ピンザ

和名:ピンザ

英名:Pinza

1950年生

鹿毛

父:シャントゥール

母:パスクァ

母父:ドナテロ

英国競馬史上に燦然とその名を残す稀代の名手サー・ゴードン・リチャーズ騎手に悲願の英ダービーをプレゼントする

競走成績:2・3歳時に英で走り通算成績7戦5勝2着1回

競馬の母国英国で行われる「ザ・ダービー・ステークス」を倣って創設された競走は世界各国で施行されているが、こうした各国のダービーは多くの国で、当該国の競馬関係者達の憧れとなっている。日本も例外ではなく、競馬史に名を残す名騎手・名調教師であっても、なかなか日本ダービーに縁が無かった人物も少なくない。有名なのは19回目の騎乗だったウイニングチケットで勝利した柴田政人騎手、17回目の騎乗だったアグネスフライトで勝利した河内洋騎手、15回目の騎乗だったロジユニヴァースで勝利した横山典弘騎手、20頭目の出走馬だったワンアンドオンリーで勝利した橋口弘次郎調教師といったところであろうか。

それは日本だけでなく海外でも同様である。特に有名なのが20世紀英国競馬史上最高の騎手と謳われたゴードン・リチャーズ騎手の例であろう。英国平地首位騎手に輝く事26回(史上最多)、通算勝利数は4870勝(英国競馬史上最多)という世紀の名手であり、英国クラシック競走も英ダービー以外の4競走は38歳までに全て勝利を収めたが、英ダービー勝利にはとことん縁が無かった。彼が遂に悲願の英ダービー制覇を果たしたのは、実に同競走騎乗28回目、49歳のときであった。そのリチャーズ騎手に最初で最後の英ダービーのタイトルをプレゼントしたのが本馬、ピンザなのである。しかし本馬はリチャーズ騎手を念願の英ダービー騎手にしたというだけで歴史に名を残している馬ではなく、自身の強さも歴史に名を残すほど素晴らしいものであった。

誕生からデビュー前まで

英国ニューマーケットにあるウッドディットンスタッドにおいて本馬を生産したのは、これまた英国競馬史上に燦然とその名を残す名伯楽だったフレッド・ダーリン元調教師だった。彼自身は調教師として史上最多の英ダービー7勝を挙げていた。ダーリン師の管理馬が英ダービーに出走した際にリチャーズ騎手が騎乗した事も何度もあったのだが、1947年には絶対に勝てると言われたテューダーミンストレルで敗北するなど、ダーリン師の管理馬でリチャーズ騎手が英ダービーを勝つ機会は遂に訪れなかった。ダーリン師は調教師の第一線から退いた後に馬産も行うようになっており、本馬の母パスクァの前の所有者H・E・モーリス夫人が、当時本馬を受胎していたパスクァをニューマーケット12月セールに出品した際に、その血統背景を気に入って2千ギニーで購入したのだった。しかしダーリン師が気に入ったのはあくまでもパスクァの血統背景であり、パスクァの馬体自体には何の感銘も受けなかった。そのために彼は翌年にパスクァが産み落とした本馬が1歳になるとタタソールズニューマーケットセールで売ってしまった。

このセリで本馬は第3代准男爵エリス・ヴィクター・サスーン卿により1500ギニーで購入された。サスーン卿はイラク由来のユダヤ人の一族であるサスーンファミリーの一員であり、中国・香港や東南アジアにホテル業を展開して成功を収めていた。彼は競馬にも興味を抱いており、本馬が産まれたウッドディットンスタッドを購入して、自身のイニシャルをとってイヴスタッドと改名して馬産も行っていた。彼はかつてブロードウェイで見たミュージカル「南太平洋」に出演していたイタリア出身のバス歌手エツィオ・ピンツァにちなんで本馬を命名した。

本馬は前脚に不安を抱えているという欠点こそあったが、成長すると体高16.1ハンドに達した大柄な馬で、下半身の力が非常に強く、整った印象的な馬体の持ち主だった。もっとも気性は頑固で怒りっぽかったという。ダーリン師の元で調教助手の頭を務めた後に英国ニューマーケットで開業していたノーマン・バーティー調教師に預けられた。

競走生活(2歳時)

2歳7月にハーストパーク競馬場で行われたグリーンスリーヴスSでデビューした。しかし結果は4馬身差の5着に敗退。この頃の本馬は既にかなりの大型馬であり、いかにも晩成の長距離馬といった雰囲気だった。そのため陣営は本馬の本格化には時間がかかると見ており、この敗戦で悲観するような事は無かったようである。次走は9月にドンカスター競馬場で行われたタタソールズセールSだった。これはニューマーケットセールで取引された馬限定競走だった。ここではジョージ・ヤンガー騎手を鞍上に快調に逃げを打ち、2着スモークシグナルやプリンスクリスチャン以下に6馬身差で圧勝して初勝利を挙げた。ちょうどこのタタソールズセールSと同日にドンカスター競馬場で施行された英シャンペンSで2着したファウンテンという馬に騎乗していたリチャーズ騎手は、ここで見かけた本馬の走りに大いに感銘を受け、「ジョージ、彼の鞍上を私に譲ってくれ」と頼み込んだのだという。ここに本馬とリチャーズ騎手のコンビが誕生したのだった。

それから2週間後には、アスコット競馬場でロイヤルロッジS(T8F)に出走。対戦相手は僅か3頭しかおらず、単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持された。しかしここでは少頭数故のスローペースになり、ゴール前の瞬発力勝負となってしまった。それはこの時点の本馬には分が悪く、牝馬ニーマーの1馬身半差2着に敗れてしまった。次走は10月のデューハーストS(T7F)だった。ここでは単勝オッズ2倍の1番人気に支持されると、タタソールズセールSと同様に快調な逃げを打ち、2着スワッシュバックラーに7馬身差(資料によっては5馬身差となっている)をつける圧勝。

2歳時の成績は4戦2勝で、2歳フリーハンデにおいては、1位のミドルパークSの勝ち馬ネアルーラより5ポンド低い128ポンドだった(英タイムフォーム社のレーティングでは129ポンドで、2歳馬中では第5位)。全く余談だがこのネアルーラは、日本の名牝系である華麗なる一族の祖マイリーが日本に輸入された際に胎内にいたキューピットの父でもある。

競走生活(3歳時)

3歳初期の調教中に、本馬は砂利が敷き詰められた溝に脚を取られて転倒して負傷してしまった。負傷自体は軽度だったのだが、悪いことに傷口に細菌が感染してしまった。不幸中の幸いで破傷風などの致命的な感染症では無かったようで、しばらくして治癒したが、英2000ギニーには間に合わなかった(本馬不在の英2000ギニーはネアルーラが4馬身差で勝利している)。5月にニューマーケット競馬場で行われたニューマーケットS(T10F)が3歳初戦となった。本馬の馬体は見るからに太くて絞りきれておらず、調整不足は明らかであり、単勝オッズも4倍止まりだった。それにも関わらず、結果は2着ポリネシアンに4馬身差をつける圧勝。この勝利により、英ダービーの前売りオッズは34倍から9倍まで下がった。もっとも、大柄な本馬の大跳びの走り方は、坂やコーナーが急なため器用さが求められるエプソム競馬場には不適ではないかと不安視する声もあったようである。

そして迎えた英ダービー(T12F)では、ネアルーラを筆頭に、ブルーリバンドトライアルSを勝ってきたプレモニション、リングフィールドダービートライアルSを勝ってきたオリオール、チェスターヴァーズ2着馬グッドブランディ、ミドルパークS2着馬ノヴァルーラ、仏グランクリテリウム3着馬シカンプール、本馬と同父のサンダウンクラシックトライアルS2着馬チャッツワース、ロベールパパン賞の勝ち馬ファレル、オカール賞2着馬ピンクハウス、リングフィールドダービートライアルS2着馬マウンテンキング、ジュライS・チェスターヴァーズの勝ち馬エンパイアハニー、コーンウォルスSの勝ち馬プリンスカナリナ、ディーSの勝ち馬ビクトリーロール、ブルーリバンドトライアルS2着馬プリンスシャルルマーニュなど26頭が、本馬とリチャーズ騎手の前に立ち塞がった。本馬とプレモニションが並んで単勝オッズ6倍の1番人気に支持され、前年に即位したばかりの英国エリザベスⅡ世女王陛下の持ち馬だったオリオールが単勝オッズ10倍の3番人気、ネアルーラが単勝オッズ11倍の4番人気となった。このレースはエリザベスⅡ世女王陛下の戴冠式の僅か4日後に行われており、エプソム競馬場にはエリザベスⅡ世女王陛下と母親のエリザベス王太后を始めとする大観衆が詰めかけていた。本馬鞍上のリチャーズ騎手は、このレースの1週間前に騎手として初めて(現在でも唯一)ナイト爵位を授与される栄誉に与っており、サー・ゴードン・リチャーズ騎手となっていた。そして彼はこの年限りで騎手を引退することを発表していた。つまり彼はこれが最後の英ダービー騎乗になる、すなわちここで英ダービー制覇の本懐を遂げるであろう事を予想していたのである。

晴天に恵まれた中でスタートが切られると、馬群が一団となって進み、本馬はその馬群の好位6~7番手につけた。当初は一団だった馬群も坂を上りきってタッテナムコーナーを回る頃にはかなり縦長になっており、シカンプールを先頭に、本馬が2番手で直線に入ってきた。シカンプールの手応えは良く、直線に入ってもしばらく先頭を維持していたが、残り2ハロン半の辺りから本馬の豪脚が炸裂し、残り2ハロン地点で並ぶ間もなくシカンプールを抜き去った。シカンプールの後方からはオリオールが追い上げてきたが、先頭を爆走する本馬には届きそうにも無かった。最後はリチャーズ騎手が手綱を引きながら先頭でゴールイン。2着オリオールにつけた着差は4馬身差だが、それ以上の実力差を感じさせる完勝だった。オリオールから1馬身半差の3着には、ゴール前でシカンプールをかわしたピンクハウスが入った。

勝ち戻ってきた本馬とリチャーズ騎手の周囲を、サスーン卿やバーティー師などの陣営関係者、マスコミ関係者、それに観衆など大勢の人間が取り囲んで見つめる中、リチャーズ騎手は本馬の首を叩いて労った。そしてリチャーズ騎手は感激のあまりに涙を流し、エプソム競馬場に詰め掛けた大観衆は、一斉に大きな歓声を上げて、世紀の名手が最後の英ダービー挑戦で遂に悲願を成し遂げた事を心から祝福した。この当時、本馬の生産者であるダーリン師は癌で余命幾許もなく、エプソム競馬場に来ることも出来ずに自宅で療養中だった。そのために彼はリチャーズ騎手が自身の生産馬に乗って悲願を達成する瞬間を生で見ることは出来なかった。しかしレース3日後にリチャーズ騎手がダーリン師の自宅を訪れて勝利の報告をすると、ダーリン師は拍手をして祝福したという。心安らかになったダーリン師はそれから数日して死去した。

次走は古馬相手のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDS(T12F)となった。前年の凱旋門賞を筆頭に伊共和国大統領賞・イタリア大賞・コロネーションCを勝ち一昨年の凱旋門賞ではタンティエームの2着していたヌシオ、ローマ賞・コンセイユミュニシパル賞の勝ち馬で前年のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスDSではタルヤーの3着だったワードン、オリオールなどの強敵を抑えて、単勝オッズ3倍の1番人気に支持された。もっとも、以前から不安を抱えていた前脚の状態が悪化していた本馬は万全の状態では無かった。それにも関わらず、リチャーズ騎手鞍上の本馬は「輝かしい速度の爆発」と評された素晴らしい瞬発力を披露し、2着オリオールに3馬身差、3着ワードンにもさらに3馬身差をつけて完勝を収めた。

その後は英セントレジャーに向かう予定だったが、調教中に脚の腱を負傷してしまったために、3歳時3戦全勝の成績で競走馬引退が決定した。本馬は晩成馬であるとみなされており、3歳秋や古馬になってもさらなる活躍が見込まれていた中での引退だった。そして事前の引退表明にも関わらず翌1954年も現役を続行した相棒のリチャーズ騎手も、この1954年に落馬事故で骨盤骨折の大怪我をしてしまい、30年以上に及ぶ騎手生活に終止符を打つことになった。

本馬の競走馬としての経歴は短かったが、英ダービーで着外だったプレモニションが英セントレジャーを、同じく着外だったネアルーラがその直後の英チャンピオンSを、ワードンがその直後のワシントンDC国際Sを、オリオールが翌年のキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS・コロネーションCを勝利するなど、本馬に敵わなかった馬達が次々に活躍した事もあり、歴代英ダービー馬の中ではかなり上位の評価を受けることになった。

血統

Chanteur Chateau Bouscaut Kircubbin Captivation Cyllene
Charm
Avon Hack Hackler
Avonbeg
Ramondie Neil Gow Marco
Chelandry
La Rille Macdonald
Recaldia
La Diva Blue Skies Blandford Swynford
Blanche
Blue Pill Sans Souci
Magnesie
La Traviata Alcantara Perth
Toison d'or
Tregaron Tredennis
Whinstone
Pasqua Donatello Blenheim Blandford Swynford
Blanche
Malva Charles O'Malley
Wild Arum
Delleana Clarissimus Radium
Quintessence
Duccia di Buoninsegna Bridge of Earn
Dutch Mary
Pasca Manna Phalaris Polymelus
Bromus
Waffles Buckwheat
Lady Mischief
Soubriquet Lemberg Cyllene
Galicia
Silver Fowl Wildfowler
L'Argent

父シャントゥールは仏国産馬で現役成績26戦10勝。コロネーションC・フォンテーヌブロー賞・オカール賞・ジャンプラ賞・エドモンブラン賞・ホワイトローズS・サブロン賞(現ガネー賞)などを制し、アスコット金杯で2度2着、パリ大賞でも2着するなど中長距離路線で活躍した名馬だった。1953年には本馬の活躍により英愛首位種牡馬にも輝いている。

シャントゥールの父チャトーボスコーも仏国産馬で、現役成績は18戦10勝。仏ダービー・ロベールパパン賞・モルニ賞・フォレ賞・ノアイユ賞・カドラン賞を制した距離万能の名馬だった。チャトーボスコーの父キルキュビンは愛国産馬で、愛セントレジャー・イスパーン賞・仏共和国大統領賞(現サンクルー大賞)の勝ち馬。1930年にはチャトーボスコーの活躍で仏首位種牡馬に輝いている。キルキュビンの父キャプティヴェイションはサイリーン産駒。競走馬としては1戦未勝利に終わったが、母チャームがヨークシャーオークスの勝ち馬で、半姉にコロネーションSの勝ち馬ファッシネイション、半兄にグッドウッドCの勝ち馬レッドローブ、叔母に英1000ギニー・英オークス馬エイミアブルがいるという血統を買われて種牡馬入りした。

母パスクァの競走馬としての経歴は不明。本馬の半姉ヴァラスクァ(父ヴァレリアン)の娘ヴェルーラは日本に繁殖牝馬として輸入され、パスポート【毎日盃・朝日チャレンジC・阪急盃・中京記念】の母、アサカオー【菊花賞・弥生賞・日本短波賞・セントライト記念・アメリカジョッキークラブC】の祖母となった。本馬の半妹ルズマラ(父ボレアリス)の子にナイトアピール【フレッドダーリンS】、半妹アルカラ(父レリック)の子にはココメル【ロシェット賞】が、半妹ゼルファナ(父フィリュース)の子にはザブ【ヘンリーⅡ世S(英GⅢ)】がいる。

パスクァの母パスカは優れた繁殖牝馬であり、パスカの半兄パスカル(父アーティスツプルーフ)【サセックスS】、半兄パッシュ(父ブランドフォード)【英2000ギニー・エクリプスS】も産んでいる。パスカの母ソウブリケットの半姉にはフィフィネラ【英ダービー・英オークス・チェヴァリーパークS】、半兄にはシルヴァーン【コロネーションC】がおり、ソウブリケットの半妹シュルードの曾孫にはワラビー【ロワイヤルオーク賞・アスコット金杯・ジャンプラ賞】がいる。→牝系:F3号族④

母父ドナテロはアリシドンの項を参照。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は22万ポンドのシンジケートが組まれて英国で種牡馬入りした。しかし種牡馬としてはそれほど成功できなかった。1977年に生まれ故郷のウッドディットンスタッドにおいて27歳で他界、ウッドディットンスタッドに埋葬された。本馬の名はイギリス国鉄のディーゼル機関車D9007号の名称として、1961年から1981年まで使用された。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1955

Pinched

ロイヤルロッジS・セントジェームズS

1956

Pindari

クレイヴンS・キングエドワードⅦ世S・グレートヴォルティジュールS

1959

Pindaric

リングフィールドダービートライアルS

1964

Chinwag

ウェストベリーS

1965

アマノガワ

クモハタ記念・関屋記念・新潟記念

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