エピナード

和名:エピナード

英名:Epinard

1920年生

栗毛

父:バダジョズ

母:エピネブランチェ

母父:ロックサンド

仏国のみならず欧州における最強馬として米国で行われた国際競走3戦全てで好走し、米最優秀ハンデ牡馬に選ばれた20世紀上四半期における仏国最強馬

競走成績:2~4歳時に仏英米で走り通算成績20戦12勝2着6回

仏国競馬当局であるフランスギャロをして“a racing legend(競馬における伝説)”とまで言わしめた20世紀上四半期における仏国最強馬。

誕生からデビュー前まで

当時の仏国における一流馬産家だったピエール・ワートハイマー氏により生産・所有され、H・ユージーン・リー調教師に預けられた。

競走生活(2・3歳時)

2歳8月にドーヴィル競馬場で行われたヤコウレフ賞(T1000m)でデビューして勝ち上がった。翌9月のコーテックス賞(T1000m)も勝利。同月にはクリテリウムデメゾンラフィット(T1300m)にも出て勝利。翌10月にはフォレ賞(T1600m)に出走して、年上の馬達を蹴散らして勝利した。さらに仏グランクリテリウム(T1600m)では、後にフォレ賞などの仏国短距離競走を勝ちまくるニセアを2着に破って勝利。2歳時の成績は7戦6勝で、勝ったレースはいずれも完勝と言える内容だったらしく、文句無しにこの年の仏最優秀2歳牡馬に選ばれた。

3歳時は仏2000ギニーや仏ダービーなどの仏国クラシック路線には進まず、別路線に進んだ。その理由は資料に明記されていないが、おそらく登録が無かったためと思われる。グロシェーヌ賞(T1000m)では、この競走を2連覇していたプースラを2着に破って勝利。その後はイスパーン賞(T1850m)に向かい、モルニ賞・フォレ賞・モーリスドギース賞・ジャックルマロワ賞などを勝ちまくっていた名牝ザリバを2着に破って勝利した。その後は英国に遠征。7月にグッドウッド競馬場で行われたスチュワーズC(T6F)では、英ダービーでパパイラスの2着に入っていた後年の大種牡馬ファロスなどを蹴散らして2馬身差で勝利。10月にニューマーケット競馬場で出たケンブリッジシャーH(T9F)では128ポンドが課せられ、18ポンドのハンデを与えた牝馬ヴァーディクト(翌年のコロネーションCの勝ち馬。仏オークスやアスコット金杯を勝ったクワッシュドの母となっている)の首差2着と惜敗した(121ポンドのファロスは4着だった)。3歳時の成績は6戦5勝だった。

この1923年に本馬と同世代の英ダービー馬パパイラスは米国に遠征し、10月20日にベルモントパーク競馬場で行われたケンタッキーダービー・ベルモントSの勝ち馬ゼヴとのマッチレースに挑んだ。結果はゼヴがパパイラスに5馬身差をつけて圧勝したが、このレースは史上初めての英国と米国のトップホース同士による対決として大きく宣伝され、この日のベルモントパーク競馬場には5万人という大観衆が詰め掛け、ラジオや映画館でレースの様子が放送されるなど大きく盛り上がり、経済効果も相当に大きかった。

この成功に気を良くした米国競馬関係者達は、翌年にさらなる国際競走を企画した。そして、当時仏国内のみならず欧州全体においても最強馬と評価されていた本馬の招待を考えた。また、欧州の競馬ファンの間でも、地元の最強馬である本馬にパパイラスの雪辱を果たしてもらいたいという声が大きくなっていた。そして米国ジョッキークラブの初代会長オーガスト・ベルモント・ジュニア氏、アケダクト競馬場を運営するクイーンズカウンティジョッキークラブの会長ジェームズ・シヴリン氏、チャーチルダウンズ競馬場の代表者マット・ウィン大佐の3名がワートハイマー氏と交渉を行った結果、1924年4月にワートハイマー氏は本馬の米国遠征に同意した。レースは前年のようなマッチレースではなく、異なる3つの競馬場、かつ、異なる距離において、米国のトップホース達と本馬が戦う内容とする事になった。このニュースは欧米のみならず、遠く南米のベネズエラでも大きく報じられたという。

競走生活(4歳時)

4歳になった本馬は、シーズン初戦のアルジャントゥイユSを勝利。そして米国に向かう前に、サンクルー競馬場1300mで行われた本馬と同世代の仏2000ギニー・ジャックルマロワ賞勝ち馬サーギャラハッドとのマッチレースに出走した。しかし本馬はこの時点で脚に痛みを抱えていたため本調子とは言い難く、サーギャラハッドの短首差2着に惜敗した。ちなみに後に本馬が米国で活躍すると、サーギャラハッドは本馬とのマッチレースに勝利した馬という事で注目されて米国に種牡馬として導入され、記録的大成功を収める事になる。

マッチレースで敗れてしまった本馬だったが内容的には悪くなかったため、予定どおり米国に向かうことになった。そして蒸気船ベレンガリア号に乗った本馬は、7月14日にニューヨークの港に無事到着した。到着した本馬の様子は当時の米国紙において「仏国の有名な競走馬エピナードが蒸気船ベレンガリア号に乗ってニューヨークに到着」という見出しで写真掲載された。

さて、この年行われる事になった国際競走は、インターナショナルスペシャルと銘打たれ、第1戦は9月1日にベルモントパーク競馬場ダート6ハロンで、第2戦は9月27日にアケダクト競馬場ダート8ハロンで、第3戦は10月11日にケンタッキー州ラトニア競馬場ダート10ハロンで行われる事になっていた。欧州からの参戦馬は本馬のみであったにも関わらずインターナショナルスペシャルと銘打たれたのは、宣伝の意味もあっただろうが、それだけ本馬の存在が大きかったためであろう。

まず本馬は英国のエドワード皇太子(後の英国王エドワードⅧ世)も観戦していた第1戦に出走。出走馬は、ケンタッキーダービー・ベルモントSやパパイラスとのマッチレースの他にウィザーズS・ローレンスリアライゼーションSなどにも勝利して前年の米年度代表馬に選ばれたゼヴ、ハロルドS・ケンタッキージョッキークラブSなどを制して前年の米最優秀2歳牡馬に選ばれたワイズカウンセラー、前年のトラヴァーズS勝ち馬ウィルダネス、ドワイヤーS勝ち馬ラドキン、サラトガスペシャルS勝ち馬ゴスホークなど、本馬を含めて9頭だった。本馬やゼヴなどの古馬牡馬は130ポンド、ワイズカウンセラーやラドキンなどの3歳牡馬は125ポンドの斤量だった。結果はワイズカウンセラーが勝ち、初のダート競走出走だった本馬は2着、ラドキンが3着で、ゼヴは5着だった。

続いて第2戦に出走。第1戦から引き続きゼヴ、ワイズカウンセラー、ラドキンが参戦した他、トラヴァーズS・マンハッタンH2回・ブルックリンHなどの勝ち馬リトルチーフなど2頭が新たに参戦し、本馬を含めて6頭立てとなった。結果はラドキンが勝ち、本馬は再び2着、ワイズカウンセラーが3着で、ゼヴは4着だった。資料には、本馬鞍上のエヴェレット・ヘインズ騎手の騎乗ミスで本馬は4馬身ほどのロスを蒙ったが、それでもラドキンに鼻差まで迫ったと記載されている(具体的な騎乗ミスの内容は記載されていないため不明)。

続いて第3戦に出走。前2戦が賞金総額2万5千ドルずつだったのに対し、第3戦のみ5万ドルだった事から、このレースがインターナショナルスペシャルにおける最重要競走として位置付けられていたと思われる。前2戦に出走していたワイズカウンセラー、ラドキン、ゼヴの3頭はいずれもこの第3戦では不在だった。出走馬は後にこの年の米年度代表馬に選ばれるシャンペンS・カーターH・マンハッタンH勝ちの3歳馬サラゼン、この年のベルモントS勝ち馬マッドプレイ、後に米国顕彰馬にも選ばれるケンタッキーオークス・CCAオークス勝ち馬プリンセスドリーン、この年のジョッキークラブ金杯を勝ってきたマイプレイ、翌年のジョッキークラブ金杯勝ち馬アルタウッド、ケンタッキーダービー2着馬チルホウィー、リトルチーフなどで、本馬を含めて8頭立てで行われた。前年のゼヴとパパイラスのマッチレースにおける5万人を上回る6万人という米国競馬史上最多の大観衆が詰め掛けたこのレースで本馬は1番人気に支持された。しかし結果はサラゼンがコースレコードで逃げ切って勝利し、本馬は1馬身半差の2着、3着にマッドプレイが入った。サラゼンの管理調教師で名伯楽として名高かったマックス・ハーシュ師は、自分が生涯見た中でもこのレースが最もスリリングだったと語っている。

その後はローレルS(D8F)に出走したが、ワイズカウンセラーの5着に敗れてしまい、これが現役最後のレースとなった。結局米国では4戦して未勝利、2着3回の本馬だったが、過去に1度もダート競走を経験した事が無い本馬がインターナショナルスペシャル3戦全てで好走したという事で、さすがは欧州最強馬であると米国の競馬関係者達を唸らせた。現に、後年になって決定されたこの年の米最優秀ハンデ牡馬には本馬が選出されており、同斤量なら本馬がこの年の米国競馬界最強だったと公式に認定された事になる。4歳時の成績は欧米通算で7戦1勝だった。

馬名は仏語でホウレンソウの意味で、母エピネブランチェの馬名に使用されている文字からの連想であると思われる(エピネブランチェは「白い棘」の意味)。

血統

Badajoz Gost Callistrate Cambyse Androcles
Cambuse
Citronelle Mars
Bijou
Georgina Trocadero Monarque
Antonia
Gladia Tournament
Garenne
Selected Raeburn St. Simon Galopin
St. Angela
Mowerina Scottish Chief
Stockings
Il Segreto Chevron Rosicrucian
Cognisaunce
Nameless Blinkhoolie
No Name
Epine Blanche Rock Sand Sainfoin Springfield St. Albans
Viridis
Sanda Wenlock
Sandal
Roquebrune St. Simon Galopin
St. Angela
St. Marguerite Hermit
Devotion
White Thorn Nasturtium Watercress Springfield
Wharfedale
Margerique Order
Margerine
Thorn Blossom Martenhurst  Wenlock
Hirondelle 
Eye Sweet Galopin
Whin Blossom

父バダジョズはバーデン大賞・ボイアール賞(現エクスビュリ賞)の勝ち馬。遡ると、ゴスト、プロデュイ大賞(現リュパン賞)・英ジョッキークラブC・コンセイユドパリ賞・エドヴィル賞2回の勝ち馬カリストレート、カンビュス、オミニウム賞勝ち馬アンドロクレス、アンペルール大賞(現リュパン賞)・グッドウッドCの勝ち馬ドラールを経てザフライングダッチマンに行きつく仏国の土着血統。

母エピネブランチェは母親の胎内にいる状態で米国から輸入されて仏国で誕生した、日本で言うところの持ち込み馬。最初はオーガスト・ベルモント・ジュニア氏の所有馬だったが、後にワートハイマー氏の所有馬となった。競走馬としての経歴はよく分からない。本馬以外に目立つ産駒はいない。エピネブランチェの祖母ソーンブロッサムの半姉アーティスティックの孫にオステルリッツ【ミラノ大賞】、ソーンブロッサムの半妹プライの子にプロメテオ【伊共和国大統領賞】とピアプロ【伊ジョッキークラブ大賞】がいる。ソーンブロッサムの5代母レディホーソンの母は1840年代の英国競馬で大活躍した“Queen of the Turf”ことアリスホーソンであり、レディホーソンの牝系子孫からは数々の活躍馬が出現している(詳細はアリスホーソンの項を参照)。→牝系:F4号族②

母父ロックサンドは当馬の項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、そのまま米国で種牡馬入りしたが、1928年に仏国に戻った。1930年に再度米国に移動したが、1932年にまた仏国に戻ってきた。種牡馬としてはそれほど成功したわけではないが、それでも欧米双方において何頭かの有力馬を送り出している。しかし1939年に第二次世界大戦が勃発し、翌年に独国軍が仏国に侵攻してきた。そして仏国内にいた多くの馬達が独国内に連れ去られた。その中に当時21歳の本馬も含まれていた。既に老年に差しかかっていた本馬は独国においては種牡馬としては供用されず、荷馬車を牽引する馬車馬として使役された。そして翌1942年に独国において22歳で他界した。欧米を股にかけて活躍した名馬の最後としては何とも寂しいものだった。

直系は既に残っていないが、本馬の血を母系に有する馬は現在もいる。例えば、お馴染みシーザリオの8代母の父は本馬であり、シーザリオの息子エピファネイアやリオンディーズにも当然本馬の血が受け継がれている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1926

La Fayette

アランベール賞・グロシェーヌ賞

1927

Democratie

プティクヴェール賞

1928

Epithet

ホープフルS

1929

Epitaphe

プティクヴェール賞

1930

Coque de Noix

ロベールパパン賞

1930

Rodosto

英2000ギニー・仏2000ギニー・イスパーン賞・ジョンシェール賞・サブロン賞・ジョンシェール賞

1931

Makila

モートリー賞

1931

Rentenmark

エクリプス賞・ギシュ賞・エドヴィル賞・サブロン賞

1932

Good Harvest

ジェロームH・メトロポリタンH・ヨークタウンH

1933

Marica

アーリントンメイトロンH

1934

Catherinette

ロシェット賞

1936

Emir d'Iran

アランベール賞・ジョンシェール賞

1937

Balthazar

シュマンドフェルデュノール賞・ジョンシェール賞・クインシー賞

1940

Fanatique

アランベール賞・ダフニ賞・ジョンシェール賞・モートリー賞

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