ミスウッドフォード

和名:ミスウッドフォード

英名:Miss Woodford

1880年生

黒鹿

父:ビレット

母:ファンシージェーン

母父:ネイルロビンソン

5年間に渡り米国競馬の一線級で活躍を続け、牡馬を蹴散らしたり16連勝をマークするなどして米国競馬史上初の10万ドルホースとなった19世紀米国の名牝

競走成績:2~6歳時に米で走り通算成績48戦37勝2着7回3着2回

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州ラニミードファームにおいて、ケンタッキー州競走馬馬主協会の会長ケーツビー・ウッドフォード大佐とケンタッキー州競馬委員会の委員長エゼキエル・フィールド・クレイ大佐の両名により生産され、ジョージ・W・ボウエン氏のボウエン&カンパニー名義で競走馬となった。

競走生活(2・3歳時)

2歳時にデビューすると、早い段階から優れた素質を見せた。創設2年目のスピナウェイS(D5F)では、後にクラレンドンホテルSを勝つオールハンズアラウンドを2着に、後にポカホンタスSを勝つエンプレスを3着に破って勝利した。2歳時の成績は8戦5勝だった。

本馬が3歳になった頃、35戦30勝の成績を誇った名馬ヒンドゥーが競走馬を引退した。ウッドフォード大佐とクレイ大佐はヒンドゥーをラニミードファームで種牡馬として繋養しようと考え、ヒンドゥーの所有者だったマイク・ドワイヤー氏とフィル・ドワイヤー氏の兄弟にその旨を申し出た。交渉の結果、ウッドフォード大佐側は本馬と9千ドルの現金を、ドワイヤー兄弟側はヒンドゥーと牝馬3頭を出す事で取引が成立した。これにより本馬はドワイヤー兄弟の所有馬となり、彼等の専属調教師でヒンドゥーも手掛けた名伯楽サー・ジェームズ・G・ロウ師の管理馬となった。同厩には、2歳時にフラッシュS・ホープフルS・ケンタッキーSを勝利して本馬と同世代の牡馬トップクラスと目されたジョージキニーもおり、本馬を入手した事で、ドワイヤー兄弟はこの世代における牡牝の最強馬を両方所有する事になった。

3歳時は12戦して、マーメイドS(D9F)・モンマスオークス(D10F)・レディーズH(D12F)・アラバマS(D9F)・ウエストエンドホテルS(D12F)・ピムリコS(D13F)など10勝を挙げた。特に、3歳時にベルモントS・ウィザーズS・ジェロームH・ロリラードS・ケナーS・ディキシーS・グランドナショナルHを勝つなど相変わらず同世代の牡馬最強の地位に君臨していた同厩のジョージキニーを2着に、米国産馬でありながら英国で英ダービー・英セントレジャー・プリンスオブウェールズS・セントジェームズパレスSを勝った後に米国に戻ってきていたイロコイを3着に下したピムリコSは3歳時における本馬最高のレースとして名高い。また、アラバマSでは同世代のケンタッキーオークス馬ヴェラを3着に破って勝利している。

競走生活(4・5歳時)

4歳時は、米チャンピオンS(D12F)・オーシャンS(D9F)など9戦して全てのレースに勝利した。米チャンピオンSでは、オムニバスS・ユナイテッドステーツホテルS・アイズリンS・モンマスH・グランドナショナルHの勝ち馬でケンタッキーダービー2着の同世代馬ドレイクカーターを2着に、ジェロームH・ディキシーS・ジャージーセントレジャー・アトランティックH・ロングブランチHと前年の米チャンピオンS・ロングブランチH(2回目)などを勝っていた1880年の米最優秀ハンデ牡馬モニターを3着に破っている。オーシャンSでは、ジョージキニーを2着に破って勝っている。他にも、距離2マイルのヒート競走や、ドレイクカーターとのマッチレースにも勝利している。

5歳時は、前年からの連勝を16まで伸ばしたり、僅か2か月間に6勝を挙げたりした。フリーホールドS(D12F)では、ドレイクカーターとの2頭立てで勝利している。オーシャンS(D9F)では、オーガストS・セレクトS・クリテリオンSの勝ち馬アノを2着に、ブリーダーズS・セプテンバーS・ハンターSの勝ち馬ルイゼットを3着に破り、前年勝利時より2秒5も速い1分59秒0のタイムで勝利を収めて2連覇を達成している。同じく2連覇を狙った米チャンピオンS(D12F)では、フリーランドの2着に敗れたが、同年に行われたフリーランドとのマッチレースでは勝利を収めている。モンマスC(D16F)では、ドレイクカーターを2着に、ケナーS・グレートウェスタンHの勝ち馬ボートマンを3着に破って勝利した。

しかしこの年、本馬の酷使を巡ってロウ師とドワイヤー兄弟が対立し、ロウ師はドワイヤー兄弟の専属調教師を辞任。本馬はフランク・マッケイブ調教師の管理馬となった。この騒動が原因なのか、酷使が原因なのかは定かではないが、この年のシーズン後半における本馬は不調で敗戦が多く、5歳時の成績は12戦してなど7勝を挙げるに留まった。

競走生活(6歳時)

それでも6歳時には再び全盛期の走りを取り戻した。7戦して、オーシャンS(D9F)・モンマスC(D14F)・米エクリプスSなど6勝を挙げた。オーシャンSでは、前年のサバーバンH・マンハッタンHを勝っていたポンティアックが挑んできたが、本馬がポンティアックを2着に抑えて勝利を収めて3連覇を達成。前年より距離が2ハロン短縮されたモンマスCでは、ディキシーS・ハンターHの勝ち馬イーストリンを2着に、前年の米セントレジャーの勝ち馬でケンタッキーダービー3着のテンブッカーを3着に破って勝利した。フェアグラウンズ競馬場で行われた米エクリプスSでは、アメリカンダービーの初代勝利馬でもあるケンタッキーオークス馬モデスティと第2回アメリカンダービー勝利馬ヴォランテの2頭を下して勝ち、米国競馬史上(牡馬も含めて)初めて獲得賞金10万ドルを突破してみせた(それまでの最高記録はヒンドゥーの7万1875ドル)。最終的な獲得賞金は11万8270ドルに達した。6歳時を最後に競走馬を引退した。

3回経験したマッチレースでは2回勝利している。マッチレースにおける唯一の敗戦は、6歳時にシープスヘッドベイ競馬場で行われた、サバーバンHの勝ち馬トルバドゥール(この年の米最優秀ハンデ牡馬)との距離10ハロンのレースだった。走ったレースの最長距離は20ハロンであり、長距離も苦にしなかった。本馬を管理したロウ調教師ばかりでなく、ジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ師、トマス・J・ヒーレー師、 アンドリュー・ジャック・ジョイナー師、R・ウィンダム・ウォールデン師といった当時のトップ調教師達(全員が米国競馬の殿堂入りを果たしている)は口を揃えて本馬が最強牝馬であると語った。

血統

Billet Voltigeur Voltaire Blacklock Whitelock
Coriander Mare
Phantom Mare Phantom
Overton Mare
Martha Lynn Mulatto Catton
Desdemona
Leda Filho da Puta
Treasure
Calcutta Flatcatcher Touchstone Camel
Banter
Decoy Filho da Puta
Finesse
Miss Martin St. Martin Actaeon
Galena
Wagtail Whisker
Sorcerer Mare
Fancy Jane Neil Robinson Wagner Sir Charles Sir Archy
Citizen Mare
Maria West Marion
Ella Crump
Belle Lewis Glencoe Sultan
Trampoline
Tranby Anna Tranby
Lady Thompkins 
Keno Knight of St. George Birdcatcher Sir Hercules
Guiccioli
Maltese Hetman Platoff
Waterwitch 
Glencoe Mare Glencoe Sultan
Trampoline
Yarico Sumpter
Northumberland Mare

父ビレットはヴォルティジュール産駒の英国産馬で、現役成績は18戦5勝。ゼトランドS・エグハムS・マーチャムパークSなどを勝っている。競走馬引退後に米国に種牡馬として輸入され、当初はイリノイ州で、後にケンタッキー州で種牡馬生活を送った。種牡馬としては1883年に本馬の活躍により北米首位種牡馬に輝き、その後もベルモントS・ウィザーズSの勝ち馬で1901年の北米首位種牡馬にも輝いたサーディクソンなどを出して成功した。

母ファンシージェーンは不出走馬だが、繁殖成績は優秀で、本馬の1歳上の全姉ベルオブラニミード【アラバマS】も産んでいる。ベルオブラニミードの孫にはフッドラム【シャンペンS】、曾孫にはスコティッシュチーフテン【ベルモントS】、玄孫世代以降にはエフェンディ【プリークネスS】、ザティンマン【アーリントンミリオン(米GⅠ)・クレメントLハーシュターフS(米GⅠ)2回・シューメーカーマイルS(米GⅠ)】などがいる。牝系は公式には米国由来のアメリカンナンバー34号族だが、実際にはファミリーナンバー6号族に属するようである。→牝系:F6号族①

母父ネイルロビンソンの競走馬としてのキャリアは不明。ネイルロビンソンの父は米国顕彰馬インプの父ワグナーである。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、後にケンタッキー州エルメンドルフファームの所有者となるジェームズ・ベン・アリ・ハギン氏に購入されて繁殖生活に入った。ハギン氏がエルメンドルフファームを手に入れたのは1897年の話で、本馬が競走馬を引退した当時はまだカリフォルニア州で馬産を行っていたため、本馬もカリフォルニア州に一時的に移動していた可能性がある。本馬は生涯で9頭の産駒を産み、そのうちジョージケスラー(父サルヴェイター)【グレートアメリカンS・デイジーS・ハドソンS】、ソンブレ(父ミッドロジアン)【アンドロスS・オリンピックS】の2頭がステークスウイナーとなったが、牝系は発展しなかった。1899年にエルメンドルフファームにおいて19歳で他界した。

1955年に米国調教師協会がデラウェアパーク競馬場において実施した米国歴代強豪牝馬アンケートでは、第5位にランクされた。本馬が競走馬を引退してから70年近く経っており、投票者の中で本馬の現役時代を知るものはおそらくいなかったであろう事を考えるとかなり高い順位であり、もはや伝説的存在になっていたようである。1967年に米国競馬の殿堂入りを果たした。

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