プラネット

和名:プラネット

英名:Planet

1855年生

栗毛

父:レヴェニュー

母:ニーナ

母父:ボストン

生涯31戦して3着以下無しの戦績を誇った米国南北戦争直前における南部最高の名馬

競走成績:3~6歳時に米で走り通算成績31戦27勝2着4回(異説あり)

南北戦争前の米国においてはレキシントンに次ぐ名馬であり、南北戦争前の最後の名馬と言われている。

誕生からデビュー前まで

米国ヴァージニア州ブルフィールドスタッドにおいて、同牧場の所有者トーマス・W・ドズウェル少佐により生産・所有された。競馬記者のジョン・ハーヴェイ氏によると、成長後の体高は15.25ハンドであり、それほど背が高い馬ではなかったようだが、見栄えがする栗毛馬であり、バランスが取れた馬体と優れた四肢の持ち主だったという。

競走生活

3歳5月4日にヴァージニア州フェアフィールド競馬場で行われた総賞金1万750ドルの1マイル競走においてデビューして勝利。その後は地元ヴァージニア州だけでなく、ルイジアナ州ニューオーリンズ、ケンタッキー州アッシュランド、ジョージア州サヴァナ、サウスカロライナ州チャールストンなど主に米国南部の州を転戦した。4マイルのヒート競走やジョッキークラブパースなどを勝ちまくり、2マイルや3マイルのヒート競走でも勝利し、ダニエルブーン、コンガリー、ソックス、アーサーメイコンといった当時の強豪馬達を次々に撃破していった。また、ニューヨーク州にも遠征しており、5歳9月25日にはロングアイランドで総賞金2万ドルのレースに出走して勝利している。6歳時に出走した現役最後のレースも含めて4回敗戦しているが全て2着であり、3着以下は1度も無かった。最後のレースに出走してから5日後の4月12日に南北戦争が勃発したため競馬開催が中止され、そのまま競走馬を引退したが、獲得賞金総額69700ドルは当時の北米記録であり、20年以上北米賞金王として君臨した。

本馬の競走成績は“Thoroughbred Heritage”においては31戦27勝2着4回となっているが、米国競馬名誉の殿堂博物館のウェブサイトには28戦24勝2着4回となっている。南北戦争の直前期だけに記録に混乱があるようで、いずれが正しいのかは判然としない。

本馬はその栗毛の馬体と速さから“The Great Red Fox(グレートレッドフォックス)”の別名で呼ばれていた。なお、本馬はスピードやスタミナに優れていたばかりではなく、速歩の才能もあり、本馬の調教はいつも速歩で行われていた。1マイルを3分で歩く事ができたという。しかし前出のハーヴェイ氏によると、他馬との調教順に支障をきたすという理由で、ニューヨーク州においては本馬の調教を速歩で行うことは禁止されていたらしく、トラブルに発展したという。

血統

Revenue Trustee Catton Golumpus Gohanna
Catherine
Lucy Gray Timothy
Lucy
Emma Whisker Waxy
Penelope
Gibside Fairy Hermes
Vicissitude
Rosalie Somers Sir Charles Sir Archy Diomed
Castianira
Citizen Mare Citizen
Commutation Mare
Mischief Virginian Sir Archy
Meretrix
Bedford Mare Bedford
Bellair Mare
Nina Boston Timoleon Sir Archy Diomed
Castianira
Saltram Mare Saltram
Symes Wildair Mare 
Sister to Tuckahoe Ball's Florizel Diomed
Atkinsons Shark Mare
Alderman Mare Alderman 
Clockfast Mare
Frolicsome Fanny Lottery Tramp Dick Andrews
Gohanna Mare
Mandane Pot-8-o's
Young Camilla
Sister to Catterick Whisker Waxy
Penelope
Bay Trophonius Mare Bay Trophonius
Lardella

父レヴェニューは3歳時に1マイルのレースと2マイルのヒート競走を2回の3戦全勝の成績を残した。4歳時は2マイルと3マイルのヒート競走を連勝した後に牝馬ファニーキングとの4マイルヒート競走で敗れたが、その後のマッチレースでは雪辱を果たした。その後10日以内に4マイルのヒート競走を2戦して1戦を勝利している。5歳時には全て4マイルのヒート競走ばかり7戦して5回勝利した。その後も8歳まで走って2度の勝ち星を上乗せしたという。競走馬引退後はヴァージニア州で種牡馬入りしていた。1860年には本馬の活躍により北米首位種牡馬に輝いている。レヴェニューの父トラスティーはファッションの項を参照。

母ニーナは4歳時にドズウェル氏により購入された馬で、ヴァージニアジョッキークラブパースを単走で勝ち、他にも3マイルのヒート競走で2勝を挙げた記録がある。引退後はドズウェル氏の牧場で繁殖入りしていた。繁殖牝馬としては15頭の子を産んだが、その多くは活躍馬であり、25歳時には本馬の半弟であるベルモントSの勝ち馬アルジェリン(父アブドアルカダール)を産んでいる。アルジェリンは、英ダービー・愛ダービーの勝ち馬オービーと英1000ギニー・デューハーストSの勝ち馬ロドラ兄妹の祖母の父でもある。

本馬の半妹エクリプティック(父エクリプスⅡ)の牝系子孫が今世紀まで残っており、アディル【モンマスオークス・アラバマS・デラウェアH】、ワンカウント【ベルモントS・トラヴァーズS・ジョッキークラブ金杯】、ミセスペニー【チェヴァリーパークS(英GⅠ)・仏オークス(仏GⅠ)・ヴェルメイユ賞(仏GⅠ)】、ハトゥーフ【英1000ギニー(英GⅠ)・英チャンピオンS(英GⅠ)・ビヴァリーDS(米GⅠ)】、フランダース【BCジュヴェナイルフィリーズ(米GⅠ)・スピナウェイS(米GⅠ)・フリゼットS(米GⅠ)】、サーフサイド【フリゼットS(米GⅠ)・ハリウッドスターレットS(米GⅠ)・ラスヴァージネスS(米GⅠ)・サンタアニタオークス(米GⅠ)】、エアフォースブルー【愛フェニックスS(愛GⅠ)・ヴィンセントオブライエンナショナルS(愛GⅠ)・デューハーストS(英GⅠ)】、日本で走ったカレンブラックヒル【NHKマイルC(GⅠ)】などが出ている。→牝系:F25号族

母父ボストンは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬はブルフィールドスタッドで種牡馬入りしたものの、種牡馬生活云々以前に、当時激化する南北戦争(ヴァージニア州は北軍と南軍に分裂していたが、本馬の繋養地は南軍に属していた)の最中、北軍から守るためにドズウェル少佐は本馬を森林の中に雲隠れさせざるを得なかったようで、本馬は交配機会に恵まれず種牡馬としての能力を発揮する機会が無かった。

南北戦争が終結した3年後の1868年に、レキシントンを種牡馬として所有していたケンタッキー州の馬産家ロバート・A・アレクサンダー氏により購入されてウッドバーンファームに移動し、レキシントンなどと一緒に繋養された。1875年、レキシントンが他界したのと同年に本馬も20歳で他界した。

本馬の直系は繁栄しなかったが、牝駒スリッパの牝系子孫からは、米国顕彰馬サラゼン、マイル女王ミエスクとその一族などが出ており、後世に影響力を保っている。また、速歩の能力があった故かスタンダードブレッドとして本馬の直系は長期間残り、現在もスタンダードブレッド界において本馬の血は残っている。2012年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1869

Hubbard

ディキシーS

1870

Minnie Mc

アラバマS

1873

Bombay

オハイオダービー

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