バトルシップ

和名:バトルシップ

英名:Battleship

1927年生

栗毛

父:マンノウォー

母:キャランテーヌ

母父:シーシック

史上唯一の米グランドナショナル・英グランドナショナル両レース制覇を果たし米国競馬の殿堂入りもしている名障害競走馬

競走成績:2~11歳時に米英で走り通算成績55戦24勝2着6回3着4回(うち障害33戦14勝2着4回3着1回)

誕生からデビュー前まで

米国ケンタッキー州メアワースファームにおいて、同牧場の所有者ウォルター・J・サーモン卿(名馬ディスカヴァリーの生産者としても知られる)により生産・所有された。大柄だった父マンノウォーとは異なり体高15.2ハンドと小柄な馬だったが、顔立ちは父に似ており、また、筋肉質な馬体は長距離馬というよりも、むしろ短距離馬のそれだったという。7歳年上の半姉クォイや叔母ケヌイユは仏オークス馬であり、血統的にも障害競走馬というより平地競走馬であった。

競走生活(平地競走馬時代)

実際に最初は平地競走馬としてデビューしており、平地でもそれなりの競走成績を残している。2歳時のデビュー戦は敗れたが、2戦目で勝ち上がり、2歳時の成績は2戦1勝となった。

3歳時は、ボウイー競馬場で出走した新設競走ジェームズロウ記念H(D7F)でステークス競走の勝利をマーク。フロリダダービー(D9F・現フロリダダービーではなく現フラミンゴSのほう)にも出走しているが、タイタスの4着に敗れている。その後はチェサピークトライアルS(D6F)に出走したが、スタート時にゲートにぶつかって負傷したため、しばらくレースには出られなくなった。その後の米国三冠競走には参戦することは無く、同年の米国三冠馬に輝いたギャラントフォックスと戦う事も無かった。3歳時の成績は8戦3勝2着2回だった。

4歳時にはグレートレイクスH(D8.5F)で2つめのステークス競走勝ちを飾った。4歳時の成績は12戦6勝3着3回だった。

この4歳時まで3シーズンに渡ってサーモン卿の元で平地競走馬として走り、22戦10勝2着2回3着3回の成績を残し、1万8380ドルを稼いだ本馬は、4歳暮れに1万2千ドルでマリオン・デュポン・スコット夫人に購入され、今度は障害競走で走る事になった。スコット夫人は米国三大財閥の一つにも数えられる世界的化学メーカーであるデュポン社の創業者一家に生まれた。彼女の夫は米国の有名俳優ランドルフ・スコット氏である(ただし結婚期間は1936~39年と短かった)。彼女は乗馬が趣味であり、それ故か、やがて興味を抱き始めた競馬においても障害競走が好みだったようである。スコット夫人が障害競走馬を所有するようになったのはこの1931年からであり、最初に所有した障害競走馬は、本馬と同じマンノウォー産駒で、やはりサーモン卿の所有馬だったアンナポリスという馬で、やはり平地でも活躍した馬だった。

競走生活(障害競走馬時代)

ジャック・プライス調教師の元で5歳時に障害競走の訓練を受けた本馬は、キャロル・K・バセット騎手を主戦として、6歳時から障害競走に参戦。この年には4戦して、ピムリコ競馬場で行われたビリーバートンチェイス(24F)、マサチューセッツ州ブルックライン競馬場で行われたナショナルハントクラブH(16F)など3勝を挙げ、障害競走馬としての素質を見せた。

7歳時には、ベルモントパーク競馬場で行われた米国における障害競走の最高峰レースである米グランドナショナル(20F)に出走して1馬身差で優勝するなど、6戦4勝2着1回の成績を挙げた。この1934年はケンタッキーダービー・アメリカンダービー・アーリントンクラシックSを勝ったカヴァルケイドが米年度代表馬に選ばれているのだが、本馬を推す専門家もいたという。また、主戦のバセット騎手は優れた彫刻家でもあり、米グランドナショナル制覇を記念して本馬のミニチュア銅像を作成した。

その後、屈腱炎を発症した本馬は、英国レジナルド・ホッブズ調教師の元に送られた。8歳時にはレースに出走せず、9歳時から英国におけるキャンペーンを開始した。9歳時の成績は5戦1勝2着1回。10歳時には13戦5勝2着2回、ロンズデールHなどを勝利した。

英グランドナショナル

11歳時には5回レースに出走しており、その最後の1回は競走馬としてのハイライトとなった、3月にエイントリー競馬場で出走した英グランドナショナル(36F)だった。スコット夫人は前年の英グランドナショナルに本馬を出走させる意思があったらしいのだが、ホッブズ師が「まだ準備が不十分です。もう1年待ちましょう」と判断したために、1年遅れの参戦となったのだった。

この英グランドナショナルはその長い距離だけでなく、非常に厳しい斤量と、異常に飛越が困難な障害を克服しなければならない、英国障害競走の最高峰レースだった。あまりにも小柄だった本馬はどう見ても過酷な英グランドナショナルを走り切れるように見えなかった上に、英国における障害競走の実績が不足していたために評価が低く、単勝オッズ41倍で36頭立て18番人気の低評価だった(ブックメーカーによっては単勝オッズ101倍だった)。

本馬の鞍上は、ホッブズ調教師の息子で、この3か月前に17歳になったアマチュア騎手のブルース・ホッブズ騎手だった。アマチュア騎手が英グランドナショナルを制覇する事例は珍しく、1901年以来絶えていたから、それもまた本馬の人気薄に拍車をかけていたようである。そもそも、本馬を管理していたホッブズ師自身が本馬をあまり評価しておらず、前年に154ポンドの斤量を課せられると知って出走を思い留まらせたのもそれが理由だったらしいし、この年の出走に際しても、自分の息子が騎乗するにも関わらず(いや、むしろ息子が騎乗するからか?)、レース当日の朝まで出走を取り消すようにスコット夫人を説得していたという。ちなみに前年は154ポンドの予定だった斤量だったが、この年はさらに増えて160ポンドになっていた。

レースが始まると、最初の障害でいきなり4頭が飛越に失敗して競走を中止。第3障害でも3頭が落馬競走中止した。踏み切り地点より着地点のほうが低いために体勢を崩しやすく最難関として悪名高き第6障害のビーチャーズブルックでは、6頭が落馬して競走を中止した。本馬はビーチャーズブルックの飛越に成功したものの、通常より高く飛越したために着地時の衝撃で顎を痛めてしまった。ホッブズ騎手は本馬の体勢を立て直すのに気を取られて、飛越後に誤ったコースに進もうとして、危うく気付いて正規コースに戻るという危機的状況もあった。次の障害は、カーブの途中にあるために馬群が密集しやすく難関とされる第7障害フォイネイボンだったが、ここで飛越に失敗して競走を中止した馬はいなかった。次の第8障害は飛越直後に急なカーブがあるために馬群が密集しやすいために難関とされるキャナルターンだったが、ここでも飛越に失敗して競走を中止した馬はいなかった。次の第9障害は障害にたくさんの棘が付されているバレンタインズブルックだったが、ここでも飛越に失敗して競走を中止した馬はいなかった。しかし第10障害で3頭が競走を中止。最も高い障害である第15障害のザチェアでは飛越に失敗して競走を中止した馬はいなかったが、続く第16障害(固有の名称は無く障害の高さも低いが飛越直後に水壕がある)では3頭が落馬して競走を中止した。そして2度目のビーチャーズブルックとなる第22障害で2頭が落馬競走中止。この段階で先頭にいたのは単勝オッズ19倍の7番人気馬ロイヤルダニエリで、本馬は2番手、さらに5馬身ほど後方の3番手が単勝オッズ29倍の13番人気馬ワークマンだった。その後、同じく2度目のキャナルターンとなる第24障害で前年優勝馬ロイヤルメールを含む2頭が負傷して騎手判断により競走を中止。

こうして36頭中23頭が競走を中止し、最終の第30障害を飛越してきたのは本馬を含む13頭だった。あとはゴールまで全力で走り切るのみだが、ここから長い上り坂になっているため、既に疲弊しきっている馬達にとってはそれもまた苦痛だった。最終障害飛越時点で先頭にいたのは相変わらずロイヤルダニエリで、本馬はワークマンに追いつかれて3番手に下がっていた。しかしすぐに本馬はワークマンを抜き返して2番手に上がった。そして直線では内埒沿いに逃げるロイヤルダニエリを、離れた大外から本馬が猛然と追い上げる一騎打ちとなった。そして2頭がほぼ同時にゴールインした。写真判定の結果は本馬が頭差先着しており、英グランドナショナル制覇を達成した。翌年の英グランドナショナルを優勝するワークマンが3着に入り、前年の英グランドナショナルで2着していた単勝オッズ9倍の1番人気馬クーリーンは4着だった。

米グランドナショナル優勝馬が英グランドナショナルに勝ったのは史上初の快挙で、米グランドナショナルがBCスティープルチェイスを経てグランドナショナルハードルという正式名称になった今日に至るまでも本馬唯一頭という大記録である。また、本馬は歴代の英グランドナショナル勝ち馬の中で最も体高が低い馬とされているが、当時(さらに言えば現在でも)史上最年少の英グランドナショナル勝利騎手となったホッブズ騎手は騎手としては非常に大柄な身長190cmだったという凸凹コンビだった。余談だが、ホッブズ騎手は翌年に落馬事故で負傷して騎手を引退し、その後平地の調教師として活躍している。

なお、本馬が勝った英グランドナショナルの4日後が父マンノウォーの21歳の誕生日だった事から、「息子から父への誕生日プレゼント」だと書いた米国紙もあった。一方、英国の競馬関係者は米国産馬に英グランドナショナルを勝たれた事に衝撃を受けたという。この1938年は悪名高きジャージー規則が英国に残っていた時期であり、本馬もジャージー規則に抵触するためにサラブレッドではなく「サラブレッド系種」として英グランドナショナルを勝ったのだった。ジャージー規則が廃止されるのは11年後の1949年であるが、本馬もそれに一役買ったのかもしれない。

こうして数々のエポックメーキング的な勝利を打ち立てた本馬は、英グランドナショナルを最後に、11歳時5戦1勝3着1回の成績で競走馬を引退した。スコット夫人は、仮に本馬が英グランドナショナルを勝った場合にはそれを最後のレースにすると公言しており、その言葉どおりの引退だった。引退して同年6月にニューヨークに凱旋した本馬(ホッブズ師やホッブズ騎手も同行した)は、スコット夫妻や当時のニューヨーク市長フィオレロ・ヘンリー・ラガーディア氏(ニューヨーク市だけでなく全米における歴史上最も偉大な市長として後世から評価されている)を始めとする大勢の人々から拍手喝采で迎えられた。本馬はその小柄な馬体から、“American Pony(アメリカン・ポニー)”の愛称で呼ばれた。馬名は「戦艦」という意味で、「軍艦」という意味でもある父マンノウォーの馬名に由来していると思われる(ただし、マンノウォーの名前は「軍艦」に由来するものではない。詳細はマンノウォーの項を参照)。

血統

Man o'War Fair Play Hastings Spendthrift Australian
Aerolite
Cinderella Tomahawk
Manna
Fairy Gold Bend Or Doncaster
Rouge Rose
Dame Masham Galliard
Pauline
Mahubah Rock Sand Sainfoin Springfield
Sanda
Roquebrune St. Simon
St. Marguerite
Merry Token Merry Hampton Hampton
Doll Tearsheet
Mizpah Macgregor
Underhand Mare
Quarantaine Sea Sick Elf Upas Dollar
Rosemary
Analogy Adventurer
Mandragora
Saf Saf Le Sancy Atlantic
Gem of Gems
Athalie Caterer
Stella
Queenie War Dance Galliard Galopin
Mavis
War Paint Uncas
Piracy
Quilda Gamin Hermit
Grace
Quick Thought Forerunner
Magnolia

マンノウォーは当馬の項を参照。

母キャランテーヌは仏国産馬で、競走馬としてのキャリアは不明だが、繁殖牝馬としては本馬の半姉クォイ(父シャット)【仏オークス・ヴェルメイユ賞・フィユドレール賞・ポモーヌ賞】も産んでいる。クォイの牝系子孫からは、アンフロード【仏オークス・ジャックルマロワ賞】、セプティエムシエル【仏チャンピオンハードル】、ボバー【英チャンピオンS】、ドゥーンズベリー【サンフェルナンドS(米GⅠ)】、日本で走ったグレイスタイザン【東京三歳優駿牝馬・浦和桜花賞・関東オークス】、ダイアモンドコア【東京三歳優駿牝馬・浦和桜花賞】、スーパージーン【新潟記念(GⅢ)】、ナイキハイグレード【羽田盃・ハイセイコー記念・京浜盃】などが出ており、21世紀になっても残っている。

キャランテーヌの半姉カドリーユ(父オシアン)の牝系子孫には、ザベーグルプリンス【ホープフルS(米GⅠ)】が、キャランテーヌの半妹ケヌイユ(父プレステージ)【仏オークス】の牝系子孫には、リーニュドフォン【仏1000ギニー】、ヴューマノワール【パリ大賞】、ルスクース【仏オークス(仏GⅠ)】、クリスタルパレス【仏ダービー(仏GⅠ)】、ルロワ【サンタアナH(米GⅠ)・サンタバーバラH(米GⅠ)】、マルリーリヴァー【アランデュブレイユ賞・ルノーデュヴィヴィエ賞】、ミスタヒチ【マルセルブサック賞(仏GⅠ)】、イングランズレジェンド【ビヴァリーDS(米GⅠ)】、ジョニーイーヴズ【マリブS(米GⅠ)】、日本で走ったマイネルキッツ【天皇賞春(GⅠ)】、ビッグアーサー【高松宮記念(GⅠ)】などがいる。キャランテーヌの7代母は根幹繁殖牝馬クイーンメアリーである。→牝系:F10号族②

母父シーシックは現役成績32戦18勝、仏ダービー・仏共和国大統領賞・ドラール賞・ロンシャン賞2回・ラクープドメゾンラフィット・グラディアトゥール賞を勝ち、アスコット金杯でも2着した実力馬。遡ると、アスコット金杯・ラクープ2回・グラディアトゥール賞2回・リューテス賞の勝ち馬エルフ、仏ダービー・オカール賞・グラディアトゥール賞の勝ち馬ユーパス、グッドウッドC・アンペルール大賞(現リュパン賞)の勝ち馬ドラール、そしてザフライングダッチマンへと行きつく。

競走馬引退後

競走馬を引退した本馬は、スコット夫人所有のヴァージニア州モントピーリアスタッドで種牡馬入りした。基本的に障害競走を走る牡馬は去勢されて騙馬にされる事が多く、現に本馬が勝った英グランドナショナルにおいて騙馬ではなく牡馬だったのは本馬のみだった(騙馬ではなく牡馬が英グランドナショナルを勝ったのは本馬が25年ぶりだった)。現役時代が障害競走馬だっただけに交配数には恵まれず、15世代57頭しか産駒を送り出す事は出来なかった。しかし障害競走を中心に11頭のステークスウイナーを出しており、産駒数に占めるステークスウイナー率は19.3%とかなり高く、産駒の質は高かった。代表産駒の一頭シップボードは、前述のアンナポリスの牝駒との間に産まれた子であり、マンノウォーの2×3という強いインブリードを有していた。本馬の主な産駒は1947年の米最優秀障害競走馬ウォーバトル、1956年の米最優秀障害競走馬シップボード、タイドリップス、フローティングアイル、米グランドナショナルの勝ち馬シーレッグスなど。1958年に31歳という高齢で他界し、モントピーリアスタッドに埋葬された。1969年に米国競馬の殿堂入りを果たした。本馬の後継としてタイドリップスが種牡馬入りしたが成功する事は出来ず、本馬の牝駒にも繁殖牝馬として成功した馬がいなかったため、本馬は自身の血を後世に伝える事は出来ず、米英グランドナショナル制覇という記録によりその名を後世に伝えている。

主な産駒一覧

生年

産駒名

勝ち鞍

1944

Tide Rips

モンマスH

1946

Sea Legs

米グランドナショナル

1950

Shipboard

米グランドナショナル2回

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