ツスカリー

和名:ツスカリー

英名:Tuscalee

1960年生

鹿毛

父:タスケニー

母:ヴァーナリー

母父:ブリティッシュバディ

障害競走年間10勝、障害競走通算勝利数37勝はいずれも米国記録となっている20世紀を代表する米国の名障害競走馬

競走成績:3~12歳時に米で走り通算成績89戦39勝2着14回3着10回(うち障害37勝。障害競走限定の出走回数や入着回数は不明)

米国の障害競走について

欧州、特に英国や愛国では平地競走よりも障害競走のほうが人気は高く、馬券の売り上げは英ダービーより英グランドナショナルのほうが多かったり、好きな競走馬アンケートで障害競走馬がランキング上位を独占したりする。一方で米国においては、明らかに平地競走よりも障害競走のほうが人気は低く、馬券の売り上げも低い(BCグランドナショナルのように馬券発売が無い大競走も少なくない)ため、障害競走が行われている州は少ない。米国競馬の殿堂入りを果たしている障害競走馬は結構多くいるが、全体的に資料に乏しく、この名馬列伝集で紹介するのは困難な馬が大半である。

米国競馬の殿堂入りを果たしている20世紀の障害競走馬の中で最も資料が豊富なのはバトルシップレスカルゴであり、この2頭は名馬列伝集に載せている。しかしバトルシップやレスカルゴの資料は専ら遠征先の英国で勝利した英グランドナショナルの内容であり、米国内における成績を詳しく述べている資料は無かった(レスカルゴの場合は殆ど欧州で走っており米国では片手で数えられるほどしか出走していない)。

21世紀にBCグランドナショナルを5連覇したマックダイナモに関しては最近の馬であり、基礎資料・参考資料ともに豊富だったので迷わずこの名馬列伝集で紹介する事にした。しかし米国内に留まって活躍した20世紀の障害競走馬の中でバトルシップ以外にもう1頭なんとか紹介したいと感じた筆者が目をつけたのが、マックダイナモと同時に殿堂入りを果たした本馬である。殿堂入りしたのが最近である分だけ、古い時代に殿堂入りした他の障害競走馬より資料が豊富だったのと、米国障害界における最多記録を複数保持している馬だったからである。それでもマックダイナモと比べると資料が圧倒的に不足しているので、あまり詳しく紹介できないが、その辺はご容赦願いたい。

本馬を紹介する前に、米国の障害競走に関する説明をしておく必要がある。欧州では大雑把に言って置障害競走ハードルと固定障害競走スティープルチェイスの2種類の競走に大別されており、ハードルは比較的障害が低く距離が短めのため飛越力だけでなく平地の脚が要求されるのに対し、スティープルチェイスは障害が高くて困難な上に距離が長めであるため一層正確な飛越力と持久力を要求される。米国では欧州ほど明確に区分けされていないが、やはり置障害競走ナショナルフェンス(以下「ナショナル」)と固定障害競走ティンバーフェンス(以下「ティンバー」)の2種類の競走に大別されている。欧州におけるスティープルチェイスが米国におけるティンバーと考えてよく、ナショナルよりもティンバーのほうが障害は手強く距離も長めである。しかし米国では欧州ほど障害競走が盛んではないため、障害をコース上に置くだけで施行できるナショナルと異なり、ティンバーを実施する競馬場は非常に少ない。米国で障害競走を実施している州は、ヴァージニア州、メリーランド州、ケンタッキー州、ニューヨーク州、ニュージャージー州、ジョージア州、サウスカロライナ州、ノースカロライナ州、テネシー州、ペンシルヴァニア州、デラウェア州の11州あるが、ティンバーを実施しているのはヴァージニア州とメリーランド州の2州くらいであり、そのため米国ではナショナルもティンバーもひっくるめてスティープルチェイスと呼称する事が多いようである。

誕生からデビュー前まで

本馬が誕生したのはそのメリーランド州にあるブライズウッドファームで、生産者は同牧場の所有者アルフレッド・H・スミス氏という人物だった。成長しても体高15.3ハンドにしかならなかった小柄な馬で、時代が違うとはいえ、体高16.3ハンドに達したマックダイナモとは体格面で大きく異なっていた。スミス氏は本馬を自身で所有し、ジョー・“ライター”・エイチェソン・シニア調教師に預けた。主戦は、エイチェソン・シニア師の息子ジョー・エイチェソン・ジュニア騎手が務めた。エイチェソン・ジュニア騎手は「米国競馬史上における最高の障害騎手」と言われた人物で、本馬以外にも多くの名障害競走馬に騎乗して、通算成績2457戦478勝を挙げ、後の1978年には米国競馬の殿堂入りも果たしている。

競走生活(2~5歳時)

他の大半の障害競走馬と同じく、本馬も最初から障害競走を走っていたわけではなく、当初は平地競走馬だった。3歳時にデビューして、この年は4戦1勝2着1回3着1回の成績を残している。4歳時から障害競走に本格的に参戦し、この年は名のあるレースの勝ち鞍こそないものの12戦8勝2着1回3着1回の成績を残した。

5歳時から障害の大競走に参戦していったが、すぐに頂点に立ったわけでは無かった。バーモント州モントピーリア競馬場で出走したノエルレインスティープルチェイス(24F)では2着。デラウェアパーク競馬場で出走したホリーツリーハードルHでは3着に敗れている。5歳時の成績は11戦2勝2着2回3着2回で、勝ち星の数は前年より大きく下がってしまった。ただし、2勝のうちの1勝は、デラウェアパーク競馬場14ハロンの障害コースレコード3分25秒4を計時したものだった。

競走生活(6歳時)

本馬が本格化したのは6歳時だった。この年は前年に勝てなかったノエルレインスティープルチェイス(24F)を勝利した以外にも、モンマスパーク競馬場で出走したミッドサマーハードルH(16F)、デラウェアパーク競馬場で出走したトムロビースティープルチェイスS(17F)、同じくデラウェアパーク競馬場で出走したジョージタウンスティープルチェイスH(17F)、ニュージャージー州ファーヒルズ競馬場で出走したファーヒルスティープルチェイスH(16F)、同じくファーヒルズ競馬場で出走したマンリースティープルチェイスH(16F)、ヴァージニア州ミドルバーグ競馬場で出走したピードモントハントC(16F)、ペンシルヴァニア州ラドノール競馬場で出走したナショナルハントC(18F)を勝利した。

ファーヒルスティープルチェイスHでは2着馬より20ポンド重い162ポンドを背負っての勝利だった。マンリースティープルチェイスHの勝利はその1週間後で、165ポンドを課せられながらも勝利した。ノエルレインスティープルチェイスでは他の出走馬3頭より25~36ポンドも重い167ポンドを課せられたが、それでも3馬身差で勝利した。ミドルバーグ競馬場で出走したウィリアムCラングレー記念C(16F)と、デラウェアパーク競馬場で出走したインディアンリヴァースティープルチェイスH(20F)では2着だった。6歳時の成績は13戦10勝2着2回で、この年の米最優秀障害競走馬に選ばれた。障害競走で年間10勝というのは、現在でも米国最多記録として残っている。

競走生活(7~12歳時)

7歳時は過去3年ほどレースに出走せずに、5戦3勝3着1回の成績に留まったが、ジョージタウンスティープルチェイスH(17F)の2連覇を果たした他に、前年は勝てなかったインディアンリヴァースティープルチェイスH(20F)を勝利した。アケダクト競馬場で出走したメドウブルックスティープルチェイスH(20F)では、前年の同競走と一昨年の米グランドナショナルを勝っていたマコ、一昨年の同競走とこの年の米グランドナショナルの勝ち馬ゴルピスタとの対戦となり、当時の米国障害界最強の3頭が一堂に会する事になった。結果はマコが勝ち、ゴルピスタが2着で、本馬は3着だった。ちなみに本馬は障害競走に参戦するようになった後も時々平地競走に出走していたようで、この年に挙げた3勝のうち残り1勝は平地における勝ち星である。

8歳時もそれほどレースに出ず、この年の成績は7戦4勝3着1回だった。ミッドサマーハードルH(16F)を2年ぶりに勝利した他、インディアンリヴァースティープルチェイスH(20F)の2連覇を達成している。ファーヒルスティープルチェイスH(16F)では3着だった。

9歳時は過去2年よりさらに出走回数が減り、4戦1勝の成績に留まった。障害転向後では最低の成績ではあったが、唯一の勝ち星は3年ぶりの制覇となるナショナルハントC(18F)だった。

10歳になると以前の強さをある程度取り戻し、ファーヒルズ競馬場で出走したナショナルスティープルチェイスSを勝ち、ホリーツリーハードルHとマンリースティープルチェイスH(16F)で2着、ファーヒルスティープルチェイスH(16F)で3着など、11戦4勝2着3回3着2回の成績を残した。

11歳時も現役を続行。この年は名のあるレースの勝ちは無かったが、マンリースティープルチェイスH(16F)と、ファーヒルズ競馬場で出走したナショナルハードルSで2着するなど、11戦4勝2着4回3着2回の成績を残した。

12歳時も現役を続け、ナショナルハントC(18F)の3勝目を挙げるなど11戦2勝2着1回の成績を残した。そしてこの年限りで競走馬を引退。

障害競走37勝は、現在でも米国競馬史上最多記録となっている。米グランドナショナルの勝利は無く(入着した記録もない。1回も出走しなかったのか、出走したが好走できなかったのかは不明)、他に米国競馬の殿堂入りを果たしている障害競走馬の多くが米グランドナショナルの勝ち馬であるのに対して、本馬はやや異質な存在である。

血統

Tuscany The Rhymer St. Germans Swynford John o'Gaunt
Canterbury Pilgrim
Hamoaze Torpoint
Maid of the Mist
Rhythmic Royal Minstrel Tetratema
Harpsichord
Rinkey Pennant
Ballet
Roman Matron Pompey Sun Briar Sundridge
Sweet Briar
Cleopatra Corcyra
Gallice
Mary Victoria Victorian Whisk Broom
Prudery
Black Betty Black Toney
Macaroon
Verna Lee British Buddy Pilate Friar Rock Rock Sand
Fairy Gold
Herodias The Tetrarch
Honora
Nell McDonald High Cloud Ultimus
Umbra
Rustle Russell
Lady Louise
Miss Kalola Mowlee Lucullite Trap Rock
Lucky Lass
Epinglette Sardanapale
Safety Pin
Kalola Sir Barton Star Shoot
Lady Sterling
Deviniere Rabelais
theresa

父タスケニーは現役成績29戦16勝。トボガンH・サルヴェイターマイルH・メリーランドフューチュリティ・オーシャンポートH・ロウ記念S2回を勝ち、サルヴェイターマイルHではモンマスパーク競馬場ダート1マイルのコースレコード1分37秒4を樹立した事もあったが、お世辞にも一流の競走馬とは言えなかった。種牡馬としてはメリーランド州で供用された。タスケニーの父ザライマーは、ワイドナーH・エッジメアH・クイーンズカウンティHに勝つなど56戦13勝の成績だった。種牡馬としてはあまり成功しなかったが、直系孫からケンタッキーダービー・サンタアニタHを勝ったラッキーデボネアを出し、しばらくは直系を生き長らえさせることに成功した。ザライマーの父セントジャーマンズはトゥエンティグランドの項を参照。

母ヴァーナリーは名のあるレースの勝ち鞍は無いようだが、とにかく頑健に走り、134戦16勝の成績を挙げた。繁殖入り後に本馬の生産者スミス氏により購入されたが、その段階でヴァーナリーの胎内には本馬がいた。ヴァーナリーの10代母は根幹繁殖牝馬クイーンメアリーで、ヴァーナリーの祖母カローラの半姉デヴォーニアは日本に繁殖牝馬として輸入され、ホマレボシ【有馬記念】、ベロナ【優駿牝馬】、メジロボサツ【朝日杯三歳S】、ヒダロマン【ビクトリアC】、フレッシュボイス【安田記念(GⅠ)】、メジロファラオ【中山グランドジャンプ(JGⅠ)】、メジロドーベル【阪神三歳牝馬S(GⅠ)・優駿牝馬(GⅠ)・秋華賞(GⅠ)・エリザベス女王杯(GⅠ)2回】、モーリス【安田記念(GⅠ)・マイルCS(GⅠ)・香港マイル(香GⅠ)・チャンピオンズマイル(香GⅠ)】といった大競走の活躍馬を子孫から出す日本の名牝系の始祖となった。→牝系:F10号族①

母父ブリティッシュバディは現役成績25戦9勝、ポトマックHの勝ち馬。ブリティッシュバディの父ピラトはエイトサーティの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は生まれ故郷のブライズウッドファームで、狩猟用馬、乗用馬と、若駒達の世話役を兼任しながら余生を過ごした。スミス氏の娘マリリン・ケッツ嬢は幼少期に一人で本馬に乗ったことがあったが、当時20歳の本馬はとても安全運転で走ってくれたために、乗馬を練習するにはとても良い先生だったという。25歳頃まで狩猟用馬や乗用馬をしていたが、その後は年齢が考慮されて完全な隠居生活に入った。正確な没年は不明だが、遺体はブライズウッドファームに埋葬された。2013年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

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