ニューミンスター

和名:ニューミンスター

英名:Newminster

1848年生

鹿毛

父:タッチストン

母:ビーズウイング

母父:ドクターシンタックス

競走馬としては英セントレジャー優勝以外には好成績を残せなかったが種牡馬として成功し21世紀まで直系を残した良血馬

競走成績:3~6歳時に英で走り通算成績10戦2勝3着1回(異説あり)

誕生からデビュー前まで

英セントレジャーを勝った他にアスコット金杯とドンカスターCをいずれも2連覇した名馬タッチストンと、アスコット金杯を1回、ドンカスターCは4回も制した19世紀前半の英国を代表する名牝ビーズウイングの間の息子としてこの世に生を受けた。生産者は母ビーズウイングの生産・所有者でもあったウィリアム・オーデ氏である。

本馬は母ビーズウイングによく似て小柄だがまとまった馬格を有していたが、神経質な気性の持ち主でもあった。また、脚部不安を抱えており、生涯これに悩まされ続けた。この脚部不安は母父ドクターシンタックス譲りだと資料に記載されているが、12歳まで走って49戦したドクターシンタックスの競走馬キャリアを見る限りでは今ひとつしっくりこない意見である。歩様はぎこちなかった本馬だが、走る段になると美しいフォームに変わったという。

化学者のアンソニー・ニコル氏により購入され、父タッチストンの管理調教師でもあった魔術師ことジョン・スコット師に預けられた。未出走時にスコット師が行った試走において能力の高さを見せ、スコット師をして素晴らしい馬と評価せしめた。

競走生活(3歳時)

しかしデビュー戦となった英ダービー(T12F)では、単勝オッズ67.67倍の低評価だった。陣営は英ダービーの施行日時を勘違いしており、本番1週間前に英ダービーが施行されると思っていたようで、それに合わせて本馬を調整。その結果として1週間の間に本馬の調子は下下してしまい、それがこの低評価の一因となったようである。そしてレースでも何の見せ場も無く、単勝オッズ4倍の1番人気に応えて勝利したテディントンから大きな差をつけられて、9着に敗れた。本馬は前述のとおり神経質な気性の持ち主で、慣れない環境では焦れ込み、スタートからレース序盤にかけての行きっぷりもあまり良くなかったようである。2戦目は8月にヨーク競馬場で行われたエボアセントレジャーとなった。ここでは単勝オッズ2倍を切る1番人気に支持されたのだが、調子が戻り切っていなかったようで、結果はザカリキュレーターの3着(5頭立て)だった。

3戦目は翌月の英セントレジャー(T14F132Y)となった。テディントンもこの時期にドンカスター競馬場に来ていたのだが、何故か英セントレジャーには出走せずに別にレースに出たため不在だった。英2000ギニー馬ヘルナンデスが単勝オッズ2.5倍の1番人気、英1000ギニー・英シャンペンSの勝ち馬で後にパークヒルSも勝つアフロディーテが単勝オッズ4.5倍の2番人気、セントジェームズパレスSの勝ち馬ザバンが単勝オッズ6倍の3番人気、エフェソスが単勝オッズ13倍の4番人気、本馬が単勝オッズ16倍の5番人気となった。スタートが切られるとディシートフルが逃げを打ち、シム・テンプルマン騎手が騎乗する本馬は馬群の中団を進んだ。直線に入ったところでアフロディーテがディシートフルをかわして先頭に立ち、そのまま押し切りを図った。しかし残り1ハロン地点で追い上げてきた本馬が一気にアフロディーテを抜き去った。最後は2着アフロディーテに2馬身差、3着フッケムスナイヴィーにもさらに2馬身差をつけて優勝。初勝利をこの大舞台で挙げた。

その後はケンブリッジシャーH(T9F)に出走した。しかし英セントレジャーを勝った本馬には事前登録時より12ポンド重い112ポンドが課せられた。レースは83ポンドの軽量だった3歳牝馬トゥルースが勝利を収め、2番人気に推されていた本馬は33頭立ての着外だった。3歳時の成績は4戦1勝だった。

競走生活(4~6歳時)

4歳時は7月にグッドウッド競馬場で行われた300ソヴリンスウィープS(T29F)から始動。単勝オッズ1.33倍で4頭立ての1番人気に支持された。スタートが切られるとプレゲトンという馬が猛然と先頭に立って後続を引き離した。一時は本馬を含む他3頭に1ハロンもの差をつける超大逃げとなったが、残り6ハロン地点で本馬とハープシコードの2頭が追撃を開始。ばてたプレゲトンをかわした2頭の勝負となったが、残り1ハロン地点で前に出た本馬が2馬身差で勝利した。その2日後にはグッドウッドC(T20F)に出走。このレースにはテディントンも出走してきて、英ダービー馬と英セントレジャー馬の対決となった。しかしレースは英国クラシック競走の勝ち馬達より27ポンドも斤量が軽かった3歳牡馬キングストンが勝利。テディントンは3着に粘ったものの、本馬は9頭立ての6着に敗れた。その後はドンカスターC(T19F)に出走して、再びテディントン、キングストンと顔を合わせた。レースはテディントンがキングストンを首差の2着に、翌年の同競走を勝つハンガーフォードを3着に抑えて勝利を収め、本馬は4着に敗れた。

5歳時は春シーズンにチェスター競馬場で行われたトレーズメンズプレート(T18F147Y・現チェスターC)に出走した。ここでは単勝オッズ15倍の人気薄であり、結果もゴールドファインダーの5着(28頭立て)と今ひとつ冴えなかった。その後はしばらくレースに出ず、8月にヨーク競馬場で行われたエボアH(T14F)で復帰したが、2着ザネイボッブを首差抑えて勝ったパントマイムの9着(13頭立て)に敗れた。5歳時の成績は5戦1勝だった。

6歳時も現役を続けたが、復帰は大幅に遅れて、前年から施行時期が大幅にずれた11月のトレーズメンズプレート(T18F147Y)となった。単勝オッズ12倍の評価で出走した本馬は、先行集団に加わって走っていたが、残り数ハロン地点で故障を発生。エパミノンダスの着外に終わり、そのまま6歳時1戦未勝利の成績で競走馬を引退した。

本馬が勝ったレースは英セントレジャーとスウィープSのみで、他のレースは着外が大半であった。着外と言ってもいわゆる惨敗は少なく、それなりに走る事が多かったようである。スコット師は否定しているが、後の競馬評論家の多くは本馬の気性だけでなく脚部不安も本馬が勝てない要因だったと指摘しており、本馬の潜在的な競走能力自体は多くの人々が認めていたようである。なお、本馬の競走成績については諸説あり、6戦しかしていないとか、3勝挙げているなどの意見もあるが、競走成績が不明瞭なのは19世紀の馬としては珍しくない事である。

血統

Touchstone Camel Whalebone Waxy Pot-8-o's
Maria
Penelope Trumpator
Prunella
Selim Mare Selim Buzzard
Alexander Mare
Maiden Sir Peter Teazle
Phoenomenon Mare 
Banter Master Henry Orville Beningbrough
Evelina
Miss Sophia Stamford
Sophia
Boadicea Alexander Eclipse
Grecian Princess
Brunette Amaranthus
Mayfly
Beeswing Doctor Syntax Paynator Trumpator Conductor
Brunette
Mark Anthony Mare Mark Anthony
Signora
Beningbrough Mare Beningbrough King Fergus
Fenwick's Herod Mare
Jenny Mole Carbuncle
Prince T'Quassaw Mare
Ardrossan Mare Ardrossan John Bull Fortitude
Xantippe
Miss Whip Volunteer
Wimbleton 
Lady Eliza  Whitworth Agonistes
Jupiter Mare
Spadille Mare Spadille 
Silvia

タッチストンは当馬の項を参照。

ビーズウイングは当馬の項を参照。→牝系:F8号族②

母父ドクターシンタックスはビーズウイングの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は1300ギニーでニコル氏からリチャード・ラムレイ・サビール氏に売却された。サビール氏の元で2年種牡馬供用された後、ロークリフスタッドに250ギニーでリースされ、その後1500ギニーでロークリフスタッドに正式に売却された。本馬がロークリフスタッドに移動して種牡馬生活を開始する前に本馬の初年度産駒がデビューしたが、そのうちの一頭マスジッドが英ダービーを優勝したため、当初10ギニーだった本馬の種付け料は15ギニーに上昇し、さらには50ギニー、最終的には100ギニーに達した。この種付け料の上昇に比例するように本馬はその後も種牡馬成績を向上させていった。1859年には英首位種牡馬の座を獲得。その後3年間は種牡馬の帝王と呼ばれたストックウェルに英首位種牡馬の座を譲ったが、1863年には2度目の英首位種牡馬に輝いた。

しかし現役時代から本馬を悩ませた脚部不安は確実に悪化していた。種牡馬入りして2年後の8歳時には既に獣医から脚の状態について要注意であると指摘を受けている。14歳時に再び本馬を診察したその獣医は状態がさらに悪化していると指摘している。19歳の秋に再度本馬を診察したその獣医は、苦痛を和らげるためには安楽死の措置を講ずべき状態まで悪化していると指摘している。それでもロークリフスタッドは本馬を失いたくなかったため、脚部にかかる負担を和らげるために特製の蹄や三角巾を駆使して本馬の延命に努めた。この結果多少状態は改善されたように見え、ロークリフスタッドは、状態は悪いが種牡馬としての能力は健在であると発表した。しかし20歳時には産駒を残す事は出来ず、結局この年の10月に他界した。後の検死により、本馬の両前脚の蹄骨は著しく腐食していた事が判明している。

本馬は後継種牡馬に恵まれ、アドヴェンチュラー、ロードクリフデンハーミットの3頭が英首位種牡馬になる成功を収めた。ハンガリーの名牝キンチェムの父カンバスカンも本馬の産駒である。本馬の直系はハーミットの後に出現したガロピンセントサイモンの系統に押されて衰退したが、ロードクリフデンの直子ハンプトンから伸びたサイアーラインが現在も残っている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1856

Musjid

英ダービー

1856

Newcastle

ドンカスターC

1856

Rosabel

トライアルS

1858

Nemesis

英1000ギニー

1859

Adventurer

ゴールドヴァーズ

1860

Gratitude

ロイヤルハントC

1860

Lord Clifden

英セントレジャー・英シャンペンS

1861

Cambuscan

ジュライS

1861

The Beadle

セントジェームズパレスS

1862

Heir at Law

トライアルS

1862

Lazaretto

セントジェームズパレスS

1862

Peeress

ナッソーS

1863

Laneret

オールエイジドS

1864

Hermit

英ダービー・セントジェームズパレスS

1864

Ines

ヨークシャーオークス

1864

Irish Church

トライアルS

1865

Leonie

ヨークシャーオークス・ナッソーS

1866

Cardinal York

シザレウィッチH

1866

Cerdagne

バーデン大賞・アンペルール大賞・ビエナル賞

1866

Lady Dewhurst

ジムクラックS

1867

Sabinus

アスコット金杯・ケンブリッジシャーH

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