を空けてサンアントニオH(D9F)に出走。ここで本馬は宿敵となる同世代の1頭の名馬に初めて出会う。その名馬とは、2年前に圧倒的な強さで米国三冠馬に輝いた、ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・ベルモントフューチュリティS・ピムリコフューチュリティ・エヴァーグレイズH・フラミンゴS・ジャージーS・スターズ&ストライプスH・アメリカンダービー・サイソンビーマイルS・ジョッキークラブ金杯・ピムリコスペシャルS・タンフォランHの勝ち馬サイテーションだった。前年は故障で全休しており、この年からレースに復帰していたサイテーションは、前走のハンデ競走でミッシュに敗れて連勝が16で止まってしまっていたが、紛れも無く当時の米国最強馬、いや米国競馬史上の最強馬の座を争うほどの名馬だった。このサンアントニオHでは、サンパスカルH3着後にサンタアニタマチュリティSを勝っていたポンダーが勝ち、130ポンドを背負っていたサイテーションが1馬身差の2着、114ポンドの本馬はさらに半馬身差の3着だった。

続くサンタアニタH(D10F)では、サイテーション、ポンダーに加えて、プリンセスドリーンS・クレオパトラS・アートフルS・サンタマルガリータHを勝っていた前年の米最優秀3歳牝馬に選ばれていた名牝トゥーリーも参戦してきた。しかし110ポンドと斤量に恵まれた本馬が、2分フラットのコースレコードを樹立して優勝。132ポンドを背負わされていたサイテーションは1馬身1/4差の2着、113ポンドのトゥーリーはさらに1馬身差の3着、ポンダーは4着だった。サイテーションに先着した馬は、後の米国顕彰馬ビウィッチ、サギー(ケンタッキーダービー馬キャリーバックの父)、ミッシュ、ポンダーに次いで5頭目だった。

1週間後のサンフアンカピストラーノH(D14F)でも、サイテーションとの対戦となった。斤量はサイテーションの130ポンドに対して本馬は117ポンドと、まだ両馬の実力には大きな差があると思われていた。レースではこの両馬の一騎打ちとなり、本馬が写真判定に縺れ込む激戦の末にサイテーションを鼻差の2着に破って勝利。勝ちタイム2分52秒8は世界レコードだった。これで本馬はサイテーションに2回勝利した最初の馬となった。

その後に本馬は短期間の休養に入ったが、この休養中の6月6日にチャールズ・ハワード氏は心臓発作のため73年の生涯を閉じた。そのために本馬は息子のリンゼイ・ハワード氏に受け継がれた。

チャールズ・ハワード氏の死から11日後のフォーティナイナーズH(D9F)で復帰。このレースには前走ゴールデンゲートマイルHを世界レコードで勝ってきたサイテーションも参戦してきた。斤量は本馬が123ポンドで、サイテーションは128ポンドと、まだサイテーションに一日の長があるというハンデキャッパーの評価だった。レースではまたも両馬の一騎打ちとなり、本馬がサイテーションを首差の2着に破って勝利した。勝ちタイム1分46秒8はまたしても世界レコードだった。

この翌週に行われたゴールデンゲートH(D10F)は、本馬とサイテーションの5度目にして最後の対決となった。斤量はサイテーションが125ポンドで、本馬が126ポンドと、遂に逆転した。そして1番人気にも本馬が支持され、サイテーションは生涯唯一の2番人気に甘んじた。レースでは本馬がサイテーションを3馬身差の2着に破って勝利を収めた。これで2頭の対戦成績は本馬の4勝1敗となり、完膚なきまでにサイテーションを打ち負かした事になった。勝ちタイムは3戦連続の世界レコードとなる1分58秒2だった。このレコードが破られるには、1980年に行われたチャールズHストラブSにおいてスペクタキュラービッドが1分57秒8を計時するまで30年を待たなければならなかった。

競走生活(5歳後半)

これでサイテーションから米国最強馬の座を奪い取った本馬は、翌7月に出走したアメリカンH(D10F)では自身が132ポンドを課される事となったが、過去に英国において134ポンドで勝利した経験がある本馬は、この酷量に耐えて、2着ダーランに半馬身差で勝利した。

その後は住み慣れた西海岸から東海岸に遠征した。まずは9月にベルモントパーク競馬場ダート8.5ハロンのハンデ競走に出走。しかしさすがに激闘に次ぐ激闘で本馬も疲れていたのか、格下のワンヒッターに敗れて1馬身1/4差の2着に終わった。その5日後に出走したマンハッタンH(D12F)でも、ワンヒッターに首差敗れて2着に惜敗した(アーリントンHを勝ってきたポンダーには先着した)。もっとも、ワンヒッターはこれを皮切りに能力が開花し、後にピムリコスペシャルS・ホイットニーS・サバーバンH・モンマスHなど米国の大レースを幾つも制する名競走馬となった。

それから2週間後のジョッキークラブ金杯(D16F)では、プリークネスSの5馬身差圧勝を筆頭にワールズプレイグラウンドS・カウディンS・ウッドメモリアルS・ウィザーズS・アメリカンダービー・ジェロームH勝ちなど目下売り出し中の3歳馬ヒルプリンス、モンマスオークス・アラバマS・デラウェアHを勝っていた4歳牝馬アディルとの対戦となった。結果はヒルプリンスが圧勝し、本馬は4馬身差の2着が精一杯だった。

その後は西海岸に戻り、ハリウッドパーク競馬場で行われたダート9ハロンの一般競走に出走。ジャージーS・エンパイアシティH・ウエストチェスターHの勝ち馬で翌年のブルックリンHを勝つパレスチニアンを7馬身差の2着に破り、1分48秒0のコースレコードで勝利した。この一般競走には、ケンタッキーダービー・プリークネスS・ベルモントS・フラッシュS・ウッドメモリアルS・ドワイヤーS・ピムリコスペシャルS・ウエストチェスターH・グレイラグH・ディキシーH・サバーバンH・ブルックリンH2回を勝っていた4年前の米国三冠馬アソールトも出走して3着に敗れており、本馬は米国三冠馬2頭を負かした史上初の馬となった(本馬以外には1978年のジョッキークラブ金杯でシアトルスルーアファームドを同時に破ったエクセラーの1頭のみ)。

その8日後にはハリウッド金杯(D10F)に出走した。このレースには、アソールト、ポンダー、パレスチニアンに加えて、東海岸から遠征してきたヒルプリンスも参戦しており、名勝負が期待された。レースでは馬群の中団を追走した本馬が直線で外側から豪脚を繰り出すと、逃げ粘った2着パレスチニアンに1馬身差をつけて1分59秒8のコースレコードで勝利した。やはり馬群の中団を追走したヒルプリンスは、直線で本馬のスピードについていけずに、パレスチニアンからさらに3馬身差の3着。アソールトとポンダーは共に着外だった。

この年の本馬は、12戦7勝2着4回3着1回という見事な成績を収めたが、米年度代表馬の座は15戦8勝2着2回3着3回のヒルプリンスに奪われ、タイトルは米最優秀ハンデ牡馬のみに留まった。その理由は、年度代表馬の選考投票が実施されたのがハリウッド金杯の前だったためであるが、しかし筆者の個人的見解ではそれだけが理由ではない。欧州から移籍してきた馬を年度代表馬に選ぶのに抵抗があった、西海岸所属の本馬が東海岸の競馬関係者から軽く見られた、全米の誇りサイテーションを完膚なきまでに打ち負かしたのが気に入られなかったなどの理由もあったのではないかと推察している。少なくとも、ハリウッド金杯の前に投票が実施されたという事実は、西海岸の競馬が軽視されていたという絶対的な証拠になっている。しかし同じく米国三冠馬2頭を負かした後年のエクセラーは年度代表馬どころか最優秀古馬牡馬も受賞できなかったから、最優秀ハンデ牡馬を受賞した分だけ本馬のほうがましだろうか。この5歳時を最後に競走馬を引退した。

本馬の英国における獲得賞金は4万ドルに満たなかったが、米国移籍後の5歳時には34万6940ドルを稼ぎ出している。

馬名はアラビア語で「光」の意味であるが、その由来は、世界最古のダイヤモンドとして知られる「コ・イ・ヌール(Koh-I-Noor)」であるという。数百年とも数千年とも言われる紆余曲折を経て最終的に英国女王ヴィクトリアの所有となった「コ・イ・ヌール」だが、それまでは凄惨な争いの火種となっていた事から、有名なホープダイヤモンドと並んで不幸をもたらす宝石として知られていた。本馬の経歴を見ると、確かに「コ・イ・ヌール」を髣髴とさせる部分が多少なりともあるような気はする。

血統

Nasrullah Nearco Pharos Phalaris Polymelus
Bromus
Scapa Flow Chaucer
Anchora
Nogara Havresac Rabelais
Hors Concours
Catnip Spearmint
Sibola
Mumtaz Begum Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Mumtaz Mahal The Tetrarch Roi Herode
Vahren
Lady Josephine Sundridge
Americus Girl
Queen of Baghdad Bahram Blandford Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Blanche White Eagle
Black Cherry
Friar's Daughter Friar Marcus Cicero
Prim Nun
Garron Lass Roseland
Concertina
Queen of Scots Dark Legend Dark Ronald Bay Ronald
Darkie
Golden Legend Amphion
St. Lucre
Grand Princess Grand Parade Orby
Grand Geraldine
Queen Empress Glenesky
Sceptre

ナスルーラは当馬の項を参照。なお、日本においては各方面で以下の説が紹介されている。米国ケンタッキー州クレイボーンファームの牧場主アーサー・“ブル”・ハンコック・ジュニア氏は、サイテーションを4度も打ち負かすという本馬の大活躍を目の当たりにして、欧州からナスルーラを導入することを決意したのだと。しかし、米ブラッドホース誌の記事“Fifty Years of Nasrullah”によると、当時愛国でナスルーラを所有していたジョー・マクグラス氏とハンコック・ジュニア氏との間でナスルーラの売買契約が成立したのは1949年の秋(ナスルーラが米国の地を踏んだのは翌1950年の繁殖シーズン終了後)であり、本馬がサイテーションを4度打ち負かした1950年より前の話であるらしい。だから「ハンコック・ジュニア氏が本馬の活躍を見てナスルーラの購入を決意した」という説は否定されるわけだが、本馬の大活躍が米国におけるナスルーラの種牡馬人気に貢献した面は否定できないだろう。

母クイーンオブバグダッドは現役成績2戦未勝利。本馬の半妹クイーンオブバスラ(父フェアトライアル)の子にはタブン【英2000ギニー・ロベールパパン賞】がいる。クイーンオブバグダッドの半姉クイーンオブシムラ(父ブレニム)【クイーンメアリーS】の子にはオンガー【セントジェームズS】が、クイーンオブバグダッドの半妹カスタニョーラ(父ボワルセル)の子にはズクロ【コロネーションC・プリンセスオブウェールズS】が、クイーンオブバグダッドの半妹ウスンブラ(父ウミッドウォー)の牝系子孫には、日本で走ったダイナガリバー【東京優駿(GⅠ)・有馬記念(GⅠ)】などがいる。クイーンオブバグダッドの4代母は20世紀初頭の名牝セプターである。→牝系:F16号族②

母父バーラムは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、亡きチャールズ・ハワード氏が所有していた米国カリフォルニア州リッジウッドランチ牧場で種牡馬入りした。リンゼイ・ハワード氏がリッジウッドランチ牧場を手放した後は、リンゼイ・ハワード氏の友人で米国の著名な歌手兼俳優のビング・クロスビー氏が所有するカリフォルニア州ビングリンステーブルに移動している。3年間ほどケンタッキー州で暮らしていた事もあったという。しかし産駒のステークスウイナーは13頭に留まり、名種牡馬が多いナスルーラ産駒の中では、あまり成功したとは言えなかった。それもあってか、1964年にカリフォルニア州ロマリカランチ牧場に移動。この地で余生を過ごし、1974年11月に29歳で他界した。

遺体はロマリカランチ牧場に埋葬されたが、墓碑に名前が刻まれなかったため、長年に渡って本馬の埋葬箇所は不明のままだった。21世紀になって、米国在住のシャーロット・ファーマー夫人という女性が、本馬の遺体がどこに埋められているかが分からないという事実を耳にした。彼女はケルソに惹かれて競馬ファンとなった人物であり、ケルソより前に走っていた本馬に関する知識は、2001年に米国でベストセラーとなったシービスケットの小説に登場するハワード氏が最後に所有した馬といった程度に過ぎなかった。しかし彼女は「私はこうした難問が好きです」と言って、本馬の埋葬箇所探しに乗り出した。当時の新聞の縮刷版を調べたり、本馬の他界時に安楽死の措置を講じた獣医師ジョン・ピーク氏、ロマリカランチ牧場の経営者だったヘンリー・フレイタス氏の娘ロクサン・フレイタス女史、ロマリカランチ牧場に勤務していた事があるジョン・シレフス調教師(ゼニヤッタの管理調教師として有名)などに聞き取り調査を行ったりした結果、本馬の埋葬箇所は2010年になってようやく判明した。たまたまこの時期に、ロマリカランチ牧場の跡地が住宅地及び商店街として開発される計画が動き出し、そのまま放置すると本馬の埋葬箇所は消滅する運命となった。ファーマー夫人は市の公聴会や市議会と交渉して猶予期間を貰うと、本馬の改葬場所探しに乗り出した。ケンタッキーホースパーク、サンタアニタパーク競馬場、米国競馬名誉の殿堂博物館とも交渉したが、様々な理由で交渉は不成立に終わった。しかし功労馬保護団体オールドフレンズが受け入れを表明したため、2011年8月に本馬の遺骨は37年ぶりに掘り出され、オールドフレンズが所有するケンタッキー州の牧場に改葬された。そして新しい墓碑にはきちんと名前が刻まれた。

2002年には米国競馬の殿堂入りを果たした。米ブラッドホース誌が企画した20世紀米国名馬100選で第69位。母父としては、ウッドメモリアルSの勝ち馬でケンタッキーダービー1位入線失格のダンサーズイメージを出している。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1952

In Reserve

サンタイネスS・サンタマリアH

1952

Nooran

サンタマリアH

1952

Prince Noor

ケンタッキージョッキークラブS・エヴァーグレイズS

1953

Noorsaga

カウディンS

1954

Joe Price

サンフェリペS

1957

Noble Noor

ハリウッドジュヴェナイルCSS・カリフォルニアダービー

1958

Flutterby

サンフェリペS

1959

Bounding Main

アーリントンH

1961

Yours

モーリスドギース賞・グロシェーヌ賞・サンジョルジュ賞2回・プティクヴェール賞2回

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