キンチェム

和名:キンチェム

英名:Kincsem

1874年生

栗毛

父:カンバスカン

母:ウォーターニンフ

母父:コッツウォルド

54戦全勝という偉大なる世界記録だけでなく数々の伝説的な逸話に彩られた19世紀ハンガリーの歴史的名牝にしてハンガリーの国民的英雄

競走成績:2~5歳時に独洪墺英仏で走り54戦54勝

世界中で知られるハンガリーの奇跡

サラブレッドの史上最多無敗連勝記録保持馬であるハンガリー(洪国)の歴史的女傑で、数々の有名な逸話に彩られている伝説的存在である。馬名はハンガリー語で「私の宝物」「私の大切な人」といった意味であるが、その名前のとおり地元ハンガリーでは現在でも国民的英雄として崇拝されている。他国においても、世界競馬史上に残る偉大なる名牝、又は史上最も活躍したサラブレッド競走馬の1頭としてよく知られており、“Ungarischen Wunders(独語で「ハンガリーの奇跡」)”、“Hungarian Wonder(英語で「ハンガリーの驚異」)”の異名で呼ばれている。

日本における知名度も高く、筆者が海外の資料を苦労して調査(本馬を紹介している資料には独語や洪語のものが多い。英語さえも苦手な筆者が独語や洪語を解読するのはかなり骨であった)しても、載っている逸話の大半は既に日本でも紹介されているものばかりであった。そのため、本馬については筆者がこの名馬列伝集で取り上げる必要もない気がするほどであるが、「キンチェムが載っていない世界の名馬列伝集」というのはあり得ないので、おさらいの意味も含めて掲載することにする。

誕生からデビュー前まで

現在の洪国の競馬のレベルはそれほど高いとは言えないが、本馬が現役競走馬だった時代の洪国はそうではなかった。東欧の強国オーストリア・ハンガリー帝国として、英国から優れた種牡馬や繁殖牝馬を積極的に導入して馬産に力を入れていた。そのために現在の洪国とは比べものにならないほど馬産のレベルは高く、例えば本馬より1歳年上の洪国産馬キシュベルは英ダービーを制覇している。

そんな中で本馬は当時20歳代の若き馬産家エルンスト・フォン・ブラスコヴィッチ氏によりキシュベル国立牧場において1874年3月17日に生産された。洪国産馬ではあるが、後述するように父も祖母も母父も英国産馬であり、血統的には英国色がかなり強かった。

幼少期の本馬はブラスコヴィッチ氏が所有していたタピオセントマルトン牧場にいた50頭ほどの他馬とは打ち解けることが出来ず孤独であり、いつもうつむき加減で目を半分閉じているような馬だった。しかも身体は「ボートのように」ひょろ長くて、背もあまり高くないという、みすぼらしい馬体の持ち主だった(この頃の本馬の馬格は父カンバスカン譲りだったと言われる)。

ここからは非常に有名な逸話になる。ある晩に本馬は行方不明になり、発見されたときにはロマ(以前はジプシーと呼んでおり参考資料の多くはそのように記載しているが差別用語なので現在は使用を控えるべきであろう)の一団と一緒だった。本馬はこのロマの一団に誘拐されていたのである。ブラスコヴィッチ氏が「もっと他に優れた馬がたくさんいたはずなのに、何故この馬を盗んだのか?」と尋ねると、泥棒は「他の馬は確かによく見えたが、しかしこの馬が最も優れていた。この馬はいずれチャンピオンになるだろう」と答えたという。これは極めて有名な逸話であり、本馬を紹介している海外の資料にも大抵掲載されているが、この逸話は出所不明であるとして信憑性に疑問を呈している海外の資料もある(もっとも、本馬に纏わる逸話はどれも真実なのか後世の作り話なのか判別し難いものばかりなのだが)。

ブラスコヴィッチ氏は所有する1歳馬を個人取引によりまとめて売却することを好んでおり、1歳時の本馬も他馬6頭とひとまとめにされて700ポンドで売りに出された。これらの馬を購入したのはアレックス・オルツィ男爵という人物(名作「紅はこべ」や推理小説「隅の老人」シリーズで知られる女流作家オルツィ女男爵の一族らしい)だったが、彼は本馬を含む2頭の牝馬を気に入らなかったようで、購入馬7頭の中からこの2頭を除外して残り5頭だけを連れて行った(後に本馬の大活躍を見てオルツィ男爵がどのように感じたかは伝わっていない)。そのために本馬はブラスコヴィッチ氏の所有馬として走る事になり、ロバート・ヘスプ調教師に預けられた。

ヘスプ師は英国出身だが、後に洪国に移住して、洪国の貴族グスターヴ・バッチャーニ公(後に英国に帰化してガロピンを所有しセントサイモンを生産したことで知られる)の元で猟師になった。さらに洪国のシークレットサービスのリーダーを務めた後、1873年に調教師に転身したという一風変わった経歴の持ち主だった。

幼少期は見栄えがしない馬体だった本馬だが、成長すると体高16.25ハンドという立派な体格の持ち主に変貌を遂げていた。

競走生活(2歳時)

それでは以下に本馬の競走成績を列挙する(これほど昔の馬なのに、全てのレース名・競馬場・距離・斤量・馬場状態・2着馬の名前・着差などがしっかりと記録に残されているのはさすがである)が、なにしろ勝ってばかりの上にレースぶりまでは逐一記録されていないので、淡々と結果を書くだけの面白みのない内容になってしまうのは致し方ない。アクセントをつけるために本馬に纏わる著名な逸話を織り交ぜながら記載することとする。

2歳6月にベルリン競馬場で行われた距離1000mの初回競走で、主戦となるE・マッデン騎手を鞍上にデビューして、2着ボレアスに4馬身差で勝利。ハノーヴァー競馬場で行われた距離1000mの売却競走を、2着ハンブルグに1馬身差で勝利(同月の独ダービーを勝つ3歳馬ダブルゼロが3着だった)。ハンブルグ競馬場で行われた距離950mの競走を、2着アデレードに1馬身半差で勝利。ドベラン競馬場で行われた距離947mの記念競走では129ポンドが課せられたが、2着ブリュッヘルに1馬身半差で勝利。フランクフルト競馬場で行われたルイーザ賞(T1000m)でも128ポンドが課せられたが、2着レギメンツトホターに10馬身差で勝利。バーデンバーデン競馬場で行われた未来賞(T1000m)では不良馬場となったが、2着クリテリウムに大差勝ち。オルデンブルク競馬場で行われたオルデンブルク市民賞(T1200m)を、2着リトルリューダーに大差勝ち。ブダペスト競馬場で行われた2歳競走(T948m)を、2着チャロガニーに半馬身差で勝利。ウィーン競馬場で行われたクラッドルーバー賞(T1600m)を、2着デアランドグラフに10馬身差で勝利。プラハ競馬場で行われたクラッドルーバー賞(T1400m)を、2着クリテリウムに大差勝ち。以上が2歳時の戦績で、全て異なる競馬場で走り10戦無敗だった。

競走生活(3歳時)

3歳時は4月にプレスブルク競馬場で行われたトライアルS(T1800m)から始動して、2着ブリュッヘルに1馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われた洪2000ギニー(T1600m)を、2着カミロに大差勝ち。ブダペスト競馬場で行われた洪1000ギニー(T1600m)を、2着ビンボに1馬身半差で勝利。ウィーン競馬場で行われたジョッキークラブ大賞こと墺ダービー(T2400m)を、2着タロス(後の独ダービー2着馬)に大差勝ち。ウィーン競馬場で行われたトライアルS(T1600m)を、2着ヴセッコジェドノに2馬身差で勝利。ウィーン競馬場で行われたカイザー賞(T3200m)を、2着ヒルノックに10馬身差で勝利。ハノーヴァー競馬場で行われたハノーヴァー大賞(T3000m)では、本馬より8.5kg斤量が重かった5歳馬コノトッパを6馬身差の2着に、同じく9kg斤量が重かった前年の独ダービー馬ダブルゼロをさらに5馬身差の3着に破って勝利。ハンブルグ競馬場で行われたレナルド賞(T2800m)では、同世代の独ダービー馬ピラトを4馬身差の2着に、本馬より8kg斤量が重かったコノトッパをさらに25馬身差の3着に破って勝利。

バーデンバーデン競馬場で行われた独国屈指の大競走バーデン大賞(T3200m)では、本馬より7.5kg斤量が重かったコノトッパを3馬身差の2着に、同じく13kg斤量が重かった4歳馬マンブリンをさらに1馬身差の3着に破って勝利。フランクフルト競馬場で行われたヴェルトヒェン賞(T2400m)を、2着ファイルに10馬身差で勝利。オルデンブルク競馬場で行われた国家賞(T2400m)では130ポンドが課されたが、2着プリンスグレゴワールに3馬身差で勝利。オルデンブルク競馬場で行われた国家賞(T2000m)を、2着ブランケンセーに1馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われた洪セントレジャー(T2800m)を、2着プリンスジャイルズザファーストに10馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われた洪オークス(T2400m)では133ポンドが課されたが、2着コノトッパに3馬身差で勝利。ウィーン競馬場で行われたフロイデンアウアー賞(T2400m)をデビュー以来初の単走で勝利。プラハ競馬場で行われたカイザー賞(T2400m)では135ポンドが課されたが、2着プリンスジャイルズザファーストに1馬身差で勝利。プラハ競馬場で行われたカイザー賞(T3200m)を単走で勝利。以上が3歳時の戦績で、単走2回を含む17戦全勝だった。

この頃には本馬の人気は絶大なものとなっており、本馬がレースに出る際には競馬場に大観衆が殺到していた。オーストリア・ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世も本馬の大ファンで、いつも本馬のレースを観戦するため競馬場を訪れており、本馬の勝利を見届けると個人的にブラスコヴィッチ氏を祝福していたという。この年までの本馬は斤量の恩恵を受けることもあったが、以降は大半のレースで他馬より断然重い斤量を課される事になる。

競走生活(4歳時):英仏遠征とバーデン大賞の同着

4歳時は4月にウィーン競馬場で行われたエレフヌンクス賞(T1600m)から始動。いきなり144ポンドが課されたが、2着ウォルドローバーに2馬身差で勝利。ウィーン競馬場で行われたプラーター公園賞(T2000m)では148.5ポンドが課されたが、2着オロスヴァーに3馬身差で勝利。プレスブルク競馬場で行われた国家賞(T2400m)では152ポンドが課されたが、2着プリンスジャイルズザファーストに5馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われた国家賞(T3200m)では148.5ポンドが課されたが、2着プリンスジャイルズザファーストに5馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われたキシュベル賞(T2000m)では153ポンドが課されたが、2着プリンスジャイルズザファーストに3馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われた国家賞(T2400m)でも153ポンドが課されたが、2着アルトナに大差勝ち。ウィーン競馬場で行われた国家賞(T2600m)でも153ポンドが課されたが、2着エルジに1馬身差で勝利。ウィーン競馬場で行われたトライアルS(T1600m)では僅か(?)143ポンドの斤量となり、2着プリンスジャイルズザファーストに大差勝ち。ウィーン競馬場で行われた国家賞(T3200m)では153ポンドが課されたが、2着ロココに5馬身差で勝利。

その後、陣営は本馬を英国や仏国に遠征させることを企図し、6月を休養に充ててから7月に英国に向かった。長距離遠征となったが、各地の競馬場の間を列車で移動していた本馬は元々列車に乗るのが大好きで、列車を見ただけで喜んでいたというから、苦痛でも何でもなかったようである(通常の競走馬は列車移動で消耗してしまい、競走において能力を発揮できない場合が少なくない)。

そして英国に到着して8月1日にグッドウッドC(T21F)に参戦した。グッドウッドCは英国長距離三冠競走の一つに数えられる当時英国有数の大競走であり、前年はハンプトン、翌年はアイソノミーと、英国競馬史上に名を残す名馬が勝利している。当初は出走予定だったハンプトンが回避してしまい、対抗馬と目されていたアスコット金杯勝ち馬ヴェルヌイユも前日に負傷して回避となり、本馬に挑んできたのは2頭だけだった。しかしその2頭は、T・キャノン騎手が騎乗する後のドンカスターC勝ち馬ページェントと、フレッド・アーチャー騎手が騎乗する英シャンペンS・パークヒルS・ナッソーS・ヨークシャーオークスの勝ち馬レディゴーライトリーであり、共にかなりの強敵だった。しかし結局本馬がページェントを2馬身差の2着に退けて楽勝した。

その後はドーヴィル大賞に出走するために渡仏したが、この際に大事件(?)が勃発した。本馬は猫(ナイチンゲールという名前の白黒の雌猫だったという)を非常に可愛がっており、この遠征中も常に同伴していた。ところが英国から船で仏国に到着した際に、船中でこの猫が行方不明になってしまったのである。猫がなかなか見つからなかったため、取り乱した本馬は列車に乗るのを拒否して波止場に立ち尽くしたまま、2時間も頑として動こうとしなかった。そのうちに本馬の嘶きを耳にした猫(鼠を追いかけていたらしい)が船の中から姿を現して本馬の背中に飛び乗ると、安心した本馬はようやく列車に乗り込んでいった。これも極めて有名な逸話であり、日本の国内外を問わずに本馬が紹介される際には必ずと言ってよいほど触れられている。

そしてグッドウッドCから17日後の8月18日にドーヴィル大賞(T2400m)に出走すると、2着となった仏2000ギニー馬フォンテーヌブローに半馬身差で勝利した。

英仏で勝利を挙げた本馬は独国に戻り、ドーヴィル大賞から3週間後のバーデン大賞(T3200m)に出走した。しかしこのレースで本馬鞍上のマッデン騎手は酒に酔った状態であり、7kgのハンデを与えたプリンスジャイルズザファーストがゴール直前で猛然と追い上げてきたのに気付かずに、1着同着に持ち込まれてしまった(3着パープルは25馬身後方)。両馬の所有者が同着をよしとしなかったために行われた同距離の決勝戦では、5馬身差(6馬身差とする資料もある)をつけて勝利した。

オルデンブルク競馬場で行われた国家賞(T3200m)では152ポンドが課されたが、2着ローリンツに大差勝ち。ブダペスト競馬場で行われた騎士賞(T2800m)を単走で勝利。ブダペスト競馬場で行われた牝馬賞(T2400m)では148.5ポンドが課されたが、2着アルトナに半馬身差で勝利。以上が4歳時の戦績で、単走1回を含む15戦全勝(バーデン大賞の本番と決勝戦を別に数えると16戦)だった。

競走生活(5歳時)

5歳時は4月にプレスブルク競馬場で行われた国家大賞(T2400m)から始動。158ポンドが課されたが、2着タロスに8馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われたカロイー伯爵S(T3600m)を単走で勝利。ブダペスト競馬場で行われた国家賞(T3200m)では160.5ポンドが課されたが、2着となった前年の墺ダービー馬ニールデスペランドゥムに2馬身差で勝利。ブダペスト競馬場で行われた国家賞(T2400m)では168ポンドが課されたが、2着ハリーホールに2馬身差で勝利。ウィーン競馬場で行われた国家賞(T2800m)では僅か(?!)159.5ポンドの斤量となり、2着プリンスジャイルズザファーストに10馬身差で勝利。ウィーン競馬場で行われた国家賞(T3200m)では160.5ポンドの斤量で、2着ボリゴーに2馬身差で勝利。ホッペガルテン競馬場で行われた銀盾賞(T2400m)でも160.5ポンドの斤量で、2着アルトナに3馬身差で勝利。フランクフルト競馬場で行われたエーレン賞(T2800m)では(本馬にとっては)裸同然の139ポンドの斤量となり、2着ブルーロックに4馬身差で勝利。

バーデンバーデン競馬場で行われたバーデン大賞(T3200m)では、この年の独ダービー馬クーンシュトレリンを3/4馬身差の2着に抑えて勝利を収め、同競走史上初の3連覇を達成。ちなみにこのレースで本馬に騎乗していたのは前年の同競走においてプリンスジャイルズザファーストに騎乗していたT・バズビー騎手であり、マッデン騎手は2着のクーンシュトレリンに騎乗している。マッデン騎手は5歳時の本馬の主戦からは降ろされていたようで、他のレースでも本馬にはウェインライトという騎手が騎乗している。理由は多分前年のバーデン大賞における大失態であろう。オルデンブルク競馬場で行われた国家賞(T3200m)を単走で勝利。ブダペスト競馬場で行われた騎士賞(T2800m)を単走で勝利。ブダペスト競馬場で行われた国家賞(T2400m)では160.5ポンドの斤量で、2着となったこの年の洪2000ギニー・独オークスの勝ち馬イローナに10馬身差で勝利。以上が5歳時の戦績で、単走3回を含む12戦全勝だった。

翌6歳時も現役続行の予定だったが、脚を負傷したために6歳時はレースに出ることなく引退となった。本馬の最終成績は54戦全勝となった(4歳時のバーデン大賞は1戦として扱われている事が殆どである)。この54戦全勝はギネスブックにも載っているサラブレッド最多無敗連勝記録である(デビューからの連勝記録はプエルトリコのカマレロが56連勝を記録したため更新されているが、カマレロは通算成績77戦73勝で生涯無敗ではなかった)。走ったレースの距離は1000m以下から4000m以上まであり、距離不問であった。

1886年6月に英スポーティングタイムズ誌が競馬関係者100人に対してアンケートを行うことにより作成した19世紀の名馬ランキングにおいては、第37位にランクインした。下位ではあるが、英国で1戦しかしていない本馬が英国で企画されたランキングに入るというのは凄いことである。

血統

Cambuscan Newminster Touchstone Camel Whalebone
Selim Mare
Banter Master Henry
Boadicea
Beeswing Doctor Syntax Paynator
Beningbrough Mare
Ardrossan Mare Ardrossan
Lady Eliza 
The Arrow  Slane Royal Oak Catton
Smolensko Mare
Orville Mare Orville
Epsom Lass
Southdown Defence Whalebone
Defiance
Feltona X. Y. Z.
Janetta
Water Nymph Cotswold Newcourt Sir Hercules Whalebone
Peri
Sylph Spectre
Fanny Legh
Aurora Pantaloon Castrel
Idalia
Lady Zinganee
Octaviana
The Mermaid Melbourne Humphrey Clinker Comus
Clinkerina
Cervantes Mare Cervantes
Golumpus Mare
Seaweed Slane Royal Oak
Orville Mare
Sea-Kale Camel
Sea-Breeze

父カンバスカンはニューミンスターの直子で、英国のヴィクトリア女王の所有馬だった。競走馬としては2歳時にジュライSを勝つなど活躍し、3歳時には英2000ギニーでジェネラルピールの2着、英ダービーでブレアアソールの4着、英セントレジャーでブレアアソールの3着という実績を残している。競走馬引退後は英国で種牡馬入りしていたが、1873年、12歳時に洪ジョッキークラブにより5500ギニーで購入されてキシュベル国立牧場に移動していた。英国供用時代には英2000ギニー馬カムバッロを輩出したが、洪国では意外と種牡馬人気が低く、8年間の供用で出した産駒は98頭に過ぎなかった。ただし、その中から多くの独国及び洪国のクラシック競走勝ち馬を出しており、産駒の質は高かった。1877年には本馬の活躍により独首位種牡馬にも輝いている。

母ウォーターニンフは洪国の名門エステルハージ家のニコラウス・パール公の所有馬で、洪1000ギニーの勝ち馬。競走馬引退後にブラスコヴィッチ氏により購入されて狩猟馬としてしばらく使役されていたが、その後繁殖入りした。初子はアストレガーとの間に産まれた洪オークス馬ハーマットで、本馬の後にも本馬の全妹である墺オークス馬ジョングヴィラグや、半妹である墺オークス馬ホシュノ(父パーストル)を産んで活躍した。ウォーターニンフの母ザマーメイドは英国産馬で、競走馬としては2歳時のキングジョンSでフライングダッチェス(大種牡馬ガロピンの母)を破って勝った他、英オークスでミンスパイの5着している。競走馬引退後にパール公に購入されて洪国で繁殖入りしていた。ウォーターニンフは初子である。→牝系:F4号族①

母父コッツウォルドは英国産馬で、現役当初はティトノスという名前で英国において走り、ロイヤルハントCで2着したほかに無名の競走を何勝かしている。競走馬引退後に洪ジョッキークラブにより購入されていた。血統を遡ると、ニューコートを経てサーヘラクレスに至る。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、タピオセントマルトン牧場で繁殖入りした。初子は8歳時に産んだ牝駒ブダジョーンゲ(父バッカニア。馬名は「ブダペストの宝石」という意味)で、牝馬ながら独ダービーに優勝した他、繁殖牝馬としてヴィグラニー【洪2000ギニー・墺オークス】、ディスコ【洪2000ギニー・墺2000ギニー】という2頭の活躍馬を産んだ。2番子は9歳時に産んだ牝駒オリヤンニンチュ(父バッカニア。馬名は「そんな事はない」という意味)で、牝馬ながら洪セントレジャーに優勝した。3番子は11歳時に産んだ牡駒タルプラマジャル(父バッカニア。馬名は「ハンガリーはあなたの脚の上にある」という意味)で、競走馬としては不出走だったが、種牡馬としてバーデン大賞・墺ダービー・洪セントレジャーなどを制したトキオなどを出して活躍した。4番子は12歳時に産んだ牡駒キンチェオール(父ドンカスター。馬名は「宝物の番人」という意味)で、墺ダービーで2着となり独ダービーの有力候補となったが直前に急死した。5番子は13歳時に産んだ牝駒キンチェ(父ドンカスター。馬名は「宝物」という意味)で、競走馬としては不出走に終わったが、繁殖牝馬としてナプフェニー【洪オークス】、ミクチー【洪2000ギニー・洪オークス・墺オークス】という2頭の活躍馬を産んだ。

本馬はキンチェを産んだ直後に疝痛を発症し、1887年3月17日、13歳の誕生日に他界した。本馬の死を報じた洪国の新聞は紙面を黒い枠で囲み、各地の国旗は半旗となった。本馬の死から39日後、本馬を手掛けたヘスプ師は後を追うように死去した。

後世に与えた影響

本馬の牝系子孫は主に東欧諸国を中心に発展した。そのため第二次世界大戦により本馬の血を受け継ぐ馬達は大打撃を受けたが、その後にしっかりと立ち直って現在も繁栄している。中には競馬主要国で活躍する馬もおり、最も有名なのは、ブダジョーンゲから12代目に登場した1974年の英オークス(英GⅠ)・アスコット1000ギニートライアルS(英GⅢ)の勝ち馬ポリガミーと、ポリガミーの全妹であるランカシャーオークス(英GⅢ)・チェシャーオークス(英GⅢ)の勝ち馬ワンオーバーパーから4代目に登場した、2012年のカルティエ賞最優秀3歳牡馬キャメロット【英2000ギニー(英GⅠ)・英ダービー(英GⅠ)・愛ダービー(愛GⅠ)・レーシングポストトロフィー(英GⅠ)・ムーアズブリッジS(愛GⅢ)】であろう。

他にもブダジョーンゲの牝系子孫からは、ベレグフォロジー【墺ダービー】、ケリンゴ【墺2000ギニー】、モルペス【墺ダービー・洪セントレジャー】、シュティリアン【墺ダービー】、ウァティニウス【洪ダービー】、サイゴ【洪オークス】、バナート【墺2000ギニー】、カランドリア【ロワイヤルオーク賞・ヴェルメイユ賞・マルレ賞】、オベロン【伊ダービー】、メルヴィン【洪オークス】、サイコ【洪セントレジャー】、ジュルジェブカ【ユーゴスラビアダービー】、ジョッケール【ジャンプラ賞・ラクープ2回】、オーベローゼ【ヴェルメイユ賞】、キャプリン【スペインダービー】、ウィーピングウィロー【ノアイユ賞】、バドウバ【ルーマニアオークス】、ディレクトゥール【洪セントレジャー】、ガーレム【ロシアダービー】、アシハバード【ロシアダービー】、セブンスブライド【プリンセスロイヤルS】、トムセイモア【ミラノ金杯(伊GⅢ)2回など】、グスハツク【ロシアダービー】などが出ている。

また、オリヤンニンチュの牝系子孫からは、センテンツィア【墺2000ギニー】、グロム【ポーランドダービー】、ジャスナパニ【ロシアオークス】、クシアゼパン【バーデン大賞】、モシュツィクシアゼ【バーデン大賞・洪セントレジャー】、ファラダ【独オークス】、スファーレアザ【ルーマニアオークス】、パローラ【洪オークス・墺オークス】、パヤサン【洪2000ギニー】、サトラップ【ルーマニアダービー】、チップトップ【ユーゴスラビアダービー】、シケール【オーストリア賞】、インペット【ポーランドダービー】、ヴァンフリート【バーデン大賞・独セントレジャー】、カマラス【洪2000ギニー・洪ダービー】、ロムル【ユーゴスラビアダービー・ユーゴスラビアセントレジャー】、ローナ【洪オークス・洪セントレジャー】、レカ【洪オークス・洪セントレジャー】、ポーランドの名馬スーマクス、ヴァルトカンテル【ベルリン大賞】、ロジカ【ルーマニアオークス】、ヴィヒト【ベルリン大賞・独セントレジャー】、ヴィッツヒ【独2000ギニー】、ヴォルケ【東独ダービー・東独オークス】、ヴァルツ【ウニオンレネン(独GⅡ)】、エテン【ロシアダービー】、ヴァウジ【アラルポカル(独GⅠ)2回・独2000ギニー(独GⅡ)・独セントレジャー(独GⅡ)】、ウェルプルーヴド【独1000ギニー(独GⅡ)】、ミッキーズタウン【キャプテンクックS(新GⅠ)】、ヴァレジアナ【独1000ギニー(独GⅡ)】、ヴェルーナ【プシシェ賞(仏GⅢ)】、ザフラートドバイ【ナッソーS(英GⅠ)・ムシドラS(英GⅢ)】、ウェルメイド【オイロパ賞(独GⅠ)・ゲルリング賞(独GⅡ)・フェデリコテシオ賞(伊GⅢ)】、ツィムリャンスク【ロシアダービー】、ワトソン【スウェーデンセントレジャー】などが出ている。

また、キンチェの牝系子孫からも、チョーコシュアッソニ【墺2000ギニー】、ピロスブジェラリス【洪オークス】などが出ている。

まだ掲載していない逸話あれこれ

本馬の骨格は現在、ブダペストにあるハンガリー農業博物館に展示されている。本馬の名前を冠した施設は洪国内に数多く存在しており、キンチェム公園、キンチェムパーク競馬場(旧名ブダペスト競馬場)、キンチェム博物館、キンチェムホテルなどがある。このキンチェム公園には本馬の等身大の彫像が建てられている。英国のニューマーケットにある競馬博物館にも本馬の彫像が存在している。また、小惑星161975番には本馬の名前が付けられている。

最後に、筆者が海外の資料で確認した中で本項では未紹介の有名な逸話をいくつか紹介して終わりとする。

本馬の食料である穀物や干し草は全てタピオセントマルトン牧場で生産されたものだった。遠征時においても本馬は常にそれらを与えられており、違うものは一切口にしようとしなかった。また、水についても同様にタピオセントマルトン牧場で汲まれたものしか飲もうとしなかった。バーデン大賞出走のために独国に遠征したときの話(おそらく例の同着になった2度目の出走のときである)であるが、タピオセントマルトン牧場から持参した水が尽きてしまい、慌てた陣営は八方画策して本馬が飲もうとする水を捜し求めた。陣営が探してきたどんな水も本馬は拒否し続けていたが、バーデンバーデン競馬場の近くにある井戸から汲まれた水がようやく本馬のお気に召したようで、本馬は3日ぶりに水を飲んだ。そしてその井戸は「キンチェムの井戸」という看板がかけられて観光名所になった。

本馬は花(特にヒナギク)が好きで、スタート前には必ず花を探していた(見つけた花をむしゃむしゃと食べていたともされる)。スタート直前に何やら考え事をする癖があり、それが原因でスタートに失敗することもあったという。しかしいざ走り出すとまるでゴールがどこにあるか分かっているかのように走って確実に勝利した。ゴール前では馬なりで走る事が多く、結果として後続に大きな差をつけない場合も多かった。そしてレースが終わると自分が勝ったのが分かっているかのように速やかに勝ち馬表彰式場に向かっていった。本馬が勝利した際にブラスコヴィッチ氏は必ず小さな花束を本馬の頭に被せていたが、あるレースの勝ち馬表彰式場において、ブラスコヴィッチ氏が来るのが遅れてしまい、花束を被されなかった本馬は鞍を外されることを拒絶し続けた。そしてようやくブラスコヴィッチ氏がやって来て頭に花束を被せると、やっと鞍を外すことに同意した。

本馬の担当厩務員はフランキー氏という若い男性で、本馬とはまるで恋人同士のように非常に仲が良かった。あるひどく寒い夜に本馬が目を覚ますと、フランキー厩務員が自分の傍で毛布も被らずに震えながら寝ているのに気付いた。すると本馬は自分が纏っていた馬衣を取り外してフランキー厩務員にかけてあげた。その日以降、本馬はフランキー厩務員がきちんと毛布を被っていない限り、自分も馬衣を纏うのを断固として拒絶したという。このフランキー厩務員は元々姓を持っていなかったが、後に従軍した際にフランキー・キンチェムと名乗った。そして生涯この名前で通し、墓石にもその名前が刻まれた。

これらはいずれも日本でもよく知られた逸話ばかりである。色々と探せばもっと様々な逸話があると思われるが、果てしなく出てきそうな気がするのでこの辺で止めておく。本馬に纏わる逸話には、本馬の利発さを現すものが多く、ある程度の誇張はあるかもしれないが、かなり頑固だが非常に賢い頭脳と情愛に満ちた性格の持ち主であった事はどうやら間違いないようであり、この人間味溢れる気性も本馬の人気の秘訣であろう。

TOP